まだ、誰でもない


まえがき
私たちは皆、何万、何億という「選ばれなかったかもしれない可能性」の先で、いまここに立っています。

まだ名前も、姿も、体温さえもなかった頃。
もしも「生まれる前」の私たちが、どこかの長い廊下で順番を待っていたとしたら――。

これは、始まりの場所から、ある一つの人生を巡る静かな物語です。





数字だけが、私だった。
正確に言えば、私にはまだ「私」と呼べるものがなく、ただ一つの番号として、長い廊下のような場所に浮かんでいた。廊下といっても壁も床もない。ただ、前後という感覚だけがあり、その感覚の中に、数えきれないほどの「私になるかもしれないもの」が並んでいた。
前にどれくらいいたのか、わからない。何万、あるいは何億。誰も数えたことがないのだから、正確な数など意味がない。ただ、とてつもなく長い列だということだけは、体温のない体のどこかで理解していた。
案内係が、時々やってくる。
その者には顔がない。声だけがあって、声だけでこちらの存在を撫でるように確認していく。
「次は、あなたかもしれません」
そう言って、また列の奥へ消えていく。声には抑揚がなく、脅すでもなく、励ますでもない。ただ、事実だけを置いていく話し方だった。
私は自分の番号を持っていたが、それを見ることはできなかった。番号は、私自身の内側にあるようで、外側にあるようでもあった。財布の中の宝くじのようなものだ、と誰かが――前にいた誰か、あるいは後ろにいた誰か――言っていた。持っている本人にも、当たっているかどうかはわからない。ただ、発表される瞬間まで、列に並び続けるしかない。



しばらくして、隣にいたものが消えた。
消える、というのが正しい表現かはわからない。ただ、さっきまで感じていた気配が、ふっと途切れたのだ。前に進んだのか、それとも列そのものから外れたのか。案内係に尋ねても、
「それは、こちらでは分かりかねます」
とだけ返ってきた。
不思議と、悲しくはなかった。ここでは感情さえも、まだ輪郭を持っていない。悲しみに似た何か、驚きに似た何かが、波紋のように広がって、すぐに凪いだ水面へ戻っていく。
代わりに、新しい気配が隣に来た。
「ここは、どこなんでしょうね」
声が聞こえた気がした。誰のものかはわからない。もしかしたら、私自身の内側から漏れた声だったのかもしれない。
「さあ」と、案内係が答えた。「強いて言うなら、ここは“まだ”という場所です」
「まだ、とは」
「まだ生まれていない。まだ誰でもない。まだ、何にでもなれる。そういう場所です」
その言葉は、廊下の壁のない空間に、しばらく漂っていた。漂う、という表現がしっくりきた。ここでは何もかもが、沈むでもなく、浮かびきるでもなく、ただ漂っている。



案内係は、時折こんな話をした。
「この先に進めるのは、あなたたちのうち、たった一つだけです」
「なぜ、一つだけなんですか」と、誰かが尋ねた。
「決まりだからです」と案内係は答えた。「決まりに理由を求めても、仕方がありません。ただ、一つだけ申し上げられるのは――ここまで並んでいる時点で、あなたたちは既に、途方もない数の“並べなかったもの”を超えてきているということです」
その言葉に、列全体が微かにざわめいた。
「並べなかったもの、とは」
「並ぶ機会そのものが、来なかったもの。番号を与えられる前に、静かに消えていったもの。そういうものたちが、あなたたちの後ろに――いいえ、あなたたちが辿ってきた道のあらゆる分岐点に――数えきれないほど、いたのです」
私は、自分の後ろにあったかもしれない、無数の「もし」を思った。もし、あの晩、何かが少し違っていたら。もし、選ばれる前の選ばれる前の、そのまた前の段階で、何かが途切れていたら。
私はここにいない。
そう考えると、今こうして列に並んでいること自体が、奇妙に眩しいことのように思えた。宝くじの当選番号を確認する前の、あの一瞬の静けさに似ている。当たっているかどうかもわからないのに、券を握りしめている時間だけが、やけに長く感じられる、あの感覚。



ある時、案内係が珍しく、足を止めて――足があるのかどうかも定かではなかったが――こう言った。
「見えるものが、一つだけあります。ご覧になりますか」
見える、という言葉の意味が、この場所では特別だった。何しろ、目もなければ景色もない。それでも「見せられる」というのだから、断る理由はなかった。
すると、廊下の先に、小さな窓のようなものが開いた。
そこには、一人の男が映っていた。
男は、狭い部屋の中で、段ボール箱に囲まれていた。白髪の混じった髪、深い皺、老眼鏡。彼は古い写真を一枚手に取り、しばらく眺めてから、「要る」と書かれた箱と、「要らない」と書かれた箱の、どちらに入れるか迷っていた。
「あれは、誰なんですか」
「さあ」と案内係は言った。「ある人には、父かもしれません。ある人には、まだ見ぬ自分自身かもしれません。この窓は、そういう窓なのです」
男は結局、写真を「要る」の箱に入れた。それから、窓の外を――こちら側を――見るともなく見た気がした。一瞬だけ、視線が合ったような錯覚があった。錯覚のはずなのに、体温のない体の奥に、じんわりと何かが灯った。
「あの人は、物を捨てているんですか」
「捨てているようで、選び直しているのです」と案内係は言った。「物と、者と、モノと。その境目を、確かめる作業です」
窓は、それきり静かに閉じた。



