美貌局のいたずら、
あるいは一日だけの女神



まえがき
誰しも一度くらい、「もし自分が誰もが振り返るような美男美女に生まれ変わったら」と空想したことがあるのではないでしょうか。
鏡に映る自分の顔にほんの少しのため息をつきながら、それでも私たちは日々の暮らしを営んでいます。
この物語は、そんな平凡な毎日を送る一人の女性が、ふとしたきっかけで「一日だけの美貌」を手に入れてしまうお話です。
美しさは人を惹きつける魅力であると同時に、時に人を惑わし、平穏を脅かす刃にもなり得ます。
ページをめくりながら、主人公みるの少し奇妙で賑やかな一日を、どうか笑顔で見届けていただければ幸いです。




第一章 鏡見みるという女
私の名前は鏡見みる。名は体を表すというが、私の場合は表さない。鏡を見るたびに「まあ、こんなものか」と肩を落とするタイプの二十九歳、独身、経理部三年目である。
顔立ちは十人並み。いや、十人並みという言葉すら少し持ち上げすぎかもしれない。目は普通、鼻は普通、口も普通。強いて特徴を挙げるなら、笑うと右頬にだけ小さなえくぼができることだが、そんなものに気づく人間は今のところこの世に一人もいない。
会社では「鏡見さんって真面目だよね」と言われる。真面目、という評価はつまり、他に褒めるところが見当たらないということの婉曲表現だと、私はとうに気づいている。
その日も残業だった。月末の経費精算に追われ、気づけば時計の針は夜十一時を回っていた。同僚たちはとっくに帰り、オフィスには蛍光灯の唸る音だけが残っている。
「はあ……」
ため息とともにパソコンを閉じ、私はビルを出た。八月の夜風は生ぬくく、アスファルトの匂いが鼻をつく。駅までの道を、いつもと同じように歩く。いつもと同じように、誰ともすれ違わず、誰にも見られず。
ふと、いつもは通らない路地に足が向いた。近道になるかもしれない、という単純な思いつきだった。今にして思えば、あの夜の私は少し疲れすぎていたのだろう。判断力が鈍っていたのだと思う。
路地は思いのほか長く、両側には古びた雑居ビルが並んでいた。看板の文字は色褪せ、シャッターは軒並み下りている。まるで時間が止まったような通りだった。
その一角に、妙に真新しい看板を掲げた建物があった。
「美貌局 出張所 夜間受付中」
私は思わず二度見した。美貌局。聞いたこともない役所の名前だ。そもそも役所がこんな路地裏の、しかも雑居ビルの一室にあるはずがない。看板の下には小さく「本日の整理券配布中」と書かれている。
普段の私なら、絶対に近寄らなかっただろう。怪しい勧誘か、宗教か、あるいは単なる悪戯だと判断して、足早に通り過ぎたはずだ。
けれどその夜、私は妙に疲れていて、妙に投げやりで、そして少しだけ、心のどこかで「美しく生まれたかった」という子供じみた願いを持て余していた。
気づけば私は、重い金属のドアを押していた。


