裁定係、参上! 三部作
〜帰ってくる場所 〜
〜まえがき〜
「お天道様が見ているから、悪いことはできないよ」
小さい頃、誰かに言われた言葉です。
いつの間にか、隣に誰が住んでいるかも知らないのが普通になった。注意する大人も、される子供もいなくなった。
ずるをした者が笑い、真面目な者が黙る景色に、なんとなく納得してしまっている今。
もし閻魔様が、いやそれは違うだろうと言い出したら。
しかも現場に来たのが、閻魔庁で一番頼りない窓際職員だったら。
これは、帰る場所を守るために、普通の善良さだけでなんとかしようとする男の、三つの町の物語です。
第一部
新米地獄職員・三途川一歩の奇妙な人間観察記
プロローグ
浄玻璃鏡のヒビ
閻魔庁地下九十九階、浄玻璃鏡課。亡者の一生を映す巨大な鏡の間で、甲高い警報が鳴った。
「またかよ」湯呑みを持った小柄な老人が呟く。閻魔大王だ。見た目は近所の碁会所にいそうな爺さんだが、声だけは地獄の底から響く。
「今月三十七枚目です」報告した牛頭は真っ赤な顔で頭を抱える。「帳簿に載らない悪事が増えてます。誰かが鏡に細工してるとしか」
鏡の奥、日本の議員会館。笑いながら書類をシュレッダーにかける男が映っている。横には「清廉潔白度99.8点」の表示。
「こいつ、賄賂も横領も嘘も全部やっておるのに、鏡では聖人君子か。因果の帳簿が狂えば地獄の仕事がなくなる」
大王は湯呑みを置き、叫んだ。「誰でもいい。若いのを一人地上にやれ」
この誰でもいい、の一言で、地獄一運のない男、三途川一歩の第二の人生が始まった。
一章
新米、抜擢される
三途川一歩、三十二歳。生前は文房具メーカーの営業。特技は相手の話を最後まで聞くこと。欠点はエレベーターの閉ボタンを無意識に連打すること。
善人でも悪人でもないので、死後はとりあえず事務方で地獄庁行き。浄玻璃鏡課の書類整理係、通称お茶汲み兼居眠り係だ。
「一歩ォ」牛頭課長に叩き起こされる。「大王様がお呼びだ」「俺をですか。特別表彰ですか」「いや、手が空いてたのがお前だけだ」
玉座の大王は一歩をじろりと見た。「お前、生前は何を」「営業です。人と人の間を」「その普通さがいい。平凡な奴の方が、平凡な悪事に気づく」
鏡に映る男を指さす。「こいつらの悪事が鏡に映らん。原因を探れ。器は用意した」「俺がですか。誰でもよかったんですよね」「うむ、誰でもよかった。だが今はお前しかおらん」
二章
着地失敗、練炭の香り
地上出向は仮の器に魂を入れる方式だ。「器がこれしか空いてなくてな」用意されたのは見た目七十八歳、腰の曲がった老人だった。名前は三田一歩。読み方はみたいっぽ。地獄の人事はたまに洒落を言う。
着地も失敗し、都下の長屋街に尻餅で降臨。「いでで」起き上がると、むっとする練炭の匂いがした。知らないはずなのに懐かしい。器の持ち主の記憶が流れ込んでくる。
縁側で洗濯物を畳む老婆が声をかける。「一歩さん、腰大丈夫かい」勝手に口が動く。「大丈夫です、タマばあさん」田中タマ。六十年この長屋に住む生き字引だ。
「近頃は隣の顔も知らない人が多いけど、ここはまだみんな知り合いだよ。昔は向かいのオジさんがよその子でも叱ったもんだ」
その一言で、一歩の中で何かが繋がった。鏡のヒビの原因は、こういう関係が消えたことと関係があるのかもしれない。
三章
町内会長とスマホと、謎の光る名刺
町内会長、黒巣蔵之介。愛称クロス。六十代、愛想はいいが一年で急に金回りが良くなった。
寄り合いに紛れ込むと、クロスはスマホをいじりながら演説している。「再開発は私に任せれば万事」そのスマホの奥が、薄く鏡のように光っている。一歩の霊視がちりっと反応する。
