運命保存の法則
―または、日本一ツイていた男の受難週間―
まえがき
はじめに。
この世界には、目に見えない「天秤」があると言われています。
良いことがあれば、悪いこともある。山があれば、谷がある。誰もが一度は「プラスマイナスゼロ」という言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか。
もしも、その「プラスとマイナス」を一円単位で几帳面に管理しているお役所が存在したら?
そしてもしも、あなたが誰にも気づかれない親切を積み重ねすぎたせいで、「運の高利貸し」として宇宙のルールに引っかかってしまったら――?
主人公の平山凡太は、ヒーローでも天才でもありません。ただのどこにでもいる、少し真面目な三十四歳です。
そんな彼が巻き込まれる、奇妙で、可笑しくて、ほんの少し愛おしい一週間の物語。
仕事の合間や、一日の終わりのリラックスタイムに、肩の力を抜いてお楽しみいただければ幸いです。
一章 平山凡太の平凡な朝
平山凡太、三十四歳。独身。職業、損害保険会社の窓口係。趣味、特になし。特技、これも特になし。
強いて言うなら、彼の特技は「何も起こらないこと」だった。
満員電車では必ず座れないが、倒れることもない。宝くじは毎年三千円分買うが、当たったことは一度もない。恋愛はここ五年ほど発生しておらず、かといって寂しさで押しつぶされるほどでもない。健康診断はいつも「経過観察」。人生そのものが「経過観察」だった。
その朝も、凡太はいつも通り六時四十五分に起き、いつも通りトーストを一枚焦がし、いつも通り駅までの道で自治会のゴミ捨て場のカラスよけネットを直してから出社した。
このネット直し、実は凡太が三年間、雨の日も風の日も欠かさず続けている「一日一善」だった。誰に頼まれたわけでもない。ただ、通りかかるたびにネットがずれているのが気になって、直す。それだけのことだ。
凡太自身はこれを「善行」だとすら思っていなかった。ただの癖だ。靴紐を結び直すのと同じくらい、意識に上らない行動。
けれど、この世界には、こういう「意識に上らない小さな正しさ」を、一円単位まで几帳面に記帳している部署が存在した。
その名も、運命管理局第七管区・プラスマイナス調整課。
そしてこの日、凡太の口座――正確には「運勘定」――が、開局以来の異常値を記録し、局内に静かな、しかし確実なパニックを引き起こしていた。
二章 小さな不運と、大きな違和感
事の発端は、駅前の宝くじ売り場だった。
「お客様、これ……当たってます」
売り場のおばちゃんが、震える声で言った。凡太が三千円で買った十枚のうち、一枚が一等前後賞、残り九枚がすべて末等以上という、統計学的にはほぼあり得ない結果だった。
「え」
凡太は間抜けな声を出した。金額を聞いて、さらに間抜けな声を出した。
「三億……円?」
その帰り道、彼は横断歩道の縁石に足を取られ、盛大に転んだ。膝を擦りむき、鞄の中身が全部道路に散らばった。通行人が二人ほど笑いをこらえながら手伝ってくれた。
「痛った……」
膝の擦り傷を見ながら、凡太は妙な胸騒ぎを覚えた。
三億円が当たった日に、盛大にすっ転ぶ。
これは幸運なのか、不運なのか。差し引きゼロなのか。
その夜、凡太のアパートの郵便受けに、見慣れない封筒が入っていた。差出人の欄には、こう書かれていた。
『運命管理局 第七管区 プラスマイナス調整課』
中の便箋には、たった一行。
『明日、九時。お伺いします。逃げても無駄です(運命的に)。』
凡太は便箋を三回読み返し、三回とも「詐欺かな」と思い、三回とも「でも三億円当たった直後にこれは、さすがに」と思い直した。
