永遠の嘘
〜三十五年目の真実〜  加筆版


まえがき
人は誰しも、胸の奥にそっと仕舞い込んだままの記憶を持っているのではないでしょうか。若き日の青苦い後悔、言葉にできなかった想い、そして時が経つほどに愛おしく、あるいは少しだけ切なく蘇る誰かの面影。
本作『永遠の嘘 三十五年目の真実』は、人生の後半を迎えた一人の男が、かつての恋人との思いがけない再会をきっかけに、三十五年前に封印した親友の嘘と再び向き合う物語です。
真実を白日のもとに晒すことだけが救いとは限らない。時には、優しい嘘をそのまま受け入れ、抱えて生きることこそが大人としての深い愛であり、受容なのかもしれません。
静寂の中に立ち上るコーヒーの香りや、雨上がりのアーケードの光と共に、皆様の心の中にあるあの頃の記憶にそっと寄り添うことができれば幸いです。



序章 アーケードの雨上がり
雨上がりのアーケードは、濡れたアスファルトの匂いと、どこかの店から流れてくるコーヒーの香りが混ざり合っていた。ガラス屋根から滴る水滴が、ひとつ、またひとつと、光の粒になって落ちていく。頭上のガラス越しに、洗われたばかりの空の色が淡く滲んで見えた。
僕は傘の水を切りながら、何も考えずに歩いていた。六十をいくつか過ぎてから、時間の流れ方が変わった。若い頃はあれほど急いでいたのに、今はもう急ぐことも焦ることもない。信号が変わるのを待つ間ですら、以前なら苛立っていたはずなのに、今はただぼんやりと空を見上げる余裕がある。待つことにも、随分慣れたものだ。
商店街のスピーカーからは、季節外れの童謡が流れていた。夕方五時を知らせる合図らしい。子供たちの下校を促すその旋律を聞きながら、僕はふと、自分の人生の残り時間について考えていた。そんなことを考えるようになったのも、ここ数年のことだった。
「元気?」
声をかけられて振り返ると、そこに彼女がいた。
三十五年という歳月は、人の輪郭をずいぶんと変えるものだけれど、その声だけは、あの頃のままだった。少し高めで、語尾がふわりと浮くような、独特の話し方。その声を聞いた瞬間、僕の中で何かの回路が一気に繋がったような感覚があった。
「おお」
僕はそれだけしか言えなかった。何を言えばいいのか、この歳になっても分からないことがあるのだと、少し可笑しくなった。用意された台詞など、人生には存在しないのだと、こんな些細な場面で思い知らされる。
彼女、有紀は、白髪をきれいに染めた髪を耳にかけながら、少し驚いたような、それでいてどこか安堵したような表情を浮かべた。若い頃よりも少し丸みを帯びた輪郭。けれど、笑うと覗く八重歯だけは、あの頃のまま変わっていなかった。
「今日、実家に用があって戻って来たの。少し時間ある?」
断る理由もなかった。というより、断るという発想そのものが浮かばなかった。僕らは吸い寄せられるように近くの喫茶店に入り、窓際の席に座った。
店内には、古いジャズのレコードが流れていた。壁には色褪せた映画のポスターが貼られ、時間の止まったような空間だった。こういう店が、まだこの街に残っていたことに、僕は少し驚いた。
注文したコーヒーが来るまでの沈黙は、気まずいものではなく、むしろ懐かしいものだった。三十五年前、僕らはよくこうして、言葉を交わさなくても、ただ同じ空気を吸っているだけで満たされていた時期があった。
「最後、喧嘩別れのようだったから、言えなかったことがあってね」
有紀はカップを両手で包み込むようにして、静かにそう切り出した。彼女の指先には、いくつかの染みが浮いていた。それは紛れもなく、僕の知らない三十五年間を、彼女がひとりで生きてきた証だった。
運ばれてきたコーヒーからは、細い湯気が立ち上っていた。窓の外を、傘をさした学生の一団が笑いながら通り過ぎていく。その屈託のない笑い声を聞きながら、僕は自分たちにもかつて、あんな時代があったのだと、静かに思い返していた。
僕はその言葉に、どこか予感めいたものを覚えた。三十五年前のあの日々が、今日という日に向かって、ずっと繋がっていたのかもしれないという予感を。
物語は、そこから三十五年前に遡る。






第一章 茶色の髪をバッサリと
時間を三十五年ほど巻き戻す。
僕はまだ、社会に出たばかりの若造だった。大学四年の夏、サークルの合宿で湘南の海に通い詰め、すっかり茶色くなった髪を、入社式の前夜、洗面所の鏡の前でバッサリと切った。ハサミの音が響くたびに、学生時代の自分が床に落ちていくようで、少し寂しい気持ちになったのを覚えている。
母親には「もう少しそのままでもよかったのに」と言われたけれど、僕なりのけじめのつもりだった。学生から社会人へ。その境目を、目に見える形で自分自身に刻みつけておきたかったのだと思う。
鏡に映る自分は、黒く短い髪と真新しいスーツのせいで、ずいぶん他人行儀に見えた。まるで誰か別の人間になりすましているような、そんな居心地の悪さがあった。革靴の硬さも、ネクタイの締め付けも、何もかもが借り物のように感じられた。
入社式の翌週、僕は営業部の研修に配属された。同期は全部で十二人。それぞれが緊張した面持ちで、名刺の渡し方や電話の取り方を、大真面目に練習していた。そこで出会ったのが、淳だった。
淳は、同期の中でも一際目立つ男だった。背が高く、笑うと目尻に皺が寄る人懐こい顔立ちで、誰に対しても分け隔てなく接した。かと思えば、書類仕事は誰よりも丁寧で、講師役の先輩たちからの評判も良かった。要領がいいというよりは、丁寧さの積み重ねで信頼を得ていくタイプだった。
「お前、その髪、切る前はどんなだったんだよ」
研修初日の懇親会で、淳はそう言って笑った。まだ互いの名前も覚えきっていない中、彼だけが妙に馴れ馴れしく、けれど不快ではない距離感で話しかけてきた。
