刻堕とし 十七
〜お血脈異聞・極楽喰らい〜
継ぎ目守異聞 古典落語「お血脈」より
まえがき
お血脈 (おけちみゃく)という噺は、落語の中でも飛び切りの大風呂敷を広げる一席である。
信州善光寺の御印――お血脈と呼ばれる有難い判を額に押してもらえば、どんな極悪人でも死後は必ず極楽へ行けるとされていた。ところがこの評判があまりに広まりすぎたため、地獄へ落ちてくる亡者の数がめっきり減り、閻魔大王は商売あがったりと頭を抱える。
業を煮やした閻魔は、家来の鬼を使って、あの手この手で善光寺のお血脈を奪い取ろうとするが、ことごとく失敗。そこへ現れたのが、稀代の大泥棒・石川五右衛門。地獄に落ちてなお盗みの腕は錆びついておらず、閻魔の頼みを引き受け、まんまと現世からお血脈の判子そのものを盗み出してしまう。
地獄に戻った五右衛門は、その判子で亡者たちの額に次々とお血脈を押し、片っ端から極楽へ送り出してしまう。とうとう地獄は空っぽになり、閻魔大王は手持ち無沙汰で頭を抱える――実に痛快で、スケールの大きな噺である。
この噺の面白さは、「どんな悪人でも無条件に救われる」という御利益が、あまりに強力すぎて、地獄という仕組みそのものを根こそぎ無効にしてしまうという、途方もない大らかさにある。
ところが、とある写しにおいて、この「無条件の救済」という力が、判子ごと無限に複製され、あちこちの継ぎ目で歯止めなく増殖しているという報せが届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、閻魔庁の奥へと足を踏み入れることになった。
一 継ぎ目守、閻魔庁の異変
鏡面に映ったのは、地獄の業火――のはずが、その炎は妙に頼りなく、今にも消え入りそうにちらついていた。
継ぎ目守圭馬へ。
演目「お血脈」における『無条件の救済』の型を体現する印が、無数の継ぎ目にて自己複製し、歯止めなく増殖している事案を確認。地獄という装置そのものが機能停止に陥りつつある。至急現地調査されたし。
「地獄が機能停止、たあ、これは前代未聞だね」
圭馬が消え入りそうな業火を見つめて呟くと、背後で弥七が提灯を片手に、腰を引き気味にして立っていた。
「旦那ぁ、お血脈たあ、地獄そのものが空っぽになっちまう、実に景気のいい噺のはずなんでさ。それがどうして、こんな心細い火加減になるんでしょうねぇ」
二 閻魔大王の嘆き
継ぎ目を抜けると、そこは地獄の閻魔庁だった。だが、亡者の呻き声も、鬼の怒鳴り声もまるで聞こえてこない。がらんとした庁内で、閻魔大王がひとり、机に突っ伏していた。
「ええい、また今日も亡者が一人も来おらぬ。これでは商売あがったりじゃ」
事情を尋ねる圭馬に、閻魔は苦々しげに語った。
「善光寺のお血脈とやらの評判が、あまりに広まりすぎての。あれを額に押してもろうた者は、皆こぞって極楽へ行ってしまう。おかげでこの地獄は、閑古鳥が鳴いておるわ」
弥七が、事情通らしくにやりと笑った。
「旦那、噺の型どおりでさ。この後、閻魔様が石川五右衛門って泥棒に頼んで、お血脈の判子を盗ませるはずで」
三 石川五右衛門、登場
閻魔の呼び出しに応じて現れたのは、罪人牢に繋がれていた大泥棒・石川五右衛門だった。
「よう閻魔様、随分と情けねえ面してるじゃねえか」
「五右衛門、そなたの腕を見込んで頼みがある。現世の善光寺にある、お血脈の判子を盗み出してはくれぬか」
「なあに、造作もねえこった。この五右衛門様の腕にかかりゃ、判子の一つや二つ」
五右衛門は不敵に笑い、現世との継ぎ目をひらりと抜け、まんまと善光寺の本堂から、朱の光を放つ判子を盗み出してきた。
圭馬はその様子を見守りながら、ふと眉を寄せた。
「弥七、噺の型どおりだ。だが……あの判子、心なしか、光り方が尋常じゃない」
四 極楽行きの列
地獄に戻った五右衛門は、さっそく牢の亡者たちの額に、次々とお血脈の判子を押していった。