三章 蒼井ゼロという男
翌朝九時ちょうど、チャイムが鳴った。
ドアを開けると、そこには灰色のスーツを着た、表情のない青年が立っていた。年齢不詳。胸のバッジには「0000」という番号だけが刻まれている。
「平山凡太様ですね。運命管理局、蒼井ゼロと申します」
「あの……宗教とかそういうのは」
「違います。行政です。強いて言うなら、宇宙の家計簿係です」
ゼロは靴を脱ぎもせず、そのままリビングに上がり込むと、鞄からノートパソコンのようなものを取り出した。画面には、無数のグラフと数値が波打っている。
「平山様。あなたの運勘定、現在プラス八十七万二千三百十一ポイントです。これは第七管区の年間安全域の、約四百倍に相当します」
「はあ……」
「わかりやすく言うと、あなたは今、街ひとつ分の幸運を、個人の懐に貯め込んでいる状態です」
凡太は、湯呑みを持つ手を止めた。
「いや、僕、そんな贅沢な暮らししてませんよ。トースト焦がすし、彼女いないし、宝くじだって今まで一回も」
「ええ。存じております。だからこそ、異常なんです」
ゼロは画面を凡太の方に向けた。折れ線グラフが、ここ三年間、ほぼ一直線に右肩上がりだった。
「毎朝、ゴミ捨て場のネットを直していますね」
「え、何で知っ……」
「毎日、駅前の点字ブロックの上の自転車を、こっそり動かしていますね」
「あれは、その、危ないから」
「見返りを一切求めず、続けていますね。三年間、三百六十五日」
凡太は黙った。ゼロは淡々と続けた。
「善行というのは、複利で運を生みます。特に、誰にも気づかれない善行は利率が高い。平山様は無自覚のうちに、運の高利貸しになっていたのです」
「それの何が悪いんですか」
ゼロは、初めて表情らしきものを浮かべた。困った顔だった。
「悪くはありません。ただし、この世界には『運命保存の法則』というものがありまして」
四章 プラスマイナス調整課という職場
「運命保存の法則、ですか」
「はい。この宇宙の運の総量は、常に一定でプラスマイナスゼロです。誰かがプラスに傾けば、その分どこかで必ずマイナスが発生する。光あらば影がある、という、あれです」
「詩みたいなこと言いますね」
「局のモットーなので」
ゼロは涼しい顔で名刺のようなものを差し出した。そこには局のロゴと共に、小さく「PLUS-MINUS=ZERO」と書かれていた。
そのまま局に連れて行かれた凡太は、そこで初めて「運命管理局」の内部を目にすることになる。
外見は古びた雑居ビルの三階だが、中に入った途端、空間はどこまでも広がっていた。天井には無数の歯車のような装置が回り、壁一面には「本日の全国運収支」という電光掲示板があり、都道府県ごとの運の増減がリアルタイムで表示されている。
「ちなみに沖縄県は先週、地元の高校球児が奇跡の逆転勝ちをしたせいで、来週あたり離島の漁が三日ほど不漁になる予定です」
「因果関係、雑じゃないですか?」
「雑ではありません。精密です。ただし人間には理解しにくいだけです」
局長室に通されると、そこには恰幅のいい老人が、巨大な椅子にふんぞり返っていた。名札には「局長 無双院泰然」とある。
「おお、来たか、平山凡太くん! 話は聞いておる。八十七万二千三百十一ポイント! わはは、近年稀に見る大物じゃ!」
「あの、僕、何も悪いことしてないんですけど」
「うむ、悪いことをしとらんから困っとるんじゃ」
無双院はテーブルを叩いた。書類の山が雪崩を起こし、蒼井ゼロが無表情のまま片手で受け止めた。慣れた動きだった。
「いいか凡太くん。運というのはな、貯めれば貯めるほど、地域全体のバランスを歪めるんじゃ。お主のポイントがこのまま臨界を超えれば、第七管区のどこかで、強制的な『運災害』が発生する」