終わった後、わざと居残る。「クロスさん、最近儲かってるようで」顔が一瞬引きつる。「コツコツやってるだけですよ。三田さんは口が悪くなった」
嘘をついた瞬間、背中に黒い靄がふっと出た。研修で見た嘘のサインだ。
夜、レシートの裏に呪文を書いて交信。「課長、町内会長が鏡に似たものを持ってます」牛頭の顔が青くなる。「裏鏡だ。浄玻璃鏡の欠片で作られた闇市場品だ。持ち主の悪事を帳簿から消す。しかも持ち主が自分から手放すと、存在理由を失って割れる欠陥品でもある」
「一人で何とかなる規模じゃないですよね」通信は切れた。都合の悪い質問には答えないのが官僚だった。
四章
不良少年と、斜に構えた正義感
翌朝、裏路地で金髪の少年、陸と出会う。「ジジイ、暇だな」「口の利き方を知らんのか、若いの」器のせいで説教が板につく。
「自分は自分、他人は他人だろ。今どき」「自分は自分か。じゃあ他人が困ってても知らんぷりか」「別に」と言いながら、陸は目を逸らす。よく見てる奴ほど、そう言う。
「クロスさんのこと知らんか」「うちの親父が言ってた。嘘の資料で土地を安く買い叩いてるって。市議の寝屋川って奴も噛んでるらしい」
一歩は笑った。「目がいいな。お前の目、貸してくれんか。じいさんが詐欺に遭わないように見張ってくれ」「はあ。しょうがねえな。ついてってやるよ、じいさん」ジジイからじいさんに昇格した。
五章
闇市の鏡と、笑う議員先生
陸のスマホとタマばあさんの口コミ網で、芋づる式に繋がった。裏鏡の元は市議、寝屋川宗吉。福祉予算を横流ししながら清廉潔白で通る男だ。
後援会サイトには子供と笑う写真。だが一歩には笑顔の奥の黒い靄が見える。
夜、事務所の裏で二人の会話を盗み聞く。「先生、鏡の調子は」「最高だよ。多少強引でも帳簿に残らん。地獄なんて迷信さ。逃げ切った者勝ちだ」
隠れていたタマばあさんが小さく呟く。「見て見ぬふりが一番嫌いだよ、あたしゃ」陸も拳を握る。「マジでムカつく」
その帰り道、黒い車がずっと後ろをついてきていた。
六章
拉致られる新米、火事場のばあちゃん力
廃工場に連れ込まれた。三人まとめて椅子に縛られる。老人の器では抵抗できない。
前に立つクロスと寝屋川。寝屋川は小さな手鏡、裏鏡の欠片を弄ぶ。「何を喋っても証拠は残らん。こいつがあればな」
その時、タマばあさんが叫んだ。「宗吉ちゃん。あんた、駄菓子屋で万引きしてうちの亭主に泣きついた子だろ。亭主が頭撫でて、正直に生きろって言ったの覚えてないのかい。あんた泣きながらおじちゃんみたいになるって言ったじゃないか」
工場が凍る。寝屋川の顔から血の気が引く。「昔の話だ」声は震えていた。
クロスが苛立つ。「先生、行きましょう」二人が出ていった後、用心棒がニヤつく。と、タマばあさんがぼそりと言う。「一歩さん、うちのコルセット、畑仕事用でね。針金入りの特製なんだよ」バチンとロープが切れる。六十年の畑仕事で鍛えた握力だ。
「じいさんばあさん舐めんなよ」と陸が椅子で用心棒の脛を殴り、三人は脱出した。
七章
脱出、そして閻魔庁への緊急報告
茶の間に戻り、震える手でレシート通信。「裏鏡は本物です。町内会長と議員が結託してます。しかも全国に流れてるらしい」
光が強くなり、大王本人が出る。「身内から欠片が持ち出されておるな。元締めを探せ。儂も行く」「大王様が地上に」「数百年ぶりだ。からあげクンが食いたいという噂も聞いたしな」
通信が切れた。陸が湯呑みを出す。「とんでもねえ話になってきたな」タマばあさんが笑う。「でも一歩さんが来てから、この町、久しぶりにみんなで何とかしようって空気になったよ」