「海で焼けて、真っ茶色だったんですよ」
「見たかったな、それ。今のお前、真面目すぎて逆に胡散臭い」
「お前もいきなり失礼だな」
そんな軽口を叩き合ってから、僕らはすぐに打ち解けた。研修が終わる頃には、休みの日も連絡を取り合うような仲になっていた。二人でボウリングに行ったり、安い居酒屋でくだを巻いたり、社会人としての戸惑いを互いに吐き出し合うような日々だった。
淳という男には、不思議な魅力があった。饒舌なわけではないのに、彼のまわりにはいつも人が集まった。思えば、それは彼が誰かの話を遮ることなく、最後まで丁寧に聞く男だったからかもしれない。相手の言葉を大切に受け止める、そういう佇まいが彼にはあった。
僕は当時、彼のそういうところに密かに憧れていた。自分にはない資質だと思っていたから。僕はどちらかといえば、人の話を聞きながらも、次に自分が何を話すかを考えてしまうタイプだった。淳は違った。彼は本当に、相手の言葉そのものに興味を持っているようだった。
入社して半年ほど経ったある日、淳が「紹介したい子がいるんだ」と言って、僕を居酒屋に呼び出した。
「紹介したい子? お前の彼女か?」
「違う違う。俺の従兄弟の同僚なんだけどさ、いい子なんだよ。お前、最近ずっと女っ気ないだろ」
「余計なお世話だよ」
「いいから、来いって。今度の金曜、空けとけよ」
余計なお世話だと思いながらも、僕は少し心を弾ませて約束の日を待った。あの頃の僕は、仕事にも慣れず、寮の狭い部屋と会社の往復ばかりの、少し味気ない日々を送っていた。誰かとの新しい出会いというものが、単純に嬉しかったのだと思う。
そうして現れたのが、有紀だった。
小柄で、笑うと八重歯が覗く、飾らない雰囲気の女性だった。第一印象は、正直に言えば地味だった。地味というのは悪い意味ではなく、着飾らない、自然体という意味だった。けれど話し始めてすぐに、その印象は覆った。彼女の言葉には、ひとつひとつに芯があった。愚痴を言うときですら、どこかユーモアが滲んでいて、聞いていて飽きなかった。
「淳くんから聞いてたより、なんか普通の人ですね」
初対面の有紀に、開口一番そう言われて、僕は面食らった。
「え、普通で悪かったな」
「いい意味ですよ。淳くんが紹介する人って、なんか変わった人多いから」
その日、三人で飲んで、笑って、終電近くまで話し込んだ。有紀は仕事の愚痴も交えながら、時折驚くほど鋭い観察眼を披露した。この人は、物事の表面だけでなく、その奥にある何かをいつも見ようとしている人なのだと、僕はその夜のうちに感じ取っていた。
別れ際、淳が僕の背中を叩いて「な、いい子だろ」と耳打ちしたのを、今でも覚えている。あの時の淳の笑顔に、何の陰りもなかったことを、僕は今でもはっきりと思い出すことができる。
その帰り道、僕は淳と二人、駅までの夜道を歩いた。
「お前、有紀のこと、気に入っただろ」
「まあ、な。お前の紹介だから、ちょっと身構えてたけど」
「だろ? 絶対うまくいくと思うんだよな、お前らは」
淳は、まるで自分の未来を語るかのように嬉しそうに話していた。その横顔には、少しも迷いや躊躇いは感じられなかった。少なくとも、僕にはそう見えた。
「お前は、いいのか。有紀ちゃんのこと、俺に紹介して」
僕が何気なくそう訊ねると、淳は一瞬黙り込んだ。それから、いつもより少しだけゆっくりとした口調で、こう答えた。
「いいんだよ。お前らが幸せになるのが、俺にとっても嬉しいんだから」
その言葉の意味を、僕はあの頃深く考えることをしなかった。ただの友情からくる言葉だと、素直に受け取っていた。振り返ってみれば、あの言葉の奥に、僕の想像も及ばないほどの複雑な想いが込められていたのかもしれない。



第二章 二人の日々
それから僕と有紀は、少しずつ距離を縮めていった。最初は淳を交えた三人での食事だったのが、いつしか二人だけで会うようになり、映画を観たり、休日に遠出をしたりするようになった。
初めて二人きりで会った日、僕らは水族館に行った。有紀は、大きな水槽の前で子供のように目を輝かせて、「見て、あの魚、絶対笑ってる」と僕の袖を引っ張った。その無邪気さが、彼女の普段の落ち着いた雰囲気とのギャップになっていて、僕はすっかり魅了されてしまった。
あの頃の東京は、今よりずっと猥雑で、活気があった。バブルの余韻がまだ薄っすらと残っていて、街には妙な浮かれた空気があった。僕らは特別な場所に行かなくても、ただ街を歩くだけで楽しかった。古本屋を覗いて、喫茶店でコーヒーを飲んで、公園のベンチで他愛のない話をする。それだけで、一日が満たされていくような感覚があった。
有紀は、些細なことによく気づく人だった。僕が疲れている日は、何も言わなくても察して、無理に話しかけずにそっとしておいてくれた。逆に僕が浮かれている日は、一緒になって浮かれてくれた。そういう呼吸の合わせ方が、自然にできる人だった。
夏の花火大会に行った日のことを、僕は今でもよく覚えている。人混みに揉まれながら、有紀とはぐれないように手を繋いで歩いた。花火が上がるたびに、彼女の横顔が光に照らされて浮かび上がった。その横顔があまりに美しくて、僕は花火よりも彼女の顔ばかり見ていた。
「花火、見てないでしょう」
気づいた有紀にそう咎められて、僕は慌てて夜空を見上げた振りをした。あの時の彼女の笑い声を、僕は今でも耳の奥で鮮明に思い出すことができる。