やがて、列は少しずつ動き始めた。
動く、というのは正確ではないかもしれない。むしろ、列そのものが薄くなっていく、と言った方が近い。前にいたものたちが、一つ、また一つと、光の粒のようになって、廊下の奥へ吸い込まれていく。
私の番号が、内側でわずかに疼いた。
「もうすぐです」と案内係が言った。「あなたの番が来ます」
「怖くはないんですか」と私は尋ねた。自分がそんな言葉を持っていたことに、少し驚きながら。
「怖い、という感覚は、私にはありません」と案内係は答えた。「ただ、一つだけお伝えできることがあります。この先に進むということは、苦しみを引き受けるということでもあります。生きるとは、そういうことだと、こちら側では言われています」
「それでも、進むべきなんでしょうか」
「進むか進まないかを選べるのは、あなただけです。ただ――」
案内係は、そこで珍しく、言葉を探すように黙った。
「ただ、ここまで並んでこられたということ自体が、既に途方もないことなのです。何万、何億という“並べなかったもの”を超えて、あなたはここにいる。それだけで、既に一つの、静かな優勝なのです」
優勝、という言葉が、なぜか懐かしく響いた。まだ経験したこともないはずのその言葉が、体温のない体の奥で、確かに何かと共鳴していた。



窓が、再び開いた。
今度は、さっきの男ではなかった。若い夫婦が、小さな部屋で向かい合っていた。二人は何かを話し合っていた。声は聞こえなかったが、その表情には、不安と、それを上回るかすかな光のようなものが同居していた。
「あの二人は」
「あなたの、始まりに関わる人たちかもしれません」と案内係は言った。「かもしれません、としか申し上げられませんが」
窓の向こうの女性が、そっと自分の腹に手を当てた。その仕草を見た瞬間、私の中の番号が、光を帯びるように熱くなった。
「これは」
「あなたの番です」
案内係の声には、初めて、何かに似た響きが混じった気がした。労いのような、祝福のような、あるいはただの事実確認のような。
「行かれますか」
私は、後ろを振り返ろうとした。けれど、後ろには何もなかった。振り返るための体も、目も、まだなかった。ただ、これまで並んでいた無数の気配だけが、静かに、私を見送っているような感触があった。
「行きます」
そう答えた瞬間、窓の景色が、こちら側に流れ込んできた。光が、音が、匂いのようなものが、一気に押し寄せてきた。苦しい、と思う暇もなく、それはもう、痛みという形をとって私を包んでいた。
生まれるとは、こういうことか。
そう思う間もなく、私はもう、番号ではなくなっていた。



――そして、六十二年が経った。
老人は、狭い部屋の中で、段ボール箱に囲まれていた。白髪の混じった髪、深い皺、老眼鏡。彼は古い写真を一枚手に取り、しばらく眺めてから、「要る」と書かれた箱に入れた。
窓の外は、夕暮れだった。
彼はふと、手を止めて、窓の外を眺めた。理由はわからないが、誰かに見られているような、あるいは、誰かを見送っているような、そんな懐かしい感覚が、胸の奥をよぎった。
「生まれるのは、偶然。生きるのは、苦痛。死ぬのは、厄介」
いつか読んだ、誰かの言葉が、ふと口をついて出た。
「でも」と、彼は独り言のように続けた。「漂えど、沈まず、か」
彼は立ち上がり、次の箱を開けた。中には、もう何十年も忘れていたような、小さなガラクタが詰まっていた。壊れた腕時計、色褪せた切符、宛名のない手紙。
一つ一つを手に取りながら、彼は静かに、けれど確かに、選び分けていった。
物と、者と、モノと。
その境目を確かめるように。
まるで、まだ番号でしかなかった頃の自分に、今の自分を見せてやるかのように。
窓の外では、案内係に似た誰かが――いや、それはただの夕暮れの光だったのかもしれないが――静かに、こちらを見つめているような気がした。
彼は、ふっと微笑んだ。
そして、また一つ、箱に手を伸ばした。

― 了 ―


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あとがき
「自分という存在は、偶然なのか必然なのか」という問いからこの物語が生まれました。
生きる中では時に苦しさや理不尽さに直面し、「なぜ自分はここにいるのだろう」と考えてしまうことがあります。けれど、いまここに存在していることそのものが、実は気の遠くなるような確率を超えてたどり着いた「静かな勝利」なのかもしれません。
過去の自分、今の自分、そして未来の自分。
この物語が、日々に少しだけ立ち止まり、ご自身の歩んできた道のりを愛おしく思えるきっかけになれば幸いです。