どこでもドア、抽選に外れる
〜ある凡人と、超電導リニアと、赤い電話ボックスの物語〜
まえがき
便利であること、早いことが最良とされる時代です。
ボタン一つでどこへでも行けて、望む情報が瞬時に手に入る。効率という名のもとに、私たちは「移動する時間」や「待つ時間」をひとつずつ手放してきました。
では、もしも本当に「どこへでも一瞬で行けるドア」が存在したら、私たちの人生は今より豊かになるのでしょうか。
この物語は、超電導リニアの体験乗車抽選に外れ続ける、どこにでもいる一人の凡人の物語です。
夢の中に現れる赤い電話ボックスと、時速五百キロで暗闇を駆け抜ける夢の乗り物。その二つの間で揺れる主人公の姿を通して、「目的地に着くこと」と「そこへ向かう時間」の意味を少しだけ考えてみました。
日常のほんのすき間時間に、どうぞ肩の力を抜いてお付き合いください。
序章 夢の電話ボックス
その夜、僕は電話ボックスの中にいた。
古い、赤い電話ボックス。今どき現物を見ることさえ珍しいのに、夢の中の僕はごく自然にその扉を押し、狭い箱の中に体をねじ込み、黒い受話器を持ち上げた。
ダイヤルは回転式だった。指を穴に入れ、回す。ジー、ジー、ジー、と間延びした音がして――次の瞬間、僕は見知らぬ台所に立っていた。
「え」
驚く間もなく、台所の主らしき老婦人がこちらを見て、あくびをしながら言った。
「またあんたかい。今度は何分だった?」
「……何分、とは?」
「移動時間だよ。前は一秒半だったろう」
僕は答えられなかった。なぜなら、これが夢の中で何度目の訪問なのか、僕自身にも分からなかったからだ。
目が覚めても、その感触だけが指先に残っていた。ダイヤルを回す、あの重たい手応え。
現実の僕は、その朝もスマートフォンでとある抽選の結果発表ページを開き、そして案の定、外れていた。
超電導リニア、体験乗車。
かれこれ何十回目の落選か、もう数える気力もない。
第一章 抽選、また外れる
僕の名は、まあ、どうでもいい。四十代、会社員、これといった特技もない。ただ一つ、人より熱心なものがあるとすれば、それは「リニア中央新幹線」というものへの、説明のつかない憧れだった。
きっかけは覚えていない。子供の頃に見た未来予想図の絵本だったか、それとも大学生の頃にたまたま見学した実験線の轟音だったか。とにかく僕は、時速五百キロで浮上して走る乗り物に、理屈抜きで心を掴まれてしまった人間の一人だった。
体験乗車の抽選には、思い出せる限りで四十二回申し込んだ。当選したのはゼロ回。ゼロは掛け算してもゼロだ。何回申し込もうと、確率という奴は僕に対してだけ底意地が悪いようだった。
「今回は倍率、二百八十倍だってさ」
会社の後輩、宮田くんにそう零すと、彼は同情するでもなく、面白がるでもなく、ただ「へえ」とスマホから顔も上げずに言った。
「そんなに人気なんですか、リニア」
「人気というか……開業が遅れに遅れているせいで、余計に『幻の乗り物』感が出てるのかもな」
静岡工区の問題は、ニュースで何度も見た。水資源への影響を巡る協議は難航し、当初二〇二七年としていた開業目標は、もはや誰も口にしなくなっていた。
「品川―名古屋、四十分らしいですね」
「らしいな」
「そんな急いでどこ行くんです?」
「知らん。俺も同じこと思ってる」
それでも申し込む。それが人間という生き物の、滑稽なところだ。
その日の夜も僕は、性懲りもなく次回の抽選要項をブラウザのブックマークに追加し、布団に入った。
そして、また電話ボックスの夢を見た。
第二章 赤い電話ボックス
夢はどんどん具体的になっていった。
今回、電話ボックスは山の中にあった。周囲には工事現場のフェンス、「関係者以外立入禁止」の看板、そして遠くに、トンネルの入り口らしき黒い穴。
「南アルプストンネル、静岡工区」
看板にそう書かれていた気がしたが、目を凝らすとその文字は溶けるように消えて、代わりに「どこでもトンネル株式会社」という、聞いたこともない社名が浮かび上がった。
電話ボックスの扉には、小さな貼り紙。
『体験乗車、絶賛受付中! 当選確率:あなた次第』
「あなた次第、ってどういうことだ」
僕がつぶやくと、電話ボックスの受話器がひとりでに持ち上がり、宙に浮いた。
『どちら様まで、おつなぎいたしましょうか』
機械的だが、どこか間延びした女性の声。
「え、いや、あの」
『行き先をおっしゃってください。品川でも、名古屋でも、大阪でも。あるいは――ご覧になりたい未来、でも』