冬になり、僕らは初めて二人でスキーに出かけた。有紀は運動が得意ではないらしく、初日はほとんど転んでばかりだった。何度目かの転倒の後、雪まみれになりながら、彼女は「もう、笑わないでよ」と口を尖らせた。けれど、その口調とは裏腹に、彼女自身も雪の冷たさに声を上げて笑っていた。夜、宿の食堂で湯気の立つ鍋を囲みながら、僕らは他愛のない話を延々と続けた。窓の外では、音もなく雪が降り積もっていた。あの夜の静けさと温もりを、僕は今でもはっきりと思い出すことができる。
クリスマスには、僕は少し無理をして、有紀に小さなネックレスを贈った。彼女は包みを開けた瞬間、少し驚いたような顔をして、それから目に涙を浮かべた。
「こんな高いもの、いいの?」
「いいんだよ。似合うと思ったから」
彼女は照れくさそうに、その日からずっとそのネックレスを身につけてくれていた。別れてからも、彼女がそれをどうしたのか、僕は知らない。そんな些細なことが、今になって妙に気にかかることがある。
「淳くんね、私たちのこと、すごく喜んでるのよ」
付き合い始めて三ヶ月ほど経った頃、有紀がそう言った。
「知ってる。しつこいくらい聞いてくる。どうだ、うまくいってるかって」
「照れくさいけど、嬉しいわね。あの人がいなかったら、私たち出会ってないんだから」
僕もそう思っていた。淳は、僕らの関係が深まっていくのを、まるで自分のことのように喜んでくれた。三人で会う機会は減っていったけれど、たまに飲みに誘われると、淳は決まって僕らの惚気話を聞きたがった。
「なあ、有紀とはどこまで進んだんだよ」なんて茶化してくることもあれば、「大事にしろよ、絶対」と真顔で言うこともあった。その真剣な眼差しに、僕は時々少しだけたじろいだ。まるで、自分よりも有紀のことを大切に思っているかのような、そんな錯覚を覚えることがあった。
もちろん、それは僕の考えすぎだと、当時の僕は思うようにしていた。淳は、誰に対してもそういう男だった。友人のことを、まるで自分の家族のように心配し、喜び、時には厳しく意見する。それが淳の、生まれ持った性質なのだと、僕は理解していたつもりだった。
夏が来て、僕らは淳を含めた同期数人で海に出かけた。学生時代のように無邪気にはしゃぐことはなかったけれど、それでも波打ち際で写真を撮ったり、花火をしたりして、社会人になってからの新しい形の青春を味わっていた。
その夜、砂浜で花火をしながら、有紀がふと呟いた。
「淳くんって、なんであんなに優しいんだろうね」
「優しいっていうか、面倒見がいいんだよ、あいつは」
「ううん、そうじゃなくて」
有紀は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「なんていうか、自分を犠牲にしてでも、周りを幸せにしようとするタイプっていうか。そういう人って、たまにいるでしょう。自分の気持ちより、周りの気持ちを優先しちゃう人」
僕はその時、あまり深く考えずに「まあ、いい奴だからな」とだけ答えた。後になって思えば、その言葉の裏に、有紀は何かを感じ取っていたのかもしれない。けれど、あの頃の僕には、そこまで想像する余裕がなかった。
線香花火が、パチパチと小さな音を立てて燃えていた。有紀はその火花をじっと見つめながら、何かを考え込んでいるようだった。僕はその横顔に、声をかけることができなかった。あの沈黙の中に、すでに何かの予兆があったのかもしれない。
秋になり、僕らは初めてお互いの実家に顔を出すようになった。有紀の両親は、僕を温かく迎え入れてくれた。「娘をよろしく頼みます」と、有紀の父親に頭を下げられた時、僕は身の引き締まる思いがした。この人と、将来を共にするのかもしれない。そんな漠然とした予感を、その頃の僕は確かに抱いていた。



第三章 つまらない噂
幸福というものは、たいてい、誰かの些細な一言によって影を差される。
付き合い始めて一年ほど経った、ある飲み会の席でのことだった。同じ部署の先輩が、酔った勢いでこんなことを口にした。
「お前んとこの彼女ってさ、前は淳と付き合ってたんじゃなかったっけ?」
場が一瞬、静まり返った。誰かが慌てて「いやいや、それは違う噂だろ」と取り繕ったけれど、その場にいた何人かの表情に、微妙な同意が滲んでいるのを、僕は見逃さなかった。
「あの二人、前から出来てたんじゃないの?って話、結構前からあったよな」
別の誰かが、追い打ちをかけるようにそう言った。
「いつ頃の話だよ、それ」
「さあ、俺も又聞きだから分かんないけど。淳の従兄弟の会社に、有紀ちゃんと仲良かった子がいるらしくて、その子が言ってたって話」
僕は笑い飛ばそうとした。「まさか」と。けれど、その夜、家に帰ってからも、その言葉が頭から離れなかった。
思い返せば、思い当たる節がないわけではなかった。淳が有紀を紹介してくれた、あの日の空気。妙に自然な二人のやりとり。「従兄弟の同僚」という紹介の仕方にしては、二人の間にはどこか気安い空気があったような気がした。互いの呼び方も、他人行儀ではなかったような。
いや、それは考えすぎだ。僕は自分にそう言い聞かせた。淳は、僕と有紀の仲を、誰よりも喜んでくれている男だ。そんな男が、僕を騙すはずがない。
けれど、一度芽生えた疑念というものは、そう簡単には消えてくれない。僕はその夜、なかなか寝付けなかった。天井を見つめながら、あの居酒屋での初対面の日のことを、何度も頭の中で反芻した。
僕は数日間、悶々とした日々を過ごした。有紀に直接訊ねることも考えたけれど、それをすれば彼女を傷つけてしまうかもしれないという恐れがあった。それに、もし噂が事実だったとしても、今の有紀が僕を選んでくれているという事実は変わらないはずだ。そう自分に言い聞かせても、心の奥底にある小さな棘は消えてくれなかった。