「運災害?」
「うむ。たとえば――駅前商店街が一斉にシャッター街になる。近隣の病院が一斉に経営難になる。あるいは、隣町の高校球児全員が同時にインフルエンザにかかる、とかな」
「それ僕のせいなんですか!?」
「厳密には『まだ』ではない。だが、このままいけば、じゃ」
無双院は分厚い書類を凡太の前に放り投げた。表紙には『強制相殺執行通知書』と書かれている。
「というわけで、局としては、お主のポイントを一週間以内に安全域まで引き下げてもらう。方法は問わん。ただし――」
蒼井ゼロが淡々と補足した。
「善行で貯めたポイントは、善行では消せません。むしろ増えます」
「じゃあどうすりゃいいんですか!」
「それを、これから一週間かけて、お考えいただきます」
局長室の壁の電光掲示板に、新しい表示が灯った。
『第七管区・臨界警報 対象:平山凡太 残り168時間』
五章 運を捨てる方法、その1「使い切り作戦」
「つまり」と凡太は言った。「運を、意図的に使い切ればいいんですね」
「理論上は」とゼロが頷く。
「よし。だったら、豪遊してやります。三億円、パーッと使って、運を減らします!」
局を出た凡太は、その足でカジノ風のゲームセンターに向かい、コインを全額メダルゲームに突っ込んだ。
結果。
ジャラジャラジャラ! とけたたましいファンファーレが鳴り響き、メダルが天井届く勢いで積み上がった。店内は大騒ぎだ。
「おかしい……」
次に、わざと信号無視をしてみた。パトカーに見つからないどころか、道端で轢かれかけていた子猫を助ける羽目になり、飼い主から深々と感謝され、高級なお菓子をもらった。
「おかしいだろ!!」
それならと、わざと不健康な生活をしようと深夜のラーメン店に並んだ。すると前に並んでいた老人が体調を崩し、凡太が介抱して救急車を呼んだ結果、後日感謝状が届いた。後日の健康診断の数値はなぜか改善していた。
蒼井ゼロが、いつの間にか隣に立っていた。
「言ったはずです。善行で貯めたポイントは、善行では消せません」
「じゃあこれは善行じゃなくて、ただ単に運がいいだけじゃないですか!?」
「運がいい、という現象そのものが、あなたの勘定から生まれています。あなたが動けば動くほど、周囲に良いことが起き、それがまたあなたのポイントに還元される。あなたはもう、街の『幸運の重心』になりかけているんです」
「じゃあ何もしなければいいのか」
「何もしないのも、実は難しいですよ。あなたは無意識に、良い行動をする癖がついていますから」
事実、この会話の間にも、凡太は無意識に道端の空き缶を拾ってゴミ箱に入れていた。
ゼロはそれを見て、小さくため息をついた。
「見ましたか、今の」
「え、何が」
「無自覚です。重症ですね」
六章 黒猫クロと、フィールド安定装置
その夜、凡太のアパートのベランダに、一匹の黒猫が座っていた。
「よう、凡太」
猫がしゃべった。凡太は悲鳴を上げかけたが、猫がそれを前足で制した。
「騒ぐな。首輪見ろ」
首輪には小さな装置がついていた。『フィールド安定装置Mark-3・簡易翻訳機能付き』と書かれている。
「俺はクロ。第七管区担当の、非公式な運場観測員だ。局にバレると怒られるんだが、まあお前も大概巻き込まれてるから、教えといてやる」
「あ、あなたも局の人?」
「猫だ。厳密には局の外部委託だが、まあ似たようなもんだな」
クロは尻尾を揺らしながら、ベランダの手すりの上を歩いた。
「いいか凡太。お前が今抱えてる問題は、実は局の連中もあまり大きな声じゃ言えない、ちょっとした矛盾を含んでる」
