お裾分け宇宙人
〜ある夫婦の、ちょっと不思議な野菜噺〜
まえがき
高座の幕が上がる前に
毎度おさわがせいたします。
世の中、何でもかんでも「コスパ」だ「タイパ」だと計算ばかりの世の中でございます。何をどれだけ差し出して、どれだけのお返し(リターン)が得られるか。損か得か、貸しか借りか――そんな風に電卓を叩きながら生きていると、なんだか肩が凝って、胃のあたりがキーキーしてはまいりませんか。
今回お届けいたしますのは、そんな計算でガチガチになってしまった遠い宇宙の宇宙人と、埼玉の片隅で今日も今日とて「まあ、いいじゃないの」と野菜を配り続けるごく普通の夫婦のお話でございます。
「お裾分け」という、損得を超えた妙なカルチャー。見返りなんて端から求めず、ただ「新鮮なうちに美味しく食べてもらえればそれでいい」という軽やかさ。それが巡り巡って、なんと宇宙規模の大騒動を引き起こしてしまう……という、ちょっと滑稽で、どこか温かい人情SF落語に仕立ててみました。
どうぞ肩の力を抜いて、お茶でも飲みながら、一席お付き合いいただけますれば幸いです。
それでは、お後がよろしいようで。
まくら
えー、毎度ばかばかしいお話を一席申し上げます。
世の中には、いろんな夫婦がおりますな。仲の良い夫婦、仲の悪い夫婦、仲が良いんだか悪いんだかよく分からない夫婦。今日お話しするのは、埼玉のとある町に住む、野々村徹平(ののむらてっぺい)とその女房、多恵子(たえこ)という二人暮らしの夫婦でございます。
この徹平という男、齢五十を過ぎた頃から近所の落語会に通うようになりまして、玄人はだしとまではいきませんが、まあまあ達者な小咄のひとつやふたつはできる。そんな縁で知り合った農家のご主人から、時折きゅうりだのトマトだのナスだのが、段ボール箱にどっさり届く。
もらった野菜は、二人暮らしにはとても食べきれる量じゃない。だから多恵子は、新鮮なうちにと、すぐさまご近所や友達に配って回る。
「そんなに配っちまって、うちの分がなくなるじゃないか」
徹平がそう言うと、多恵子はこう返す。
「いいのよ、間に合うだけあれば」
見返りなんぞ、端から期待していない。ただ、新鮮なうちに、喜んでもらえればそれでいい――という、まあ、よくある夫婦の、よくある夏の日の話でございます。
ところが、この夏はちょっとばかり様子が違った。届いたきゅうりの一本が、どうも様子がおかしい。曲がり方が尋常じゃない。曲がっているというより、渦を巻いている。しかも、妙に温かい。
「おい、多恵子。このきゅうり、なんか光ってないか」
「あら、ほんとだ。産地直送の新技術かしらね」
いやいや、そんな技術があってまるか、という話でございます。この一本のきゅうりから、とんでもない騒動が巻き起こることになるとは、この時の徹平、まだ夢にも思っておりません。
さて、そんなわけで、ここからが本題でございます。どうぞ気楽に、お付き合いのほどを。
一席
光るきゅうり
八月の、うだるように暑い夕方のことでございます。
野々村家の玄関先に、いつものように段ボール箱が届いておりました。差出人は、群馬で農業を営む山際(やまぎわ)さんという方。徹平が三年前、地域の落語会「笑楽亭(しょうらくてい)」で高座返しの手伝いをしていた縁で知り合った人物で、寡黙だが人情に厚い、六十がらみの農家でございます。
「お、来た来た」
徹平が箱を開けると、中にはきゅうりが十五本、トマトが八個、ナスが十本ほど。相変わらずの大盤振る舞いでございます。
「今年も多いわねぇ。じゃあ、いつも通り」
多恵子はすぐさま新聞紙を広げ、仕分けを始めました。三本、四個、三本――これがうちの分。残りは、隣の田中さん、向かいの佐々木さん、それから駅前の八百屋の跡取り息子で今は喫茶店をやっている坂上くんのところへ。