仕事にも、少しずつ支障が出始めた。書類のミスが増え、上司に注意されることも増えた。「最近どうした、らしくないぞ」と言われても、僕は「すみません」と頭を下げるだけで、本当の理由を話すことはできなかった。
同僚の一人が、心配して声をかけてくれたこともあった。
「お前、なんか元気ないな。有紀ちゃんと、何かあったのか」
「いや、そういうんじゃないんだけど」
「ならいいけど。あの噂のことなら、俺、そんなに気にしなくていいと思うぞ。誰が言い出したかも分からない話だし」
その言葉は、慰めのつもりだったのだろう。けれど、噂が誰が言い出したかも分からない話として、社内でまだ生き続けていること自体が、僕にとっては新たな重荷になった。噂というものは、一度火が付くと、当事者の与り知らないところで勝手に燃え広がっていくものらしい。誰も悪意を持っているわけではないのに、それが集まると、人を静かに追い詰めていく。
昼休み、僕はよく屋上に上がって、一人で弁当を食べるようになった。同僚たちの何気ない会話の中に、また噂の続きが紛れ込んでいないか、僕はいつも心のどこかで身構えるようになっていた。そんな自分に気づくたびに、僕は嫌気が差した。淳を疑うことも、有紀を疑うことも、本当はしたくないのに、疑念という重りはいつも僕の心の底に沈んでいて、ふとした拍子に浮かび上がってきた。
結局、僕が訊ねたのは、有紀本人ではなく、淳だった。
二人きりで飲む機会があった夜、僕は何度も切り出すタイミングを計り、そして勇気を振り絞って口にした。安酒の入ったグラスを、僕は必要以上に強く握りしめていた。
「なあ、淳。こんな噂が流れてるんだけど、どうなんだろう?」
僕は、聞いた噂をそのまま伝えた。淳と有紀が、以前から特別な関係だったのではないか、と。
言い終えた瞬間、淳の表情が、ほんの一瞬だけ動いた。
それは本当に、瞬きひとつ分ほどの、微かな陰りだった。笑っていた口角が、ほんの少し強張ったような。目の奥に、何か言葉にならないものが一瞬だけ揺れたような。グラスを持つ彼の手が、ほんの少しだけ止まったような気もした。
けれど次の瞬間には、淳はいつもの調子で笑い飛ばしていた。
「おいおい。そんなことがあるはずないだろう」
「そうですよね」
「なんだよ、お前まで疑ってるのか? 水臭いな」
「いや、疑ってるっていうか、周りがうるさいから、一応確認しておきたくて」
「ないない。有紀は、お前のことが好きなんだよ。それだけは、俺が保証する」
淳はそう言って、僕の肩を叩いた。いつもと変わらない、あの人懐こい笑顔だった。
「そうか。そうですよね」
僕はそう頷いて、その話題を終わらせた。
あの一瞬の陰りを、僕は見なかったことにしたのだと思う。見てしまったら、何かが決定的に壊れてしまう気がして。だから僕は、淳の笑顔にすがるようにして、自分を納得させた。
その夜、二人で店を出た後、淳はいつもより口数が少なかった。駅までの道すがら、彼は何度か何かを言いかけてはやめる、という仕草を繰り返していた。僕はそれに気づいていながら、あえて何も訊かなかった。振り返れば、あれは僕にとっても彼にとっても、最後の分岐点だったのかもしれない。
その夜のことを、僕は長い間思い出さないようにしてきた。けれど、記憶というものは、忘れようとすればするほど、かえって鮮明に残ってしまうものらしい。三十五年経った今でも、あの居酒屋の煙草の匂いや、テーブルの傷、淳の陰った表情を、僕ははっきりと思い出すことができる。



第四章 入院
それから間もなく、淳の様子がおかしいことに、僕は気づき始めた。
顔色が優れない日が続き、以前は誰よりも早く出社していたのに、遅刻や欠勤が目立つようになった。心配して声をかけても、「ちょっと風邪気味でさ」と、いつもの調子ではぐらかされた。体重も目に見えて落ちているようだった。スーツが、以前より少し大きく見えることがあった。
「大丈夫か、お前」
「大丈夫だって。心配性だな、お前は」
そう言って笑う淳の笑顔は、以前と変わらないように見えた。けれど、その笑顔の下に何か隠されたものがあるような気配を、僕はうっすらと感じ取っていた。あの噂のことがあってから、僕は淳の表情の些細な変化にも、以前より敏感になっていたのかもしれない。
そして、梅雨の終わりのある日、淳は突然入院した。
病名は、誰にも知らされなかった。ただ、容態が思わしくないということだけが、共通の友人を通じて断片的に伝わってきた。噂は色々と飛び交った。過労だとか、大きな病気だとか。けれど、確かなことは誰も知らなかった。
僕は何度も病院に足を運んだ。花を買い、見舞いの言葉を考え、受付で名前を告げる。けれど返ってくる答えは、いつも同じだった。
「申し訳ございません。面会謝絶となっております」
最初のうちは、そのうち面会できるようになるだろうと、楽観的に考えていた。けれど、一週間経っても、二週間経っても、状況は変わらなかった。僕は病院の待合室で、ただぼんやりと窓の外を眺めて帰る日々を繰り返した。
ある日、受付の看護師が、少しだけ気を利かせてくれたのか、こっそりと教えてくれたことがあった。
「本当は、面会自体は禁止されていないんです。ただ、患者さんご本人が、強く希望されていて」
「本人が、誰にも会いたくないって言ってるんですか」
「詳しいことは、私からは。でも、ご家族の方にお伝えいただいたほうがいいかもしれません」
その言葉に、僕は複雑な思いを抱いた。淳が、自分の意志で、僕らを遠ざけている。それは、単なる病状の悪化以上の、何か意味のあることのように思えた。
僕は病院のロビーで、有紀と何度か顔を合わせた。彼女もまた、頻繁に見舞いに来ているようだった。会うたびに、彼女の表情は少しずつやつれていくようだった。