八章
骨董屋の老人と、三尸虫の恨み言
通販ページの住所、寂れた骨董屋。店主は一歩より老けて見えた。「鏡のお守りについて」店主の顔が揺らぎ、鬼の顔が覗く。肩に虫の影。
「三尸虫の権蔵だな」かつての下級鬼。出世争いに負け、自分の失態を鏡から消したことで闇落ちした男だ。
「何百年も真面目に見張ってきたのに、誰も褒めちゃくれん。なら消す側に回ってやるとな」「そんな理由で全国にばら撒いたのか」「今の世に合わせただけだ。誰も他人のことなんか見ちゃいない。あの世の裁きも適当でいいだろう」
タマばあさんが首を振る。「誰も見てないなんてこと、ないよ。見てないふりしてるだけで、本当はみんな見てる。空も見てる」
権蔵は木箱を抱えて叫ぶ。「もう遅い。手筈は整ってる。この欠片はな、持ち主が自分から手放さない限り消えんのだ」そう言って鏡に飛び込み消えた。自ら弱点を喋るタイプの悪役だった。
外が眩い光に包まれる。
九章
閻魔様、参上
光の中に羽織姿の大王。「着いたぞ。ここはどこじゃ」「商店街です。目立ちます」「儂は閻魔じゃ。目立って何が悪い」腹が鳴る。「あの光る店は何じゃ」コンビニだ。人類史上初、閻魔大王のレジ待ちが発生する。
「主、からあげクンを所望する」財布は一歩の小銭。店員は「コスプレイベントですか」と苦笑い。からあげクンを頬張り、大王は真顔に戻る。
「権蔵は式典で一気にやるつもりだ。会場全体の記憶を消すつもりじゃ。あそこが最後の集荷場所だ」遠くの高層ビルに再開発記念式典の横断幕が揺れていた。
十章
式典前夜、ご近所ネットワーク発動
タマばあさんの家に二十人近い老人が集まる。みんな杖をつき、みんな顔見知りだ。「タマさんから聞いたよ。宗吉ちゃんがねえ」「うちの亭主も世話になったのに」「証拠がなきゃ陰口で終わるよ」
一歩が立つ。七十八歳の身体で精一杯背筋を伸ばす。「証拠は皆さんの記憶です。裏鏡は帳簿を消せても、皆さんの心は消せません。同じことを覚えている人が多ければ多いほど、鏡は負ける。そう大王が言ってました」
陸も立ち上がる。「俺、明日生配信する。隠しカメラじゃなく堂々と。生で見たって事実は、どんな鏡でも消せないから」
少し前まで自分は自分と言っていた少年が、自分のスマホを町の武器にすると言った。「さあ行こうか。私らの町のために」タマばあさんの一声で、昭和のご近所ネットワークが再起動した。
十一章
式典壇上、鏡が割れる時
式典はテープカットで始まる。壇上に寝屋川、クロス、変装した権蔵。「本日はお日柄もよく」その時、後方から声が上がる。「ちょっと待った」タマばあさんたちだ。陸のスマホは既に赤い配信ランプがつき、視聴者数が跳ね上がっている。
「宗吉ちゃん、あんた地権者に嘘ついて安く買ったんだろ。うちは騙されたよ」「私もだ」「俺もだ」次々と手が上がる。消せない記憶が積み重なる。
クロスが裏鏡を掲げる。「消せばいいんだよ。なかったことにすれば」会場の照明が落ち、重い声が響く。「あの世の帳簿に残らずとも、人の心には残るのじゃ」闇の中に大王。会場は演出だと思ってざわめく。
権蔵が最大の欠片を掲げる。「会場ごと忘れさせてやる」タマばあさんが最後の一押しを叫ぶ。「宗吉ちゃん。あんたのお祖母ちゃんは空襲の時、隣の子をおぶって逃げた立派な人だよ。あんた、その孫だよ。今からでも遅くない」
寝屋川の手が震える。クロスの腕を掴んで止めた。「もういいんだ、クロスさん。もう逃げるのはよそう」