ところがこの日、仕分けの最中に多恵子がふと手を止めました。
「ねぇ、これ、変じゃない?」
彼女がつまみ上げたのは、一本のきゅうり。しかしその曲がり方が、どうにも普通ではない。まるで渦潮のように、くるくると、それも規則正しく螺旋を描いている。しかも触ると、ほんのり温かい。
「太陽で温まっただけだろ」
徹平はそう言いましたが、日はもうとっくに沈んでおります。それに、他のきゅうりはみんな常温なのに、この一本だけが、まるで湯たんぽのように温もっている。
「気持ち悪いから、これはうちで食べましょうか。人様に配るのは悪いし」
「そうだな」
というわけで、この妙なきゅうりは、野々村家の冷蔵庫に収まることになりました。
その夜、更けてから、台所でコトリと音がいたしました。
徹平が目を覚まし、様子を見に行くと、冷蔵庫の扉がわずかに開いている。中を覗くと、あの螺旋きゅうりが、ひとりでにくるくると回転しておりました。
「うわっ!」
思わず声を上げた徹平の前で、きゅうりはくるくる、くるくると回転速度を上げ、やがてポン、と軽い音を立てて――皮が、めくれました。
中から出てきたのは、体長二十センチほどの、緑色の生き物。きゅうりの皮を器用に脱ぎ捨てたその姿は、人間で言うところの、まあ、ずんぐりした豆タヌキのような、いや、もう少し正確に言うなら、みずみずしい枝豆に手足が生えたような姿をしておりました。
「や、や、や、ちょっと待った」
その生き物は、両手(のようなもの)を挙げて、慌てて話しかけてまいります。
「驚かせて申し訳ない。決して怪しい者ではありません。いや、怪しいことは怪しいんですが、危害を加える者ではありません」
徹平、腰を抜かしそうになりながらも、なぜか妙に冷静な声でこう申しました。
「……お前、喋れるのか」
「喋れます。この星の言語は、皮に潜伏している間にだいたい学習いたしました。テレビの音声とか、そういうもので」
「うちのテレビ、四六時中つけっぱなしだったからな……」
「おかげさまで、朝の情報番組と、あとは奥様がよくご覧になっている韓国ドラマの言い回しにも詳しくなりました」
「そんなことはどうでもいい。お前は、一体、何者なんだ」
すると、この緑の生き物は、居住まいを正すように(手足しかないのに、どうやって居住まいを正すのかは分かりませんが、とにかくそういう雰囲気を醸し出して)、こう名乗りました。
「わたくし、テイク星から参りました、調査員のギブリー・ゼロと申します」
「テイク星?ギブリー・ゼロ?」
「はい。この銀河系の外れにある、小さな星でございます」
かくして、野々村徹平と、テイク星人ギブリー・ゼロとの、奇妙な付き合いが始まったのでございます。
二席
テイク星の憂鬱
さて、翌朝になりまして、徹平は多恵子を叩き起こし、台所の隅にちょこんと座る緑色の生き物を紹介いたしました。
「なんですって!?ちょっと、あなた、これ食べようとしてたじゃない、危なかったわねぇ」
多恵子は最初こそ驚いておりましたが、意外にもすぐに落ち着きを取り戻し、朝ごはんの残りの味噌汁を差し出すあたり、さすがは長年きゅうりを配り続けてきた肝の据わり方でございます。
「いただいても?」
「どうぞどうぞ」
ギブリー・ゼロは、恐る恐る味噌汁をひとくち――飲んだ瞬間、体がびくん、と跳ねました。
「ぬわあっ!」
「ど、どうした!?」
ギブリー・ゼロは体をよじり、七転八倒しております。皮膚がぶつぶつと発疹のように波打ち、体の色が緑から紫、紫から橙へと、信号機もかくやという勢いで変化してまいります。
「大丈夫か!」
「だ、大丈夫です……いや、大丈夫ではありません……これは、いわゆる……オンギリ病の発作でして……」
「おんぎり病?」