「矛盾?」
「運命保存の法則ってのは、確かに存在する。プラスがあればマイナスがある。それは事実だ。だが――」
クロは前足で、ベランダの手すりについた朝露を弾いた。
「その法則が本当に働くのは、『極端』に対してだけなんだよ。誰かがものすごく得をすれば、どこかでものすごく損をする者が出る。だがな、極端じゃなく、ただ『普通』に、ただ『安定』しているだけの幸せってのは――」
「それは?」
「そもそも、相殺の対象になんかならねえのさ。プラマイゼロの外側にある」
凡太はしばらく黙って、猫の言葉を反芻した。
「じゃあ、僕はどうすれば」
「さあな。それは局の連中も、実はまだちゃんとわかっちゃいねえ。だから、お前で実験してるようなもんだ」
クロはそう言うと、ふわりと屋根の向こうへ姿を消した。
七章 取り立て屋・加賀美収子の登場
翌朝、会社に着くと、受付に見知らぬ女性が立っていた。タイトなスーツ、片手にタブレット、もう片方の手には、なぜかそろばんを持っている。
「平山凡太さんですね。運命管理局・債権管理室の加賀美収子です」
「債権管理室? さっきの調整課とは違うんですか」
「違います。あちらは運の増減を『監視』する部署。私は運の『貸し借り』を回収する部署です」
加賀美はそろばんを、ぱちん、と一つ弾いた。
「あなたの運勘定、実は完全に『あなただけの資産』ではありません。過去、あなたが無意識に助けた人々――ゴミ捨て場の自治会長、点字ブロックを使う視覚障害者の方、ラーメン屋で倒れた老人――彼らの『感謝』や『幸運の巡り』の一部が、あなたの勘定に混ざり込んでいます」
「え、それって」
「つまり、あなたのポイントの一部は、正確には『社会全体からの借り』なんです。返済期限は特にありませんが、局としては、放置されすぎた大口の借りは健全ではないと考えています」
凡太は頭を抱えた。
「じゃあ僕は、その運を、誰かに返せばいいってことですか」
「理論上は、そうなります」
加賀美は初めて、少しだけ笑った。
「面白い方ですね、あなた。局に呼ばれる人間の九割は、ずるをして運を貯め込んだ悪人です。あなたみたいな、無自覚な善人型は、記録上、五十年ぶりです」
「それ、褒められてるんですか?」
「さあ。私にもわかりません」
八章 運を配る、という発想
「運を、誰かに配ればいいのでは?」
凡太がそう提案すると、蒼井ゼロと加賀美収子は顔を見合わせた。
「理論上は可能です」とゼロ。「ただし、前例がほとんどありません」
「なぜ?」
「善意で貯めた運を、さらに善意で他人に譲渡する行為――それ自体が、また新たな善行として記録され、運が増えるからです」
「無限ループじゃないですか!」
「ええ。局内では『平山ループ』と呼ばれ始めています」
その日の午後、局のホワイトボードには「平山ループ対策会議」という文字が躍り、無双院局長以下、局員たちが頭を抱えていた。
「わしの三十年の局長人生で、こんな厄介な善人は初めてじゃ」
「局長、そもそも規則が『悪人が貯め込んだ運を没収する』ことを前提に作られていて、善人が無自覚に貯め込むケースを想定していません」
「じゃったら規則を変えればいいじゃろ」
「規則を変えるには、上部機関――ゼロサム機関の承認が必要です」
その名前が出た瞬間、局内の空気が凍りついた。
「ゼロサム機関、ですか」と凡太が尋ねる。
蒼井ゼロが、珍しく声を落として答えた。
「この宇宙の運の総量を、文字通り機械的に管理している、最上位組織です。人間味は、一切ありません」
窓の外で、遠くの空に、一瞬だけ巨大な天秤のようなシルエットが浮かんで消えた。
九章 執行官・天秤武蔵