当事者が嘘を手放した瞬間、裏鏡にヒビが入る。持ち主が手放すと存在理由を失って自壊する、あの欠陥だ。バリィンと甲高い音を立て、裏鏡は粉々に砕け散った。配信のコメント欄が「鏡割れた」で埋まる。
十二章
裁き、そして間に合った者たち
膝をつく権蔵に大王が言う。「認められたいのなら、鏡を割るのではなく、まっすぐ裁きを受けよ」「俺はただ」「分かっておる。しばらく償いをせよ。その後、また働く機会をやる」権蔵は泣きながら頭を下げた。
騒動は地元劇団のサプライズとして処理されたが、配信映像と地権者の証言は残った。寝屋川は辞職し、クロスも捜査を受けることになった。
大王は一歩を見る。「一歩よ、案外筋がよい。お主は普通の善良さを配るのが上手い」「俺、また窓際ですか」「さてな。新設部署の主任が空いておるが」机には辞令があった。地上派遣特別調査室主任。
エピローグ
練炭の匂いのする未来
一年後。長屋街に子供の声が戻った。新町内会長は陸の父親だ。縁側では陸が子供たちを叱っている。「危ないだろうが」「あの時のじいさんみたい」とタマばあさんが笑う。「うるせえな」
三田一歩老人は遠くの親戚の家へ行ったことになっている。タマばあさんたちは時々縁側で「一歩さん、元気かねえ」と空を見上げる。
閻魔庁。「一歩、遅刻だぞ」「すみません課長」次の任地は海の向こうだ。「誰でもよかったのだが、今回はお前でなくては困る、という依頼が各地から来ておる。お前のやったことが、少しずつ広がっておるようだ」
修復された鏡には、ハワイの盆踊りと日本の長屋の縁側が一緒に映っていた。大王は茶を飲み干し下界を見渡す。「さて、お覚悟のほどを、な」
番外編
三途川一歩、死亡の顛末
死因は地味だった。真夏の交差点で自転車を避けて転倒。享年三十二。
三途の川で脱衣婆に言われる。「大罪も大善もないねえ。可もなく不可もなく」「褒められてます」「さあね。事務に回しとくよ」
後に牛頭は語る。「隣の人の話をちゃんと聞ける。それだけで大抵のことは何とかなる」凡庸な美徳こそが最大の武器だった。
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第二部
海の向こうの裏鏡と、アロハの記憶
プロローグ
人事は適当、鏡はしつこい
「一歩、次は海の向こうだ」「また誰でもよかったんですか」「いや、今回は名指しだ。誰でもよかったのだが、たまたまお前だった」閻魔庁の人事は成長しない。
「それと人手が足りん。権蔵を連れていけ」正座させられていた権蔵が叫ぶ。「嫌だ。ハワイは暑い。俺はクーラーの効いた部屋で反省したい」牛頭が言う。「お前がばら撒いた裏鏡の新型がハワイで見つかった。旧型は悪事を消すだけだったが、新型は偽の善行を書き込める」
権蔵は顔をしかめる。「俺の作ったやつよりタチが悪い。誰が作った」「それを探ってこい。主任は一歩、部下はお前だ」
大王だけが別のことを考えていた。「向こうにはスパムむすびというものがあるらしいな。からあげクンの次はそれだ」
一章
主任、ハワイへ行く
着地は案の定失敗した。八百屋のバナナの山に突っ込んだ。「いでで」むっとする暑さと花の匂い。器の記憶が流れる。イッポ・ミタ、八十二歳。五十年前からこの島で八百屋をやっている。最近は客が減り、再開発の買収話が来ている。
「イッポ、大丈夫」声をかけてきたのは日焼けした高校生、レイアだ。「大丈夫だよ、レイアちゃん」店の奥に黒いアロハシャツの男が立っている。権蔵だ。既に汗だくだ。「遅い。こっちは溶けるかと思った」「鬼が日焼けするのか」「するわ」
