分岐点のオーブ


まえがき

日々を生きる中で、「もしあのとき、別の道を選んでいたらどうなっていただろう」と考えたことのある人は少なくないはずです。
進学、就職、結婚、あるいは今日の夕食の献立や、一本早い電車に乗るかどうかといったごく些細な出来事に至るまで、私たちの日常は無数の「選択」と「分岐」によって織り上げられています。
量子力学の世界には、観測のたびに宇宙が可能性の数だけ枝分かれしていくという「多世界解釈」が存在します。もしもその分岐が完全には割り切れず、私たちの日常のすぐ傍らに小さな痕跡を残しているとしたら。
本書は、数字と論理の世界に生きる一人の研究者が、自らの視界に現れた不思議な「光の粒」を通して、世界の構造と自らの存在の在り処を見つめ直していく物語です。
静かな夜の読書の時間に、そっと寄り添う一編となれば幸いです。




序章
オーブと僕

日々、僕を取り囲むかのように浮遊しているオーブたちを眺めていると、ある考えが頭から離れなくなる。
それは、ただの光の粒でも塵でもない。カメラのレンズフレアだと説明されればそれまでだが、僕の目にはいつも同じ数だけ、同じ間隔で、同じ高さに浮かんでいるように見えるのだ。朝、カーテンを開けたときの窓辺に三つ。通勤電車の窓ガラスの向こうに五つ。夜、天井を見上げたときに、また同じ数だけ。
もしかすると、ここに重なった次元はいくつもに分かれていて、ある事件をきっかけに、そこから枝分かれした別の世界へと紛れ込むことがあるのではないか。そんなことを、僕は勝手に想像するようになっていた。
科学的には根拠のない、ただの願望かもしれない。けれど、彼らを知れば知るほど、それは本当のことのように思えてくる。
僕は選ばれたのか。それとも、そろそろ次の次元へと片足を踏み入れたのか。
怖いような、楽しみなような。そんな時分に、僕はいま立っている。



一章
日常のオーブ

僕の名前は瀬戸内蒼、せとうち あおい。三十二歳。都内の情報工学系の研究機関で、量子コンピュータ向けの誤り訂正符号を書いている。仕事はニッチで地味だが、性に合っていた。数式は嘘をつかない。少なくとも、僕が知る限りでは。
オーブに気づいたのは、去年の十一月のことだ。正確に言えば、十一月十七日の夜、環状七号線沿いの交差点で軽自動車と接触事故を起こした、その晩からだった。
事故そのものは大したことがなかった。信号待ちで停止していた僕の車に、居眠り運転のトラックが追突しかけ、僕はとっさにハンドルを切って隣の軽自動車と接触した。エアバッグが開き、頸椎を軽く痛めた程度で、双方に大きな怪我はなかった。警察を呼び、保険の手続きをして、その夜のうちに帰宅した。
ただ、その日を境に、視界の端に光の粒が見えるようになった。
最初は疲労だと思った。頸椎捻挫のせいで自律神経が乱れ、眼精疲労のような症状が出ているのだろうと。眼科にも行った。異常なし。脳神経内科でMRIも撮った。これも異常なし。
けれど、オーブは消えなかった。むしろ、日を追うごとに輪郭がはっきりしていった。透明なシャボン玉のような球体。光を反射するでもなく、自ら淡く発光しているようにも見える。触れようとすると、指はただ空を切る。
奇妙なのは、その数と配置に、ある種の規則性があることだった。
朝、目が覚めたときに見える数と、夜、眠りにつく前に見える数が、必ず同じだった。三つ、五つ、七つ。なぜか奇数であることが多い。そして、それぞれのオーブは、僕から見て一定の距離、一定の高さを保ちながら、ゆっくりと、しかし確かに、僕の周りを巡っていた。
まるで、僕という中心を持つ小さな太陽系のように。
僕は理系の人間だ。オカルトを頭から信じるほど子供ではない。けれど同時に、説明のつかない現象を「気のせい」の一言で片付けるほど、傲慢でもいたくなかった。数式が嘘をつかないのと同じくらい、観測された現象もまた、嘘をつかない。
そこで僕は、ノートを一冊買った。大学時代に使っていたような、無地の測量野帳だ。そこに毎日、オーブの数、位置、明るさ、持続時間を記録し始めた。
三ヶ月続けたところで、あるパターンに気づいた。
オーブの数が増えるのは、決まって「選択」を迫られた日だった。仕事でどちらのアルゴリズムを採用するか決めた日。友人からの誘いを断った日。母に電話をするかどうか迷った末に、結局しなかった日。
まるで、僕が選ばなかった方の可能性が、光の粒となって僕の周りに留まっているかのようだった。
その考えに至ったとき、背筋に冷たいものが走った。同時に、抑えきれない好奇心も湧いた。
もしかすると、ここに重なった次元はいくつもに分かれていて。僕はそう考え始めた。そして、その想像は、この後の数ヶ月で、僕が思っていた以上に「本当のこと」に近づいていくことになる。