第二章 美貌局という役所
中に入ると、意外にも整然とした空間が広がっていた。役所というより、少し古い銀行の窓口のような雰囲気だ。番号札の発行機、パイプ椅子の並ぶ待合スペース、そして壁には「本日の受付時間」と書かれた電光掲示板。
カウンターの奥には、灰色の作業着を着た中年の男性職員が座っていた。名札には「美貌局 運用第三課 係長 福来」とある。
「いらっしゃいませ。初めてのご来局ですね」
福来係長は、まるで郵便局の窓口のような口調で言った。
「あの……ここは、何の施設なんでしょうか」
「美貌局です。人類の容姿に関する運の配分を管理している機関でして」
「はあ」
「簡単に申しますと、この世に生まれてくる人間には、あらかじめ『美貌ポイント』というものが割り振られております。これは総量が決まっておりまして、誰かが多くもらえば、その分、別の誰かの取り分が減る、という仕組みになっております」
福来係長は淡々と、まるで健康保険の仕組みを説明するかのように話し続けた。
「たとえば、世界的に美しいと言われる方々は、平均よりも多くのポイントを配分されております。その代わり、健康運や対人運、あるいは寿命といった、別の枠のポイントが目減りしていることが多いのです。これを我々は『総量保存の法則』と呼んでおります」
「つまり、美人は不幸になりやすいという……」
「あくまで傾向です。絶対ではございません。ただ、統計的には有意な相関が認められております」
私はしばらく言葉を失っていた。目の前の男は大真面目な顔で、まるで税制改正の説明をするかのように、人類の美醜と幸不幸の関係を語っている。
「それで……ここは、何をする場所なんですか」
「本日は特別に、夜間限定の『体験引換券』を配布しております。抽選で選ばれた方には、一日限定で、容姿に関するポイントを大幅に上乗せする権利が与えられます」
福来係長はカウンターの下から、古い抽選箱を取り出した。木製の、いかにも昭和のクジ引きに使われそうな箱だ。
「お客様は、本日の最後のお客様です。せっかくですので、一度引いてみませんか」
断る理由もなかった。というより、あの瞬間の私には、断るという発想そのものが浮かばなかった。疲れた頭で、私はふらふらと箱に手を入れ、一枚の紙片を引き抜いた。
福来係長がそれを覗き込み、一瞬だけ眉を上げた。
「これは……大当たりですね」
紙片にはこう書かれていた。
「特急券 一日限定 傾国の美女コース」


第三章 翌朝の異変
「傾国の美女コースとは、具体的にどういう……」
私が聞き返す前に、福来係長は事務的にスタンプを押し、控えを一枚手渡してきた。
「明日の午前六時より、二十四時間限定で発動いたします。効果終了時刻は明日の午前六時ちょうどです。それ以降は元のお姿に戻りますので、ご安心ください」
「いや、あの、ちょっと待ってください、そんな急に言われても」
「ご不明な点がございましたら、こちらの控えに記載の番号までお問い合わせください。それでは、本日はこれにて閉局とさせていただきます」
シャッターが音を立てて下り始め、私は追い立てられるように路地に押し出された。手の中には「特急券」と書かれた小さな紙切れだけが残っていた。
夢だったのだろうか。そう自分に言い聞かせながら、私は家に帰り、シャワーを浴び、いつもより早くベッドに入った。
翌朝、目覚まし時計より先に、妙な感覚で目が覚めた。頬に触れる空気の感触が、いつもと違う。肌が、なんというか、輝いているような気がする。
洗面所の鏡を見て、私は自分の悲鳴で近所迷惑になるのではないかと本気で心配した。
鏡の中にいたのは、見知らぬ女だった。いや、見知らぬというのは正確ではない。造作の一つ一つは、確かに自分の面影を残している。けれどそのバランスが、まるで名匠が丹精込めて彫り上げた彫刻のように、完璧に整っていた。肌は透き通るように白く、瞳は宝石のように潤み、唇はほんの少し開いただけで、なぜか色気を感じさせる。
「うそでしょ……」
声さえも、以前より少し艶を帯びて聞こえた気がした。
パジャマ姿のまま、私はしばらく鏡の前で立ち尽くしていた。手を頬に当てる。確かに自分の顔だ。けれど、まるで別人のように美しい。
スマートフォンを見ると、控えの紙片の画像と一緒に、福来係長からのショートメッセージが届いていた。
「本日六時より二十四時間、効果発動中です。トラブルの際は速やかに折り返しご連絡ください。良い一日を」
「良い一日を、じゃないよ……」
私は震える手で返信を打とうとしたが、既読すらつかない。どうやら、あちらからの一方通行の連絡らしい。
とりあえず会社には行かねばならない。そう腹を括り、私はいつも通りの服装に着替えた。地味なブラウスとパンツスーツ。けれど、どんな服を着ても、まるで一流モデルが撮影の合間に私服を着ているような雰囲気になってしまうのだから、始末が悪い。
玄関を出た瞬間から、異変は始まっていた。


