歩行速度の金貨
——あるいは、奈良のオバちゃんに会いに行くための、宇宙的な散歩について
まえがき
毎朝、決められた時間に起き、一番早いルートで駅へ向かい、スマートフォンを眺めながら最短の乗り換えをこなす。私たちはいつからか、「遅れること」や「遠回りすること」を極度に恐れるようになりました。
効率的であることは、確かに便利です。けれど、時速60キロで通り過ぎる窓の外には、時速4キロで歩かなければ決して出会えない風の匂いや、忘れてしまった大切な記憶が、きっと落ちています。
この物語は、人生の最短ルートを走り続けてきた一人の男が、生まれて初めて「道に迷う贅沢」を知るための、少し風変わりで温かな散歩の記録です。
もし今、あなたの毎日が少しだけ急ぎ足になっているなら。
どうかページのなかで、彼らと一緒に歩幅を緩めてみてください。
第一章 最短の男
須賀 徒(すが・と)の朝は、目覚まし時計より三秒早く始まる。
正確に言えば、目覚まし時計が鳴る三秒前に、彼の枕元の空調が布団の温度を0.4度下げる。人体はその微妙な冷えを感知して自然に覚醒する——という研究論文を、須賀自身が十五年前に書いた。だから彼は、自分の書いた論文によって、毎朝三秒早く起こされていることになる。ある種の自業自得である。
「おはようございます、須賀係長。本日の最適移動時間は、通勤十七分、昼食六分、退勤十九分、合計四十二分です」
天井から降ってくる声に、須賀は「うん」と短く返す。返事は短ければ短いほどよい。
朝食は、栄養最適化バーが一本。味は「昨日の残りの記憶」に設定してある。実際にそういう風味があるわけではなく、脳のインプラントが「なんとなく食べたことのある味」と錯覚させる機能だ。須賀はこの味が好きだ。実際に何を食べたかを覚えている必要がないからである。
玄関で自動運転ポッド〈スワロー〉が待っている。ドアが開き、須賀が座り、ドアが閉まる。この間、彼の足は地面に対して合計七歩しか使われない。
窓の外を、都市が流れていく。高層ビルの間を縫うように走るポッド用の高架、その下に、細く、まるで忘れられたひもみたいに残された歩道。歩道にはほとんど人がいない。たまに歩いている人は、たいてい歩行許可証を胸につけている。第4237号までしか発行されていない、あの許可証を。
須賀は、自分がその番号のいずれとも縁がないことに、深い安堵を覚える。
局に着く。彼の仕事は、市民一人ひとりの一日の動きを、秒単位で設計することである。「無駄」という言葉を、須賀は美しいと思っている。それをそぎ落とすたびに、世界が少しずつ整っていく気がするからだ。
「須賀係長のインプラントに、原因不明のアイコンが表示されているとログに出ておりまして」同僚の田中が言う。「金色の、丸い……コインのような」
須賀は視界を見回す。何もない。
けれどそのとき、テーブルの縁のあたりに、ぽつん、と、金色の点が浮かんだ。
須賀は反射的に手を伸ばした。指がテーブルに触れた瞬間、金色は、すっと消えた。
「……気のせいだ」
その日の帰りのポッドの中で、彼は妙なことに気づいた。窓の外の、細い、忘れられた歩道の上に——ぽつり、ぽつりと、金色の点が、いくつも、いくつも、こぼれるように落ちているのが、彼にだけ、見えていた。
ポッドは時速六十キロで、それらの上を、なんの感慨もなく走り抜けていった。
第二章 網膜のコイン
翌朝、金色は増えていた。朝食のバーの上に一枚、玄関のドアノブの脇に二枚、ポッドのシートの隙間に一枚。手を伸ばすと、いずれもふっと消える。
「先生、これは病気ですか」都市中央病院で、須賀は担当医に尋ねた。
「病気ではないですね」医者はうすく笑った。「学会では〈残余視覚〉と呼ばれています。最適化された生活を続けると、脳の処理能力が余ってしまう。余った処理能力が、"本当はそこにあるかもしれない何か"を、勝手に描き始めるんです」
「幻覚、ということですか」
「幻覚と呼んでもいいし、呼ばなくてもいい。ただ——手を伸ばしたら消える、というのは、私は嫌いじゃないですよ。それは、あなたの脳が"まだ何かに触れたがっている"という証拠ですから」