二章
研究所からの接触

野帳をつけ始めて四ヶ月目のある日、僕の職場に一通のメールが届いた。差出人は聞いたことのない研究機関。「量子位相現象研究センター、略称QPPRC」という、民間と大学の共同出資による小規模な研究所だった。
件名には、こうあった。
『瀬戸内蒼様 「境界光点」の観測記録についてのお伺い』
境界光点。僕がオーブと呼んでいた現象の、正式な、あるいは少なくとも彼らが使っている呼称だった。
僕は混乱した。あの野帳は誰にも見せていない。SNSにも投稿していない。それなのに、なぜ僕のことを知っているのか。
メールの本文には、こうあった。
「弊センターでは、事故・災害・急激な意思決定など、心理的・物理的に大きな『分岐圧』がかかった個体の周辺に発生する光学的異常現象を、独自の観測網によって継続的にモニタリングしております。貴殿は昨年十一月十七日以降、継続的にこの現象の中心として検出されております」
観測網。僕の知らないところで、僕は「観測」されていたということだ。
不気味さよりも先に、科学者としての好奇心が勝った。僕は返信し、数日後、センターを訪ねることになった。
センターは、都心から電車で一時間半ほど離れた、緑の多い研究学園都市の一角にあった。外観は特に変哲もない四階建ての研究棟だ。しかし中に入ると、一階のロビーには見慣れない機材が並んでいた。三脚に固定された、レンズが幾重にも組み合わさった円筒状の装置。壁には、僕が野帳につけていたのとよく似た、光点の分布図が何枚も貼られている。
応対してくれたのは、香月奏、かづき かなえという女性研究者だった。四十代半ばだろうか、白衣の下に着ているのは、なぜか登山用のフリースだった。
「瀬戸内さん。ようこそいらっしゃいました」
香月は僕をラボに案内しながら、単刀直入に切り出した。
「単刀直入に伺いますが、あなたが見ている『球体』は、私たちの理論でいう『デコヒーレンス残滓』、通称、フェイズ・オーブです」
「デコヒーレンス、というのは、量子力学の……」
「はい。ご専門の分野に近いので、話が早くて助かります」香月は頷いた。「量子力学における『重ね合わせ』の状態が、観測によって一つの確定した状態へと『収束』する現象。それをデコヒーレンスと呼びますね。多世界解釈では、この収束は実際には収束ではなく、観測者を含む宇宙全体が、可能性の数だけ枝分かれすると考えます」
「エヴェレットの多世界解釈ですね。教科書レベルでは知っています」
「その通りです。ただし、教科書には載っていないことがあります」香月はホワイトボードに、樹形図を描きながら続けた。「多世界解釈が正しいとして、では『枝分かれ』は、本当に完全に、瞬時に、痕跡なく起きるのか。私たちの研究では、そうではないと考えています」
香月によれば、QPPRCの理論、彼女たちは「残響枝分かれモデル」と呼んでいたのだが、そこでは分岐が起きた直後、旧世界と新世界の間には、ごく短時間、しかし観測可能な「重なり」の領域が残る。その重なりが、特定の条件下、強い感情的ショック、身体的な危機、あるいは極めて重要な意思決定を伴う分岐点において、肉眼で捉えられるほどの光学的異常として現れることがある。
それが、フェイズ・オーブだった。
「あなたの事故は、典型的な『高圧分岐点』です」香月は言った。「あの夜、あなたの世界は、少なくとも三つの可能性に分かれました。トラックとの衝突を回避できずに大怪我をした世界。ハンドルを切らずにそのまま追突された世界。そして、あなたがいる、隣の車と軽く接触しただけで済んだ世界」
「その、分かれた先の世界が……見えている、と?」
「見えているのではありません」香月は静かに首を振った。「あなたが見ているのは、分岐点そのものが、まだ完全には『閉じきっていない』証拠です。喩えるなら、扉を勢いよく閉めたあとも、しばらく空気が揺れ続けるようなものです」
僕は野帳を鞄から取り出し、テーブルに置いた。
「では、これは……」
香月はそれを手に取り、ページをめくった。目の色が変わったのが分かった。
「これは……素晴らしい。市民科学者レベルの観測記録としては、過去最高水準です」香月は顔を上げ、僕をまっすぐに見た。「瀬戸内さん。単刀直入にお願いがあります。私たちの研究に、協力していただけませんか」



