体内シェアハウス開業記
――満室、につき。


まえがき

この話を思いついたのは、深夜にコンビニの唐揚げ弁当を温めている時でした。レンジの中で回る弁当を見ながら、もし今、自分の手が勝手にフレンチを作り始めたらどうしよう、と考えたのが始まりです。
誰かのクレームを一日中聞いている人が、最後には宇宙規模のクレーム窓口に電話をかける。そういう皮肉な逆転が書きたかったのだと思います。狭い1DKに誰かと暮らす窮屈さと安心感、その両方が体内で起きたら面白いな、と。




一章 
耳鳴りと、深夜の三ツ星カルボナーラ

田中一平、三十二歳。職業、引越センターのお客様相談室オペレーター。
座右の銘は「クレームは静かに受け止め、静かに忘れる」だった。
三年間その銘を忠実に守った結果、一平の表情筋は驚くほど衰えていた。
その日も電話越しに怒鳴る初老の男性に「大変申し訳ございません」を十七回繰り返し、定時で会社を出た。コンビニで唐揚げ弁当を買い、自宅アパートの三階、1DKの部屋に帰り着いたところで、それは起きた。
キーン。
飛行機が急降下した時のような、鼓膜の奥がすぼまる感覚。一平は思わず耳を押さえた。視界の端に輪郭のぼやけた影のようなものが現れる。それは音もなく漂い、ためらいもなく彼の胸へ飛び込んできた。
「うわっ」
痛みはない。弁当の唐揚げを一つ口に運べるくらいには冷静だった。
幻覚か、残業続きでとうとう来たか。そう結論づけて風呂に入り、布団に潜り込んだ。心臓だけがやけに速く打っていた。
目が覚めたのは深夜二時だった。正確には起こされたのだ。キッチンからジュウジュウという音と、どう考えても唐揚げ弁当から出るはずのない良い匂いが漂ってきていた。
恐る恐る覗くと、一平自身の身体が、一平の意思とは無関係にフライパンを振っていた。
「は?」
自分の手が卵とベーコンとチーズを熟練の手つきで操っている。湯で加減も火加減も塩の一振りも淀みない。
頭の中に人懐っこい声が響いた。
『あ、しまった。声が出せる状態か確認してなかった。どうも、突然お邪魔してすみません。私、しばらくこちらの身体お借りしますね。家賃は美味い飯でお支払いします』
「え、あ、はい。いやちょっと待って、あなた誰ですか」
『名乗るほどでも。この宇宙では、ですが。まあシェフとでも呼んでください。ところで黒胡椒はもう少し挽いた方がいいですね』
一平の右手が勝手に胡椒ミルを回した。
その夜、一平は生まれて初めて食べる本格カルボナーラに舌鼓を打ちながら、これは夢に違いないと思った。
翌朝、フライパンは綺麗に洗われて伏せられ、キッチンには微かにチーズの香りが残っていた。



二章
哲学者、社内会議に降臨す

シェフは三日ほど滞在し、毎晩何かを作っては四日目の朝「では次の便に乗り換えますので」と言い残して去った。耳の奥で小さくキーンと鳴った気がした。
一平はこれが夢ではないことをうっすら悟り始めていた。悟りつつも会社には行かねばならない。悟りは家賃を払ってくれない。
事件は月例の営業会議で起きた。支店長が「今期のクレーム対応件数について」と話し始めた瞬間、またあの音が鳴った。
キーン。
覚悟する間もなく胸のあたりが温かくなり、一平の口が勝手に開いた。
「支店長。クレームとは、他者の言葉によって自己の期待という虚構を打ち砕かれた人間が発する悲鳴のようなものです。我々が対応すべきは電話の向こうの怒りではなく、その者が抱える期待という幻影そのものであり」
会議室がしんと静まり返った。
『失礼、私は思索する者でしてね。せっかくの機会だ、少し語らせてもらった』
頭の中の新しい声は落ち着いていて、そして止まらなかった。一平の口はその後二十分にわたりカントを引用し、プラトンの洞窟の比喩を持ち出し、最終的に「クレーム対応マニュアルは近代合理主義の墓標である」という結論に達した。
支店長は涙ぐんでいた。
「田中くん、いや田中主任。君、そんな深いこと考えてたのか。今期のMVPは君に決まりだ」
一平は椅子の上で真っ青になりながら弁明しようとしたが、口はまだ貸し出し中だった。
その日を境に一平は社内で哲学する主任として一目置かれるようになった。悪い変化ではなかったが、毎晩鏡の前で「僕は一体誰と体を分け合っているんだ」と自問する日々が始まった。
哲学者は五日目の朝「次の便が参りますのでお先に」と言い残して去った。
一平はノートを買った。表紙に「体内来訪者、記録」と書き、日付と症状と体感時間、そして可能なら訪問者の名乗りを几帳面に書き留め始めた。三十二年の人生でこれほど熱心に何かを記録したことはなかった。