第四章 街の大騒動
まず、隣のマンションの新聞配達員が、自転車ごと電柱に激突した。次に、通りがかりの犬の散歩をしていた老紳士が、リードを放り出して私に駆け寄ろうとし、犬に思い切り引っ張られて尻もちをついた。
駅までの十分足らずの道のりで、私はすれ違った人々のほぼ全員に二度見された。ある者は口をぽかんと開け、ある者はスマートフォンをこちらに向けかけて我に返り、ある者はただただ立ち止まって私の後ろ姿を見送っていた。
駅のホームでは、電車を待つ間に三人の男性から声をかけられた。連絡先を聞かれ、名刺を渡され、中には「僕、実は御社の近くで働いているんです」と、明らかに嘘だとわかる情報まで開示された。
電車に乗り込むと、車内の空気が変わったのがわかった。誰もがちらちらとこちらを見て、然るべき距離を保ちつつ、気づかれないよう視線を逸らす。その動きが、まるで潮の満ち引きのように車両全体で繰り返される。
「ねえ、あの人モデルかな」
「いや、女優じゃない?」
「なんかオーラが違うよね」
ひそひそ声が耳に届くたび、私は消え入りたい気持ちになった。かつて憧れていた「注目される美貌」というものが、実際には拷問に近いということを、私はこの日、身をもって知ることになる。
会社に着くと、さらに事態は混迷を極めた。受付の警備員は私を見て「お客様、恐れ入りますが、ご用件を」と丁寧に呼び止めた。私が社員証を見せても、しばらく写真と実物を見比べて首をひねっていた。
「鏡見さん……ですよね? なんか、雰囲気変わりました?」
経理部のフロアに入ると、同僚たちの視線が一斉に集まった。普段、私に話しかけることのなかった隣の部署の男性社員が、わざわざコーヒーを買ってきて「これ、良かったらどうぞ」と差し出してきた。今まで挨拶すら交わしたことのない相手だった。
一方で、同期の女性社員たちの反応は対照的だった。
「鏡見さん、今日なんか気合入ってるね」
その声には、笑顔の仮面の下に、はっきりとした刺があった。ランチに誘われることもなく、休憩室では会話の輪から静かに外された。まるで、昨日まで同じ場所にいたはずの自分が、急に別の生き物になってしまったかのような、疎外感。
美しくなったことで、私は人間関係の温度を、以前よりずっと生々しく感じるようになっていた。好意にせよ、嫉妬にせよ、その熱量が急に増したのだ。ちょうど、あの夜聞いた「総量保存の法則」を裏付けるかのように。


第五章 悪い男の影
昼休み、外に出た私を待ち構えていたのは、思いがけない人物だった。
「鏡見さん、ちょっといいですか」
声をかけてきたのは、営業部の課長、剛田だった。四十代半ば、既婚者で、社内でも「お調子者だが仕事はできる」と評判の男である。今まで私のような目立たない社員に、直接声をかけてくることなどなかった。
「実はね、今度のプロジェクトで、君みたいな人材が必要なんだよ。ちょっと二人で食事でもしながら話さないか」
その笑顔の裏に、私は初めて、はっきりとした下心のようなものを感じ取った。以前の私であれば、こんな誘いを受けることすらなかっただろう。けれど今の私には、なぜか、そういう種類の「熱」が向けられている。
「すみません、今日はちょっと予定が」
やんわりと断ると、剛田課長の表情がわずかに強張った。
「そうか。まあ、また今度でいいよ。でも、鏡見さん、今日は本当に綺麗だね。見違えたよ」
その言葉には、以前の私への評価が一切含まれていないことに、私は静かに傷ついた。昨日までの私は、彼にとって「見えていない存在」だったのだ。
夕方になる頃には、事態はさらに悪化していた。会社を出たところで、見知らぬ男に腕を掴まれたのだ。
「ねえ、お茶でもどう? すごい可愛いね、名前教えてよ」
強引な口調に、私は身の危険を感じた。振りほどこうとしても、思いのほか力が強い。周囲には人通りもあるのに、誰も助けてくれる気配がない。むしろ、遠巻きに見ている人々の中には、スマートフォンを構えている者すらいた。
「離してください!」
必死に声を上げたとき、思いがけない方向から助け舟が入った。
「お客様、少々よろしいでしょうか」
見れば、灰色の作業着を着た、見覚えのある男が立っていた。福来係長である。
「あなたは……」
「美貌局の者です。少々、こちらのお客様には特別な事情がございまして」
福来係長は男に何か耳打ちした。すると男は急に顔色を変え、逃げるようにその場を去っていった。何を言ったのか、私には最後まで分からなかった。
「大丈夫でしたか、鏡見様」
「あの、これ、想像していたのと全然違うんですけど……」
「そのようですね。実は局内でも、少々問題が発生しておりまして」
福来係長の表情に、初めて焦りのようなものが浮かんだ。