四日目の朝。凡太のアパートの前に、巨大な男が立っていた。
身長二メートル超。スーツはパンパン。手には、なぜか本物の天秤を持っている。
「平山凡太だな。ゼロサム機関、相殺執行官、天秤武蔵である」
「あの、僕、まだ猶予期間中のはずじゃ」
「うむ。だが上が『念のため』と申してな。わし個人としては、話し合いで解決したい所存」
武蔵はそう言いながら、天秤を凡太に向けた。片方の皿がぐんと沈む。
「重い。実に重いぞ、貴様の運は。わしがこれまで相殺してきた強欲な政治家、悪徳商人、詐欺師連中と比べても、桁が違う」
「僕、何もしてないんですって!」
「わかっておる。だからこそ厄介なのだ」
武蔵は天秤を下ろすと、意外にも柔和な顔になった。
「わしとて鬼ではない。話は聞いておる。貴様は無自覚に善行を積み、それが利子を生み、雪だるま式に膨らんだだけ。罪はない」
「じゃあ」
「だが、規則は規則。七日目の朝、貴様の運勘定が安全域を超えたままなら、強制相殺を執行せねばならん。おそらく、貴様には向こう十年分の不運が、一気に降りかかることになる」
凡太は青ざめた。
「十年分の不運って、具体的には……」
「交通事故、失業、破産、失恋、水道管破裂、痔――」
「痔まで!?」
「宇宙は容赦せん」
武蔵は天秤を担ぎ直すと、去り際にぽつりと言った。
「凡太よ。わしも昔は、貴様のような『無自覚な善人』を、何人も相殺してきた。だがな、実を言うと、わしはずっと納得がいっとらんのだ」
「何にですか」
「なぜ、善良さそのものが罰せられねばならんのか、とな」
十章 局長の告白と、古い巻物
その夜、局長室に呼ばれた凡太は、無双院と二人きりで熱い茶を挟んで向き合っていた。
「凡太くん。わしがこの仕事を三十年やってきて、わかったことがある」
「はい」
「この宇宙のプラスマイナスゼロの法則はな、確かに存在する。だが、それは主に『極端』な運の動きに対して働くんじゃ。大成功者を見てみい」
無双院はタブレットを操作し、過去に運勘定が極端に振れた著名人たちの記録を見せた。
「巨万の富を築いた実業家。栄光の絶頂で、家族を失った。国民的英雄となったスポーツ選手。引退後、健康を大きく損ねた。プラスの裏には、必ずマイナスが控えとる」
凡太は尋ねた。
「自分も、そうなってしまうんでしょうか」
「いや」
無双院は首を振った。
「お主のポイントは異常じゃが、その中身は『極端な成功』ではない。ただの、地味な、誰にも気づかれない親切の積み重ねじゃ。極端ではなく、静かで、平らな善意」
「それの何が違うんですか」
「わしにも、正直まだわからん。だが局の古い記録に、こういう一文が残っておる」
無双院は古びた巻物のようなものを広げた。そこには、こう書かれていた。
『身の丈ほどの願いならば、丁寧に、正しく生きた中には、安定という回答がもたらされる。これは相殺の対象にあらず』
「これ、誰の言葉ですか」
「わからん。局の創設者が遺した言葉らしいが、意味は誰も解読できておらん」
無双院は茶をすすった。
「じゃが、凡太くん。わしはこう思う。お主のケースは、この一文の答えそのものかもしれん、とな」
十一章 運災害、前夜
五日目。街のあちこちで、異変が起き始めていた。
商店街の福引で一等が三十回連続で出た。信号機がすべて青のまま止まらなくなった。地元の少年野球チームが、格上相手に十対〇で勝ち続けた。
一見、いいことずくめに思えるが、局の電光掲示板は真っ赤に点滅していた。
「これは……プラスの過飽和状態です」
蒼井ゼロが険しい顔で画面を睨む。
「このままプラスが局所的に集中し続けると、必ずどこかで、それに見合うだけのマイナスが一気に噴き出します。局の予測では、明後日の朝、第七管区のどこかで大規模な『運災害』が発生する可能性が九割を超えました」