しばらくして発作が収まると、ギブリー・ゼロはぜいぜいと息をつきながら、事情を語り始めました。
「わたくしどもテイク星人は、対価なくして何かを受け取ると、体が拒絶反応を起こす体質でございます。これを我々は『オンギリ病』と呼んでおります」
「おにぎりじゃなくて?」
「おにぎりではございません。恩と義理で『オンギリ』でございます。何か恩を受けたら、必ず義理として返さねばならない。それが我が星の絶対法則。返せない恩を受け取ると、体が受け取りを拒否して、こういう発作を起こすのでございます」
「なんだそりゃ、面倒くさい体質だな」
「面倒くさい、どころではありません。我が星では、これが文明の根幹をなす制度でございます」
ギブリー・ゼロによりますと、テイク星の社会は「カリカリ経済」という制度で成り立っているのだそうです。何かを受け取ったら、寸分違わぬ価値のものを、寸分違わぬタイミングで返さねばならない。挨拶をされたら挨拶を返す、ではまだ生易しい。テイク星では、「おはよう」と言われたら、発した音のヘルツ数、音量、滞空時間まで計測し、寸分違わぬ「おはよう」を返却しなければならない。もし少しでも足りなければ「貸し」になり、少しでも多ければ「借り」になる。この貸し借りは巨大な台帳に記録され、星の全人口、全生物の貸し借り関係が、リアルタイムで計算され続けているのだそうでございます。
「気の遠くなる話だな……」
「その通りでございます。おかげで我が星の民は、皆一様に胃を悪くしております。いえ、我々に胃という概念はありませんが、まあ、そういう意味の器官を、悪くしております」
「で、お前はなんでまた地球くんだりまで?」
ここでギブリー・ゼロは、声を落として、こう申しました。
「実は、我が星の女王――ンダバ女王陛下が、原因不明の重い病に臥せっておられるのでございます」
三席
女王陛下の病
「女王が病気?それとお前がうちの冷蔵庫に潜んでいたことと、何の関係があるんだ」
徹平が尋ねますと、ギブリー・ゼロは深くうなずきました。
「女王陛下の病は、我が星の医学ではどうしても治せぬ病でございまして。名を『無償拒絶症候群』と申します」
「むしょう……なんだって?」
「はい。女王陛下は、生まれてこの方、何ひとつ、無償で受け取ったことがないのでございます。挨拶ひとつ、微笑みひとつに至るまで、すべて計算され、返礼されてきた。女王という立場ゆえ、誰も彼女に、見返りを求めぬ贈り物を、したことがない」
「まあ、女王様なら、そうだろうな」
「その結果、女王陛下の魂は、次第に、こう申し上げるのも変ですが……乾いていったのでございます。何かを受け取っても、心が動かない。何を返しても、満たされない。テイク星の学者たちは、これを『魂の飢餓状態』と診断いたしました」
「治す方法はないのか」
「あるにはあります。ただひとつだけ。何の計算もなく、何の見返りも期待せず、純粋に差し出された贈り物――これを一度でも受け取れば、女王陛下の魂は潤いを取り戻すだろう、と」
「それがなぜ地球なんだ」
ギブリー・ゼロは、体をぶるぶると震わせて、身を乗り出しました。
「実は、我が星の観測衛星が、この惑星の電波――特にこの町の上空を、長らく調査しておりました。すると、ある一軒の家から、実に奇妙なデータが観測されたのです」
「奇妙なデータ?」
「はい。定期的に、大量の野菜が、この家から近隣へと移動している。しかも、その移動には、対価の記録が一切、ない。まったく、ない。見返りを求めぬ贈与が、繰り返し、繰り返し、行われている」
徹平は、思わず多恵子の顔を見ました。多恵子は味噌汁のお椀を洗いながら、涼しい顔をしております。
「それが、うちだって言うのか」