第六章 局内のトラブル
福来係長に促され、私は逃げるように路地裏の美貌局へと向かった。
しかし、大通りから路地へ差し掛かったあたりで、私は周囲の雰囲気がどこか異常であることに気づいた。街行く人々がどこかわそわそと落ち着きがなく、互いに強い視線を交わし合い、小さな衝突や口論があちこちで起きている。まるで、空気そのものが過熱して、人々の感情を煮立たせているかのようだった。
薄暗い路地を抜け、建物の重い扉を開けると、昨夜の落ち着いた雰囲気とは打って変わって、局内は騒然としていた。あちこちで電話が鳴り響き、職員たちが慌ただしく走り回っている。
「係長! 大変です、回収システムにエラーが!」
若い女性職員が、書類の束を抱えて福来係長に駆け寄ってきた。
「なんだと。もう一度確認してくれ」
「それが……鏡見様に発行した『特急券』のデータが、システム上で二重登録されていまして。本来は本日午前六時発動、翌午前六時終了のはずが、終了時刻の欄が『未定』になってしまっているんです」
福来係長の顔から血の気が引いた。
「つまり?」
「効果が、いつ切れるか分からない状態です」
その場にいた全員の視線が、一斉に私に集まった。
「え、ちょっと待ってください。それって、私、このまはずっとこの顔ということですか」
「い、いえ、そういうわけでは……あくまでシステム上の不具合でして、必ず修正いたしますので」
福来係長は額の汗を拭いながら、奥の部屋へと駆け込んでいった。残された私は、待合スペースのパイプ椅子に座らされ、しばらく待たされることになった。
隣に座っていた別の職員が、気まずそうに話しかけてきた。
「あの、実はこういうトラブル、昔にも一度あったんです」
「一度あった、ということは……」
「二十年ほど前です。当時、同じように『特急券』の効果が解除できなくなったお客様がいらっしゃいまして」
「その方は、その後どうなったんですか」
職員は少し言いにくそうに視線を逸らした。
「最終的には、ご本人が『美貌を返上する』という選択をされました。実はこの局のシステムは、本人の強い意志があれば、外部から強制的に解除することも可能なんです」
「意志、ですか」
「はい。ただし、その意志は本物でなければなりません。少しでも『やっぱり美しいままでいたい』という迷いがあると、解除は成立しません。この点が、なかなか厄介でして」
その時、局内にけたたましいサイレンのような音が鳴り響いた。
「緊急事態発生! 緊急事態発生! 対象者の美貌エネルギーが局所的に暴走しています!」
拡声器から響く声に、職員たちが一斉に色めき立った。


第七章 街を巻き込む大事件
「美貌エネルギーの暴走……それって、一体どういうことですか」
私が尋ねると、福来係長が蒼白な顔でモニターの群れを指さした。
「本来ならお一人の中に収まるはずの過剰な『美貌ポイント』が、解除不能のエラーによって行き場を失い、外部へ漏れ出しているのです。鏡見様を中心として、街全体にそのエネルギーが波及しております」
モニター画面には、私自身が先ほど通ってきた大通りや、渋谷駅前、さらには会社周辺のライブカメラ映像が映し出されていた。
交差点では、信号が青になっても誰も渡ろうとせず、ただ呆然と空中の何かを見つめている群衆。カフェのテラス席では、隣り合った見知らぬ男女が突然情熱的に告白し合っているかと思えば、別の場所ではカップルが異常な嫉妬心から激しい口論を始めている。
「鏡見様の持つ圧倒的な魅力の影……いわば熱波のようなものが、周囲の人々の恋愛感情や欲望、嫉妬といった感情を異常に増幅させてしまっているのです」
「そんな……私が街を歩いたせいで、みんながおかしくなっているんですか」
「厳密にはシステムの不具合ですが、このままでは都市機能が麻痺し、パニックを引き起こしかねません」
局内は一気に戦場のような様相を呈した。職員たちが無線で現場の回収班に指示を飛ばし、巨大な電光掲示板には各地の「感情濃度」が数値となって目まぐるしく表示される。
自分がただ「綺麗になりたい」と引き抜いた一枚のクジが、これほど大きな騒動を引き起こしている。その事実の重さに、私は胸が押し潰されそうだった。
「局長! 局長に緊急のご報告が!」
その声とともに、局内の奥から一人の人物が姿を現した。