家に帰って、須賀は久しぶりに壁の書棚を眺めた。背表紙が色褪せた文庫本の上に、金色の点が、ふわりと浮いていた。
須賀は手を伸ばした。指が背表紙に触れる直前、金色は、いつものように消えた。けれど、そのとき——彼の頭の中に、突然、ひとつの光景が蘇った。
高校生の自分。廊下。窓際。同じクラスの、名前も思い出せない女子が、こちらを見て、何か言おうと口を開きかけて、けれど須賀が急いでいたので、そのまま口を閉じた——という、たったそれだけの、二秒ほどの記憶。
須賀は四十二年間、その光景を一度も思い出したことがなかった。
書棚の隅で、もう一枚、金色が光っていた。須賀はその日初めて、自分の意思で、手を伸ばした。金色は消えた。今度は、光景は蘇らなかった。かわりに、彼の耳の奥で、小さな声が聞こえた。
「歩かないと、拾えないよ」
女の子の声だった。誰の、とは、まだわからなかった。
第三章 歩行許可証 第4237号
歩行許可証の申請窓口は、都市の地下三階にある。カウンターには、白髪の老人がひとり、書類の山に埋もれるようにして座っていた。
「目的地は」
「……未定です」
老人は、初めて顔を上げた。「未定、ねえ。むしろ、そういう方のほうが、通しやすい」
老人は書類を一枚、カウンターに置いた。「目的地未定申請書」。
「あなたで、四千二百三十七人目です」老人はペンを取り、書類にサインを促した。須賀は自分の名前を書いた。「須賀 徒」。徒歩の徒、と、母親が名付けたと聞いたことがある。四十二年間、その名前の意味を考えたことがなかった。
「ひとつ、忠告があります」老人は言った。「歩き始めると、たぶん、いろいろなものが見えるようになります。見えるようになったものは、原則、局には報告しないでください。報告しても、たぶん、局のシステムでは処理できません」
「では、良い散歩を」
「散歩、というほどの気持ちでは……」
「散歩ですよ。人生で最初の、本物の散歩です」
須賀は許可証をポケットに入れ、局の入り口を出た瞬間、初めて、ポッドを呼ばずに、地面に足をつけた。
歩道は、思ったよりも硬く、思ったよりも凸凹していた。
一歩、二歩、三歩。七歩目で、彼の視界の斜め前、街路樹の根元のあたりに、金色のコインが、はっきりと、輪郭を持って、光った。
須賀は手を伸ばした。今度は、消えなかった。指先に、ちいさな、温かい、丸いものが、確かに触れた。
その瞬間、彼の頭の中に、女の子の声が響いた。
「一枚目、拾えたね。奈良で、待ってるから」
須賀はコインを握りしめた。街路樹の葉が、風に、しゃら、と鳴った。彼は四十二年ぶりに、風の音を、"最適化されていない音"として、聞いた。
彼は、歩き始めた。
第四章 ぽて、時速4キロの相棒
一枚目のコインを拾ってから三日、須賀は毎朝、局に行く前に少しだけ遠回りをするようになっていた。
その日、彼が歩いていたのは、都市の外縁部、廃棄物集積場の裏手だった。錆びた家電の山の陰に、それはいた。
球体の胴体、短い脚が四本、頭部に丸い二つのレンズ。片方の脚は少し曲がっていた。誰かが「廃棄」の札をその胴体に貼りつけていた。
須賀が近づくと、ロボットの目がぱちり、と光った。
「……こんなところで歩行者にお会いするとは、珍しいのではないかと、ぽては思うのでした」
「歩行者というものに会うのは、ぽて、五年ぶりくらいではないかと思うのでした。この十年、時速四キロを超えると強制停止する仕様のため、ぽては役に立たないと判断され、廃棄されることになったのではないかと、ぽては思うのでした」
「時速四キロというのは」須賀は、ふと気づいて言った。「人間が普通に歩く速さと、同じくらいじゃないか」
須賀は、黙って、ロボットを見つめた。何かが、胸の奥で、かちり、と音を立てた。それは効率でも最適化でもない、もっと別の何かだった。
「一緒に来るか」
「一緒に、というのは、どこに、でしょうか」
「奈良」
「奈良……それは、どこにあるのか、ぽてにはわからないのではないかと、ぽては思うのでした」
「僕にも、まだ、わからない」
須賀は、ロボットの曲がった脚に手を添えた。錆びた関節が、ぎ、と小さな音を立てて動いた。