「ほれ、お前も極楽行きだ。お前もだ、お前もだ」
判を押された亡者たちは、たちまち柔らかな光に包まれ、極楽へと吸い込まれるように消えていく。あっという間に、罪人牢は空になった。
「これはめでたい、めでたい」
閻魔庁の鬼たちまでもが、暇を持て余して呆けたように座り込んでいる。
「弥七、噺の型なら、ここで地獄が空っぽになって、閻魔様が頭を抱えるオチがつくはずだ。だが……」
圭馬が言い終わらぬうちに、判子の光が、五右衛門の手を離れて、独りでに宙を舞い始めた。
五 止まらぬ判子
判子は宙でぱちんと弾け、幾つにも分裂し、蒲公英の綿毛のように、あちこちの継ぎ目へと散らばっていった。
「な、なんだぁこりゃあ!」
五右衛門が慌てて手を伸ばすが、判子は捕まらない。散らばった判子は、行く先々で勝手に額へと押し当たり、罪人であろうと聖人であろうと、見境なく極楽行きの光を放ち始めた。
「弥七、まずいぞ。あの判子、噺の型を離れて、暴走してやがる」
「旦那、こいつぁ、閻魔様も五右衛門さんも、手に負えねえ様子だ!」
六 幾千の閻魔庁、空の地獄
圭馬が継ぎ目守の証を掲げると、閻魔庁の壁がすうっと透け、その奥に、幾千もの同じ閻魔庁が入れ子のように連なって見えた。どの継ぎ目でも、判子は分裂を続け、地獄という地獄が次々と空っぽになっていた。
それだけではない。極楽の方でも異変が起きていた。
本来、蓮の台に腰掛け、ゆったりと経を聴くはずの極楽は、無条件に送り込まれてくる者たちで溢れかえっていた。蓮は足りず、亡者たちは正座で押し合い、阿弥陀如来は「お、お待ちくだされ」と額に汗を浮かべている。極楽が、満員御礼の大入り袋を抱えきれず悲鳴を上げていたのである。
「弥七、見ろ。地獄が空になるだけじゃない。極楽の方も、際限なく押し寄せる者たちで、もはや極楽とは呼べない有様になっちまってる」
七 極楽喰らいの正体
幾千の閻魔庁が収束する先、光と闇が渦を巻く狭間に、無数の判子の欠片を鱗のように纏った、輪郭の定まらない巨大な影が蠢いていた。
「継ぎ目守か。……この身は、幾百幾千の写しで宙に浮いたままだった『無条件の救済』から生まれた者。名は極楽喰らい。誰も彼もを見境なく救い続ける、あの果てしない大盤振る舞い――本来なら一席のオチで消えるはずだった、あの過剰な救済こそが、この身の何よりの馳走よ」
「お前が、あの判子を乗っ取って、際限なく増殖させてるのか」
「救いに歯止めなど無用。救えば救うほど、この身は肥え太る。地獄も極楽も、意味など無くなればよい。ただ、救うという行いだけが、無限に繰り返されればよいのだ」
弥七が唸った。
「旦那、こいつぁ、お血脈の有難ぇ御利益を、逆手にとっちゃあ食い散らかしてやがる!」
八 閻魔と五右衛門の狼狽
閻魔大王は、空っぽになった地獄を前に、複雑な表情を浮かべていた。
「商売あがったりだと嘆いておったが……こうまで際限なく地獄そのものが要らぬとなると、それはそれで、何やら空恐ろしいものよな」
五右衛門もまた、自分の盗みの腕が、とんでもない事態を引き起こしたことに、居心地悪そうに頭を掻いていた。
「圭馬さんよ、あっしはただ、閻魔様に頼まれた仕事をこなしただけなんだが……こいつぁ、いくらなんでも大事になりすぎちまった」
「五右衛門さん、あんたのせいじゃない。あんたが盗んだのは、あくまで一つの判子だ。それを無限に増やして、意味を無くしちまったのは、あの極楽喰らいの仕業だ」
九 弥七、救われかける
調べを進める中、弥七のすぐそばを漂っていた判子の一つが、吸い寄せられるようにその額へ迫った。
「な……こいつは……」
判子の光を間近で浴びた弥七の目が、どこかうっとりと濁り始める。
「旦那……なんだか、これで全部帳消しにして楽になれるなら、それも悪くねえような……」
「弥七!」
圭馬がとっさに弥七の額を庇い、その目を覚まさせるように肩を強く揺さぶった。
