レンタンの匂い
〜夢の街の物語〜


【まえがき】
ふとした瞬間に、理由もなく胸がキュッとなるような「匂い」や「音」はありませんか?
雨上がりの土の匂い、遠くから聞こえる夕方のチャイム、どこかの家から漂う夕飯のカレーの香り、そして――練炭を焚く、あの少し煙たくて甘い匂い。
大人になり、守るべきものが増え、慌ただしい日常を送る中で、私たちは幼い頃の記憶を少しずつ頭の隅へと押しやってしまいます。けれど、あの頃触れた温もりやワクワクした気持ちは、消えてしまったわけではありません。ただ、心の奥にある小さな部屋に、そっとしまわれているだけなのです。
この物語は、五十を過ぎた主人公・タカシが、夢の中で失われた昭和の路地裏へと帰っていくお話です。
もしよろしければ、あなたご自身の懐かしい思い出の鍵を手に取り、タカシと一緒にこの「夢の街」の路地を散策してみてください。読み終えたあと、あなたの心の扉がカタリと動き、少しだけ優しくあたたかい気持ちになっていただけたなら幸いです。





一、レンタンの匂い
タカシは、もう五十を過ぎたおじさんだった。
会社に勤めて、家族を持って、白髪も増えた。けれど月に一度か二度、決まって同じ夢を見る。
夢の中でタカシは、いつも六つか七つの子供に戻っている。そして、夕暮れどきの、どこか懐かしい町の路地に立っているのだ。
その日も、タカシは夢の入り口に立っていた。
きっかけはいつも同じ。どこからともなく漂ってくる、レンタンを焚く匂いだった。あの、少し煙たくて、でも不思議と胸の奥があたたかくなる匂い。
匂いをたどって路地を曲がると、木造の借家がぎっしりと軒を連ねる一角に出る。夕焼けが屋根瓦を橙色に染めていて、どこかの家からラジオの音が漏れている。
「ああ、また来た」
タカシはそうつぶやいて、小さな下駄を鳴らしながら歩き出した。この町では、タカシもちゃんと子供の姿だ。半ズボンから伸びた膝小僧に、擦り傷のかさぶたまである。
この町には名前がない。タカシは心の中で、ただ「夢の街」と呼んでいた。



二、住人たち
夢の街には、いつも同じ人たちが暮らしている。
最初に出会うのは、路地の角の飴屋のオバちゃんだ。
「あら、タカシ坊、おかえり」
オバちゃんはガラスの瓶からニッキ飴をひとつ取り出して、タカシの手のひらに乗せてくれる。この飴には不思議な力があって、口に入れると、その日いちばん忘れていた思い出がふわりと浮かんでくるのだった。
飴屋の隣は本屋で、そこにいるオネエちゃんは、いつも表の縁台に腰かけて本を読んでいる。オネエちゃんの貸してくれる本は、読んでいるうちに挿絵がすこしずつ動き出す。魚の絵は水路を泳ぎ、鳥の絵は本の外まで飛んでいってしまうこともあった。
少し先には、鋳掛屋のオバちゃんが座り込んで、欠けた鍋や薬缶を直している。カンカン、コンコンと金づちの音を立てながら、オバちゃんはこう言うのが口癖だった。
「壊れたものはね、直せば直るぶんだけ、まえより大事になるんだよ」
鋳掛屋の向かいには乾物屋のオジちゃんがいて、干した魚や昆布の匂いに包まれながら店番をしている。オジちゃんは、欲しいものを言うと、代わりに「小さな願いごと」をひとつ聞いてくれた。ただし、その願いごとがどこへ届くのかは、誰も知らなかった。
団子屋には、オジちゃんとオバちゃんの夫婦がいて、蒸したてのお団子を串に刺しながら、いつも二人でくすくす笑っている。あの団子は、食べた人の忘れていた誰かの顔を、そっと思い出させてくれるのだと、タカシは信じていた。
町外れの駐在所には、オジちゃんが自転車にもたれて立っている。この人だけが、少し違う役目を持っていた。
「タカシ坊、そろそろ帰る時間だぞ」
駐在所のオジちゃんは、いつも夢の終わりを教えてくれる人だった。
そして、この町でいちばんの物知りは、大家の先生だ。白髪頭に丸眼鏡をかけて、いつも縁側でお茶を飲んでいる。先生は、この街がどうしてできたのかを知っている、たったひとりの人だった。



三、水路のどじょう
夏の夕方、タカシは決まって借家の裏の水路をのぞきに行く。
澄んだ水の中には、小さな魚の群れが銀色に光りながら泳ぎ、石の陰にはどじょうが潜んでいる。運がよければ、赤黒いザリガニが鋏を振り上げているのも見えた。
タカシは棒切れを持って水路にしゃがみこみ、どじょうを追いかける。追いかけては逃げられ、逃げられては追いかける。それだけで、日が暮れるまでの時間がまるまる過ぎてしまう。
「捕まえられなくたっていいんだよ」
いつのまにか隣にしゃがんでいた鍛冶屋のおじいちゃんが言った。おじいちゃんは店先でいつもトンチンカン、トンチンカンと金づちを鳴らしていて、その音は水路のせせらぎと混ざり合って、ひとつの音楽のように聞こえた。
「大事なのは、追いかけただろう、ってことだけさ」
おじいちゃんはそう言うと、また店先に戻っていった。