三章
犬になった夜、バズる

三人目の来訪者は毛色が違った。
土曜の夕方、近所の公園を散歩していた時だった。キーンという耳鳴りのあと、いつものように何かが胸に飛び込んできた。ただし自己紹介はなかった。
代わりに一平の身体は芝生の上で四つん這いになった。
「ちょっ」
『わふっ』
一平の意識は絶叫していたが、身体は嬉しそうに尻尾を振る感覚を出していた。尻尾はないのに振っている感覚だけがある。近くにいた小学生たちが「わんわんおじさんだ」と歓声を上げ、スマートフォンを向け始めた。
身体は公園を全力疾走し、噴水に飛び込み、ベンチの下の匂いを嗅ぎ回り、最終的にハトの群れに向かって突進した。
その一部始終は当然動画に撮られ、その夜のうちに「犬化するサラリーマン」というタイトルで投稿された。
翌朝、通知が鳴りやまなかった。動画は十五万回再生され、コメント欄には「新手のパフォーマンス芸人」「メンタルやられてる系Vtuberの中の人説」「ハトさん可哀想」などと好き放題に書かれていた。
一平は布団の中で頭を抱えた。幸い日曜日で同僚に見つかることはなかったが、月曜、給湯室で先輩に「田中くん、あの犬の動画めっちゃ似てるって噂になってるよ」と言われた時は心臓が凍った。
「あは、そっくりですね、赤の他人ですけど」
平静を装いながらノートに一行加えた。
三人目、来訪時間約十八時間。特徴、犬。名乗りなし。要注意、公共の場では危険。
そして震える字で付け加えた。
これは一体何が起きているのか。誰かに相談すべきではないか。



四章
骨董屋の老婆と、異次元急便のからくり

誰に話せばいいのか分からなかった。心療内科に行けば解離性の症状で片づけられるし、友人に話せば頭がおかしくなったと思われるだけだ。
答えは偶然見つかった。
駅前の路地裏で小さな骨董屋を見つけた。看板には「なんでも屋、耳鳴堂」とある。吸い寄せられるように暖簾をくぐった。
奥から白髪を団子に結った小柄な老婆が出てきた。
「いらっしゃい。ああ、あんたね。最近賑やかにしてる子は」
「え」
老婆は一平の耳のあたりをじっと見つめ、深く頷いた。
「耳、キーンとなるだろう。しょっちゅう」
一平は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「なんで分かるんですか」
「あたしも昔同じ目に遭ったからね。かけなさい」
丸椅子に腰を下ろすと、老婆は熱い緑茶を差し出しながら信じがたい話を語り始めた。
「この宇宙にはね、いろんな次元をまたいで存在を運ぶ便があるんだよ。人間でいう宅配便のもっとでかい版さ。行き場を失った魂を然るべき受け皿まで運ぶ仕組みだ」
「受け皿」
「そう。その配送センターが最近人手不足か機械の不調かでミスが続いてるらしい。本来なら特別な待機所に届くはずの荷物が、誤って一般人の身体に配達されちまってる」
「それが僕ってことですか」
「あんたの鼓膜、向こうの周波数と共鳴しやすいんだろうね。いわばあんたの耳は今、宇宙便の誤配達多発地点に指定されちまってるってわけだ」
自分の耳が不名誉なランキングに入っているとは。
「乗客たちは、いつまで僕の中に」
「本来の行き先が決まるまでだよ。運が良けりゃすぐ次の便で出てくし、悪けりゃ居座る。ただ一番厄介なのは、乗客本人がもう行きたくないって言い出した時だよ。人間界を気に入っちまう奴もたまにいるからね」
その言葉の意味を一平はまだ理解していなかった。
老婆は名をトメさんと名乗り、一枚の名刺を差し出した。
異次元急便 お客様相談窓口
「ここに電話しな。ただし覚悟しときな。あの会社、対応が輪をかけてお役所仕事だから」