「その通りでございます。野々村家。特に奥様、多恵子様の贈与行動は、我が星の学者たちの間で、ちょっとした話題になっております。『無償の女神』と呼ばれております」
「ちょっと、やめてよ、大げさねぇ」
多恵子は笑いながら手を振っておりますが、まんざらでもなさそうな顔でございます。
「わたくしは、その調査のため、きゅうりに擬態して潜入いたしました。目的はただひとつ。この家の『見返りを求めぬ贈与』のメカニズムを解明し、女王陛下への贈り物として持ち帰ること」
「野菜のおすそ分けを、宇宙まで持って帰るのか?」
「野菜そのものではございません。その、背後にある『心』でございます。しかし――」
ギブリー・ゼロは、ここで急にしょんぼりと肩を落としました。
「調査は、難航しております。というのも、我々テイク星人は、どうしても計算をしてしまう。この家の善意を『見返りなき贈与その一』『見返りなき贈与その二』と、律儀に台帳に記録してしまうのです。台帳につけた時点で、それはもう『無償』ではなくなってしまう。ジレンマでございます」
徹平は腕を組んで唸りました。
「そりゃそうだ。数えてる時点で、下心があるんだもんな」
「まさに、その通りで……」
かくして、野々村家に居候することになったギブリー・ゼロは、来る日も来る日も、多恵子の後をついて回り、その一挙手一投足を観察することになるのでございます。
四席
テイク星人、お使いに行く
さて、ここからしばらく、ギブリー・ゼロの珍騒動が続きます。
彼は昼間、猫よけのネットに身を潜め、姿を消す薬(テイク星の科学力で、地球人には見えなくなる粉末でございます)を体にまぶしながら、多恵子の行動を観察しておりました。
ある日、多恵子が隣の田中さんにトマトを届けに行きますと、田中さんのお婆さんが、お礼にと梅干しの瓶を持たせようといたします。
「いいのいいの、そんな」
多恵子は固辞しますが、田中のお婆さんも譲りません。押し問答の末、多恵子は梅干しをもらって帰ってまいりました。
これを物陰から見ていたギブリー・ゼロ、興奮した様子で徹平に詰め寄ります。
「見ました!?見ましたか!?あれは明確な返礼行為!貸し借りの発生です!やはり地球にも、我が星と同じ経済原理が!」
「いやいや、あれはそういうんじゃないんだ」
「では何だと仰るのです!」
「あれはこう、なんて言うか……お互い様、っていうやつだよ。もらったからお返しする、じゃなくて、もらってくれて嬉しいから、こっちも何か持ってもらいたい、っていう」
「意味が分かりません!それは経済用語で言うところの、双方向贈与循環ではないのですか!」
「いや、循環でもねえよ。台帳もつけてねえし」
「では帳簿はどこに!?」
「帳簿なんかねぇって言ってんだろ」
ギブリー・ゼロは頭を抱え、その場にへたり込んでしまいました。
「わたくしには、理解できません……理解できないものを、女王陛下にお持ち帰りすることなど、できましょうか……」
見かねた徹平、ある提案をいたしました。
「じゃあ、お前、実際にやってみたらどうだ」
「や、やる、とは?」
「お使いだよ。多恵子の代わりに、野菜を配って来い。頭で考えてても分からんもんは、体で覚えるしかねぇんだ」
というわけで翌日、ギブリー・ゼロは変装用の帽子とサングラス(徹平の私物で、体に対して著しく大きいのでございますが)を身につけ、トマトを三個抱えて、意気揚々と近所へお使いに出発いたしました。
これがまあ、とんだ騒動になるのでございます。
まず向かいの佐々木さん宅。ギブリー・ゼロがインターホンを押し、「これ、お裾分けです」とトマトを差し出しますと、佐々木のお婆さんは律儀な方でございますから、
「まあまあ、いつもすみません。じゃあこれ、うちで漬けた白菜、少し持って帰ってくださいな」
