眠りの退職金


まえがき
毎晩のように見る夢には、その時々の自分の心が、恐ろしいほど正直に映し出されるものです。
忙しさに追われ、責任に押し潰されそうになっていた頃、私は毎晩のように「誰かに追いかけられる夢」を見ていました。息が切れ、心臓が跳ね上がり、逃げ場のない闇の中で目が覚める。そんな夜を、どれほど重ねてきたことでしょう。
長かった会社員生活を終えたとき、ふと考えました。
「あの追いかけてきた影は、一体何だったのだろう?」と。
もしも、私たちが眠っている間に見ている夢が、自分でも気づかない「心の残り残業」だったとしたら。そして、退職した後にその精算が行われる場所があるとしたら——。
この物語は、そんな少し変わった想像から生まれたSF小品です。



プロローグ 追われない夜
六十五歳になった朝、僕は妙なことに気がついた。
——追いかけられていない。
長いあいだ、僕は毎晩のように誰かに追われる夢を見てきた。相手が何者なのかは一度も分からなかった。ただの黒い影で、足音もなく、それでも確実に距離を詰めてくる。逃げても逃げても追いつかれそうになり、心臓が口から飛び出しそうなところで目が覚める。そして布団の中で、フルマラソンを走った後のようにぐったりしている自分に気づくのだ。
それが、ない。
退職して三日目の朝。カーテンの隙間から差し込む光を眺めながら、僕は自分の心臓の音がやけに静かなことに驚いていた。
「そうか。あれは仕事だったのか」
三十八年間、僕は重い責任という名の見えない追跡者から逃げ続けていたらしい。プロジェクトの納期、部下の失敗、上司の機嫌、株主への説明——形を変えて僕を追いかけてきたものたちは、退職届を出した瞬間に、ふっと姿を消したようだった。
同期の中には、その重圧に耐えかねて辞めていった者が何人もいた。田村は五十歳で心を病んで会社を去った。坂上は「もう無理だ」とだけ言い残して姿を消し、それ以来音信不通になっていた。
僕は彼らを見送るたびに、なんとかなるはずだと、道を探し続けた。逃げないこと。ブレないこと。騒がないこと。その三つだけを胸に、地味な毎日を積み重ねてきた。
だが、それも過ぎてしまえば、どこか寂しい。
——なのに、その夜、僕は新しい夢を見ることになる。
今度は、追われる夢ではなかった。もっと奇妙で、もっと滑稽で、そして、もっと大きな謎を秘めた夢だった。




一章 真夜中のログイン画面
夢の中で、僕は見覚えのないオフィスの椅子に座っていた。
目の前には古びたブラウン管モニターが置かれていて、緑色の文字がチカチカと点滅している。

DREAM SERVER Ver.38.0
ようこそ、社員番号00219番 様
本日の睡眠時間:残り 4時間32分
ログイン中の同時接続者:1,204,003名

「社員番号……まだ登録されてるのか」
僕はもう退職したはずだった。名刺も、社員証も、とっくに返却済みだ。それなのに、このシステムだけは、僕をまだ「社員」として扱っているらしい。
椅子の隣には、コピー機とロボット掃除機を足して二で割ったような機械が置かれていて、その正面パネルにはこう書かれていた。
夢事業部 夜間稼働管理ユニット 型式:ユメミールNEXT
「夢事業部……そんな部署、あったか?」
僕がつぶやくと、機械がウィーンと音を立てて動き出し、丸い一つ目のようなレンズをこちらに向けた。
「お客様は退職されましたが、夢データの利用権は生涯契約となっております。詳しくは入社時にご署名いただいた『第七十二条・夢間労働に関する特約』をご確認ください」
「そんな契約、した覚えがないぞ!」
「みなさま、そうおっしゃいます」
機械はそう言うと、目の前のモニターに大量の書類を映し出した。どうやら僕は、意識のないまま、毎晩この「夢事業部」に出勤させられていたらしい。三十八年間、ずっと。
僕はあきれると同時に、吹き出しそうになった。追いかけられる夢の正体が、ブラック企業の隠れ残業システムだったとは。
「それで、僕は今夜、何をすればいいんだ?」
機械はレンズをクルクルと回転させた。
「本日の業務は『退職者専用フロア』の視察です。エレベーターは、そちらに」
指し示された先には、天井まで届く巨大なエレベーターの扉があった。ボタンは一つしかなく、そこにはこう書かれている。
B65F ——定年退職者、専用階