五章
コールセンター地獄めぐり

半信半疑のまま、その夜記載された番号に電話をかけた。
『お電話ありがとうございます。異次元急便でございます。現在大変混み合っておりますので、このまましばらくお待ちください』
保留音は地球のエリーゼのためにではなく、聞いたこともない不協和音のオルゴールだった。四十分後、ようやく繋がったオペレーターの声は驚くほど一平自身の会社のトーンと似ていた。
「お客様の受信履歴を確認いたします。確かに三件、誤配達の記録がございますね。大変申し訳ございません」
「返品というか、正しい場所に届け直すことはできますか」
「まずは苦情受付フォームにご記入いただき、多次元照合部門の審査を通していただき、その上で再配達日を。およそ地球時間で六十営業日後になります」
「六十営業日」
自分が日々顧客に告げていた少々お日にちをいただきますを、まさか言われる側になるとは思わなかった。
「その間も僕の身体には次々と来客があるんですが」
「はい、それはシステムの仕様でございまして、修正には別途上位部署の承認が必要となります」
「ちなみに件数、三件で合ってますか。最近やけに賑やかで」
「記録上は三件ですが。あ、ログが増殖していますね。少々お待ちを」
そこで電話は切れた。
皮肉にもほどがあると思いながらも、一平はこういうお役所対応の攻略法だけは心得ていた。翌日から毎晩電話をかけ続け、窓口を変え、担当者を変え、時には上長を出してくださいと粘った。三年間理不尽なクレーマー対応で鍛えた粘り腰がまさかの形で開花しつつあった。
七日目の夜、ついに驚くべき情報を引き出すことに成功する。
「実は今週末、当社の回収班が誤配達の是正のため貴地域へ直接出動する予定になっております」
「回収班」
「ええ。未回収の乗客を強制的に本来の行き先へ転送する部隊です。ただ正直に申し上げますと」
オペレーターの声が小さくなった。
「回収を拒否する乗客がいる場合、少々派手な事態になることがございます」



六章
回収人、襲来 満室事件勃発

土曜の夜。一平のアパート周辺でそれは起きた。
空が蜃気楼のように揺らめいたかと思うと、上空に見たこともない幾何学模様の光の輪が浮かび上がった。近隣住民はUFOだ、いや新手の広告投影じゃないかと騒ぎ始め、あっという間に野次馬とテレビの中継車が押し寄せた。
アパートの前に降り立ったのは灰色の作業服を着た三頭身ほどの小さな存在が三体。手には宅配業者おなじみの不在票そっくりの端末を持っている。
『お客様、誤配達物の回収に参りました。ご在宅で。あ、いらっしゃいますね。体内の未配達品確認させていただきます』
この期に及んでも敬語なんだと一平は半ば呆れながら玄関に出た。すると耳の奥でこれまでとは違ういくつもの音が同時に鳴り響いた。
キーン、キーン、キーンキーンキーン。
「何ですかこれ」
『失礼ですが現在体内に何名様ご滞在で』
「僕が把握してるだけで三人」
『そんなはずは。確認いたします。お客様、大変申し訳ございません。実は本便、システム障害の影響でこの一週間、お客様の体内に合計十一名様のお荷物を誤って集中配送しておりました』
「十一人」
絶叫と同時に胸の中で何かがせめぎ合う感覚が走った。犬になった三人目も哲学者もシェフも、そして名前も知らない八人の来訪者たちが一斉に主張し始めた。頭の中が満員電車のホームのアナウンスのように騒がしくなる。
『出ません』
はっきりした声が響いた。シェフだった。
『私はこの身体の台所が気に入りました。もう少し良い仕事をさせてもらいたい』
『私もこの星の哲学書には目を通し終えていない。もう少し滞在を希望する』
哲学者も加勢する。回収班の三体は端末を前に明らかに困惑していた。
『乗客の意思確認が取れない場合、こちらとしては強制転送措置を』
その時、一平の中で何かがぷつんと切れる音がした。三年間、他人の理不尽な要求を申し訳ございませんで受け止め続けてきた最後の一線が。
「ちょっと待ってください」
初めて自分の意思だけで大きな声を出した。
「僕の身体で、僕に無断で勝手に住んで勝手に出て行くとか出て行かないとか揉めないでください。少なくとも僕にも意見を言う権利があるはずです」
体内がしんと静まり返った。回収班も来訪者たちも皆一平の言葉に耳を傾けた。
「正直振り回されっぱなしでした。でもシェフさんのカルボナーラは美味しかったし、哲学者さんのおかげで会社での評価も上がった。犬になったのは勘弁してほしかったですけど、全部が全部嫌だったわけじゃない」
一平は深呼吸をした。
「だから提案です。行きたい人はちゃんと正規の便で送り届けてあげてください。でももし本当に希望するなら、僕はこの部屋を正式な滞在所として貸し出してもいいです。ちゃんと契約という形で。もう誤配達じゃなくて」
回収班のリーダーらしき一体がしばし沈黙したあと端末を操作した。
『前例のない申し出ですが、規約上受け入れ可能な条項がございます。第九十九条、受信者本人の自由意志による正規シェアハウス契約への切り替え』
『適用いたします』
上空の光の輪がふっと消えた。野次馬たちはなんだ結局ただの照明トラブルだったのかと口々に言いながら散っていった。テレビの中継車は原因不明の光害現象現在調査中というテロップを流して撤収した。
こうして満室事件は地球の歴史書には一行も記されることなく静かに幕を閉じた。