「僕のせいで?」
「あなた一人のせい、というより、あなたを中心に、街全体の運の流れが歪んでいる状態です」
加賀美収子が資料を片手に走り込んできた。
「局長! 予測地点が絞り込めました。震源地――もとい、運災害の発生予測地点は、この駅前商店街です」
「凡太くんの実家近くじゃないか」
「はい。おそらく、平山さんが三年間ネットを直し続けてきた、あのゴミ捨て場周辺が中心になります」
凡太は立ち上がった。
「僕、何とかします」
「どうする気じゃ」
「わかりません。でも、あそこは僕が毎朝通る場所です。誰かが困るのを、黙って見てるわけにはいきません」
蒼井ゼロが、珍しく凡太をまっすぐ見た。
「それも、また新たな善行になりますよ。ポイントは、さらに増えます」
「知ってますよ、そんなこと!」
凡太は叫んだ。
「でも、増えるからやらない、なんて、そんな計算、僕にはできません」
局内が、しんと静まり返った。
無双院がぽつりと呟いた。
「……ほう」
十二章 偽善でも結構、大作戦
六日目の朝。凡太、蒼井ゼロ、加賀美収子、そして黒猫クロ、さらにこっそり合流した天秤武蔵――奇妙な五人(と一匹)は、商店街の入り口に集まっていた。
「作戦を説明する」とゼロが言った。「運の過飽和を抑えるには、局所的なプラスの集中を、面的に薄く広げる必要があります。つまり――」
「一日一善を、街中でやりまくればいいんですね」とクロ。
「理論上は、逆効果です。個人の善行はポイントをさらに集中させます」
「じゃあどうすんだよ!」と武蔵。
加賀美が手を挙げた。
「一つ提案があります。平山さんが『主体』にならなければいいんです。平山さんは、他の人が善行をする『きっかけ』だけを作る。実際に行動するのは、街の人たち自身」
凡太はハッとした。
「僕が直接やるんじゃなくて……みんながそれぞれ自分の意志で、小さいことをする?」
「そうです。偽善でも構いません。むしろ偽善上等です。動機の純度は、局の計測装置には関係ありません。行動そのものが、運の流れを分散させます」
その日、凡太は商店街の掲示板に、こんな貼り紙を出した。
『今日から一週間、なんでもいいので、誰かのために小さなことを一つ、やってみませんか。偽善で結構です。』
最初は誰も見向きもしなかった。だが、夕方になる頃には、八百屋の店主が常連客に大根のおまけをつけ、花屋の店員が売れ残りの花を近所の老人ホームに届け、中学生たちが自転車置き場を整理し始めた。
小さな善意が、点から線へ、線から面へ、街中に広がっていった。
局の電光掲示板の赤い点滅が、ゆっくりと、黄色、そして緑へと変わっていく。
「集中していたプラスが……分散しています」
蒼井ゼロが、初めて驚いた顔をした。
十三章 クライマックス、平々凡々の逆転劇
七日目、運命の朝。
局の電光掲示板の前に、無双院、蒼井ゼロ、加賀美収子、天秤武蔵、そしてクロが集まっていた。凡太は、いつも通りゴミ捨て場のネットを直しに、いつも通りの時間に、いつも通りの道を歩いていた。
「臨界値まで、あと十二分」とゼロが読み上げる。
商店街では、昨日から始まった「小さな善意」の輪が、今朝もさらに広がっていた。パン屋のおじさんが焼きたてのパンを近所に配り、犬の散歩中のおばあさんが道端のゴミを拾い、駅の駅員が階段で困っている車椅子の人を手伝う。
誰も、それが「運命保存の法則」を左右しているなどとは知らない。ただ、なんとなく、今日は誰かに親切にしたい気分だった、というだけだ。
「臨界値まで、あと三分」