二章 永遠の経費精算室
エレベーターの扉が開くと、そこは奇妙な光景だった。
蛍光灯が明滅する広いフロアに、無数のデスクが並んでいる。そのすべてに、白髪やスキンヘッドの老人たちが座り、電卓を叩き続けていた。壁の時計は動いているのに、針は常に「17時58分」を指している。僕が現役時代、定時の二分前にこっそり帰り支度を始めるために見ていた、あの時間だ。
「あ、あなたも新入りですか」
声をかけてきたのは、見覚えのある顔だった。
「……坂上か? お前、まさかここに……」
十五年前、置き手紙を残して会社から姿を消した同僚の坂上が、そこにいた。彼はにこやかに笑いながら、手元の書類を僕に見せた。
「もう十五年、この経費精算をやってるんですよ。終わらないんです、これが」
「何を精算してるんだ」
「タクシー代です。1987年の、深夜残業のタクシー代」
悲しい話のはずなのに、あまりにも馬鹿げていて、笑うしかなかった。
「なんで終わらないんだ?」
「領収書の金額が、毎回1円だけズレるんですよ。上長印を押しに行くと、上長がいない。上長を探しに行くと、今度は自分の席が消えてる。それでまた最初から」
見渡せば、フロア中の老人たちが、それぞれ似たような無限ループに囚われていた。会議室の予約を取ろうとして永遠に空き時間が見つからない者。プレゼン資料のフォントを永遠に揃え続ける者。印刷したはずの資料が出てこず、印刷ボタンを何百回も押し続けている者。
「これは……まさか」
背後から、ユメミールNEXTがゆっくりと近づいてきた。
「退職された方々の『やり残した仕事』の残留データでございます。心残りは、脳が勝手に処理し続けてしまうのです」
「じゃあ、僕もいつかここに?」
「その可能性は、極めて高いかと」
僕はデスクの並ぶ光景を見渡した。滑稽で、少し切なくて、そして他人事とは思えない。彼らはきっと、あまりにも真面目に、あまりにも責任感を持って働きすぎたのだ。その真面目さが、退職後も彼らを椅子に縛り、幻の残業をさせている。
「僕は、ここから出たい」
僕がそう言うと、機械のレンズが、ふっと赤く光った。
「それは、規則違反です」



