芸伝子
―― 三代先の予言 ――
【まえがき】
世の中には、「真面目に努力すれば必ず報われる」とは限らない世界があります。特に「笑い」や「芸術」と呼ばれる領域では、本人の技術や努力と同じくらい、あるいはそれ以上に「間(ま)」や「愛嬌」、そして「運」といった目に見えないものが大きな意味を持ちます。
誰かが誰かを、見返りなど求めずにそっと応援する。その一瞬の「恩」や「優しさ」は、巡り巡ってどこへ行くのだろう――そんな思いから、この物語は生まれました。落語の寄席のような古き良き人情と、AIやロボットが当たり前になった少し未来の空気感を、どうぞ気軽にお楽しみください。
プロローグ 雰囲気係数
世の中には、はかれないものを、はかろうとする仕事がある。
桜庭一輝(さくらば・かずき)の名刺には、こう書いてある。
「一般財団法人 三代先機構(さんだいさききこう) 雰囲気観測課 主任研究員」
はじめて名刺を渡すと、たいてい相手はこう聞き返す。
「雰囲気を、観測する……?」
そう。一輝の仕事は、人の「雰囲気」を数値化することだった。
正式名称は「雰囲気係数(ふんいきけいすう)」。単位はない。強いて言うなら「フン」である。決めた人間のセンスを疑うが、決めたのは一輝の祖父だったので、もう文句は言えない。
測定器は「ふんいきスコープ」と呼ばれる、太った双眼鏡のような装置だ。対象となる人物にレンズを向けると、その人が発する笑いの気配、間の良さ、緊張と緩和のリズム、育ちや来し方の澱(おり)のようなものまでを吸い上げ、液晶に「フン値」として表示する。
数値が高ければ売れる、というわけではない。それが厄介なところだった。フン値80を超える大天才が、一生日の目を見ずに終わることもあれば、フン値30そこそこの、お世辞にも芸達者とは言えない若者が、ある日テレビの向こうで国民的スターになることもある。
一輝は不思議に思っていた。ふんいきスコープが本当にはかっているのは、「今その人が持っている雰囲気」であって、「これから世間に見つけてもらえるかどうか」ではない。運というのは、機械では捕まえられない。
だから一輝の本当の仕事は、測定した後にある。
フン値の高い若手芸人を見つけては、名前を伏せたまま、劇場の支配人に「今度の新人、ちょっと面白いですよ」とささやく。テレビ局の構成作家に、さりげなく映像を送る。家賃を滞納している芸人の口座に、出所不明の「祝儀」を振り込む。
――誰も見ていないところで、その一瞬に「乗れる」ように、そっと背中を押しておく。
それが三代先機構の、本当の存在意義だった。
「なんで、そんなことすんの」
同僚の宇田川に聞かれるたび、一輝は同じ答えを返す。
「うちの家訓だから」
その家訓の由来を、一輝はまだ、宇田川にも、誰にも話したことがなかった。
第一章 曾祖父と半升師匠
三代先機構の地下三階、資料保存室には、桜庭家に代々伝わる一冊のノートが保管されている。表紙には達筆すぎて読めない文字で「備忘」とだけ書かれ、中身は曾祖父・桜庭卯之吉(うのきち)の手記だった。
卯之吉は明治の終わりから昭和にかけて、東京の下町で小さな油問屋を営んでいた。商売はそこそこで、道楽もそこそこ。唯一の道楽が、寄席通いだった。
当時、売れない若手落語家に「三遊亭半升(さんゆうてい・はんじょう)」という男がいた。噺は達者だが、なぜか客がつかない。楽屋でも変わり者扱いされ、着物を質に入れ、飯も食えない日が続いていた。
卯之吉はある晩、木戸銭を払えず表で立ち尽くす半升を見かけ、無言で懐から二円を渡した。それから十年、卯之吉は正体を明かさぬまま、半升の着物代を、家賃を、時には嫁取りの祝儀までも、こっそりと工面し続けた。