第八章 美貌局長との対話
現れたのは、意外にも小柄で、白髪交じりの髪をきっちりと結い上げた、初老の女性だった。地味な紺色のスーツを身にまとい、化粧っ気もほとんどない。けれどその佇まいには、不思議な威厳があった。
「局長の月見と申します。此度は当局の不手際で、大変なご迷惑をおかけしました」
深々と頭を下げる局長に、私はかえって恐縮してしまった。
「あの、局長さんは、その、美貌局の局長さんなのに……」
言いかけて、私は失礼だと気づいて口をつぐんだ。けれど月見局長は、静かに微笑んだ。
「見た目が地味だと言いたいのでしょう。ええ、その通りです。むしろ私は、若い頃、当局の顧客として『特急券』を利用した経験があるのです」
「え?」
「三十年前、私も鏡見様と同じように、行き過ぎた美貌に振り回された一人でした。あの頃の私は、あなたが今日一日で味わったであろう混乱を、丸々一年間経験しました」
局長は遠い目をして続けた。
「言い寄ってくる男たちの九割は、私自身ではなく、私の『顔』に恋をしていました。親しかった友人たちは、潮が引くように離れていきました。何より辛かったのは、誰かに褒められるたびに、それが自分の人格や努力への評価ではないと分かってしまうことでした」
局長のお話を聞きながら、私は今朝からの出来事を噛み締めていた。下心を隠さなかった剛田課長。冷たい視線を向けた同期たち。腕を掴んできた見知らぬ男。
「これが……福来係長の言っていた『総量保存の法則』の本当の意味だったのですね。美貌という巨大な運を得た代わりに、私は『平穏』や『本当の人間関係』という対人運を、全部失っていたんだ……」
私が呟くと、月見局長は深々と頷いた。
「気づかれましたか。そう、容姿の美しさは時に、他人からの欲望や妬みを容赦なく引き寄せる磁石となります。それに耐えうる強さを持たない者にとって、過剰な美貌は毒でしかないのです」
局長は私の目をまっすぐに見た。
「鏡見様。今のあなたには、二つの道があります。一つは、このまま美貌を保持し続け、局のシステム修復を待つ道。もう一つは、ご自身の意志で、美貌を返上する道です。修復には数ヶ月かかる可能性もございます」
「返上します」
私は間髪を入れずに答えた。
「本当によろしいのですか。二度と同じ機会は訪れないかもしれませんよ」
「はい。今日一日で、十分すぎるくらい分かりました。美しさは、幸せとイコールじゃないんだって」


第九章 解除の儀式
月見局長は静かに頷き、局の奥にある小さな部屋へと私を案内した。そこには、古めかしい木製の机と、一本の蝋燭、そして一枚の紙が置かれていた。
「これより『返上の儀』を執り行います。この紙に、あなたの本当の気持ちを書いてください。噓偽りのない、心からの言葉を」
「何を書けばいいんですか」
「決まりはございません。ただし、迷いがあれば、この儀式は成立しません」
私はペンを手に取り、しばらく考えた。
脳裏に浮かんだのは、今まで「つまらない」と思っていた自分の日常だった。残業帰りの生ぬるい夜風、誰も自分を振り返らない静かな道、そして、笑ったときに右頬にだけできる小さなえくぼ。誰にも気づかれないけれど、あれこそが間違いなく「私」の証明だったのだ。
私は迷いなくペンを走らせた。
『私は、誰かに見つめられるための顔ではなく、誰かと同じ目線で笑い合うための日常が欲しいです。地味でもいい。目立たなくてもいい。右頬の小さなえくぼに気づいてくれるような、そんなささやかな日常を、自分らしく生きていきたいです。』
書き終えると、紙は淡い光を放ち始めた。局長が蝋燭の火を近づけると、紙はふわりと燃え上がり、灰も残さず消えていった。
「儀式は完了しました。効果は、これより数分以内に解除されます」
その言葉と同時に、窓の外を包んでいた不穏な熱気が、潮が引くように静まっていくのが分かった。モニターの映像も、交差点を整然と渡る人々、穏やかに歓談するカフェの風景へと戻っていく。
「よかった……」
私は胸を撫で下ろした。
差し出された鏡を覗き込むと、そこにはいつもの、見慣れた自分の顔があった。十人並みの、平凡な顔。けれど不思議と、昨日の自分よりもずっと愛おしく、誇らしく感じられた。