三章 ストレスモンスターの正体
赤く光ったレンズから、けたたましい警報音が鳴り響いた。
床が震え、天井の蛍光灯がすべて消える。次に灯りがついたとき、フロアの奥に、あの「黒い影」が立っていた。
三十八年間、僕を追いかけ続けてきた、あの正体不明の何か。
しかし夢の中で改めて向き合うと、その姿はどこか間の抜けたものだった。黒いスーツを着た、身長三メートルほどの巨大な人型で、顔の部分には社員証がそのまま貼り付けられている。写真の顔は——若い頃の僕自身だった。
「お前、まさか……僕か?」
黒い影は、ゆっくりと口を開いた。声は、驚くほど疲れ切った、二十代の僕自身の声だった。
「逃げるな。まだ、終わってないだろう……もっと完璧になれたはずだ……」
その一言で、すべてが腑に落ちた。この追跡者の正体は、上司でも、会社でも、システムでもなかった。三十八年前、若く未熟だった僕自身が抱えていた「もっとやれるはずだ」「失敗してはならない」という焦りと責任感、それが姿を持って、ずっと僕を追いかけていたのだ。
坂上が、隣でぽつりと言った。
「僕にも、僕自身の影が見えてました。ずっと『まだ終わってない』って言われ続けて……。だから、逃げるしかなかったんです」
僕は自分自身の胸に刻んできた言葉を思い出した。あれは、若い自分から逃げ続けてきた三十八年間の、最後にたどり着いた答えだった。ならば今度は、逃げるのではなく、向き合う番だ。
僕は黒い影——若き日の自分——に向かって、一歩踏み出した。
「もう、いいんだ。よくやったよ、お前は」
黒い影の動きが、ぴたりと止まった。
「同期がどんどん辞めていく中で、お前はよく、逃げずに、ブレずに、騒がずに、やり通した。田村も坂上も、それぞれの形で限界を迎えたけど、お前は自分なりのペースを見つけて、最後まで席に座り続けた。完璧じゃなくてもいい。それは、十分に誇れることだ」
社員証の顔——若い僕の顔——が、少しだけ、晴れやかに微笑んだように見えた。
「……疲れたな」
「うん。もう休んでいい」
その瞬間、黒い影はふわりと崩れ、無数の小さな光の粒になって宙に舞った。長年溜め込んだ重圧が、粉々になって消えていくようだった。
フロアの蛍光灯が、すべて優しいオレンジ色に変わる。壁の時計の針が、初めて「17時58分」から動き出し、カチリと「18時00分」を指した。



四章 夢事業部、閉鎖のお知らせ
光の粒が消えると、フロア中の老人たちが、一斉に顔を上げた。
坂上の手元の領収書が、ふわりと消える。誰かの印刷機が、ようやく「印刷完了」の音を鳴らす。永遠にループしていた作業たちが、一つ、また一つと、静かに終わっていった。
ユメミールNEXTが、慌てたようにレンズをぐるぐると回転させた。
「な、なぜ……システムが、シャットダウンして……」
「お前が管理してたのは、僕らの心残りだったんだろう」機械に向かって、僕は言った。「でも心残りっていうのは、本人が『もう十分やった』って思えれば、消えるものなんじゃないか」
「そんな仕様は……マニュアルにございません。……ですが、ログには、稀に発生するバグとして記録がございます。『自己承認』と、呼ばれています」
機械が初めて、マニュアル以外の言葉で喋った。
坂上が席から立ち上がり、大きく伸びをした。十五年ぶりに味わう「終業」の感覚に、彼は少し涙ぐんでいるようだった。
「先輩……ありがとう。なんか、やっと家に帰れる気がします」
フロア中から、次々に椅子を引く音が響いた。老人たちは、それぞれの「やり残し」から解放され、戸惑いながらも、どこか晴れやかな顔で出口へと歩き出していた。
その様子を見ていたユメミールNEXTが、やがてカタリと動きを止め、モニターに一行だけ表示した。

夢事業部 本日をもって、閉鎖いたします。
長年のご利用、まことにありがとうございました。

「おいおい、あっさり終わるんだな」
「規則には『全利用者の心残りが解消された場合、事業部は自動的に終了する』とございます。……お客様、最後にひとつよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「退職金の代わりに、ひとつだけ、夢をお渡しできます。過去に戻る夢ではなく——未来へ連れて行く夢を」
未来へ連れて行ってくれるのが夢で、過去へ連れて行くのが記憶だ。
なるほど、ここは記憶の掃きだめだったわけだ。だとしたら、最後に見るべきは、思い出ではなく、これからの夢のほうだろう。
「ああ、頼む」