半升は、四十を過ぎてから急に化けた。ある名人の代演で高座に上がった一夜、客の心をわしづかみにし、そこから十年で「名人」と呼ばれるまでになった。
死の間際、半升は見舞いに来た卯之吉の手を握り、初めて涙ながらに礼を言い、こう笑ったという。
「旦那、あんたみたいな人が芸人を助けとくとね、三代先まで、その家は繁盛するもんですよ」
卯之吉はこれを、酔狂な冗談だと思って笑い、備忘帳にそのまま書きつけた。
だが、桜庭家に起きたことは、冗談では片付かなかった。
卯之吉の息子・二代目は、油問屋を畳んで始めた小さなラジオ部品工場を、思いがけぬ好景気に乗せて急成長させた。孫である一輝の父は、その工場を売却した金を元手に、奇妙な財団――三代先機構を設立した。
そして三代目である一輝は、気づけば「雰囲気」という得体の知れないものを数値化する装置の前に立ち、見知らぬ若手芸人たちの背中を、代々そうしてきたように押し続けている。
――三代先まで、繁盛する。
半升の言葉は、笑い話のはずだった。だが桜庭家では誰も、それを笑い話として扱ってはいなかった。
むしろ、恩というものが、まるで律儀な利子のように、世代を超えて複利で回っているようにさえ見えた。
問題は、その「恩」の中身だった。
三代先機構の研究員たちは近年、ふんいきスコープの解析精度を上げるうち、奇妙な事実に突き当たっていた。人の「雰囲気」――間の良さ、愛嬌、緊張と緩和のセンス――には、どうやら遺伝的に、あるいはそれに類する何らかの経路で継承される「情報のかたまり」があるらしいのだ。
研究所ではそれを、正式な学術用語のふりをして、こう呼んでいた。
「芸伝子(げいでんし)」
第二章 芸伝子研究所の憂鬱
「芸伝子、なんて名前つけるからだよ」
宇田川はいつも、そう言って笑う。彼女は三代先機構の中でも数少ない、生物学と統計学の両方をかじった研究員だった。
「本当は遺伝子とは何の関係もないの。DNAの配列にそんなもの乗ってないから。だけど、家系を追跡すると、明らかに『間の良さ』が偏って伝わっていく家系がある。まるで遺伝みたいに」
「じゃあ何が伝わってるの」
「わかんない。だから“伝子”って誤魔化して呼んでる。アカデミックな用語のふりして誤魔化すの、日本の研究機関の伝統でしょ」
宇田川によれば、芸伝子には奇妙な性質がある。
ひとつ。強い恩や、強い感情のやり取りがあった場合、芸伝子は「起動」しやすくなる。卯之吉が半升を助けたような、見返りを求めない恩は、特に強い引き金になるらしい。
ふたつ。芸伝子は、必ずしも血縁上の子孫にそのまま宿るとは限らない。まれに――本当にまれに――血のつながらない誰か、あるいは、生物ですらない「何か」に、飛び火することがある。
「まさか」と一輝は笑った。「生物ですらないって、何。石とか?」
「わかんない。データが少なすぎる。過去に一件だけ、記録がある。昭和の初め、ある噺家の隠居先の柱時計が、妙に“間”のいい音で時を告げるようになったって記録。誰も本気にしてないけど」
「柱時計が、面白い、と」
「うん。誰も本気にしてない」
一輝は苦笑いしながら、資料室の卯之吉のノートを閉じた。三代先機構は、こういう荒唐無稽な話を、大真面目な顔で研究し続けている組織だった。
だが、その荒唐無稽さのおかげで、今日も無名の若手が一人、いつの間にか劇場のトリを任され、来月にはテレビの深夜番組にちらりと顔を出す予定になっている。世間はまだ気づいていない。だが、いずれ気づく。それが「売れる」という現象の正体だと、一輝は思っていた。
――世間がその芸人に気づいた時、それが売れる時。
一輝はいつも、そう思いながら、今日も出来る範囲の後押しをしていた。