と、漬物の袋を渡そうとする。ギブリー・ゼロ、これを受け取った瞬間、
「ぐわあっ!対価が発生しました!台帳に記載せねば!」
と叫んで、その場でくるくる回転しながら空中に浮き上がってしまいました。
「あら、やだ、この帽子、風船仕掛けなのかしら、面白いわね」
呑気な佐々木のお婆さんは、そんな呑気なことをおっしゃりながら、ケラケラ笑っております。ギブリー・ゼロは慌てて着地し、逃げるようにその場を後にいたしました。
次に喫茶店の坂上くんのところ。トマトを渡すと、坂上くんは、
「わあ嬉しいな、じゃあコーヒー淹れますよ、飲んでっていってください」
と言う。これまた対価だ、貸し借りだ、と大騒ぎになりかけましたが、ここでギブリー・ゼロ、ふと気づいたことがございました。
坂上くんの様子を見ておりますと、コーヒーを淹れる手つきが、実に楽しそうなのでございます。台帳をつけているような、義務感に満ちた顔ではない。むしろ、何かをしてあげられることが嬉しくてたまらない、という顔。
「あの……坂上様。このコーヒーは、先ほどのトマトへの、返礼として、お淹れになるのですか」
坂上くんは、きょとんとした顔でこう答えました。
「返礼っていうか……なんか、お裾分けもらったら、こっちも何かしたくなるじゃないですか。それだけっすよ」
「したくなる……?」
「そうそう。損得とかじゃなくて。気持ちいいから、みたいな」
ギブリー・ゼロは、この時、生まれて初めて――「気持ちいいから」という理由だけで行われる授受行為を、目の当たりにしたのでございます。
五席
監査官、来たる
ところが、事はそう単純には進みません。
ある晩、野々村家の庭に、青白い光の柱が降り立ちました。ドスン、という音とともに現れたのは、ギブリー・ゼロよりも一回り大きく、いかめしい顔つきをした――やはり枝豆のような姿の、もう一体のテイク星人。
「ゼロ!貴様、いつまで調査に手間取っておる!女王陛下のご容態は、日に日に悪化しておるのだぞ!」
ギブリー・ゼロは、これを見るなり、その場に平伏いたしました。
「か、監査官殿!なぜこちらへ!」
「お前の台帳の記録が、あまりに杜撰だからだ!見返りなき贈与その一、その二、その三……途中から数えるのをやめておるではないか!これでは報告書にならん!」
この監査官、名をゴウリキ・スーパンと申しまして、テイク星でも指折りの生真面目な人物でございます。
「監査官殿、地球の贈与行動は数えられるものではなく――」
「言い訳無用!貴様には失望した!姿を消す粉など使わん、わし自ら堂々とこの星の贈与経済を解明し、台帳にまとめてみせる!」
ゴウリキ・スーパンは、そう吐き捨てるなり計測器を取り出し、町中へと飛び出していきました。姿を隠す粉を使わないものですから、町の人々からは緑色の妙な生き物が空中を浮遊しているように丸見えでございます。
徹平がパンクした自転車を近所の子供に直してやれば、「技術指導、対価なし!記録!」と叫び、多恵子が転んだお年寄りを起こせば、「安否確認、対価なし!これも記録!」と、いちいち大騒ぎをする。
しまいには掲示板の前で落ちていた手袋を届けた人にまで計測器を向け、「善意の伝播!経路不明!この星の経済は破綻しておる!」と真顔で叫び散らすものですから、近所の人々は「なにかのドローンかしら」と怪訝な顔で見上げております。
ギブリー・ゼロが「監査官殿、落ち着いてください!」と追いすがりますが、ゴウリキは聞く耳を持ちません。
「うるさい!こうなったらあの女――多恵子とやらに、直接真意を問いただしてくれる!」
ゴウリキ・スーパンは、そのまま野々村家の庭先へと舞い戻ってまいりました。
その時、ちょうど庭先に出てきた多恵子。緑色の妙な生き物が二匹、庭でわちゃわちゃしているのを見て――さぞ驚くだろうと徹平は身構えましたが。