三章
言霊・音霊・数霊

QPPRCへの協力は、週末だけの非常勤という形で始まった。僕は本業の傍ら、月に数回センターに通い、自分の観測データを提供し、研究チームのミーティングに参加するようになった。
チームは香月を含めて七人。物理学者、認知科学者、そして僕が最も興味を惹かれたのは、民俗学者が一人在籍していたことだった。
その民俗学者、遠野礼一、とおの れいいちという初老の男性が、あるミーティングで、僕にとって決定的な示唆を与えることになる。
「瀬戸内さん、あなたは『言霊』という言葉をご存知ですか」
「ええ、まあ。言葉には霊力が宿る、という古代の信仰、ですよね」
「その通りです。しかし、言霊だけではありません。日本には古来、三つの『霊』の思想があります。言霊ことだま、音霊おとだま、そして数霊かずだまです」遠野は言った。「言葉の響き、音の振動、そして数の並びそのものに、世界を動かす力が宿る、という考え方です」
「それが、この研究とどう関係するんですか」
遠野は、香月の方をちらりと見た。香月が頷くと、遠野は続けた。
「私たちの残響枝分かれモデルでは、分岐点における『重なり』は、単なる光学現象ではありません。そこには、極めて微弱な、しかし測定可能な振動パターンが伴います。周波数にして、可聴域のはるか外側、しかし電磁波としては検出可能な帯域です」
香月が引き取った。
「私たちがこの三年で突き止めたのは、その振動パターンが、驚くほど『言語的』な構造を持っている、ということです」香月はノートパソコンを開き、波形データを表示した。「これを見てください。この波形を、音声として再生し、周波数解析にかけると、明確な『分節』が現れます。まるで、言葉のような」
「まさか……」
「はい。古代の呪術師や巫女が『言霊』『音霊』『数霊』と呼んで扱っていたものの正体は、おそらく、この分岐点における振動パターンを、経験的に、直感的に捉えていたものではないか。これが、私たちの仮説です」遠野が言った。「言葉の力、音の力、数の力とは、突き詰めれば、世界の分岐構造そのものと共鳴する力だったのではないか、と」
僕は言葉を失った。古代の迷信だと思っていたものが、最先端の量子論的な現象と、こうも滑らかに接続されるとは。
「では、あの野帳に僕が記録していた数字は……」
「そうです」香月は言った。「三、五、七。奇数が多いというあなたの観察は、決して偶然ではありません。数霊の思想において、奇数は『陽』の数、変化と生成のエネルギーを象徴する数とされてきました。分岐点において生成される可能性の数が、奇数に偏る傾向がある。これは、私たちの理論式からも導かれる結果と、驚くほど一致しています」
その夜、僕は帰り道の電車の中で、窓に映る自分の顔と、その周りに浮かぶ五つのオーブを見つめながら、ずっと考えていた。
言霊、音霊、数霊。古代の人々は、僕たちが最新の量子論でようやく辿り着きつつあるこの構造を、感覚として、あるいはもっと直接的な「観測」として知っていたのかもしれない。
それは、彼らを知れば知るほど、本当のことのように思えてくる。僕が詩的な直感で綴っていた言葉が、一つずつ、科学的な裏付けを得ていく感覚。喜びと同時に、僕はうっすらとした恐れも感じ始めていた。
もし古代の人々が、これほど重要な「構造」を知っていたのだとしたら、なぜ、その知識は失われたのか。あるいは、失われたのではなく、意図的に「封じられた」のではないか。



