陰徳オーブ、はじめました
──見えない善行、見えている宇宙──


まえがき

「お天道様が見ている」「陰徳を積む」。
昔の人はそう言って、誰も見ていない場所でも胸を張れる生き方をよしとしました。
では、もしそのお天道様の正体が、最新式のセンサーを積んだAI端末だったら。
そして、その端末を管理しているのが、予算も人も足りない閻魔庁の中間管理職だったら。
この物語は、ちょっと間抜けで、ちょっと優しい、そんな「見えない善行」をめぐるコメディです。
読み終えたあと、頭の上の空がほんの少しだけ違って見えたら嬉しいです。





プロローグ 空に浮かぶ、あの丸いもの

その日、世界の空に、直径三十センチほどの光る球体が一斉に浮かんだ。
ニュースは「未確認発光物体」と呼び、気象学者は「前例のない大気光学現象」と言い、一部の人は「ついに来た」と泣いた。
球体は何もしなかった。ただ浮かんでいた。飛び去りもせず、光るだけ。コンビニの看板の上にも、干したての洗濯物の上にも、昼寝中のおじさんの頭の上にも、律儀に一つずつ。
誰も正体を知らなかった。
一人を除いて。卯月あきら本人も、まだ気づいていなかったけれど。



一章 冴えない男とゴミ拾い

卯月あきら、二十八歳、独身、契約社員。
特技は誰にも気づかれず定時で帰ること。趣味は特になし。座右の銘は「まあ、いいか」。
その朝、駅前で空き缶が靴にコツンと当たった。痛かったので拾って、ついでにゴミ箱に入れた。善意ですらなかった。邪魔だったからだ。
その瞬間、頭上でぽう、と音がした。
見上げると、例の光る球体が二メートルほどの高さにいて、ぴかっと一度だけ瞬いた。
「……なんだお前」
球体は答えない。代わりにスマホが震えた。
『陰徳ポイントを1点獲得しました。累計:1pt』
あきらは首をかしげて、通知をスワイプして消した。
「まあ、いいか」
そうつぶやいて、いつも通りに改札へ向かった。



二章 通知は続く

翌日もオーブはいた。あきらの上だけではない。満員電車の中、街ゆく人全員の頭上に、ちゃんと一つずつ浮いていた。
人々は最初こそ騒いだが、すぐに慣れた。そして気づいた。良いことをすると金色に、意地悪をするとどす黒く濁ることに。
そしてなぜか、人に気づかれない善行は点数が跳ね上がった。
『陰徳ポイントを3点獲得しました。累計:47pt ※ボーナス:誰にも見られていないため×3』
この一週間、あきらは電車の忘れ物を交番に届け、迷子の柴犬を保護し、隣の部屋のおばあさんの米袋を運んだ。全部「見られると面倒だから、誰もいない今のうちに」やったことだった。
気づけば、あきらのオーブだけが近所で一番眩しかった。信号待ちで小学生に二度見された。少しだけ、嬉しかった。



三章 窓口は、まさかの場所に

ある夜、オーブが普段と違う甲高い音を立てた。部屋の壁に、四角い光の扉が投影される。看板にはこうあった。
『陰徳ポイント管理事業部 閻魔庁分室 宇宙支所』
「長いな」
恐る恐るくぐると、中は蛍光灯が眩しい、どこにでもある役所の窓口だった。カウンターの向こうには、少し赤ら顔で、小さな角のカチューシャをつけたスーツの女性が座っていた。名札には『担当AI:閻魔子 エマこ』とある。
「はい次の方どうぞ。あら、卯月さん。最近伸びてますねえ、右肩上がり。あ、私AIなんですけど、伝統に則ってこの格好してます。閻魔って響き、怖くてウケがいいでしょう」
「これは一体……」
「説明しますね。ざっくり言うと、善行は宇宙のどこからでも見えてるんです。皆さんが神様とかお天道様とか呼んでたものの正体が、うちみたいな集計部署ってわけ。予算は毎年カツカツですけど」
あきらは妙に納得してしまった。世界の真理が、思ったよりずっと役所っぽかったからだ。



四章 陰徳ポイント制度のからくり

閻魔子は古びたタブレットをトントン叩きながら説明した。
「ルールはシンプルです。善行は見られてると1点、誰にも見られてないと3点。陰徳ボーナスってやつですね。悪行も同じで、隠れてやるとマイナス3倍で効いちゃう」
「悪行もボーナスつくんですか」
「つけたくないですよ。でも公平性が大事なんで。稟議がね」
貯まったポイントは、生前の福として還元されるらしい。駐車場の一番手前が空いてたり、探していた印鑑がすぐ見つかったり、その程度の小さなラッキーとして。
「最終精算は来世の入り口、本庁で。うちはあくまで現世担当の出先ですから。本庁の閻魔様は私の何百倍も怖いですよ。査定厳しいし、ハンコなかなか押してくれないし」
「あのオーブは、じゃあ監視カメラなんですか」
「言葉が悪いなあ。うちでは見守り端末って呼んでます。これ、オフレコでお願いしますね」