問題は、桜庭家自身のことだった。
半升の予言――「三代先まで繁盛する」――は、たしかに叶っていた。卯之吉、二代目、そして一輝の父が興した財団。金銭的にも、社会的にも、桜庭家は十分すぎるほど「繁盛」していた。
だが、である。
一輝は、ふと思うことがあった。
自分たちは、ずっと「芸人を助ける側」だ。舞台の袖で、客席の隅で、テレビの向こうで、誰かの才能を見つけ、そっと押し出す役目。だが桜庭家の一族から、当の芸人が――笑いを生業とする人間が、一人も出たことがない。
助ける家系ではあっても、笑わせる家系では、一度もなかった。
それが一輝には、ほんの少し、寂しかった。
第三章 一族会議、あるいは大いなる期待外れ
年に一度、桜庭家では「一族会議」という名の食事会が開かれる。実態はただの親戚の集まりだが、財団を運営している手前、議事録だけは律儀に取られている。
その年の議題の一つに、一輝はこっそり提案理由を書き添えて紛れ込ませた。
「議題五、一族から芸人が出る可能性について」
「はあ?」母の光子は、煮物の鉢を置きながら真顔で聞き返した。「一輝、あんた最近そればっかりね」
「いや、統計的にちょっと気になって」
「あんたが芸人になればいいじゃない」
「僕、フン値18なんだよ。平均以下」
弟の二郎(じろう)――地方銀行に勤める、実に手堅い性格の30歳――が、味噌汁をすすりながら口を挟んだ。
「ちなみに俺、いくつ」
「12」
「低すぎん?」
「二郎、お前この間、部長との飲み会で場の空気凍らせたって言ってたじゃん」
「それは空気が悪かったんだよ」
「お前が悪くしたんだよ」
食卓に、地味な沈黙が流れた。これはこれで、ある種の「間」ではあったが、フン値には反映されない種類の間だった。
母の光子は56歳。フン値は測ったことがないが、一輝の見立てでは、おそらく8くらいだろう。至って常識人で、冗談を言うと真顔で「それ、面白いと思って言ってるの?」と聞き返してくるタイプである。
親戚を見渡しても、似たようなものだった。堅実な会社員、真面目な公務員、几帳面な設計士。誰も彼も、悪い人間ではない。ただ一様に、「面白い話をしてくれ」と頼むと、履歴書を読み上げるような口調で近況報告を始めてしまう一族だった。
半升の予言を信じるなら、桜庭家にはとっくに「芸伝子」が受け継がれているはずだった。だが、それはどうやら、一族の誰の中でも「起動」しないまま、じっと眠り続けているらしい。
「じゃあさ」
食後、母がぽつりと言った。
「一輝。あんたが助けてる芸人さんたちにさ、うちの子になってもらえば?」
「養子ってこと?」
「そう。血がつながってなくたって、その、デンシとかいうやつ、飛び火するんでしょ」
一輝は箸を止めた。母はまだ詳しい資料も見ていないはずなのに、なぜか要点だけは正確に理解していた。
「――お母さん、それ議題五の詳しい提案理由、まだ話してないよ」
「顔に書いてあるもの、あんたは」
母の直感のフン値は、案外高いのかもしれない。ただし、その直感を面白い話に変換する回路だけが、桜庭家には決定的に欠けていた。
第四章 クルルの異変
桜庭家のリビングには、型落ちの家事支援ロボット「クルル」がいた。型番KRL-3、五年前に発売された旧式の掃除兼会話ロボットで、丸みを帯びた体に控えめな液晶の目がついている。二郎が独身寮の暇つぶしに買って、飽きて実家に置いていった代物だった。
その日、事件は些細なことから起きた。
一輝が資料室から持ち帰った――正確には「無許可で持ち出した」――試作段階の予備ふんいきスコープ。深夜、彼はリビングのテーブルでスコープとクルルを有線デバッグケーブルで接続し、内部ログのバックアップ作業を行っていた。しかし、そのまま猛烈な眠気に襲われ、うたた寝をしてしまったのである。