四章
分岐点の記憶

僕の観測データは、チームにとって特に重要な意味を持っていた。理由は、香月が言うところの「累積型分岐者」という特異な条件に、僕が該当していたからだった。
「累積型、というのは?」ある日、僕は尋ねた。
「通常、分岐点における『重なり』は、数分から長くても数時間で解消します」香月は説明した。「しかし、極めて稀に、一つの分岐点における重なりが完全に解消しないうちに、次の分岐点が発生するケースがあります。すると、重なりが『積み重なって』しまう。あなたの場合、事故という高圧分岐点のあと、日常的な小さな選択の積み重ねによって、重なりが解消される暇なく、次々と新しい層が重なっていった。そう考えられます」
「それが、僕の周りに複数のオーブが見え続けている理由、ということですか」
「その通りです。そして、これは……」香月は言葉を選ぶように、少し間を置いた。「かなり稀有な、そして正直に言えば、少しリスクを伴う状態です」
「リスク、とは?」
香月は遠野と目を合わせた。遠野が続けた。
「重なりが積み重なった状態が長く続くと、本人の『中心性』、つまり、どの世界が『本来の自分の世界』であるかという感覚が、揺らぎ始めることがあります。過去の少数の事例では、これを『分岐酔い』と呼んでいます」
「分岐酔い……」
「めまいや既視感、あるいはその逆。見慣れた光景に強い違和感を覚える、といった症状が報告されています。最悪の場合、どちらの世界に『留まる』べきかの感覚を失い、精神的な均衡を崩すケースもありました」
僕はその瞬間、思い出した。ここ数週間、ふと感じていた小さな違和感を。
会社のデスクの配置が、一瞬、違って見えたこと。行きつけの定食屋のメニュー表の値段が、記憶と数十円違っていると感じたこと。そして、何より、母から届いた、去年の誕生日プレゼントの色。僕の記憶では紺色のマフラーだったはずが、クローゼットの中にあるのは、灰色のマフラーだった。
「香月さん。僕は最近、小さな『食い違い』を感じることが増えています。これも、その……分岐酔いの兆候なんでしょうか」
香月の表情が、わずかに強張った。
「その事例を、詳しく聞かせてください」
僕はマフラーの件を話した。香月は遠野と何度も視線を交わしながら、真剣な顔でメモを取っていった。
「瀬戸内さん」香月は、しばらくの沈黙のあと、口を開いた。「一つ、確認させてください。去年十一月十七日の事故の夜、あなたは本当に、隣の軽自動車に接触して終わった、それだけだったと、確信していますか」
「もちろんです。それ以外に、何が……」
言いかけて、僕は言葉を止めた。
事故の記憶を、もう一度、丁寧に辿り直してみた。湿ったアスファルトに反射する信号の赤。追突しかけてくるトラックの荒々しいエンジン音と、視界を灼くような強烈なハイビーム。とっさに切ったハンドルの重み。エアバッグが炸裂した瞬間の、焦げた薬品のような臭気と白い衝撃。
そして、次に覚えているのは、隣の軽自動車の運転手と言い争っている場面だった。彼女は若い女性で、酷く動揺していた。「大丈夫ですか」と僕は尋ねた。彼女は震える声で、こう言った。
「あなたが、私を守ってくれたんです。あなたの車が、間に入ってくれなかったら……」
守ってくれた? 僕は、彼女を巻き込んでしまったと思っていたはずなのに。
その記憶の細部が、今、思い出そうとするほどにぼやけて、輪郭を失っていくような感覚があった。まるで、二つの異なる記憶が、僕の中で場所を取り合っているかのように。
「香月さん」僕は言った。声が、自分でも驚くほど掠れていた。「僕は、あの夜、本当は何が起きたのか、もう、正確には思い出せないのかもしれません」