店先に小さな鏡が並んでいる。「Lucky Mirror 幸運を呼ぶ」と書かれたお守りだ。裏側が黒く濁り、所々金色の糸が絡んでいる。「新型だ。黒い靄が悪事を消す細工、金色が偽の善行を書き込む細工だ」レイアが言う。「この鏡、再開発の人がおじいちゃんたちに配ってるの。みんな急に売ってもいいかなって言い出して」
夜、レシートの裏に呪文を書き、ビデオ通話を繋ぐ。日本は朝だ。「一歩さん、ハワイかい」「じいさん、また老人かよ」タマばあさんと陸の顔が見えると、ほっとする。
二章
アロハと裏鏡
再開発の説明会。壇上には開発業者のクロースさんが立っている。「この再開発は皆さんのためです。皆さんは英雄になります」配られた資料には、寄付をしたことになっている地主のリスト。もちろん嘘だ。
一歩は霊視で見る。業者の背中は黒い靄、地主たちの背中には金色の糸が絡んでいる。「どうやって剥がす」「旧型は本人が手放せば割れた。新型は本人が本物の記憶を思い出せば剥がれる。偽物は本物に弱い」
レイアが倉庫から古い写真を出してきた。盆踊り、運動会、八百屋の前で笑う子供たち。どれも鏡には映らない記憶だ。「この写真、みんな覚えてるかな」「覚えてるさ。ここは儲からないけど、みんなが帰ってくる場所だって、おじいちゃんがよく言ってた」一歩は決めた。「写真展をやろう。説明会の横で」
三章
写真展、開幕
翌日、説明会の横で勝手に写真展を開いた。タイトルは「帰ってくる場所」。タマばあさんから送られてきた日本の長屋の盆踊りの写真も並ぶ。日本の盆踊りとハワイのボンダンスが並ぶと、不思議と似ていた。
地主たちが足を止める。「これ、うちの父さんだ」「このバーベキュー、覚えてる。あの時みんなで肉を焦がした」一人、また一人と本当の記憶を口にするたび、配られた鏡にヒビが入る。パキン、パキンと乾いた音が会場に響いた。
壇上のクロースさんが青ざめる。「なんだ、この音は」権蔵がにやりとする。「剥がれてるな。偽物の善行が剥がれる音だ」会場中の鏡が次々と割れる。割れるたびに資料の偽の寄付リストの文字が消えていった。
そこに黒いスーツの男が現れた。本社の人間だ。ポケットから大きな鏡を取り出す。「甘いな。新型の親玉だ。会場ごと忘れさせてやる」男が鏡を掲げた瞬間、会場の空気が重くなる。みんなの顔から記憶の色が薄れていく。
四章
黒幕、現れる
「やめろ」権蔵が前に出る。「その作り、見覚えがある。閻魔庁の記録課の上役、朱筆の作り方だ」男が笑う。「さすが元同僚。そうだよ。お前が窓際に追いやられたように、俺も評価されなかった。ならこっちで稼いだ方が早い」
権蔵は吐き捨てる。「だからって人の帰る場所まで売るのか」「帰る場所。そんなもので金になるのか」その時、レイアが叫んだ。「なるよ。ここは私が帰ってくる場所だもん。おじいちゃんが守ってきた場所だもん」レイアの声に、地主の一人が叫ぶ。「そうだ。売らん。ここは俺たちの場所だ」
本人が本当の記憶を口にした瞬間、男の持つ親玉の鏡に大きなヒビが入った。新型の弱点、本物の記憶の前では偽物は立っていられない。だが鏡はまだ割れない。男が必死にしがみついている。「まだだ、まだ消せる」
その時、会場の入り口から大声が響いた。「待たせたな、一歩」振り返ると、漆黒の羽織を着た小柄な老人が立っていた。閻魔大王だ。手にはスパムむすびを持っている。
「大王様。なぜここに」「からあげクンの次はスパムむすびだと言っただろう。ついでだ」大王はむすびを頬張り、男を見る。「人の帰る場所を帳簿で買えると思うたか。甘いわ」大王が手をかざすと、会場の写真が一斉に光った。日本の長屋の盆踊りとハワイのボンダンス、両方の記憶が重なる。「アロハもお天道様も、根は同じじゃ。見返りを求めず、隣を想う心じゃ」地主たち全員が声を揃える。「売らん」親玉の鏡が耐えきれず、バリィンと砕け散った。
