永遠の嘘
―三十五年目の真実―


まえがき
誰の人生にも、二度と開けることのできない「引き出し」があるのではないでしょうか。
その中にしまわれているのは、若さゆえに傷つけ合った記憶かもしれませんし、確かめることを怖れてそのままにした疑惑かもしれません。
年齢を重ねるということは、白黒をはっきりつけることではなく、曖昧なグレーのまま抱えて歩く術を覚えることなのかもしれません。
この物語は、人生の折り返し地点を過ぎたひとりの男が、三十五年前に置き去りにした青春の残像と静かに向き合う物語です。雨上がりの匂いとともに、皆様の記憶のどこかにある「大切な嘘」にそっと寄り添うことができれば幸いです。



序章 アーケードの雨上がり
 アーケードを抜けた先の街角は、雨上がりの濡れたアスファルトの匂いと、老舗の喫茶店から漂う香ばしいコーヒーの香りが混ざり合っていた。
 僕は折りたたみ傘の水を切りながら、あてもなく歩いていた。六十を過ぎてからというもの、時間の流れ方がゆっくりになった気がする。急ぐ理由もなくなり、誰かを待つことの静けさにもすっかり慣れてしまった。
「――元気?」
 ふいに背後から声をかけられ、振り返る。そこに彼女が立っていた。
 三十五年という歳月は、人の輪郭や目元のシワをずいぶんと変えてしまうものだけれど、少し低めで落ち着いたその声だけは、あの頃のままだった。
「……おお」
 僕はそれだけしか言えなかった。何を言えば正しいのか、この歳になっても瞬時に選べない言葉があるのだと気づき、自分自身に少し可笑しくなった。
 彼女は目元を緩めて微笑み、「今日、実家に用があって戻って来たの。少し時間ある?」と言った。
 断る理由など最初からなかった。僕らは吸い寄せられるように近くの喫茶店に入り、濡れた街路樹が見える窓際のテーブル席に座った。注文したブレンドコーヒーが運ばれてくるまでの静寂は、気まずいものではなく、どこか遠い日の温もりを帯びていた。




一 茶色の髪をバッサリと
 時間を三十五年ほど巻き戻す。
 僕はまだ、社会に出たばかりの青くさい若造だった。学生時代、夏海岸で焼いて明るくなっていた髪を、入社式の前夜にバッサリと切り落とした。黒く短い髪になった鏡の中の自分は、ずいぶんと他人のように思えたものだ。
 彼女を紹介してくれたのは、会社の同期だった。名前を仮に「淳」としておく。
 淳は誰からも好かれる男だった。爽やかな笑顔と少し抜けたところがありながら、仕事に対しては誰よりも誠実で丁寧だった。彼が「お前に紹介したい子がいるんだ」と言って連れてきたのが、彼女だった。
 僕らはすぐに引き寄せられた。若さ特有の無鉄砲さと素直さで、気づけば毎週末を一緒に過ごすようになっていた。淳は僕らの仲を、自分のことのように目を細めて喜んでくれた。
 あの頃の毎日は、光に満ちていた。茶色かった頃の僕を彼女は知らない。それが少しだけ、後ろめたくもあり、都合がよくもあった。



二 つまらない噂
 けれど、幸福という薄いガラスは、誰かの些細なひとことで簡単にひびが入る。
「あの二人、昔から出来てたんじゃないの?」
 ある夜の飲み会で、酒に酔った同僚のひとりが、からかうようにそんな言葉を漏らした。淳と、彼女のことだった。僕と出会う前から、二人は特別な仲だったのではないか、と。
 その場では笑い飛ばした。しかし、一人になって深夜の部屋に帰ると、その言葉が胸の奥でじわじわと毒のように広がり始めた。
 後日、淳と二人で居酒屋のカウンターに座ったとき、僕は酒の勢いに任せて尋ねてしまった。
「……こんな変な噂が流れてるんだけどさ。どうなんだろう」
 一瞬、彼がグラスを持つ手が止まり、顔色が変わったように見えた。ほんの一瞬。まばたき一つ分の間隙に走った、影のような表情。
「おいおい。俺たちがそんなわけないだろう」
 淳はすぐにいつもの屈託のない笑顔に戻って笑い飛ばした。僕はその笑顔に縋りつくように、「そうだよね。変なこと聞いてごめん」と強く頷いた。
 あの一瞬見えたはずの陰りを、僕は見なかったことにした。真実を知るのが怖くて、目を背けたのだ。



三 面会謝絶の三十日間
 噂の残像が消えないまま間もなく、淳は突然、会社を休むようになり、そのまま入院した。
 病名は僕らには伏せられた。ただ、容態があまり思わしくないということだけが、共通の友人の口から小さく語られた。
 僕は仕事帰りに何度も病院へ足を運んだ。小さな花を買い、どんな言葉をかけるべきか何度も口の中で練習しながら、受付で彼の名前を告げた。けれど、看護師から返ってくる答えはいつも同じだった。
「申し訳ございません。ご本人とご家族のご意向で、面会謝絶となっております」
 結局、僕は彼の顔を一度も拝むことができないまま、三十日後に彼は逝ってしまった。
 葬儀の日、僕は冷たい雨が降る中で喪服の列に並び、ただ茫然としていた。あんなに元気で、誰もを明るくさせていた男が、もうこの世にいない。その圧倒的な事実だけが、冷たく重い石となって胸の底に沈んでいた。
 出棺を前に焼香を終え、式場の外へ出ようとしたとき、淳の母親に呼び止められた。
「あなたが……淳の、大事なお友達ね」
 僕が小さく頷くと、彼女は深く息を吐き、バッグから何も書かれていない白い封筒を取り出した。
「あの子がね、病室に入る直前……まだ動けた頃に預けていったの。『もし万が一のことがあって、いつか必要になったらあいつに渡してほしい』って。名前はなかったけれど、あなたじゃないかって、ずっと持っていたのよ」
病室に入る前の、最後の姿。僕はその場で封筒を開ける勇気が出なかった。そのまま深く礼をして受け取り、鞄の奥底へと押し込んだ。
 ――そしてそのまま、三十五年の月日が流れることになった。