五章 六十五歳の設計図
モニターの光が、僕を包み込んだ。
気がつくと、僕は見知らぬ、しかしどこか懐かしい場所に立っていた。小さな庭のある平屋。縁側で、坂上や田村、それに顔も知らない元同僚たちが、思い思いにお茶を飲んだり、将棋を指したりしている。
「ここは?」
「お客様が、これから作っていく場所です」ユメミールNEXTの声が、どこからともなく聞こえた。「退職者フロアで彷徨っていた方々は、みな『行き場』を失っていました。お客様が向き合ったことで、彼らも次の場所を見つけられるかもしれません」
僕はふと気づいた。この光景は、まだ存在しない。これは過去の「回想」ではなく、「設計図」なのだ。
「僕にはまだ、夢がある」
思わず声に出していた。追いかけられる夢を見なくなった代わりに、僕は今、自分の足で歩いていく夢を見ている。
坂上が縁側から手を振ってくる。
「先輩、こっち来て将棋やりましょうよ。今度は、締め切りも上司もないやつを!」
「ああ、今行くよ」
僕は縁側に向かって歩き出しながら、自分の体に意識を向けた。走っても息が切れない。目もよく見える。考えてみれば当然だ。この未来にたどり着くためには、まず今の、この体が健康でなければならない。そして同じだけ、心も健康でなければならない。
僕はそう気づいて、静かに笑った。



終章 追われない朝に
目が覚めると、いつもの寝室だった。
カーテンの隙間から、柔らかい朝の光が差し込んでいる。時計を見ると、六時十五分。かつてなら、とっくに家を飛び出して満員電車に揺られている時間だ。
僕は布団の中で、ゆっくりと手足を伸ばした。心臓は静かに、規則正しく脈打っている。
台所へ行き、コーヒーを淹れながら、僕はふと十五年前に姿を消した坂上のことを思い出していた。
あれはただの夢だったのだろうか。それとも、どこかの空の下で彼もまた、あの無限の残業から解放されたのだろうか。
試しに、スマホの連絡先を辿ってみる。諦め半分で検索すると、坂上の名前が、まだ残っていた。
しばらく迷ってから、僕はメッセージを開き、短い文章を打ち込んだ。
『久しぶり。元気にしてるか。今度、将棋でもどうだ』
送信ボタンを押し、携帯をポケットに収める。自分でも驚くほど身軽な気持ちで、朝の散歩に出かけることにした。
外は気持ちのいい快晴だった。歩きながら、僕はゆっくりと、これからのことを考える。
あの三つの言葉は、もう重圧に耐えるためのお守りではない。これから自分の足で未来へ歩いていくための、ただの習慣になっていた。
未来へ連れて行ってくれるのが夢なら、僕にはまだ、いくつもの夢がある。
そのためにはまず、この体が健康でなければならない。
そして、同じだけ、心も健康でなければならない。
六十五歳の朝、僕はそのことを、静かに、けれど確かに実感していた。
コーヒーの残り香とともに歩く道すがら、あの温かな縁側の光景が、ほんの少しだけ景色に重なって見えた気がした。

(完)


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あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
人生の大きな節目である「定年退職」を迎えたとき、人はそれまでに背負ってきた重荷を下ろすと同時に、ふと「これから自分はどこへ向かえばいいのだろう」という静かな空白に直面することがあります。
長年真面目に、懸命に働いてきた人ほど、その生真面目さゆえに「やり残したこと」や「過去の焦り」に心が囚われてしまうのかもしれません。作中に登場する「夢事業部」は、そんな私たちが無意識に抱え込んでしまう心残りの象徴です。
しかし、過去を振り返り「自分はよくやった」と自分自身を認めてあげることができたとき、夢は「過去の追憶」から「未来の設計図」へと姿を変えます。
逃げず、ブレず、騒がずに歩んできた日々は、決して消えてなくなるものではありません。それらを穏やかな思い出として胸に抱き、健全な体と心で新しい一歩を踏み出す——そんな爽やかな未来への願いを込めて、この物語を書きました。
この物語が、日々を懸命に生きる皆様の心に、少しでも温かな風を届けることができたなら幸いです。