「あら、可愛い豆タヌキが増えてる」
多恵子、存外のんびりしたものでございます。
六席
ンダバ女王のヴィジョン
「な、なぜ驚かない!」
ゴウリキ・スーパンは、うろたえながら多恵子に詰め寄りました。
「だって、うちの人が説明してくれたもの。宇宙人さんが、女王様の病気を治すために来てるんでしょう。可哀想にねぇ」
「か、可哀想……?」
ゴウリキ・スーパンは、その言葉に少しばかり動揺した様子でございます。テイク星の社会では、「可哀想」という感情も「同情の提供、慰めの返礼義務発生」という手続きを伴うものらしいのですが、多恵子の言葉には、そういう計算の匂いがまるでしない。
「ふん、口先だけであろう。証拠を見せてもらおうか。貴様、これまでに配ってきた野菜の総量、記録はあるのか」
「記録?そんなのつけたことないわねぇ」
「では、誰に何をいくつ渡したか、正確に思い出せるのか」
「うーん、今週は田中さんと佐々木さんと坂上くんと……あら、あと誰だったかしら。ま、いいのよ、忘れちゃっても」
「忘れても、いい、だと!?」
ゴウリキ・スーパンは目を白黒させております。テイク星の常識からすれば、これはもう考えられないほどの管理不全でございます。
その時、庭先に置いてあったラジオから、突然、ノイズ混じりの声が流れ始めました。
「……こちら、テイク星本星。ンダバ女王陛下より、緊急のご意向……」
「な、なんと!女王陛下からの通信!」
ゴウリキ・スーパンとギブリー・ゼロ、揃って直立不動になりました。ノイズの向こうから聞こえてくるのは、しわがれた、しかしどこか優しさを感じさせる声でございます。
「ゴウリキよ、ゼロよ。よい。もう、よいのじゃ」
「よ、よいとは、如何なる思し召しでございましょうか」
「わらわは、そなたたちの報告を、ずっと聞いておった。あの女子(おなご)――多恵子とやらの言葉を」
「お聞きに、なっておられたのですか」
「うむ。『忘れても、いい』――その一言を聞いた時、わらわの胸の奥で、何かが、じんわりと温かくなるのを感じたのじゃ」
女王の声は、少し湿り気を帯びておりました。
「わらわはこれまで、受けたものはすべて記憶し、必ず返してきた。それが女王としての務めだと思うておった。じゃが、多恵子の言葉を聞いて、初めて分かった。忘れちまうほどの軽やかさで、人にモノを差し出せるのが、どれほど自由で心地よいことか」
「陛下……」
「わらわは、もう治療法など、探さずともよい。この気づきこそが、何よりの薬じゃ」
そう言った次の瞬間、ラジオの向こうから、はっきりとした、力強い笑い声が響き渡りました。
「あっはっは!なんじゃ、こんなことか!数えぬこと、忘れること、それこそが、贈り物の真髄であったとは!」
ゴウリキ・スーパンとギブリー・ゼロは、思わず顔を見合わせました。
「女王陛下……お治りになられたのですか」
「治った、とは少し違うがの。憑き物が落ちた、というやつじゃな。ゴウリキよ、ゼロよ。もうよい、台帳は捨てい」
「だ、台帳を、捨てる、とは……」
「テイク星の民よ、今日この日をもって、カリカリ経済は改める。すべてを計算せずともよい社会を、これから作っていこうぞ」
この宣言は、後にテイク星の歴史書にて「無償改革」と呼ばれることになるのですが、それはまた別の話でございます。
七席
台帳を、捨てる
女王陛下の宣言を受けて、ゴウリキ・スーパンは、しばしその場に立ち尽くしておりました。
やがて、彼はゆっくりと、抱えていた分厚い計測記録――貸し借りの台帳を、庭先の焼却炉(徹平が落ち葉を燃やすのに使っている、古い一斗缶でございます)へと運んでまいりました。
「野々村殿。この台帳、燃やしても構いませんかな」