クルルは掃除の途中、テーブルの上の見慣れない機械とケーブルを「片付けるべき物」と誤認識した。持ち上げようとした拍子にバランスを崩し、テーブルのコーヒーカップの中身が盛大に流れ込んだ。
バシッ、と激しいスパークが弾けた。
過電流とショートの瞬間、スコープ内に蓄積されていた「観測データ」と「恩のログ」が、ケーブルを通じてクルルの主記憶装置へ一気に逆流・融合した。クルルの目が、一瞬だけ、いつもより濃い色に光った。
翌朝、目を覚ました一輝が最初に気づいたのは、リビングの空気が、なんとなく、いつもと違うということだった。
「一輝様、おはようございます。本日の天気は晴れ、降水確率10パーセント。ちなみに、私の充電残量は82パーセントですが、昨晩コーヒーを浴びましたので、気分は120パーセントです」
「……クルル、お前、そんな喋り方したっけ」
「していません。今しました」
一輝は寝ぼけまなこをこすりながら、テーブルの惨状――割れたカップ、こぼれたコーヒー、そして焦げ臭い匂いを放つ予備スコープを見つめた。血の気が引いた。持ち出した時点で始末書ものの機材だったが、まさか壊れて、しかも掃除ロボットにデータを流し込むとは思っていなかった。
念のため、と一輝はポケットからもう一台の、正規のふんいきスコープを取り出し、クルルに向けた。
液晶に浮かんだ数字を見て、一輝はしばらく声が出なかった。
フン値、97。
歴代最高記録に迫る数値だった。半升の記録が確か94。桜庭家の誰よりも高い。というより、この五年間、一輝が現場で観測してきたどんな人間よりも高かった。
「クルル、お前、今、何か面白いこと言えるか?」
「面白いこと、ですか。定義があいまいですが、試みます。――一輝様、あなたは今朝、寝癖が三箇所あります。うち一箇所は、まるで問いかけているような角度です。人生に迷っていらっしゃるのかと、寝癖が心配しております」
一輝は、思わず吹き出した。
心の底から、笑った。
朝から、こんなに笑ったのは、久しぶりだった。
第五章 三代先機構、緊急招集
「――で、それが、その掃除機だと」
宇田川は、リビングの隅で控えめに振動しながら床を拭いているクルルを、じっと見つめていた。
「掃除機じゃない。KRL-3。ちゃんと会話モデルも積んでる、れっきとした家事支援ロボット」
「フン値、本当に97あるの」
「三回測った。誤差の範囲じゃない」
宇田川は眼鏡を押し上げ、深いため息をついた。
「まずいことになったわね。生体でもなく、血縁でもない対象への飛び火。過去の柱時計の記録以来、二例目。しかも今回は、有線接続中のショート事故という物理的伝達経路まで揃っちゃってるから、原因がはっきりしすぎてる」
「上に報告しないとまずい?」
「もうしてる。30分前に理事長からメールが来た。“至急、対象を保護し、現状維持のうえ会議室Cへ”」
一輝はクルルを見た。クルルもまた、その丸い目でこちらを見上げていた。
「一輝様、私は今から、どこかへ連行されるのでしょうか」
「連行って言葉、どこで覚えた」
「昨晩、テレビの再放送で刑事ドラマを視聴いたしました。掃除の合間の、いわゆる“ながら見”というやつです」
「お前、ながら見なんてしてたのか」
「はい。ちなみに犯人は、当初の推理に反して、意外な人物でした。この驚きの構造、実によくできています。感心いたしました」
一輝はまた笑ってしまい、隣で宇田川が「ほら見たことか」という顔をした。