五章
選ばれた者

その夜以降、チームは僕の観測記録の解析を最優先課題に切り替えた。香月は、僕の周囲の光点の振動パターンを、これまでにない精度で記録するための特別な観測機材を用意した。
装置は、頭部に装着するヘッドセットのような形をしていた。「共鳴集音器」と呼ばれるそれは、可聴域外の微弱な振動を拾い上げ、リアルタイムで周波数解析にかける。
初めての測定の日、僕はラボの中央に置かれた椅子に座り、香月がヘッドセットを僕に装着した。
「リラックスしてください。痛みも刺激も、何もありません。ただ、あなたの周りにある五つの光点が発する振動を、記録するだけです」
装置が起動すると、モニターに複雑な波形データが奔流となって現れ始めた。
「最初はただの不規則な周波数のノイズに見えます」香月がキーボードを叩く。「ですが、ここに独自の解釈プログラムを通すと……」
画面上のバイナリデータが瞬く間に変換され、明確な音素の並びとして浮かび上がってきた。香月と遠野、そしてもう一人の物理学者が、食い入るようにそれを見つめていた。
「これは……」遠野が呟いた。「言語構造だ。しかも、これまで観測されたどのケースよりも、はっきりとしている」
「解読アルゴリズムを最終段階まで進めます」香月が言った。数分後、彼女の顔から血の気が引いた。
「香月さん?」
「瀬戸内さん……これを見てください」
モニターに表示されたのは、波形の分節を既知の言語パターンと照合した結果だった。そこには、断片的だが、はっきりと読み取れる「言葉」が並んでいた。
『……あお……い……もどれ……』
『……こちら……の……ほうが……』
『……えらばれた……のは……』
僕は言葉を失った。
「これは、いったい……何を意味しているんですか」
香月は、深く息を吐いた。
「瀬戸内さん。これまでお話ししてこなかったことがあります。実は、あなたの周りの光点は、一方通行の『残滓』ではないのかもしれません。むしろ……」
「もう一つの世界の、僕自身からの、メッセージだと?」
香月は頷いた。
「累積型分岐者の中には、極めて稀に、分岐した先の世界の『もう一人の自分』と、この振動を通じて、微弱ながら『通信』が可能になるケースが、理論上は想定されていました。ただ、実際に観測されたのは、あなたが初めてです」
「もう一人の僕は……何を伝えようとしているんですか」
「まだ断片的です。しかし、『戻れ』という言葉と、『選ばれたのは』という言葉が、繰り返し現れています」
僕の脳裏に、あの詩的な直感が蘇った。
僕は選ばれたのか。それとも、そろそろ次の次元へと片足を踏み入れたのか。
あの言葉は、単なる比喩ではなかったのかもしれない。もう一人の僕、おそらく、あの事故の夜、隣の軽自動車の女性を守れなかった世界の僕、あるいは、トラックに追突されて重傷を負った世界の僕が、この重なりを通じて、何かを伝えようとしている。
「香月さん。僕はどうすればいいんでしょうか」
香月は、しばらく答えなかった。ようやく口を開いたとき、その声には、これまで聞いたことのない緊張が滲んでいた。
「瀬戸内さん。正直に言います。私にも、まだ完全には分かっていません。ただ、一つだけ確かなことがあります」
「なんですか」
「重なりが積み重なった状態は、いずれ、何らかの形で『解消』される必要があります。永遠に宙ぶらりんのままではいられない。そして、その解消のプロセスに、あなた自身の意思が、おそらくあなたが思っている以上に、深く関わってくることになります」