その一言に、僕は目を覚ました。
心臓がやけに鳴っていた。時計を見ると、午前四時。
奇妙なことに、枕元に置いていたはずのスマートフォンの通知欄に、見覚えのない件名のメールが届いていた。
『超電導リニア体験乗車 当選のお知らせ(特別枠)』
「は?」
僕は飛び起きて、メールを開いた。
第三章 リニア研究所の男
指定された集合場所は、山梨リニア実験線のはずだった。しかし当日、案内の看板に従って歩いていくと、いつの間にか見慣れない側道に迷い込み、気づけば目の前に、あの夢で見たのとそっくりの赤い電話ボックスが立っていた。
周囲に他の乗客の姿はない。
「これは……」
「ようこそ。お待ちしておりました」
背後から声をかけられ、振り向くと、白衣を着た小柄な男が立っていた。名札には「主任研究員:関口洋(せきぐち・ひろし)」とある。テレビの解説番組に出てきそうな、妙に人当たりの良い笑顔だった。
「あなたが、四十二回目の挑戦者ですね」
「ご存知なんですか、その数字」
「もちろんです。当研究所は、落選し続けた方の“執念データ”を長年収集しておりまして」
「執念データ……」
「超電導磁石というのは、面白いものでしてね」関口は電話ボックスを撫でながら続けた。「強力な磁場を発生させ続けると、ごくごく稀に、時空にわずかな“よじれ”が生じることがある。理論上はゼロに近い確率ですが、ゼロではない」
「よじれ、ですか」
「ええ。そして、そのよじれは、極めて強く“そこへ行きたい”と願い続けた人間の意識と、共鳴することがあるようなんです」
僕は絶句した。
「つまり――僕が四十二回も申し込み続けたから、この現象が?」
「因果関係は、まだ論文になっておりません。ですが我々は、これを内部で『どこでもドア現象』と呼んでおります」
関口はそう言うと、電話ボックスの扉を恭しく開いた。
「さあ、どうぞ。本日は、特別に“本物”をご案内いたしましょう」
第四章 一瞬移動の代償
受話器を取ると、ダイヤルはやはり回転式だった。
「行き先は、どちらに?」関口が尋ねる。
「品川、から、名古屋……でいいんですか」
「お好きなところへ。ただし」関口は人差し指を立てた。「一つだけ、ルールがございます」
「ルール?」
「“一瞬で着く”ということは、“移動している四十分間”を、あなたは経験しないということです。その四十分は、どこにも存在しない。あなたの人生から、まるごと差し引かれる」
「差し引かれる……時間が、ですか」
「いいえ」関口は静かに首を振った。「四十分間、あなたが“何かを見て、何かを感じ、何かを考えられたかもしれない可能性”が、です」
僕はダイヤルに指をかけたまま、動きを止めた。
「例えば、この現象を利用して東京から大阪まで一瞬で行った方がいましてね。着いた瞬間、こう仰いました。『あれ、俺は今日、何をしに来たんだったか』と」
「……忘れた、と?」
「目的地に着くための四十分、飛行機なら一時間強の間に、人は無意識のうちに“心の準備”をしているのです。景色を眺め、うとうとし、資料に目を通し、あるいはただぼんやりする。その空白の時間こそが、到着した自分を“その場にふさわしい人間”に仕立て上げている」
「先生、それって……」
「瞬間移動とは、目的地にだけ辿り着いて、旅そのものを喪失する技術なのかもしれません」
関口はそう言うと、少し悪戯っぽく笑った。
「とはいえ、理屈はさておき。一度くらい、体験してみたいでしょう? 時速五百キロの浮上走行。せっかくここまで来たのですから」
僕は迷った末に、頷いた。
ダイヤルを回す。ジー、ジー、ジー。
第五章 未来のリニア、過去の僕
気づくと、僕は白い車両の座席に座っていた。
窓の外は――真っ暗だった。
「あれ?」
隣の座席に、いつの間にか、二十代の頃の自分らしき青年が座っている。
「よう」
「……お前、まさか」
「まさかも何も、俺はお前だよ。二十三歳の頃の」
若い頃の僕は、心底楽しそうに窓の外を覗き込んでいた。もちろん、真っ暗で何も見えない。
「トンネルばっかりだな、これ」
「ああ。品川―名古屋、八十六パーセントがトンネルらしい」
「飛行機の方が速いんじゃなかったっけ」
「巡航速度はな。でも都心から都心までのトータルで考えると、こっちが勝つ。空港まで行く時間、保安検査、搭乗手続き……そういうのを差し引くとな」
「へえ。お前、よく知ってるじゃん」
「四十二回も抽選に外れ続けると、詳しくもなるさ」