五章
裁き、そしてアロハ
黒幕の男はその場で倒れ、駆けつけた牛頭に回収されていった。「朱筆、お前も窓際どころか地獄の倉庫番だな」会場は騒然となったが、配信を見ていた何千人もの人が割れた瞬間を見ていた。なかったことにはできない。再開発の話は白紙に戻り、商店街はみんなで残すことになった。
夜、八百屋の店先で小さな盆踊りが開かれた。日本の盆踊りの曲とハワイのウクレレが混ざる。不思議と合う。レイアが一歩に言う。「イッポ、ありがと。おじいちゃん、喜んでるよ」「いや、こっちがありがとうだよ、レイアちゃん」権蔵は隅でスパムむすびを食べている。「主任、俺、少しは役に立ったか」「ああ、立ったとも。お前がいなかったら新型の仕組みは分からなかった」ビデオ通話の向こうでタマばあさんと陸が手を叩いている。「一歩さん、向こうでも盆踊りだねえ」「じいさん、踊れてないぞ。腰曲がってる」一歩、もといイッポは笑いながら、へたくそな盆踊りを踊った。
エピローグ
帰ってくる場所は増える
一週間後。ハワイの八百屋の店先には「帰ってくる場所」と書かれた小さな看板が掛かった。イッポ・ミタ老人は、遠くの親戚の家へ行ったことになった。まただ。閻魔庁に戻った一歩の机には新しい辞令があった。「地上派遣特別調査室主任、引き続き」牛頭が言う。「次はどこだ。聞いてないぞ」「うむ、誰でもよかったのだが、今回はお前でなくては困る、という依頼が各地から来ておる。お前のやったことが、少しずつ広がっておるようだ」修復された鏡には、ハワイの盆踊りと日本の長屋の縁側が一緒に映っていた。大王はスパムむすびをもう一個頬張り、呟く。「さて、次はどこの帰る場所を守りに行くかの」
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第三部
最後の裏鏡と、巡る記憶
プロローグ
鏡の向こう側
ハワイの件の後、閻魔庁で奇妙なことが起きた。割れたはずの裏鏡の欠片が、回収しても回収しても帳簿に残るのだ。しかも今度は誰も触っていないのに、勝手に増えている。牛頭が報告する。「大王様、裏鏡がアプリになってます」「アプリ」鏡に映ったのは現代の東京だった。若者たちがスマホで自撮りし、アプリで顔を加工し、過去の投稿を消している。アプリの名前は「キヨミラ」。清く美しく、過去を消せます、という謳い文句だ。裏には小さく「浄玻璃鏡技術使用」と書いてある。開発元は閻魔庁記録局だった。大王は湯呑みを置いた。「無記め、やりおったな」記録局長、無記。効率を何より愛する男だ。彼の持論はこうだ。人間は忘れたい過去を忘れさせてやれば、現世でもっと効率よく働く。地獄の裁きも、忘れたいことは忘れさせてやればいい。それは一見優しさに見えた。だがその結果、誰も何も覚えていない、何も咎められない世界ができつつあった。「一歩を呼べ。今度は誰でもよくない。一歩でなくてはならん」
一章
アプリの中の裏鏡
東京、渋谷。陸の大学の学園祭だった。陸は配信ブースで叫んでいる。「今バズってるキヨミラってアプリ、やばいんだよ。過去の黒歴史を全部なかったことにしてくれるらしい」横でレイアが言う。「ハワイでも流行ってる。みんな昔の写真を消してる」二人の前に、一歩と権蔵が現れる。今回は仮の器ではない。閻魔庁の職員として、半分だけ人間に見える姿での潜入だ。権蔵は相変わらず黒いアロハシャツだ。「そのアプリ、裏鏡の最終形態だ。悪事を消すんじゃない。記憶そのものをなかったことにする」権蔵が言う。「旧型は帳簿を消した。新型は善行を偽造した。最終型は記憶そのものを消す。消せば楽になるが、帰る場所も消える」陸のスマホに通知が来る。タマばあさんの長屋街の再開発が、また持ち上がったというニュースだ。今度はアプリで地主たちの記憶を消して、同意したことにするというやり方だった。「またあの町か」一歩の拳が握りしめられる。