四 1ヶ月後に聞かされたこと
 淳が亡くなって一ヶ月も経たない頃、彼女から呼び出された。
 喫茶店の向かいに座った彼女は、見違えるほど痩せていて、視線を彷徨わせながら淳の病状のことをぽつりぽつりと話し始めた。淳が最後まで僕たちに病名を隠し通したこと。弱り果てていく自分の姿を、誰の記憶にも残したくなくて面会謝絶にしていたこと。
「もしかしたら……あの人、あなたにだけは最後に来てほしかったんじゃないかな」
 彼女は静かにそう呟いた。その言葉の裏側に、僕のあずかり知らぬ二人だけの深い絆や秘密が隠されているような気がしてならなかった。
 その頃の僕らは、些細なことで感情的になり、すれ違いを繰り返していた。淳の死という大きな喪失をきっかけに、僕らの間を結んでいた見えない糸は、静かに、けれど決定的に切れてしまった。
「――なんだ。やっぱりそうだったのか」
 去っていく彼女の背中を見送りながら、僕は心の中でそう呟いていた。それが噂の答え合わせだったのか、それとも僕の卑屈な勝手な思い込みだったのか、確かめる術はもうなかった。
 それ以来、僕と彼女が会うことは二度となかった。



五 開けなかった封筒
 淳の母親から渡された白い封筒は、三十五年の間、僕の書斎の机の奥深く、一番下の引き出しに眠り続けた。
 その後、僕は別の女性と結婚し、子供に恵まれ、転職を経験し、両親を見送った。人生の幾つもの節目で引き出しを整理する機会は何度もあった。けれど、僕はその封筒にだけは触れないように生きてきた。
 開けてしまえば、何か取り返しのつかない現実が突きつけられる気がしたからだ。淳のあの優しい笑顔の裏にあった「本当のこと」が、僕の過去すべてを塗り替えてしまうのが怖かった。
 噂が真実であろうと、ただの嘘であろうと――もはや確認することに何の意味もないはずだった。それでも僕は、その封筒を破り捨てることもできなかった。
真夜中、ふと目が冴えて暗闇の中で引き出しの存在を思い出すことがあった。まるで封筒の中の白い紙が、今も静かに息をひそめ、淳の声で何かを語りかけようとしているかのように。



六 もう一度の「そうですか」
 喫茶店の窓の外では、雲の切れ間から差し込む光が、濡れた街路樹と道路をキラキラと照らしていた。
「あの頃は、みんな若かったわね」と彼女は遠くを見るような目で言った。「若すぎたから、自分の感情の扱い方も、誰かを許す方法も分からなかったのよね」
 彼女は温かいカップに指を添えたまま、静かに言葉を重ねた。
「あなたのことは、本当に好きだったのよ。でも……どうしても彼という存在を超えられなかった。その後の人生でも、きっと誰も超えられなかったと思う。……それで良かったってことにしてくれる?」
 微笑む彼女の前に、僕は言葉を失っていた。
「なんで今頃、そんな話をするんだい?」
「次の世にまで、持ち越したくないじゃない」
 彼女は少し悪戯っぽく笑い、「今はね、バツが二つも付いちゃって波乱万丈だったけど、孫もいてそれなりに幸せよ」と付け加えた。
 それから僕らは、お互いの過ごしてきた数十年を、他愛のない近況報告として語り合った。まるで途切れていた時間の続きを、ようやく埋め合わせるかのように。
「そうそう」と彼女が思い出したように言った。「最近また、彼に会いに行っているの」
 お墓のことだと、すぐに理解できた。
「それは良かった」と僕は穏やかな気持ちで返した。「僕も、先月行ってきたばかりだよ」
 彼女は少し驚いたように目を見開き、それからすべてを理解したように、ゆっくりと頷いた。
 僕らはもう、あの夏の噂の真偽を確かめることはしない。三十五年前のあの夜、淳が見せたあの一瞬の陰りが何だったのか――それを明かす鍵は、永遠に伏せられたままでいい。
 書斎の引き出しの奥には、今も変わらず、あの白い封筒が眠っている。
 開けないまま、僕はこれからも自分の人生を生きていく。
 騙されたままでいることも、真実を知らないままでいることも、時には優しさなのだ。
そう思えるだけの歳月を、僕は重ねてきたのだから。
 淳がついた、あるいは僕自身が抱き続けた、ただ一度の「永遠の嘘」。
その静かな嘘を胸に抱いたまま、僕はこれからも、あの親友の墓前に季節の花を供え続けるのだろう。
 真実は、もう誰も傷つけることのない穏やかな場所で、ただ静かに眠っていればいい。




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あとがき
人生には、あえて白黒をつけずに封印しておくことで守られる絆や思い出があります。
作中で主人公が選び取った「封筒を開けない」という選択は、一見すると逃げのように思えるかもしれません。しかし、歳月を経て彼が到達したのは、過去の過ちや疑念も含めてすべてを受け入れ、死者と自分自身の双方を許すという「成熟した愛の形」でした。
若さゆえの残酷さと、老いが生み出す寛容さ。その対比を感じていただけたなら幸いです。