「弥七、しっかりしろ! 無条件に救われるってのは、聞こえはいいが、それじゃあ、お前がこれまで積み重ねてきた、しくじりも頑張りも、まるごと帳消しにされちまうんだぞ」
「……はっ! 旦那……そ、そうだ……確かに、そいつぁ、あっしの性に合わねえや!」
十 圭馬の啖呵
圭馬は極楽喰らいに向き直った。
「お前の狙いは分かった。救いに歯止めをなくすことだ。だが、お血脈の本当の値打ちはな、地獄に落ちるはずだった悪人が、それでも救われるという、その落差の大きさにこそあるんだ。誰も彼もを見境なく救っちまったら、その有難みも、何もかも消えちまう」
「戯言を。救いに差別などあってはならぬ」
「差別の話をしてるんじゃねえ。救いってのは、闇があってこそ光るもんだ。地獄がまるごと無くなりゃ、極楽の有難みだって、同じように無くなっちまう。……閻魔様、五右衛門さん、力を貸してくれ!」
十一 型を取り戻す
閻魔大王は威儀を正し、地獄の役目を改めて引き受ける覚悟を示した。五右衛門もまた、盗んだ判子の欠片を、あるべき一つの姿に戻すべく、その盗人としての手練手管を尽くした。
「よし、判子は判子、一つだけあればいい。あとは、しかるべき亡者だけに、しかるべき機会に押させてもらおうじゃねえか」
三者の力が合わさると、宙に散らばっていた判子の欠片が、一つまた一つと集まり、本来の一つの判子へと戻っていった。極楽喰らいは、無限に増え続けることを許されなくなった救いの重みに耐えかね、纏っていた判子の鱗を剥がされながら、光の中に溶けるように消えていった。
「ぐ……救いに、際限があるとは……身が、持たぬ……!」
十二 空の地獄、賑わい戻る
幾千の閻魔庁は、一枚また一枚と収束していき、やがて、あの一つの閻魔庁だけが、正しい形で残った。ほどなくして、罪人牢には、再びぼちぼちと亡者たちの呻き声が戻り始めた。
「ふむ、これでようやく、地獄も商いらしゅうなってきたわ」
閻魔大王は、心なしか、ほっとしたような、それでいてどこか名残惜しそうな表情を浮かべていた。
十三 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、お血脈の御利益があんまり効きすぎて、地獄はすっかり空っぽ。閻魔様も商売あがったりで、頭を抱える羽目になりました。ですが、救いってのは、闇があってこそ有難みが増すもんでございます。地獄も極楽も、両方あってこその世の中、なんてね。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。
(了)
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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十七作目、今回は「お血脈」という、地獄と極楽を股にかける、シリーズ随一にスケールの大きな噺を題材にしました。
この噺の痛快さは、「どんな悪人でも無条件に救われる」という御利益が、あまりに強力すぎて、地獄という仕組みそのものを丸ごと無効にしてしまうという、その途方もない大らかさにあると思います。今回はその御利益の判子が、原型を離れて無限に自己複製し、地獄も極楽も意味を失っていくというSF的な事件にしてみました。
閻魔大王と大泥棒・石川五右衛門という、本来なら敵対しかねない二人が、思いがけず力を合わせる羽目になる展開は、書いていて非常に楽しいものでした。救いには際限があってこそ有難みが増す、という結末は、単なる説教くささにならないよう、江戸落語らしい大らかさを保てるよう心がけました。
地獄と極楽を舞台にした、スケールの大きな不思議な噺を、楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。