「淳くんのお母さんに聞いたんだけど、本人が誰にも会いたくないって言ってるらしいの」
ある日、ロビーのベンチで、有紀がそう教えてくれた。
「誰にもって、俺たちにも?」
「うん。なんでだろうね。あんなに人が好きな人だったのに」
有紀の声には、隠しきれない戸惑いと寂しさが滲んでいた。僕はその横顔を見ながら、何と声をかけていいか分からなかった。
病院に通う日々の中で、僕は淳の母親と何度か言葉を交わすようになった。控えめで、いつも申し訳なさそうにしている女性だった。彼女は、僕らが来るたびに深々と頭を下げた。
「あの子ったら、頑固なところがあるから。誰にも、弱ったところを見せたくないんでしょうね」
彼女はそう言って、寂しそうに微笑んだ。
「本当に、良くしていただいて。あの子から、あなたのお話、よく聞いていましたよ。いい友達ができたって、嬉しそうに」
その言葉を聞いて、僕は胸が締め付けられるような思いがした。あの居酒屋での一瞬の陰りのことを、僕はまだ心のどこかで引きずっていた。それなのに、淳の母親から語られるいい友達という言葉が、その疑念を少しずつ溶かしていくようだった。
夏が深まるにつれて、淳の容態は悪化の一途を辿っているらしいということが、断片的な情報から窺えた。見舞いに持っていく花も、いつしか季節の変わり目を映すように変わっていった。紫陽花から、向日葵へ。そして、やがて秋の花へと。
病院までの道のりを、僕は数え切れないほど歩いた。バス停から病院までの、あの並木道。夏には蝉の声で満たされ、やがて金木犀の香りが漂うようになった、あの道のりを、僕は今でも目を閉じれば鮮明に思い出すことができる。花屋の店主とも、いつしか顔馴染みになっていた。
「今日も、お見舞いですか」
「ええ、まあ」
「良くなるといいですね」
そんな、当たり障りのないやり取りが、あの頃の僕にとっては数少ない、心の支えのようなものだった。誰かが僕の行動を見ていて、気にかけてくれている。それだけのことが、当時の僕にはひどく有り難く感じられた。
僕は毎週のように花を買い、面会謝絶の札を確認しては、肩を落として帰る日々を繰り返した。病院からの帰り道、いつも同じ喫茶店に寄って、一人でコーヒーを飲んだ。何をするでもなく、ただぼんやりと窓の外を眺めて時間を潰した。
ある夜、僕は夢を見た。淳が、いつものように笑いながら、何かを僕に手渡そうとしている夢だった。それが何なのか、夢の中では分からなかった。白い、薄いもの、封筒のような形をしていたような気もするけれど、はっきりとは覚えていない。目が覚めてからも、その手触りだけが妙に生々しく残っていた。
「これ、渡しとくから」
夢の中の淳は、そう言っていた気がする。目覚めた後も、その声だけが耳の奥に残響のように残っていた。
病院に通う日々の中で、一度だけ、僕は淳の病室の扉の前までたどり着いたことがあった。看護師の目を盗んでというわけではなく、たまたま彼の担当医が病室から出てきたところに、廊下で行き会わせたのだった。
「あの、僕、患者さんの友人なんですが」
「ああ」
医師は、少し困ったような表情を浮かべた。
「本人が、強く希望されているので。申し訳ありません」
その時、開いたままの扉の隙間から、ほんの一瞬だけ、ベッドの輪郭が見えた。誰かが横たわっている気配は感じられたけれど、それが本当に淳なのかどうか、確かめる間もなく、扉はすぐに閉められてしまった。
僕はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。すぐそこに、淳がいる。手を伸ばせば届きそうな距離に。それなのに、その距離はどうしようもなく遠かった。
帰り際、僕はナースステーションに、簡単なメモを託した。「元気になったら、また一緒に飲みに行こう」。そんな、ありきたりな言葉しか、僕には書けなかった。そのメモが実際に淳の目に触れたのかどうか、今となっては確かめる術もない。
その夢を見た数日後、電話が鳴った。



第五章 永遠の別れ
淳が亡くなったという知らせは、あまりにも呆気なく届いた。
共通の友人からの電話は、たった数十秒で終わった。「淳が、今朝、亡くなったって」。それだけだった。僕は受話器を握りしめたまま、しばらく動けなかった。窓の外ではいつもと変わらない朝が続いていて、その落差が、かえって現実感を奪っていった。
葬儀は、こぢんまりとしながらも多くの人が参列するものだった。淳がどれだけ人に愛されていたかを、その参列者の数が物語っていた。同期はもちろん、先輩や上司、取引先の人間、学生時代の友人らしき人々まで、幅広い顔ぶれが黒い喪服に身を包んで列をなしていた。
僕は喪服の列の中で、ただ茫然としていた。あんなに元気だった男が、あんなに笑っていた男が、もういない。その事実だけが、重たい石のように胸に沈んでいった。結局、僕は最後まで彼の顔を見ることができなかった。棺の中の彼にすら、面会謝絶の壁が続いているような、そんな理不尽な感覚があった。
僧侶の読経が響く中、僕は淳との思い出を次から次へと思い出していた。研修初日の軽口。居酒屋での惚気話の相槌。海での花火。数え切れないほどの何気ない日常の断片。それらすべてが、もう二度と更新されることのない過去のものになってしまったのだと、僕はようやく実感し始めていた。
焼香の順番を待つ間、僕は少し離れたところに立つ有紀の姿を見た。彼女は俯いたまま、肩を小さく震わせていた。声を殺して泣いているのだと、すぐに分かった。僕は近づいて声をかけようとしたけれど、その肩の震えがあまりに深いものに見えて、結局何も言えずに離れてしまった。