「別にいいけど、宇宙人の台帳を地球の焼却炉で燃やして大丈夫なのか」
「構いません。もはや、必要のないものです」
ゴウリキ・スーパンは、台帳を一斗缶に放り込み、マッチを擦りました。ボッ、と音を立てて燃え上がる炎を、二人と二匹は、無言で見つめておりました。
「監査官殿……長年、ご苦労様でございました」
ギブリー・ゼロが声をかけますと、ゴウリキ・スーパンは、珍しく穏やかな声で申しました。
「わしは今日まで、恩を返せぬことを、恐れて生きてきた。返せぬ恩は罪だと、そう教えられてきたからな」
「はい」
「じゃが、多恵子殿を見ておって、分かった。恩とは、返すために受け取るものではない。ただ、受け取ればそれでよいのだ。そして、いつか、自分の中から自然と、誰かに手を差し伸べたくなる時が来る。それでよいのだ」
炎の向こうで、ゴウリキ・スーパンの体が、初めて、深緑色から、明るい若草色へと変わりました。テイク星人の色の変化は感情と連動しているそうでございますが、これはどうやら、彼にとって初めての、心からの安堵の色だったようでございます。
「さて、野々村殿。奥様。長らくのご厄介、誠にありがとうございました」
「あら、もう帰っちゃうの」
多恵子が寂しそうに申しますと、ゴウリキ・スーパンは首を横に振りました。
「いえ、まだ少々。最後に、ひとつだけ、お願いがございまして」
「なに?」
「わしらにも――お裾分けというものを、していただけませんでしょうか。何ひとつ、見返りなど求めませぬ。ただ、一度、体験してみたいのです」
これを聞いた多恵子、ぱっと顔を輝かせました。
「もちろんよ!ちょうど今朝も、山際さんからたくさん届いたところなの」
かくして野々村家の台所では、地球の主婦とテイク星の監査官、調査員が、額を寄せ合って、きゅうりとトマトとナスを新聞紙に包む、という、なんとも奇妙で、なんともほのぼのとした光景が繰り広げられたのでございます。
八席
お開き
さて、それから数日後のことでございます。
ゴウリキ・スーパンとギブリー・ゼロは、テイク星へ帰る日を迎えました。庭先に、あの青白い光の柱が、再び立ち上ります。
「野々村殿、多恵子殿。この御恩は――」
言いかけて、ゴウリキ・スーパンは、はっと口をつぐみました。
「いや、失礼。『御恩』などと申しては、また台帳をつけたくなる。この度は、実に、楽しゅうございました。それだけにしておきましょう」
「うんうん、それでいいのよ」
多恵子は、最後に、抱えていたきゅうりを二本、ひょいと差し出しました。
「はい、これ、お土産」
「よ、よろしいのですか。またあの発作が――」
「あら、そう?大丈夫かしら」
「いえ……試してみます」
ゴウリキ・スーパンは、恐る恐る、きゅうりを受け取りました。一瞬、体がびくん、と跳ねかけましたが――何事も起こりません。彼はゆっくりと、自分の体を見下ろし、それから、驚いたように顔を上げました。
「発作が……出ません」
「そりゃそうよ。数えてないんだもの」
「これが……無償の重み、というものですか」
「重くなんかないわよ。軽いもんよ、お裾分けなんて」
ゴウリキ・スーパンとギブリー・ゼロは、互いに顔を見合わせ、それから深々と頭を下げました。
「野々村殿、多恵子殿。この度のご厚情、生涯忘れませぬ」
「あ、こら、また『忘れない』とか言って、計算し始めてない?」
「し、失礼!忘れます!いや、覚えているかもしれませぬが、それは義務としてではなく!」
「もう、細かいわねぇ、宇宙人さんは」
そんなやり取りを最後に、二匹はきゅうりを片手に、光の柱とともに、夜空へと消えていったのでございます。
翌朝、徹平と多恵子が縁側でお茶を飲んでおりますと、隣の田中さんが顔を出しました。
「野々村さん、聞きましたか。昨夜、庭のあたりで、変な光が見えたって、町内で噂になってるんですよ」