五章 大事件、勃発

平和な役所コントは長く続かなかった。
ある朝、世界中のオーブが一斉に赤く点滅し、頭上に大きな数字が表示され始めたのだ。
『部長 陰徳ポイント:-4200 事由:部下への説教の大半が憂さ晴らしのため』
『街の有名ボランティア 陰徳ポイント:-1200 事由:パフォーマンス目的、陰で不法投棄』
『強面の男性 陰徳ポイント:+5400 事由:毎夜の野良猫保護と深夜の公園清掃』
街は大混乱になった。良い人だと思われていた人の裏側、怖そうな人の隠れた優しさが、全部丸見えになったのだ。
あきらの頭にも容赦なく表示された。
『卯月あきら 累計:8842pt 直近:隣人の米袋運搬、柴犬保護』
駅前で知らないおばさんに拝まれた。
そのとき、部屋の壁が勝手に開き、閻魔子が転がり込んできた。顔は真っ青だった。AIなのに。
「由々しき事態です!陰徳の陰、つまり隠す機能がバグで消えました!匿名化処理が死んでます!」



六章 犯人はどこに

「ログを見ないと原因が分かりません。手伝ってください、卯月さん。あなた今、全人類で一番システム親和性高いんです。地味にコツコツやる人って、バグに強いんですよ」
「僕、特別なこと何もしてないですけど」
「それが適性なんです」
連れられた先は、銀河の模型のような巨大なサーバー室だった。無数のオーブの管理画面が並び、エラー音が鳴り響いている。
ログを追うと、原因は意外なところにあった。本庁の経理部門だった。
「匿名化処理を担ってた古いプログラム、今年の予算削減でメンテナンス費を削られて……耐えきれず暴走したみたいです」
「まさかのコストカットが原因……」
「宇宙規模の組織でも、年度末の予算会議は地獄なんですよ」閻魔子は遠い目をした。「私の有給も去年から消化できてないし」



七章 閻魔様、本人登場

サーバー室の最奥。玉座のようなコンソールに、本物の閻魔様が座っていた。想像よりずっと疲れた顔の、くたびれたスーツのおじさんだった。
「卯月あきらか。お主のログ、見ておったぞ。ゴミ拾い、犬の保護。地味だが、悪くない」
「はあ、どうも……」
「バグを直すには最後の陰徳が要る。誰も見ていないところで、本人すら見返りを期待していない純度百パーセントの善行データだ。それが再起動キーになる」
閻魔様は咳払いをした。
「皮肉なことにな、今は世界中が人に見られることを意識し過ぎておる。純度百パーセントなんて、一番取りにくい状況になってしまったわい」
あきらは黙って考えた。



八章 誰も見ていない場所で

地球に戻ると、街は妙にわざとらしくなっていた。大きな声で募金したり、わざとらしく老人に席を譲ったり。誰もが頭上の数字を気にしていた。
誰も見ていない場所なんて、この世にもう存在するのだろうか。
ふと、閻魔子の言葉を思い出す。
「見ている何かがいる、それだけです。見せる必要はないんですよ」
深夜二時。あきらは工具箱を持って家を出た。
近所の小さな神社。賽銭箱が一年前から壊れていた。底が抜けて、賽銭が下に落ちるようになっていたのだ。通るたびに気になっていた。誰に頼まれたわけでもない。直しても誰も気づかないかもしれない。
街灯の下、一人で作業を始めた。釘を打ち直し、底板を支える。頭上のオーブに向かって、小さく呟いた。
「別にポイントくれなくていいよ。記録もしなくていい。気になっただけだからさ」



九章 再起動

その瞬間、あきらのオーブが、これまで見たこともない透明に近い淡い光を放った。頭上の数字がすうっと消え、代わりに光の粒が夜空へ昇っていく。
『純度100%の陰徳データを検知。再起動キーを承認』
光の粒は波のように広がり、世界中のオーブへ伝わっていった。一つ、また一つと、頭上の数字が消えていく。街から悲鳴が消え、代わりにほっとしたため息があちこちで聞こえた。
翌朝、スマホに通知が来た。
『システム復旧完了。陰徳の匿名化機能、正常稼働中。ご協力に感謝します』
『追伸:本庁より感謝状 電子 を送付します。なお予算の都合上、記念品はありません 担当AI 閻魔子』



十章 それから

オーブは元通りになった。静かに、目立たないように、人々の頭上に浮かんでいる。数字は見えない。色も、よく見ないとわからないくらい控えめだ。
あきらの日常もほとんど変わらない。契約社員のまま、定時で帰る。たまに街の小さなノイズを黙って片付ける。
ただ一つ変わったのは、「まあ、いいか」と呟くときの口調だった。諦めではなく、小さな誇りが混じるようになったのだ。
見ている者がいてもいなくても、関係ない。
誰かがどこかで見ているかもしれない。オーブかもしれないし、閻魔子かもしれないし、あの疲れた顔の閻魔様かもしれない。
それでも、と思う。この世で裁かれなくても、あの世の入り口には、きっと誰かがいる。
だから今日も、正しく生きよう。大げさにではなく、ただ静かに。



エピローグ 空のあの丸いもの

世界の空には今日も光る球体が静かに浮かんでいる。
誰も気にしない。誰も怖がらない。当たり前の風景になった。
けれど時折、誰も見ていない路地裏で、誰かがこっそりゴミを拾ったり、隣人の荷物を運んだりするとき、頭上のオーブは誰にも気づかれないくらい淡く、金色に光るのだった。
そう、神様はいつも見ている。
たとえ予算がカツカツで、システムがときどきバグって、担当がAIの中間管理職であっても。
それでも、見ている。




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あとがき

最後までお読みいただきありがとうございました。
誰も見ていないからまあいいか、と放置してしまうこともあれば、誰も見ていないけれどまあいいか、と片付けることもある。私たちの毎日は、そんな小さな選択の積み重ねでできている気がします。
もし今夜、頭の上にあの球体が見えたら。あるいは見えなくても。小さな良いことを一つだけ、こっそりやってみるのも悪くないかもしれません。