二章
帰ってきた主任
長屋街に戻ると、様子がおかしかった。みんなスマホを見て、ぼんやりしている。「あれ、この土地、売ったんだっけ。売ってないんだっけ」タマばあさんでさえ、少しぼんやりしていた。縁側に座り、一歩が聞く。「タマばあさん、練炭の匂い、覚えてますか」「練炭。懐かしいねえ。でも最近嗅いでないねえ」記憶が薄れているのだ。
一歩は倉庫からあの写真展の写真を出す。1巻で使った写真、2巻でハワイに持っていった写真。盆踊り、バーベキュー、バナナの山。「覚えてますか、この写真」タマばあさんが写真を見て、目に涙を浮かべる。「覚えてるよ。あの時の盆踊り、一歩さんがへたくそに踊ってたねえ」思い出した瞬間、タマばあさんの持っていたスマホのキヨミラアプリにヒビが入った。「やっぱりだ。本物の記憶はアプリより強い」陸が叫ぶ。「じゃあやることは一つだ。また写真展だ。今度は全国、いや世界同時に」レイアが笑う。「ハワイの商店街にも声かける。向こうは朝だけど起きてるよ」ご近所ネットワークは、今や海を越えて世界に広がっていた。
三章
全国の帰る場所が消える
無記は閻魔庁の最深部、浄玻璃鏡の制御室にいた。巨大な鏡の前に立ち、呪文を唱える。「人は忘れたいんだ。忘れさせてやるのが慈悲だ。誰も咎められない、誰も傷つかない、綺麗な帳簿にしてやる」鏡が黒く染まっていく。
地上では、キヨミラのユーザーが一斉に過去の写真を消し始めていた。長屋の写真、ハワイの写真、みんなの帰る場所の写真が、スマホの中から消えていく。
陸の配信が緊急で始まる。「みんな聞いてくれ。このアプリで消してるのは黒歴史だけじゃない。あんたが本当に大事にしてた記憶まで消えてるんだ」レイアがハワイから配信を繋ぐ。「私のおじいちゃんの八百屋の写真も消えかけた。でも思い出した。あの店は私の帰る場所だって」タマばあさんが縁側から配信に加わる。「うちの亭主の写真も消えかけたよ。でもね、匂いで思い出した。練炭の匂いと、一歩さんのバナナの匂いでね」三つの場所の配信が繋がった瞬間、地上のあちこちでキヨミラアプリが割れ始めた。
四章
閻魔庁の裏側
制御室に一歩と権蔵が乗り込む。「無記、やめろ」無記は振り向かない。「一歩、お前は知らんだろう。毎年何千もの亡者が来る。裁いても裁いても、地上では同じ悪事が繰り返される。ならいっそ、最初からなかったことにすればいい。そうすれば地獄の仕事も減る」「それで帰る場所まで消していいのか」「帰る場所。そんな非効率なものが何になる」権蔵が前に出る。「俺も昔そう思ってた。効率が全てだってな。だが違った。非効率なものの中にしか、人は帰れないんだ」無記が笑う。「綺麗事だ。鏡を見ろ。もうすぐ綺麗な帳簿になる」鏡は真っ黒になっていた。一歩は懐から一つのものを取り出す。認証印ではない。小さな、色褪せた写真だ。1巻の最後、タマばあさんの縁側で陸が叱られている写真。2巻のハワイの盆踊りの写真。そして今回、渋谷の学園祭で撮った、陸とレイアとタマばあさんが並んで笑う写真。三つの帰る場所が一枚に収まっている。「無記、お前、この写真の匂いが分かるか」「匂い」「練炭とバナナと、からあげクンとスパムむすびの匂いだ。帳簿には載らない匂いだよ」一歩は写真を鏡に押し当てた。