「あら、うちも見たわよ、あれ。UFOかしらねぇ」
「奥さん、落ち着いてますね。怖くなかったんですか」
「別に。それより田中さん、これ、召し上がる?きゅうり、まだあるのよ」
「いつもすみませんねぇ」
田中さんは、いつものように、恐縮しながらきゅうりを受け取り、帰っていきました。徹平は、その後ろ姿を見送りながら、ふと呟きました。
「なあ、多恵子。俺たちがやってたことって、実は、宇宙規模ですげえことだったんだな」
「なによ急に」
「いや、テイク星の女王様の病気まで治しちまったんだぜ、お前の野菜配りが」
「あら、そうだったの?よく分からないけど、まあ、良かったじゃない」
多恵子は、そう言って、湯呑みを傾けました。この人は、今回の一件のスケールの大きさなど、てんで気にも留めていない様子でございます。それもそのはず、彼女にとってこれは、いつもと変わらぬ、ただの野菜の配りっぷりだったのですから。
さて、この話には、実はまだ後日談がございます。
それから一年ほど経ったある日、野々村家の庭に、また小さな光が灯りました。降り立ったのは、あのギブリー・ゼロ。心なしか、以前よりふっくらと、艶やかな緑色になっております。
「野々村殿、多恵子殿。ご無沙汰しております」
「あら、ギブリーくん、久しぶりねぇ。元気だった?」
「はい、おかげさまで。実は、ご報告がございまして。テイク星は今、あの無償改革のおかげで、実に平和になりました。台帳を捨ててから、皆、驚くほど気楽に暮らしております」
「それは良かったわねぇ」
「つきましては、これは、その、お礼というわけでは決してございませんが……」
ギブリー・ゼロは、そう言いながら、小さな種の入った袋を差し出しました。
「テイク星の名産、光るきゅうりの種でございます。地球の気候でも育つよう、少々改良いたしました。よろしければ、育ててみてはいただけませぬか」
「あら嬉しい。育ててみるわ。でも、また変な発作起こしたりしない?」
「ご心配なく。この種から育つきゅうりは、もう誰にも憑依いたしません。ただの、少しばかり美味しいきゅうりでございます」
「そう。じゃあ今度採れたら、ご近所に配らなくちゃね」
「はい。どうぞ、存分に。それが何より」
こうして野々村家の家庭菜園には、テイク星由来の、ほんのり光るきゅうりが植えられることになりました。秋になり、実ったそのきゅうりは、多恵子の手によって、いつも通り、近所へ、友人へ、お裾分けされていったそうでございます。
見返りなんぞ、端から求めない。ただ美味しく食べてもらえれば、それでいい。
どうやら本当に旨いきゅうりってぇのは、カックウ(角・格)がつかないようでございます。
お後がよろしいようで。
(了)
あとがき
きゅうりの種をひとつまみ
このお話を書いている最中、ふと「私たちはいつから、人からもらった優しさの『価値』を正確に返そうと身構えるようになったのだろう」と考えさせられました。
作中に登場するテイク星人たちは、恩を受け取ると体に拒絶反応を起こす「オンギリ病」に悩まされていました。笑い話のようですが、案外、現代を生きる私たちも「借りを作ったら返さなきゃ」「何かお礼をしなければ」と、小さな「オンギリ病」にかかっているのかもしれません。
多恵子さんが言う「忘れても、いいのよ」という一言。
この軽やかさこそが、実は世界を、ひいては自分自身の心を一番救ってくれる薬なのかもしれません。
もしこの本を読み終えたあと、あなたの元に届いたちょっとした好意や優しさを、「ありがとう」と素直に受け取り、誰かへそっとパスしたくなったなら、作者としてこれ以上の喜びはございません。
あなたの日常にも、ほんのり温かい「お裾分け」の光が灯りますように。