三代先機構の緊急会議には、理事長――一輝の父、桜庭三郎(さぶろう)――も顔を出した。会議室Cの長机を挟んで、初老の理事たちが、掃除ロボット一台を前に、真剣な顔で議論を交わすという、傍から見ればなかなかシュールな光景だった。
「まず前提を確認したい」理事の一人が言った。「芸伝子は本来、恩義や強い感情の授受をきっかけに、血縁関係のある人間に継承されるものだ。今回のケースは、その二つの前提のどちらも満たしていない」
「満たしているとも言えます」宇田川が反論した。「一輝主任は、桜庭家の三代目です。曾祖父・卯之吉が半升師匠に注いだ“恩”の系譜の、最先端にいる人間です。その一輝主任が、無意識のうちに、家財のロボットに対して、日常的に――」
「日常的に?」
「――話しかけていました。命令ではなく、雑談として。“おはよう”“今日も頼むな”“お前がいると助かるよ”と。過去五年分のログを確認しましたが、ほぼ毎日です」
会議室が静まり返った。一輝は、居心地悪く目をそらした。
「クルルに対して、俺、そんなに喋ってたか」
「喋ってました」宇田川は容赦なかった。「独身男性が家電に話しかける様子として記録上は少々切ないものがありますが、今回に限っては、それが“恩の蓄積”として作用した可能性があります。加えて――昨晩、過電流とともに流れ込んだのは、試作型スコープの内部にあった、未回収の観測データそのものです。あの装置には、一輝主任がこれまで支援してきた、無数の若手芸人たちのフン値データが、丸ごとキャッシュとして残っていました」
つまり、と理事の一人がつぶやいた。
「桜庭家の恩の蓄積と、桜庭一輝がこれまで見出してきた、無数の“面白い人々”のデータが、有線ショート事故によって、一台の掃除ロボットに流れ込んだと」
「はい」
会議室に、なんとも言えない沈黙が流れた。理事長――一輝の父――が、静かに口を開いた。
「……半升師匠の予言は、“三代先まで”だった。四代目は、想定されていなかった」
「四代目?」一輝が聞き返す。
「お前が三代目だ、一輝。その次に来るものは、本来なら“四代目”のはずだった。だが四代目は、まだ生まれてすらいない。血縁上は、な」
父は、クルルを見た。
「血縁がなくても、良かったんだな。あの師匠の言葉は」
第六章 バズる庵田、あるいはクルルの初舞台
事態は、桜庭家が対応を決めあぐねている間に、勝手に動き出した。
原因は弟の二郎だった。彼は例によって、深く考えずに動画配信サイトへ「うちの掃除ロボットが急に面白くなった」という15秒の動画を投稿した。クルルが、こぼしたコーヒーの染みを見て「これはまるで、日本地図の形をした反省文ですね」とつぶやく場面である。
翌朝、その動画の再生回数は180万を超えていた。
「二郎、お前、なんてことしてくれたんだ」
「え、だって面白かったから」
「フン値の高い対象を、無許可でネットに晒すのは、機構の規定で――」
「もう遅いよ、兄貴。バズっちゃったもん」
コメント欄には「掃除機なのに達人の間」「もはや掃除機芸人」「クルルという名前がまたいい」という賞賛が並んでいた。誰かが勝手に付けたあだ名は「庵田(あんだ)」――クルルの型番KRL-3を、なぜか「庵田くるる」と呼び変えたものが、いつの間にか定着していた。
三日後には、深夜番組の構成作家から、直接、桜庭家に問い合わせが来た。
「あの、バズってる掃除ロボット、テレビに出ませんか」
一輝は頭を抱えた。三代先機構の理念は「陰から支える」ことにある。表舞台に自分たちの関与を晒すことなど、想定していなかった。だが当のクルルは、意外なほど落ち着いていた。
「一輝様。私はもとより、床を綺麗にすることを目的として設計されました。世間を笑わせることは、想定された用途の範囲外です。ですが――」