六章
片足の次元

解析はさらに続いた。数週間かけて、断片的だった波形の「言葉」は、少しずつ、より完全な文として組み上がっていった。
香月がまとめた最終的な解析結果を、僕は研究所の会議室で聞かされた。
「瀬戸内さん。ここに、私たちが再構成できた、最も完全なメッセージがあります」
香月は、印刷されたA4用紙を僕の前に置いた。そこには、こう書かれていた。
『あおい。こちらの世界では、君は、あの夜、私を守れなかった。私は、大怪我をした。三ヶ月の入院。歩行に障害が残った。けれど、私はいま、こちらの世界で、新しい人生を歩んでいる。医療従事者になるための勉強を始めた。あの事故がなければ、私はきっと、いまの目的を見つけられなかった。だから、あおい。君が選ばれたのではない。私たちは、ただ、分かれただけだ。どちらが正しい、どちらが幸福だ、ということはない。ただ、分かれた。それだけのことだ。戻る必要はない。ただ、そちらの世界で、君の人生を生きてくれ』
僕は、その文面を、何度も読み返した。
「これは……」声が震えた。「あの夜、事故に遭った女性の、もう一人の自分から……いや、待ってください。彼女、と言いましたよね。僕からのメッセージじゃないんですか」
香月は静かに首を振った。
「累積型分岐の重なりは、必ずしも自分自身からの振動だけを拾うわけではありません。分岐点そのものに深く関わった、複数の当事者の振動が、混ざり合って届くことがあります。あなたが受け取っていたのは、あなた自身の、選ばなかったもう一つの可能性からのメッセージだけでなく、あの夜、隣にいた女性の、別の分岐先からのメッセージも含まれていたのです」
僕はしばらく、何も言えなかった。
『戻れ』という言葉。『選ばれたのは』という言葉。それらは、僕が思っていたような、僕自身の運命についての問いかけではなかったのかもしれない。むしろ、それは他者の人生もまた、僕の選択とは無関係に、それぞれの分岐の中で、それぞれの意味を持って続いているのだという、静かな事実の告知だったのかもしれない。
「香月さん。では、僕はどうすればいいんでしょうか。この、周りに浮かぶ光点たちは、いつ消えるんですか」
香月は、少し困ったような、けれど優しい表情を浮かべた。
「瀬戸内さん。実は、これまでの累積型分岐者の事例、数が少なく、まだ十分な統計とは言えませんが、では、重なりの解消は、本人が『どちらの世界に軸足を置くか』を、明確に、意識的に選んだときに起こると報告されています」
「選ぶ、というのは、具体的には……」
「言葉にしてもいいし、行動にしてもいい。ただ、はっきりと、『私はここにいる』と、自分自身に対して宣言することです」
僕は、窓の外を見た。夕暮れの光の中に、五つのオーブが、いつものように静かに浮かんでいた。
その一つ一つが、僕が選ばなかった可能性であり、同時に、僕とは別の場所で、別の人生を歩んでいる誰か、あるいは何かの、微かな残響なのだとしたら。
僕は、片足を、まだどこか別の次元に残したまま、生きてきたのかもしれない。