電光掲示板の数値が、ゆっくりと下がり始める。八十七万、八十万、七十万……。
「これは……」
無双院が身を乗り出した。
「凡太くんのポイントが、彼個人の懐から、街全体に、少しずつ均等に再分配されておる!」
「まさか」とゼロ。「彼が求めたものは、莫大な幸運じゃない。街のみんなが、それぞれ少しずつ、当たり前の安定を持っている状態――それこそが、彼にとっての『本当のゴール』だった、ということですか」
数値は、ついに安全域まで下がりきった。
「臨界回避……成功」
局内に、拍手が起きた。武蔵だけは、少し悔しそうな、それでいてどこか安堵したような、複雑な顔をしていた。
「相殺の出番がなくなったのは、正直、ちと寂しいが……まあ、良い朝じゃな」
凡太は、いつも通りネットを直し終え、いつも通り駅に向かって歩いていた。何も知らないまま。
十四章 エピローグ、経過観察
一週間後。
凡太の日常は、驚くほど何も変わっていなかった。トーストは相変わらず一枚焦げるし、電車では相変わらず座れない。三億円は――結局、街の商店街復興基金に、匿名でこっそり寄付してしまった。
「自分らしいですよね、これ」
そう言って笑う凡太の前に、加賀美収子が湯呑みを片手に座っていた。局への報告書を書くという名目で、最近やたらとこの喫茶店に現れるようになった。
「あなたのファイル、局では今も『経過観察』のままです」
「一生経過観察な人生な気がします、僕」
「悪いことではないですよ」
加賀美は、珍しく穏やかな声で言った。
「健康であること。安全に今日を過ごせたこと。ほんの少し足りなくても、安定していること。そこそこ足りなくても、お金が回っていること――それって、本当は、ものすごい幸運なんです。ただ、みんな気づかないだけで」
窓の外、電線の上に一羽のカラスが止まり、その隣の塀の上を、見覚えのある黒猫が悠々と歩いていく。
凡太はふと、いつか聞いた言葉の一節を、思い出した気がした。
――身の丈ほどの願いならば、丁寧に、正しく生きた中には、安定という回答がもたらされる。
「加賀美さん」
「はい?」
「今日、これから空いてます? お礼に、何か奢らせてください」
加賀美は少し驚いた顔をしてから、そろばんを鞄にしまった。
「それ、新しい借りが増えますけど、いいんですか」
「いいですよ。プラマイゼロなんて、僕にはもう、よくわかりませんから」
窓の外を、平々凡々な風が吹き抜けていった。
― 完 ―
番外編・その一
運命管理局、その後の日常
この物語には、もう少しだけ、後日談がある。
局長・無双院泰然は、この一件を機に「平山モデル」と名付けた新方針を局内に提案した。曰く、「悪人からの没収」だけでなく、「無自覚な善人の、静かな幸福の分散」もまた、局の正式な業務に加えるべきである、と。
会議では猛反発が起きた。
「そんな悠長なことをしていたら、予算が足りません!」と経理課長。
「そもそも善人を取り締まる部署に、善人を応援する機能を足すなど、本末転倒です!」と総務課長。
無双院は、それらの反対意見をすべて黙って聞いたあとで、ひとこと言った。
「わしはもう年じゃ。好きにさせてくれ」
この一言で、なぜか会議は解散した。局長の権限とは、時にこういうものである。
蒼井ゼロは、あの一件以来、少しだけ表情が豊かになった。とはいえ、豊かになったといっても、無表情が「やや無表情」になった程度で、他の局員からは「ゼロさん、最近ちょっと丸くなりましたね」と言われては、律儀に「変化率、〇・三パーセントです」と訂正して回っている。
天秤武蔵は、あの日以来、なぜか凡太の住むアパートの近所に引っ越してきた。表向きは「経過観察のため」だが、実際は近所の定食屋の煮魚定食を気に入っただけらしい。凡太とは、たまに銭湯で顔を合わせる仲になった。