あの時、僕は彼女の隣に行くべきだったのかもしれない。今になって、そう思うことがある。けれど、あの瞬間の僕には、彼女の悲しみの深さに触れることがなぜか怖かった。その怖さの正体が何だったのか、当時の僕には言葉にすることができなかった。
葬儀が終わり、僕が焼香を終えて外に出ようとしたとき、淳の母親に呼び止められた。
「あなたが、淳の大事なお友達ね」
僕は頷いた。すると彼女は、白い封筒を差し出した。
「あの子が、入院する前に、私に預けていったの。もし、いつか必要になったら、この人に渡してほしいって。名前は書いてないんだけど、ずっとあなたじゃないかって思っていたのよ」
封筒は、何の変哲もない真っ白なものだった。表にも裏にも一文字も書かれていない。少し古びた手触りで、角が僅かに擦れていた。何度も鞄の中で持ち歩かれた末に、誰かに託されることになった、そんな痕跡が感じられた。
「私は、中身は知らないの。あの子が、封をしたまま渡してきたから」
葬儀の後、僕らは近くの料亭で簡単な精進落としの席に着いた。参列者たちは、淳の思い出話をぽつりぽつりと語り合った。誰かが「淳は本当にいい奴だったな」と言うと、また別の誰かが「あいつに助けられたことが何度もある」と続けた。悲しみの中にも、淳という人間の存在の大きさを、皆が改めて確認し合っているような、そんな時間だった。
僕の隣に座った同期の一人が、ぽつりと呟いた。
「淳って、いつも周りのことばっかり考えてたよな。自分のことは後回しにして」
「ああ」
「だから、体調悪くても誰にも言えなかったんだろうな。心配かけたくないとか、そういうことばっかり考えて」
その言葉を聞きながら、僕はあの居酒屋での一瞬の陰りのことをまた思い出していた。淳という男は、最後まで誰かのために自分の何かを差し出し続けた人間だったのかもしれない。それが病のことであれ、他の何かであれ。
精進落としが終わり、外に出ると、もう日はすっかり暮れていた。街灯の下で、僕は有紀と短く言葉を交わした。
「大丈夫か?」
「うん。ちょっと疲れたけど」
「送っていくよ」
「ううん、いい。今日は一人になりたいの」
そう言って、彼女は俯いたまま駅の方へと歩いていった。その後ろ姿を、僕はしばらく見送っていた。あの日の彼女の背中の小ささを、僕は今でもふとした瞬間に思い出すことがある。
そして、そのまま三十五年が過ぎることになる。
その夜、僕は一人で部屋にこもり、あの封筒を机の上に置いて、何時間も見つめていた。開けようとして指をかけて、そしてまた引っ込める。それを何度も繰り返した。
開けてしまえば、何かが決定的に変わってしまう気がした。淳の優しい笑顔の裏にあったものが、真実として僕の前に突きつけられてしまう気がした。それが噂を肯定するものであっても、否定するものであっても、もう彼はこの世にいない。真実を知ったところで、何かが変わるわけではない。
そう自分に言い聞かせて、僕は封筒を机の引き出しの一番奥にそっとしまった。窓の外では蝉の声がまだしつこく鳴き続けていた。夏はまだ終わっていなかった。けれど、僕の中では何か大切なものが確実に終わりを迎えていた。



第六章 すれ違う心
淳が亡くなって一ヶ月も経たない頃、有紀から連絡があった。
会って話がしたい、と。
喫茶店で向かい合った有紀は、ひどく痩せていた。目の下には隠しきれない隈があった。彼女は、僕が知らなかった淳の病状のことを、ぽつりぽつりと話し始めた。
「淳くん、本当は、ずっと前から病気だったみたい。でも、誰にも言わなかった。仕事も普通にこなして、私たちの前でもいつも通りに笑ってた」
「そうだったのか」
「面会謝絶にしたのも、本人の強い希望だったみたい。弱った姿を誰にも見せたくなかったんだって。お母さんがそう教えてくれた」
有紀は、カップの中のコーヒーを見つめたまま、続けた。
「もしかしたら、あの人、あなたにだけは会いたかったんじゃないかな」
その言葉に、僕は思わず顔を上げた。
「なんで、そう思うんだ?」
「分からない。ただ、そんな気がするの」
有紀はそう呟いた。その言葉の裏に、何か僕の知らない事情があるような気がしたけれど、僕はそれ以上踏み込む勇気が持てなかった。あの白い封筒のことを、彼女に話すべきかどうかも、迷った末に結局言えなかった。
その頃から、僕らの間には目に見えない隙間ができ始めていた。
淳の死は、僕らの関係に皮肉な形で影を落とした。彼を失った悲しみを、僕らはそれぞれ一人で抱え込んでしまっていた。本来なら支え合うべき悲しみだったはずなのに、僕らはお互いにその悲しみの深さを測りかねて、遠慮し合うようになっていった。
有紀は、以前よりも口数が少なくなった。何かを考え込んでいることが多くなり、僕が話しかけても上の空で返事をすることが増えた。休日に約束していたデートも、直前でキャンセルされることが少しずつ増えていった。
「最近、どうしたんだ?」
僕が訊ねると、有紀は決まって「別に、何も」と答えた。その何もという言葉の中に、明らかに何かがあるのに、彼女はそれを僕に開示しようとはしなかった。
僕もまた、あの居酒屋での一瞬の陰りのことを、彼女に話すことができずにいた。話してしまえば、亡くなった淳を疑うことになる。それはあまりにも罰当たりなことのように思えた。
けれど、話さないことは、僕らの間に見えない壁を作っていった。お互いに何かを隠している。その気配だけが、僕らの間にじわじわと広がっていった。
秋のある日、僕らは以前のように二人で紅葉狩りに出かけた。けれど、その日の会話はどこかぎこちなかった。美しい紅葉を前にしても、有紀の表情は晴れなかった。
「大丈夫か? 何か悩んでることでもあるのか?」
「大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけ」