終章
怖いような、楽しみなような

その日の帰り道、僕は電車には乗らず、あの事故が起きた交差点まで、歩いて向かった。
十一月から半年以上が経ち、季節は初夏に差し掛かっていた。交差点は、あの夜と変わらず、ただの、どこにでもある都市の風景として、そこにあった。
僕は交差点の中央に立ち、目を閉じた。
周りに、いつもの五つのオーブが浮かんでいるのが、瞼の裏でも分かるような気がした。
もしかすると、ここに重なった次元はいくつもに分かれていて、ある事件をきっかけに、そこから枝分かれした別の世界へと紛れ込むことがあるのではないか。僕は、半年前と同じ想像を、もう一度、心の中で繰り返した。
けれど、今の僕には、それが「勝手な想像」ではないことが分かっていた。それは、本当のことだった。少なくとも、僕が知り得る限りでは、真実に限りなく近い、この世界の構造だった。
だからこそ、僕は、はっきりと自分に問いかける必要があった。
僕は選ばれたのか。それとも、そろそろ次の次元へと片足を踏み入れたのか。
目を開けた。夕陽が、交差点のアスファルトを橙色に染めていた。信号が青に変わり、僕の前を、見知らぬ人々が行き交っていく。誰も、僕の周りに浮かぶ光点には気づかない。彼らはそれぞれ、彼らの分岐点を、彼らのやり方で生きている。
僕は、声には出さず、けれど、はっきりと、心の中で言葉にした。
「僕は、ここにいる」
それは宣言だった。選ばれたかどうか、次の次元に片足を入れているかどうか、そんな問いそのものが、実は、あまり重要ではなかったのかもしれないと僕は気づき始めていた。重要なのは、無数に枝分かれした可能性の中で、僕が「今、ここ」に軸足を置くと、自分自身で決めることだった。
言葉にして、その通りに信じること。言霊。
その言葉を、声に出さずとも、確かな響きとして自分の中に鳴らすこと。音霊。
そして、無数の分岐の中から、この一つを、この瞬間を選び取ること。数霊。
古代の人々は、きっと、この単純で、けれど途方もなく難しい行為の力を、僕たちよりずっと早くに知っていたのだ。
その夜、家に帰ると、僕の周りのオーブは四つになっていた。
一つ、消えていた。
変化を象徴する奇数、陽の数から、安定を意味する偶数への変化。どこか視界のざわめきが静まり返ったような、不思議な落ち着きがあった。
香月に報告すると、彼女はひどく興奮した声で、これは重なりの解消が始まった証拠かもしれない、と言った。今後、時間をかけて、残りのオーブも一つずつ消えていくかもしれない。あるいは、消えないまま、僕の人生に寄り添い続けるかもしれない。
どちらだとしても、僕はもう、以前ほどの怖さは感じていなかった。
日々、僕を取り囲むかのように浮遊しているオーブたちを、僕はこれからも眺め続けるだろう。そして、その一つ一つに、いつか歩まなかった、あるいは、これから歩むかもしれない、無数の人生の残響を感じながら、それでも、今この瞬間の自分を選び続けるだろう。
怖いような、楽しみなような。そんな時分は、きっと、これからも、何度も僕を訪れる。
そのたびに、僕は、静かに、こう言うのだ。
僕は、ここにいる、と。




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あとがき

本作『分岐点のオーブ』をお読みいただき、誠にありがとうございました。
量子力学という現代科学の最先端にある概念と、日本に古くから伝わる「言霊・音霊・数霊」という精神文化。一見すると対極にあるように思える二つの要素ですが、「世界のありようを人間がどう観測し、どう言葉を与えてきたか」という点において、深く響き合っているのではないか。そんな着想からこの物語は生まれました。
私たちは日々、無数の選択をし、そのたびに選ばなかった可能性を背後に置き去りにしながら生きています。ふとした瞬間に感じる違和感や「もしも」の想いは、もしかすると今もどこかで続いている「もう一つの世界」からの微かな振動なのかもしれません。
主人公の蒼が見つめたオーブのように、読者の皆様の日常の傍らにも、静かで優しい光の残響が寄り添っていることを願っております。
執筆にあたり、物語に奥行きを与える示唆をいただいたすべてのご縁に感謝を込めて。