「凡太よ、湯加減はどうじゃ」
「ちょうどいいですよ、武蔵さん」
「そうか。プラマイゼロというのは、案外、こういう温度のことを言うのかもしれんな」
黒猫クロは、相変わらず気まぐれに現れては、ベランダの手すりの上で日向ぼっこをしている。局への正式な報告書には、いまだに「観測対象:黒猫一匹(詳細不明)」とだけ記されている。
番外編・その二
加賀美収子のそろばん
加賀美収子は、あれから毎週水曜日、局の仕事帰りに凡太の働く保険会社の窓口に立ち寄るようになった。
「べつに、あなたの運勘定を監視しているわけじゃありませんから」
「じゃあ何しに来てるんですか」
「保険の相談です。医療保険、そろそろ見直そうと思いまして」
そう言いながら、加賀美は毎回そろばんを取り出し、凡太の説明をぱちぱちと確認する。局の資産管理で鍛えられた暗算力は保険の見積もりにも存分に発揮され、凡太の提示額の誤差を三回連続で指摘した。
「あなた、営業成績、大丈夫なんですか」
「いや、その、あなたが優秀すぎるだけで」
「それは慰めになっていません」
そんなやり取りを重ねるうち、二人の間には、運の貸し借りとは関係のない、ごくありふれた時間が積み重なっていった。
蒼井ゼロは、この様子を局のモニター越しに眺めながら、誰にともなく呟いたという。
「これもまた、相殺の対象にならない類の、幸福でしょうね」
隣で報告書を整理していた無双院が、老眼鏡越しにモニターを覗き込み、にやりと笑った。
「じゃろうな。あれはもう、法則の外側の話じゃ」
あとがきに代えて
運というものは、きっと誰の懐にも、多かれ少なかれ眠っている。
ただ、それはなかなか都合よく現れてはくれず、多くの人は、そのタイミングにすら気づかないまま、日々をやり過ごしている。
けれど、健康であること。安全に一日を終えられたこと。わずかに足りなくても、どうにか安定していること。そこそこ足りなくても、お金がなんとか回っていること。
そうした、あまりに当たり前すぎて数えることすら忘れてしまう幸運こそが、実はこの物語における「相殺されない幸福」の正体だったのかもしれない。
山を越え、谷を越えるような派手な人生に憧れる気持ちは、誰の中にもある。けれど、平々凡々な、平らな道を、丁寧に、正しく歩いていくこともまた、ひとつの、立派な選択なのだと思う。
凡太の運勘定は、今日も局のファイルの中で、静かに「経過観察」のスタンプを押され続けている。
― 完 ―
アマゾン キンドル
あとがき
物語の中で、黒猫のクロや無双院局長が語っていたように、「幸運」や「成功」という言葉は、時にとても派手で大きなものを想像させます。劇的な大逆転や、巨万の富、名声。けれど、そういった極端な山の裏には、同じくらい深い谷が隠されているのかもしれません。
私たちが日々の生活の中で見落としがちな、「何も起きないこと」「健康であること」「ほんの少し足りなくても、なんとか回っていること」。そうした平々凡々な日常こそが、実は宇宙の相殺ルールすら擦り抜ける、一番強固で幸せな「安定」なのではないか――そんな思いからこの物語を書きました。
毎日の通勤通学、ふとした瞬間に道端のゴミを拾ったり、誰かにちょっと席を譲ったり。そんなあなたの「意識に上らない小さな正しさ」も、もしかすると世界のどこかの運命管理局で、密かに高利率で記帳されているかもしれません。
この作品が、あなたの日常の「平凡な一日」を少しだけ愛おしく思えるきっかけになれば幸いです。
またどこかの街の、平々凡々な風の中でお会いしましょう。