その答えに、僕はそれ以上踏み込むことができなかった。踏み込んでしまえば何かが崩れてしまうような、そんな予感があった。思えば、その予感こそが僕らの関係がすでに脆いものになっていたことの証だったのかもしれない。
秋が深まる頃には、僕らの会話は表面的なものばかりになっていた。天気の話、仕事の話、当たり障りのない話題ばかりを選んで、僕らはお互いの本心に触れることを無意識に避けるようになっていた。かつては沈黙すら心地よかったはずなのに、いつしかその沈黙は重苦しいものに変わっていた。
冬になる前に、僕らは以前から計画していた小旅行に出かけた。有紀の気分転換になればという思いもあった。けれど、旅先での僕らは驚くほどぎこちなかった。宿の部屋で向かい合っても会話が続かず、テレビの音だけが間を埋めるように流れていた。
夕食の席で、僕はふと淳の好きだった酒の銘柄を注文してしまった。特に意識していたわけではなかったけれど、それに気づいた有紀の表情が一瞬強張った。
「ごめん、その」
「ううん、いいの。気にしないで」
そう言う有紀の声は、明らかに気にしていた。その夜、僕らは早々に布団に入ったけれど、どちらもなかなか寝付けずにいるのが暗闇の中でも分かった。
「なあ」と僕は闇に向かって話しかけた。「俺たち、どうしちゃったんだろうな」
「分からない」
有紀の声は、小さく震えていた。
「淳くんがいなくなってから、何かがずっとおかしいの。うまく言えないけど」
「俺も、そうだよ」
僕らはそれ以上言葉を続けることができなかった。旅行から帰る車内でも、僕らはほとんど口をきかなかった。窓の外を流れていく景色を、僕はただぼんやりと眺めていた。あの旅行が、僕らにとって最後の二人だけの時間になるとは、その時はまだ思っていなかった。



第七章 別れ
決定的な諍いは、些細なことがきっかけだった。
淳の一周忌が近づいたある日、僕は何気なく有紀に訊ねた。
「一周忌、行くのか?」
「行くつもりだけど、あなたは?」
「もちろん、行くよ」
それだけの会話だったはずが、なぜかその後の空気がぎくしゃくとしたものになった。有紀は何か言いたそうにしながら、結局口をつぐんだ。
「なんだよ、言いたいことがあるなら言えよ」
僕は、苛立ちを隠せずにそう言った。振り返れば、その苛立ちは有紀に対してというより、自分自身の中にある消化しきれない何かに対するものだったのだと思う。淳の死をきっかけに積み重なっていた、名前のつけられない感情の澱が、その日限界に達してしまったのだろう。
「別に」
「その別にが一番聞きたくないんだよ」
僕の言葉に、有紀の表情が初めて僕の前で崩れた。
「じゃあ言うけど。あなたこそ、何か隠してるでしょう」
「隠してるって、何を」
「分からない。でも、淳くんが亡くなってから、あなた何か変わった。私に何かを隠してる」
図星だった。僕はあの白い封筒のことを思い出しながら、それでも「そんなものない」と言い張った。声が自分でも分かるほど上ずっていた。
「そう。じゃあ、いいの」
有紀はそう言って、それ以上その話題に触れなかった。その諦めたような静けさが、僕には何よりも痛かった。けれど、その日を境に、僕らの間の隙間は修復できないほどに広がってしまった。
僕らは、何度か仲直りを試みた。食事に誘ったり、以前よく行った場所に行ってみたり。けれど、一度崩れた歯車はなかなか元には戻らなかった。お互いに相手を思いやる余裕を失い、些細なことで衝突するようになった。
最後の喧嘩は、今となっては何が原因だったのかもはっきりとは思い出せない。ただ、有紀が涙を堪えながら「もう、無理かもしれない」と呟いたことだけは鮮明に覚えている。窓の外は、あの時も雨が降っていたような気がする。
僕はその言葉を引き止めることができなかった。引き止めるだけの言葉を、僕は持っていなかった。喉元まで出かかった何かを、僕は結局飲み込んでしまった。
僕らは、それきり会わなくなった。
別れを告げる正式な言葉すら、僕らは交わさなかった。ただ自然に連絡が途絶え、それが僕らの関係の終わりを意味していた。彼女から借りていた本や、彼女が忘れていったマフラーを、僕は結局返す機会も失ったまま、長い間部屋の隅に置いたままにしていた。
半年ほど経った頃、僕は転勤の辞令を受けて東京を離れることになった。荷造りをしながら、僕は有紀のマフラーを見つけて、しばらく手に取ったまま動けなくなった。捨てることもできず、かといって今更送りつけるわけにもいかない。結局、僕はそれを段ボール箱の奥深くに、他の思い出の品々と一緒にしまい込んだ。
新しい土地での生活は、否応なく僕を過去から引き離していった。新しい同僚、新しい部屋、新しい街並み。すべてが東京での日々を少しずつ遠いものにしていった。それでも、ふとした瞬間、夏の夜風の匂いや線香花火の煙、誰かの笑い方に、僕は不意にあの頃の記憶に引き戻されることがあった。



第八章 三十年間の軌跡
それから僕は、長い時間をひとりで歩き始めた。
しばらくは街の至るところに有紀の面影を見た気がしたが、時間とともにそれも薄れていった。二十代の終わりに職場で知り合った女性、のちの妻と出会った。彼女は僕の中にある頑なな壁を無理に崩さず、根気強く寄り添ってくれた。話す機会を逃したまま、過去の記憶は胸の奥にそっと仕舞い込み、僕らは温かい家庭を築いた。
長男と長女が生まれ、仕事では営業から管理職へ。慌ただしくも愛おしい日々が過ぎていった。
長男が中学生になった頃、一度だけ彼が書斎で引き出しの奥にあったあの白い封筒を見つけて「開けてもいい?」と聞いてきたことがあった。僕は思わず大きな声を出して制止してしまい、その夜、息子の部屋を訪れて謝った。