七章
満室、につき 新しい暮らし

あれから半年。
一平の1DKアパートの表札の下には小さな木製のプレートがもう一枚増えている。まだニス塗りの匂いがする。
体内シェアハウス キーン荘 入居者募集中 応相談
冗談のようなプレートだが半分本気だ。あの夜以来一平は正式に異次元急便と契約を結び、行き場を探す存在たちの一時的な受け皿として生きることを選んだ。もちろん無報酬ではない。契約に基づき、来訪者たちは滞在中それぞれの得意分野で家賃を支払っていく仕組みになっている。
シェフは今も時々戻ってきては腕によりをかけた料理を振る舞ってくれる。哲学者は一平の悩み相談に驚くほど的確なアドバイスをくれるようになった。ただし長い。犬になった彼は結局回収されることを選んだが、去り際にまた遊びに来ると言い残していった。
会社は思い切って辞めた。三年間鍛えたクレーム対応力を武器に、今は小さな相談窓口を個人で開業している。人間のクレームも、たまに次元を超えたクレームも分け隔てなく受け付ける、この宇宙でも珍しい何でも屋だ。看板にはこう書いた。
田中一平 よろず相談所 こちら側もあちら側も大歓迎
トメさんの骨董屋にも時々顔を出す。「あんた、ずいぶん逞しくなったねえ」と言われるたび、一平は少し照れくさそうに笑う。
そして今も時々、本当に時々だが耳の奥であの音が鳴る。
キーン。
以前の一平なら震え上がっていただろう。だが今は違う。玄関のチャイムが鳴った時のように軽く伸びをしてこう呟く。
「はいはい、どちら様ですか」
目の前に何かが現れ、次の瞬間飛び込んでくる。痛みはない。身体に変化もない。
心臓は相変わらず少しだけ速く脈打つ。ドキドキしながら一平は新しい来客を迎え入れる。
それが夢だったのか、それとも一瞬意識が遠のいただけなのか、そんなことはもう気にしていない。
だってこの胸の中は、今日もきっと誰かの新しい行き先になるのだから。




Amazon Kindle



あとがき

この物語は最初から最後まで田中一平という凡人の視点で押し切ろうと決めていました。

特別な能力も使命もない男が、理不尽な仕組みに対して最後にできることが「契約に書き換える」というのが自分的に気に入っています。

暴力でも魔法でもなく、事務手続きで世界を救う話です。
もし気に入っていただけたら、あなたの中のキーン荘にも耳を澄ましてみてください。誰かが住みたがっているかもしれません。