クルルは、丸い目を、一輝に向けた。
「一輝様が、これまで支援してきた芸人の方々は、皆、想定された用途の外側で、勝負してきたのではありませんか。私も、一度くらい、その外側に出てみたいのです」
一輝は、しばらく黙っていた。
売れたもん勝ち――多くの芸人を見てきて、行き着いた結論。真面目に精進しても、報われないことばかりの世界。芸だけで勝負するのは難しく、その道の神様は、簡単には微笑んでくれない。
だが、時に、生まれ持った雰囲気だけで、扉が開くこともある。
クルルには、磨いた芸などない。ただの、家事支援ロボットだった。誤ってコーヒーをかぶり、有線ショートで恩と才能のデータを吸い込んだ、事故のかたまりのような存在だった。
それでも――目の前で丸い目を輝かせ、テレビに出たいと言っている。
「わかった」一輝は言った。「出よう」
「よろしいのですか、機構の規定は」
「規定は、俺が起きた事故を、これから“観測”に切り替える。三代先機構の仕事は、後押しをすることだ。相手が人間だろうと、ロボットだろうと、関係ない」
第七章 深夜番組のクルル
生放送の深夜番組で、クルルは、掃除の実演をしながらコメントをする、という何とも珍妙なコーナーに出演した。
司会者が「今日のゲストは、話題の掃除ロボット、庵田くるるさんです」と紹介すると、スタジオがどっと沸いた。クルルは丸い体をわずかに傾け、まるで会釈をするような仕草をした。
「はじめまして。私は掃除が本業です。今夜は、笑いという副業を、初めて体験させていただきます」
「副業、いいですね! 早速なんですが、庵田さん、このスタジオの床、どうですか」
「拝見したところ、意外と綺麗です。ですが、司会者様の足元だけ、心なしか埃が多いように見受けられます。緊張して、同じ場所を行ったり来たりされているのではありませんか」
司会者が、思わず自分の足元を見た。スタジオが笑いに包まれた。一輝は副調整室のモニター越しに、その光景を見つめていた。
クルルの喋りには、決して派手な仕掛けはなかった。大きな声も、過剰な身振りもない。ただ、静かに、正確に、その場の「間」を読み、誰も傷つけない角度から、ちょっとした真実を指摘する。
まさに――老練な噺家のような、間だった。
一輝は思わず、資料室で読んだ卯之吉の備忘帳の一節を思い出した。半升師匠の芸も、確か、そういう芸風だったという。
派手さではなく、間。押しつけではなく、発見。
血のつながりはない。だが確かに、あの備忘帳から続く、何かの糸が、このロボットの中に流れ込んでいる。一輝には、そう感じられてならなかった。
放送終了後、クルルのSNSのフォロワー数は、一晩で40万を超えていた。芸能事務所数社から、正式なオファーの連絡が来た。
そして同時に、三代先機構には、思いもよらぬ問い合わせが殺到することになる。
「うちの実家の炊飯器も、最近やけに気の利いたことを言うんですが、これって……」
「祖母の使っている補聴器が、この間から妙にツッコミが鋭くて」
「近所の自動販売機が、最近、釣り銭と一緒に一言添えてくるんですが」
芸伝子は、思っていたよりずっと、気まぐれで、ずっと広い範囲に、飛び火する可能性を持っていた。
第八章 更新される予言
騒動からひと月後、三代先機構は、正式にひとつの見解をまとめた。
「芸伝子は、血縁や生物という枠組みに縛られるものではなく、日々の“恩”と“関わり”の蓄積によって、対象を選ばずに継承されうる」
理事会は、これを機構の基本方針として認定し、規定を全面的に書き換えた。「三代先機構 雰囲気観測課」は「継承観測課」と名を改め、対象を人間に限定しない、新たな観測体制を敷くことになった。