四、行ってきまーす
夢の中では、ときに遠い日の記憶が、昨日のことのように鮮やかに蘇ることもあった。
朝になると、タカシは幼稚園の制服に着替えて、大きな声で叫ぶ。
「行ってきまーす!」
道の途中にはパン屋さんがあって、そこの息子が仲良しだった。タカシは毎朝、パン屋の前で「おーい」と声をかけ、二人並んで幼稚園までの道を歩く。焼きたてのパンの匂いが、二人の肩掛けバッグにまで移ってしまいそうなくらい香ばしい。
幼稚園ではお昼寝の時間がある。けれどタカシは、お昼寝が大嫌いだった。
みんなが布団に入って目を閉じているあいだ、タカシはこっそり靴を履いて、先に外へ出てしまう。先生に見つかると叱られるのだけれど、それでもタカシは我慢できなかった。
「だって、寝てるあいだに、あの街のことを忘れちゃいそうな気がするんだもん」
タカシは、誰にともなくそう呟きながら、ひとりで家までの道を歩いて帰るのだった。



五、街が消える日
けれどある日、いつもと様子が違っていた。
タカシがレンタンの匂いをたどって路地を曲がると、いつもの借家の連なりが、少し透けて見えるのだ。飴屋のオバちゃんの声も、心なしか遠くから聞こえるように、かすれている。
「オバちゃん、どうしたの?」
タカシが尋ねると、オバちゃんは寂しそうに笑った。
「タカシ坊。あんたも、もうすぐこの街の外で、たくさんのことを覚えなくちゃいけなくなる。学校のこと、お仕事のこと、大人になってからのこと。頭の中の場所は限られてるからね、覚えることが増えるぶん、忘れることも増えるのさ」
「じゃあ、この街も、忘れちゃうの?」
タカシの声が震えた。
そのとき、大家の先生が縁側からゆっくりと立ち上がって、こちらへやってきた。
「タカシや。この街はな、おまえが忘れようとしても、勝手に消えたりはせんよ」
先生は眼鏡の奥の目を細めて、続けた。
「この街は、おまえの中の、いちばんあたたかい場所にしまわれておる。ただし、しまわれた場所は、時々でも扉を開けてやらんと、埃をかぶって見えにくくなる。それだけのことじゃ」
「扉って?」
「レンタンの匂いを、覚えておくこと。水路のどじょうを追いかけた、あの手応えを覚えておくこと。飴の甘さ、お団子の湯気、鍛冶屋のトンチンカンという音――そういう、小さいものをな」
先生はそう言って、タカシの頭をそっと撫でた。
「大人になっても、時々でいい。夢のかたちで、この街に帰っておいで。わしらは、いつまでもここにおるから」



六、目覚め
駐在所のオジちゃんが、自転車の鐘をチリンと鳴らした。
「タカシ坊、そろそろ帰る時間だぞ」
「うん」
タカシは、いつものように頷いた。振り返ると、飴屋のオバちゃんも、本屋のオネエちゃんも、鋳掛屋のオバちゃんも、乾物屋のオジちゃんも、団子屋の夫婦も、鍛冶屋のおじいちゃんも、みんな路地に立って手を振っていた。
「行ってらっしゃい」
「また、おいでね」
「今度は、飴をもう一個あげような」
タカシは大きく手を振り返して、それから、ゆっくりと目を開けた。
七、それから
タカシは、五十いくつのおじさんの姿で、自分の寝室の天井を見上げていた。
窓の外はもう朝で、隣の部屋からは家族の生活音が聞こえてくる。夢の中の匂いは、もう鼻の奥にほんの少し残っているだけだった。
タカシは布団の中で、ひとりつぶやいた。
「行ってきまーす、か」
それから起き上がって、いつも通りの一日を始めるのだった。
けれど、通勤電車の中で、ふと焼き芋屋の煙のにおいがしたとき。休日に近所の川で、子供が魚を追いかけているのを見かけたとき。タカシの心の奥で、小さな扉がカタリと動く音がした。
その扉の向こうには、いつでも、あの街が待っている。
夕焼けに染まる借家の屋根と、レンタンの匂いと、懐かしい顔たちが。
――そう、きっと今夜も。

(おわり)


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【あとがき】
「練炭の匂い」という言葉に、どこか懐かしさや哀愁を感じる方は多いのではないでしょうか。
私たちは年齢を重ねるにつれ、覚えなければならない現実的な事柄が増え、その分だけ昔の体験や素直な感情を「忘れていく」生き物なのかもしれません。けれど、鋳掛屋のオバちゃんや大家の先生が語ったように、直した分だけ大事になるものがあり、忘れたように思えても心の奥の一番あたたかい場所に残っているものがあります。
ふと立ち止まったとき、焼き芋の煙や川のせせらぎに触れて「あの日」を思い出す。それだけで、明日からの日常がほんの少しだけ愛おしく、誇らしく思えるのではないでしょうか。
この小さな物語が、忙しない日々を生きるあなたの心に、ささやかな温もりを届ける一杯のお茶のような存在になれたなら、とても嬉しく思います。
いつの日も、あなたの心の中にあの美しい夕焼けと、あたたかな街が在り続けますように。