五章
最後の写真展
写真が鏡に触れた瞬間、鏡の中から無数の声が溢れ出した。「覚えてるよ」「売らん」「帰る場所だ」1巻の長屋の老人たち、2巻のハワイの地主たち、そして今地上で配信を見ている何万人もの声だった。
黒い鏡にヒビが入る。ヒビはどんどん広がり、鏡の中の黒が剥がれ落ちていく。下から元の透明な鏡が現れる。無記が叫ぶ。「なぜだ。効率の方が正しいはずだ」大王の声が響く。いつの間にか制御室に来ていたのだ。手にはおにぎりを持っている。今度はコンビニのおにぎりだ。
「無記よ、効率は大事だ。だが人は効率だけで生きてはおらん。寄り道して、喧嘩して、盆踊りでへたくそに踊って、それでやっと帰る場所ができるんじゃ」鏡がバリィンと割れた。割れた破片は光になり、地上のスマホの中のキヨミラアプリも全て割れた。消えかけていた写真たちが、元の場所に戻っていく。
六章
裁定、そして巡る
無記は膝をついた。「俺は、ただ楽にしてやりたかっただけだ」大王は言う。「楽にすることと、なかったことにするのは違う。償いは楽ではないが、帰る場所は残る。しばらくは倉庫番だな。その後、また一からやり直せ」無記は涙を流して頭を下げた。
地上では、長屋の縁側でタマばあさんが練炭を熾していた。久しぶりの匂いだ。「一歩さん、この匂い、覚えてるかい」「覚えてますとも」陸とレイアがバナナを頬張りながら笑う。「じいさん、また腰曲がってる」「イッポ、踊り下手だよ」権蔵は隅でおにぎりを食べながら言う。「主任、俺、また部下でいいのか」「ああ、相棒だ」
エピローグ
お天道様は巡る
閻魔庁の鏡は修復された。今度は少しだけ仕様が変わった。悪事も善行も映すが、その横に小さく「この人は誰かの帰る場所です」と表示されるようになった。牛頭のアイデアだ。
一歩の机には新しい辞令はなかった。代わりに「地上派遣特別調査室は解散せず、常設とする」という紙が貼ってあった。「誰でもよかった部署が、誰でなくてはならん部署になったな」牛頭が笑う。
大王は三つのむすびを並べる。からあげクン、スパムむすび、おにぎり。「どれも匂いが違うが、どれも誰かの帰る場所の匂いがするのう」一歩は窓の外、地上を見下ろす。長屋の縁側、ハワイの八百屋、渋谷の学園祭。三つの場所で、三つの盆踊りが同時に始まろうとしていた。「さて」大王は立ち上がる。「お覚悟のほどを、な」今度の声は、叱る声ではなく、見守る声に聞こえた。
ー了ー
アマゾン キンドル
〜あとがき〜
最後までお読みいただきありがとうございました。
最初は一つの長屋の話でした。誰でもよかったから選ばれた男が、隣の人の話を聞くという凡庸な美徳だけで町を救う話です。
二つ目は、その帰る場所は海を越えても同じだという話になりました。アロハもお天道様も、根は同じ隣人を想う心だということに、一歩と一緒に気づきました。
三つ目は、その帰る場所をなかったことにする仕組みそのものと戦う話になりました。効率や綺麗さのために、匂いや寄り道やへたくそな盆踊りを消していいのか。答えは、やはり同じでした。
完璧なヒーローはいなくても、誰かが誰かを気にかける記憶があれば、世の中は少しだけ捨てたものではないのかもしれません。
一歩の旅はここで一区切りですが、あなたの町のどこかで、腰の低い白髪のおじいさんが縁側でお茶を飲んでいたら、それはまだどこかの帰る場所を守りに来た地獄の職員かもしれません。
三つの匂いと共に、読者の皆様の帰る場所が、今日も無事でありますように。