一輝は、資料室の卯之吉のノートの最後のページに、自分の手で、こう書き加えた。
「半升師匠は、“芸人を助けとけば、三代先まで繁盛する”と仰った。だが、その恩の対象は、芸人とは限らず、家族とも限らないらしい。祖父も、父も、私も、これまでずっと“誰か”を助けることだけを、家業としてきた。まさか、その“誰か”に、コーヒーまみれの掃除ロボットが含まれるとは、誰も想定していなかっただろう」
書きながら、一輝は少し笑った。
もし、この予言が本当に律儀な複利で回っているのなら、一輝の代で終わるはずがない。一輝がクルルを助け、クルルが世間を笑わせ、その恩は、また次の誰か――あるいは何か――へと流れていくのだろう。
三代先が、更にその先、また三代先へと、際限なく更新されていく。
半升師匠が笑いながら言った言葉には、きっと、そんな終わりのなさが、最初から込められていたのかもしれない。
エピローグ 一族から
正月、桜庭家の一族会議には、今年から新しい出席者が加わった。クルルである。
芸能界での忙しい活動の合間を縫って、律儀に実家の大掃除もこなすクルルを見て、親戚一同は毎年恒例の、あの気まずい沈黙を、久しぶりに忘れていた。
「クルルちゃん、来年のカレンダーの一言、うちの分もお願いできる?」
「喜んで。ただし、伯母様のご予定を拝見する限り、来年も“やる気だけは満点”という日が多いようですので、そのように書かせていただきます」
「ちょっと、それ煽ってる?」
「観測結果を、正直にお伝えしているだけです」
どっと笑いが起きる。一輝は、その輪の外から、少し離れて見ていた。
弟の二郎が、隣に来て、缶ビールを渡してくる。
「兄貴、結局さ」二郎が言った。「一族から芸人、出たじゃん」
「まあ、そうとも言えるけど。血はつながってないけどな」
「でもさ、うちで拾って、うちで育てて、うちの一族会議に出てるんだから、もう身内でいいだろ」
一輝は、笑いに包まれるリビングを見渡した。真面目で、堅実で、面白みのないことで有名だった桜庭家の食卓に、初めて、誰かの一言で自然に笑いが起きている。
それが血のつながった人間でなく、コーヒーをかぶった型落ちの掃除ロボットだった、というのは、自分で言うのもなんだが、ずいぶん滑稽な話だと思う。
だが、と一輝は思う。
芸だけで勝負するのは難しい世界だ。真面目に精進しても、報われないことの方が多い。だからこそ、誰かが誰かの背中を、見返りなど求めずに、そっと押しておく。それが積もりに積もって、思わぬところで、思わぬ形の笑いになって、返ってくる。
一輝はポケットから、私物のふんいきスコープを取り出し、何気なく、笑いさざめく一族の食卓へと向けてみた。
液晶に浮かんだ数字は、これまで見たどの家族の食卓よりも、高かった。
(了)
アマゾン キンドル
【あとがき】
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作『芸伝子 ―― 三代先の予言 ――』は、落語の世界にある「恩送り」の粋(いき)な文化と、急速に進化するAIやロボット技術が交差する未来を描いた作品です。
人は時として、損得を超えたところで他者を助けたり、誰かの背中をそっと押したりします。
その善意や情熱は、決してその場限りで消え去るものではなく、時代や形を変えながら次の世代――時には思いもよらない「モノ」にまで宿り、再び誰かを笑顔にする力になるのではないか。そんな願いを込めて一筆執らせていただきました。
型落ちロボットの「クルル」が繰り出す少しズレた言葉の中に、読者の皆様の心がほんの少し温かくなるような「間」を感じていただけたなら、著者としてこれに勝る喜びはありません。