第十章 局長の後日談
「本日は、本当にご迷惑をおかけしました。お詫びとして、局からいくつかお渡ししたいものがございます」
月見局長はそう言って、小さな箱を差し出した。
「これは?」
「今回の件でご不便をおかけした分の、ささやかな『運の補填』です。とはいえ、容姿に関するものではございません。当局としても、同じ轍は踏みたくございませんので」
箱を開けると、中には一枚のカードが入っていた。「対人運・小」「金運・小」「健康運・小」と書かれている。
「これで、今日一日の疲れが少しでも癒えることを願っております」
「あの、局長。一つ聞いてもいいですか」
「なんなりと」
「美貌局って、そもそも何のために存在しているんですか。美人になりたい人の願いを叶える場所、というだけではないですよね」
局長は少し考えるように目を伏せた。
「我々の本当の役目は、容姿と幸福の関係について、多くの人に気づいてもらうことです。人は、自分にないものを羨むあまり、時にそれを手に入れることの代償を見落としてしまいます。美貌局は、その代償を実際に体験していただくことで、本当の意味での『足るを知る』きっかけを提供しているのです」
「じゃあ、今日のことも、ある意味で必要な出来事だったと」
「システムエラーは完全にこちらの落ち度ですので、それを正当化するつもりはございません。ですが、鏡見様がご自身の力で答えを見つけられたことは、当局としても大変嬉しく思っております」
局長は柔らかく微笑んだ。その笑顔には、若い頃、美貌に振り回された経験を経て、今の穏やかな境地にたどり着いた人だけが持つ、深い説得力があった。
「それでは、鏡見様。お帰りの際は、どうぞお気をつけて。そして、これからの日常を、どうかご自身らしく歩んでください」
私は局を後にした。路地を抜け、大通りに出ると、いつもと変わらない街の喧騒が広がっていた。誰も私を見ていない。誰も振り返らない。それが、こんなにも心地よいことだとは、今日一日を経験するまで知らなかった。


第十一章 それからの日々
翌日、私はいつも通り会社に出勤した。
「おはようございます、鏡見さん。あれ、今日はなんかいつもの雰囲気だね」
同期の女性社員が、何事もなかったかのように話しかけてきた。あの日、私に感じていたであろう刺々しさは、綺麗さっぱり消えていた。まるで、昨日の出来事全体が、街の人々の記憶からも消え去ってしまったかのようだった。
もしかしたら、局の力で、街の人々の記憶にも何らかの調整が加えられたのかもしれない。真相は分からない。けれど、それならそれで構わないと、私は思った。
剛田課長も、以前と変わらない距離感で接してきた。今度こそ、私は彼の本質を見誤らずに済んでいる。あの日の下心を目の当たりにしたおかげで、少しばかり彼を見る目が変わったのは事実だが。
昼休み、私は久しぶりに鏡の前で自分の顔をじっくりと見た。十人並みの、いつもの顔。けれど、あの一日を経験したことで、この平凡な顔にも、ちょっとした愛着が湧いてきていた。
美しさは、確かに人を惹きつける。けれど、その惹きつける力は、時に諸刃の剣にもなる。好意も、嫉妬も、下心も、羨望も、すべてが普段よりずっと強い熱量でこちらに向けられる。その熱に耐えられるだけの強さを、今の私はまだ持っていない。
けれど、いつか。もし本当に強くなれたら、また違う答えが出るのかもしれない。そんなことを考えながら、私はパソコンの画面に向き直り、月末の経費精算を再開した。