若い僕は笑った。屈託のない、僕がとうに失ってしまった種類の笑い方だった。
「なあ」若い僕が言った。「結局、リニアに乗れて、お前は嬉しいのか?」
僕はしばらく黙って、窓の外の暗闇――何も見えないくせに、確かに猛烈な速度で流れているはずの闇を見つめた。
「嬉しいよ。単純にな」
「けど?」
「けど、思ってたのと少し違う。もっと景色が見えると思ってた。もっと“未来に来た”って実感があると思ってた」
「トンネルの中じゃ、それは無理だろ」
「ああ。だから思うんだ。俺たちが本当に見たかったのは、五百キロの速さそのものじゃなくて、その先にある“何か新しい景色”だったんじゃないかって」
若い僕は、少し寂しそうに微笑んだ。
「じゃあ、その景色、まだ見つかってないんだな」
「かもな」
車内アナウンスが響いた。
『次は、名古屋、名古屋。お出口は――』
隣を見ると、若い僕の姿は、もう消えていた。
第六章 四十分の意味
名古屋駅のホームに降り立った瞬間、僕はまた、あの電話ボックスの中に戻っていた。
「お帰りなさいませ」
関口が、変わらぬ笑顔で立っていた。
「今、何分経ちましたか?」僕は尋ねた。
「四十二分。あなたの執念の回数と、奇しくも同じですね」
僕は思わず笑ってしまった。
「先生。一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「なぜ、こんな“奇跡”みたいな現象を、大々的に発表しないんです? 世紀の大発見じゃないですか」
関口は少し困ったように頭をかいた。
「発表したら、みんなこう言うと思うんですよ。『それなら最初から瞬間移動でよくないですか。リニアなんて要らないでしょう』と」
「……たしかに」
「でも、それは違うんです」関口は電話ボックスの壁を、愛おしそうに撫でた。「瞬間移動は、目的地には着く。けれど、“そこに至る過程”を人から奪ってしまう。リニアは、四十分かけて名古屋に着く。その四十分の間に、人は窓の外の暗闇を見ながら、いろんなことを考える。仕事のこと、家族のこと、若い頃の自分のこと」
「トンネルの中で、ですか?」
「ええ。何も見えないからこそ、人は自分の内側を見るんですよ」
僕は、その言葉を、しばらく噛みしめた。
「先生。この“どこでもドア現象”、僕はまた使えますか?」
「残念ながら」関口は肩をすくめた。「一人につき一度きり、というのが不文律のようでしてね。理由は分かりません。宇宙の采配、とでも言うほかない」
「そうですか」
「ですが」関口はニヤリと笑った。「体験乗車の抽選には、また申し込めますよ。次回は、倍率二百九十倍だそうです」
僕は思わず、声を出して笑ってしまった。
「懲りない男だと思われるでしょうね」
「懲りない、とは違います」関口は真面目な顔に戻って言った。「“それでも申し込む”というのは、人間だけが持つ、ちょっとした超能力なんですよ」
終章 それでも、僕は申し込む
目が覚めると、そこは自分のベッドの上だった。
枕元のスマートフォンには、リニア体験乗車、特別枠当選のメールは――なかった。あるのはいつも通りの、落選通知だけ。
「やっぱり、夢だったか」
苦笑しながら起き上がると、ふと、机の上に見覚えのないメモが置かれていることに気づいた。
『四十二分間、お疲れ様でした。――関口』
僕はそのメモをしばらく見つめ、それから、そっと引き出しの奥にしまった。
夢か現実か、確かめる術はない。確かめる必要も、たぶんない。
その日の夜、僕はまた、パソコンを開いた。
超電導リニア体験乗車、次回募集要項のページ。
倍率、二百九十倍。
「よし」
僕は、また申し込みボタンを押した。
窓の外では、遠い工事現場の音が、かすかに、しかし確かに聞こえていた気がした。
トンネルの向こうに、まだ見ぬ景色が待っている。
そこへ辿り着くまでの、無駄に思えるかもしれない時間こそが、きっと――僕らの人生そのものなのだ。
― 完 ―
アマゾン キンドル
あとがき
本作は、ある一つのブログ記事――リニア中央新幹線の体験乗車抽選に何十回も外れ続けている、という何気ない日常の記録と、電話ボックスで瞬間移動する不思議な夢の話――から着想を得て書かれたフィクションです。登場する研究機関、人物、技術的説明はすべて架空のものであり、実在の人物・団体とは関係ありません。
読んでくださったあなたにも、いつか「それでも申し込む」勇気が、小さな奇跡を連れてきますように。