「昔の大切な友達からもらったものなんだ。まだ、開ける準備ができてないんだよ」
息子はそれ以上何も言わず、二度と引き出しに触れようとはしなかった。
四十代の半ばを過ぎた頃、淳の十七回忌法要に招かれ、久々に淳の母親と再会した。小さく老いた彼女は、僕の顔を見ると柔らかく微笑み、あの封筒のことを尋ねてきた。「まだ、開けずに持っています」と答えると、安堵したように頷き、こう呟いたのだった。
「あの子ね、入院する前、母さん、俺、悪いことをしたかもしれない。でも、これでよかったんだと思う。二人が幸せならって言っていたの。あの子は、優しい嘘をつく子だったから」
その言葉に胸が震えたが、当時の僕にはまだ真実と向き合う覚悟がなかった。
やがて子供たちが独立し、長年勤めた会社を定年退職した。退職後、ようやく妻と二人で穏やかな第二の人生を送り始めた矢先、妻が病に倒れた。懸命な闘病の甲斐なく、彼女は感謝の言葉を残して旅立った。それから五年、僕は静かな孤独の中で人生の黄昏を過ごしていたのだった。



第九章 もう一度のそうですか
喫茶店の窓の外では、雨上がりの光が濡れたアーケードの屋根に反射していた。
「あの頃は、みんな若かったわね」と有紀は言った。「だから、あれもこれも、自分の中でうまく処理できなかったのよね」
彼女はカップに視線を落としたまま、静かに続けた。
「あなたのことは、好きだったのよ。本当に。でも、どうしても、彼以上にはなれなかった。その後もきっとなれなかったと思う。それでよかったってことでいい?」
微笑む有紀に、僕は何も言えなかった。長い沈黙の後、僕はようやく口を開いた。
「なんで、今頃そんなことを?」
「次の世にまで、宿題を残したくないじゃない」
有紀はまた微笑んだ。その微笑みには、若い頃には見られなかった達観したような柔らかさがあった。
「今は?」と僕は訊ねた。
「そうね。幸せよって言いたいけれども」
有紀は少し悪戯っぽく肩をすくめた。
「まあ、バツが二つも付いちゃったからね。でも、もう孫がいるのよ」
彼女は写真を見せてくれた。まだ幼い、笑顔の可愛らしい女の子だった。僕も自分のスマートフォンを取り出して、孫の写真を見せた。しばらく、僕らは他愛のない近況を話した。まるで、あの頃の続きをようやく話せるようになったかのように。
子供たちのこと、仕事のこと、健康のこと。三十年という空白は、案外簡単に埋まっていった。
「ねえ」と有紀がふと真剣な顔になった。「淳くんのこと、覚えてる? あの噂のこと」
僕が深く頷くと、彼女はカップを置き、ゆっくりと息を吸ってから打ち明けた。
「あの時、私本当のことを言えなかったの。淳くんとは、あなたに紹介される前に少しだけ特別な時期があったの。でも、恋愛というより傷の舐め合いのような短い関係だった。淳くんはあなたを傷つけたくなくて、私のことも守りたくて、黙っていることが二人を幸せにする一番の方法だと信じていたんだと思う」
「じゃあ、あの時のそんなことがあるはずないだろうっていうのは」
「嘘よ。優しい、嘘」
有紀はそう言って静かに微笑んだ。
僕は鞄から古い手帳を出した。そこには、いつか誰かに見せる日のために撮っておいた、あの白い封筒の写真が挟んであった。現物は今も書斎の引き出しにあること、三十年間一度も開けずに持っていることを伝えると、有紀は目から涙をこぼした。
「開けないの?」
「ああ。もういいんだ。淳がついたあの嘘は、僕たちを守るためのものだった。それが分かっただけで十分だよ」
有紀はしばらく僕の顔を見つめ、静かに頷いた。「そう。それでいいと思う」



終章 永遠の嘘
「ああ、そうそう」と有紀が言った。「最近また、彼のお墓参りに行くの」
「僕も先月、行ってきたよ」
「じゃあ今度、一緒に行かない?」
「ああ。いいな、それ」
連絡先を交換し、僕らは店を出て並んでアーケードを歩いた。
「あなたの奥様は、驚かないかしら。私と会うこと」
「大丈夫だよ。もう、五年前に妻とは死別してるんだ」
「そうだったの。知らなくてごめんなさい」
「いや、穏やかに旅立ったよ。感謝している」
有紀は静かに頷き、柔らかい笑顔を見せた。「じゃあ今度は、私たち二人で、お互いの寂しさを少しずつ埋めていけるといいわね」
書斎の引き出しには、今もあの白い封筒がある。家に帰り、僕はその封筒を電気スタンドの下でじっと見つめた。指先で封に触れる。けれど、僕はそれを開けずに、そっと引き出しへ戻した。
真実は有紀の言葉の中に十分にあった。淳がついた優しい嘘を抱いたまま、僕はこれからも生きていく。騙されたままでいることも、また良しと思える齢になれたのだ。
そしていつか僕がこの世を去る日が来たら、あの封筒を開けずに棺に入れてほしいと思っている。真実はあの世で淳に会った時、笑いながら直接尋ねればいいのだから。



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あとがき
人生の成熟期を迎えて改めて感じるのは、時間の流れの不思議さです。渦中にいる時は必死で、目の前の景色しか見えなかったことも、三十五年という歳月を経ることで、まったく異なる色彩を帯びて見えてくることがあります。
若さゆえの過ちや不器用さ、すれ違い。それらすべてを哀愁や感謝に変えていくのは、時間がもたらす最大の温もりなのかもしれません。作中の主人公が辿り着いた境地のように、真実をすべて暴くのではなく、相手の思いやりをそのまま受け取ることの尊さを描き出したいと考え執筆いたしました。
読者の皆様の人生の歩みの中にも、どうぞ静かで優しい光が射し込みますように。