第十二章 控えめな幸福
数週間後のある夜、私は再びあの路地を通りかかった。看板は相変わらずそこにあったが、今度はシャッターが下りていて、明かりも消えていた。
「休業日、なのかな」
シャッターの脇に、小さな貼り紙があった。
「本日、局内研修のため休局とさせていただきます。次回開局は未定です。なお、当局のサービスをご利用になったお客様の多くが、最終的には『何も持たないことの豊かさ』に気づかれます。それもまた、人生の醍醐味かと存じます。──美貌局一同」
私は思わず笑ってしまった。役所らしからぬ、ずいぶんと人間味のある文言だ。
ふと、あの日書いた紙の内容を思い出す。「誰かと同じ目線で笑い合うための日常が欲しい」。あれから、私の生活は劇的に変わったわけではない。相変わらず経理部で数字と格闘し、相変わらず地味な服を着て、相変わらず誰にも二度見されない毎日を送っている。
けれど、一つだけ確かに変わったことがある。以前の私は、電車の窓に映る自分の顔を見るたびに、ため息をついていた。今は、少しだけ、微笑むことができるようになった。右頬に、小さなえくぼを浮かべながら。
美を授かれば幸薄し、という言葉は、あながち間違ってはいないのかもしれない。けれど、美を授からなくても、幸せになれないわけではない。むしろ、平凡だからこそ見える景色、平凡だからこそ築ける関係というものが、確かにこの世には存在する。
あの夜の自分に、今の私なら、こう伝えたい。
「一度くらいそんな容姿を手に入れてみたい、と思う気持ちは、きっと誰にでもある。でも、いざ手に入れてみると、案外そこには、思っていたような幸せは転がっていないかもしれないよ」
そして、こうも付け加えたい。
「それでも、もし美貌局の看板を見かけることがあったら、一度くらい、覗いてみるのも悪くないかもしれない」


エピローグ 噂の行方
それから半年ほど経ったある日、会社の給湯室で、後輩の女性社員がこんな噂話をしているのを耳にした。
「聞いた? 渋谷の裏路地に、一日だけ絶世の美女になれる不思議なお店があるらしいよ」
「えー、都市伝説みたいな話だね。行った人いるの?」
「知り合いの知り合いが体験したらしいんだけど、なんか、その日は街中が大変な騒ぎになったんだって。でも、詳しい話は誰も覚えてないみたいで」
「怪しいなあ、それ」
「でもさ、もし本当にそんな場所があったら、ちょっと行ってみたくない?」
私は、思わず口元が緩むのを感じながら、コーヒーを一口飲んだ。
「私だったら、遠慮しておくかな」
「え、鏡見さん、興味ないんですか?」
「うーん、興味がないと言えば嘘になるけど……」
窓の外に広がる、いつもと変わらない街の風景を眺めながら、私は静かに続けた。
「美しさより、大事なものがあるって、もう知っちゃったから」
後輩はきょとんとした顔をしていたが、私はそれ以上、詳しくは説明しなかった。あの一日の出来事は、私だけの、ちょっとした秘密の思い出として、心の奥にそっとしまっておくことにしたのだ。
美貌局が今どこで、何をしているのかは分からない。もしかしたら、また別の誰かが、あの路地裏の看板を見つけ、抽選箱に手を伸ばしているのかもしれない。
そしてその人もまた、一日だけの女神を経験し、たくさんの騒動を巻き起こし、最後には、平凡な日常のかけがえのなさに気づくのかもしれない。
美を授かれば幸薄し。けれど、授からずとも、幸せは、案外すぐそばに転がっている。
そのことに気づけた分だけ、あの奇妙な一日は、私にとって、確かに価値のある出来事だったのだと思う。

(了)


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あとがき
物語の主人公・鏡見みるのように、「もっと容姿に恵まれていたら」「もっと違う自分になれたら」という想いは、多かれ少なかれ誰もが抱いたことのある身近な感情だと思います。
しかし、もし本当にその願いが叶ったとき、私たちは何を得て、何を失うのでしょうか。
作中に登場する「美貌局」は、一見風変わりで少し迷惑な存在ですが、彼らの語る「総量保存の法則」や「足るを知る」という言葉には、私たちが普段忘れがちな日常の豊かさへの視点が込められています。
主人公が最後に選んだのは、決してあきらめや妥協ではなく、「自分自身を誇らしく愛おしく思う気持ち」でした。笑うと右頬にできる小さなえくぼのように、誰に気づかれずとも自分だけが知っている小さな愛おしさを、大切にしていきたいものです。
読者の皆様の日々の暮らしの中に、温かく小さな幸せが一つでも多く見つかりますように。