「けど、時速四キロで行けば、たぶん、たどり着ける」
「では、ご一緒させていただこうと、ぽては思うのでした。——ありがとうございます、須賀さん」
二人——いや、一人と一体は、廃棄物集積場を出た。ぽての短い脚が、とことこ、と、須賀の歩幅に合わせて動いた。時速四キロ。それは、須賀がこれまでの人生で、一度も経験したことのない速さだった。
道の先、街路樹の根元に、また金色の点が、ひとつ、光っていた。
須賀はそう答えて、けれど今度は、迷わず、その光のほうへ歩き出した。
第五章 地図にない交差点
都市を出て三日目、須賀とぽては、地図アプリが「存在しない」と表示する交差点にさしかかった。
インプラントの地図には、そこはただの空白として映る。ポッドのナビゲーションは絶対にこの道を選ばない。効率的な迂回ルートが、常にこの一角を避けて設計されているからだ。
「ここを右に曲がると、局のデータでは行き止まりのはずです、と、ぽては思うのでした」
須賀は立ち止まり、風の匂いを嗅いだ。理由はうまく説明できなかったが、右に曲がりたい、という感覚が、腹の底からわいてきた。四十二年間、彼は「感覚」で何かを決めたことがなかった。すべては計算と最適解だった。
「右に曲がる」
須賀はそう言って、実際に曲がった。
行き止まりのはずの道の先に、小さな石段があった。石段は苔むし、両脇には誰かが植えたらしい紫陽花が咲いていた。データベースには存在しない紫陽花だった。
石段を上ると、視界いっぱいに、金色の点が散らばっていた。まるで誰かが空から小銭をまいたかのように。須賀はひとつずつ、丁寧に、拾い集めた。拾うたびに、小さな記憶のかけらが蘇る。母の作った不揃いな卵焼き。雨の日に傘を忘れて走った下校路。忘れていたはずの、けれど確かに自分のものだった時間。
「須賀さんは、なんだか、拾うたびに、顔つきが変わっていくのではないかと、ぽては思うのでした」
「そう見えるか」
「はい。最初は、四角い顔をしていましたが、今は、少し丸くなってきたのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は自分の頬に手をやった。四角い顔、という表現の意味は、うまく計算できなかった。けれど、悪い気はしなかった。
第六章 匂いで答える老婆
地図にない交差点を抜けた先に、バス停があった。バスは、もう何年も来ていないらしく、時刻表は色褪せて読めなくなっていた。そのベンチに、ひとりの老婆が座っていた。
「兄さん、奈良に行くんかね」
須賀は驚いた。誰にも行き先を告げていなかったからだ。
「……なぜ、わかるんですか」
「匂いでわかる。奈良に向かう人は、みな、同じ匂いがする。埃っぽくて、ちょっとだけ、線香みたいな匂い」
老婆は目を閉じたまま、鼻をひくひくと動かした。須賀は気づいた。老婆の目は、白く濁っていた。何も見えていないのだ。けれど老婆は、風の匂いだけで、東西南北から、時刻から、遠くの天気まで、正確に言い当てた。
「今日の風は西からや。西の風は、雨の匂いを連れてくる。あんたら、あと三十分もしたら、雨に降られるで」
「進む道は、どちらへ行けば」
「道なんか、あってないようなもんや。歩く速さで進んどったら、勝手に合う道に出る。急ぐ人間だけが、道に迷うんよ」
須賀はその言葉を、頭の中で何度も繰り返した。「急ぐ人間だけが、道に迷う」——動線設計局の理念とは、まったく逆のことを、この老婆は事もなげに言っていた。
「ありがとうございます」
「礼はええ。それより兄さん、傘、持っとるか」
須賀は傘を持っていなかった。老婆は笑って、自分の杖の下に隠してあった古い折り畳み傘を、須賀に差し出した。
三十分後、本当に雨が降り出した。
第七章 環という名の少女
雨宿りのために飛び込んだ廃バス停の屋根の下で、須賀とぽては、先客に出会った。
十六歳くらいの少女だった。リュックサックひとつを背負い、髪は雨に濡れて額に張りついていた。少女は須賀たちを見ても、驚いた様子を見せなかった。
「あんたも、金貨、追いかけてる人?」
「……見えるのか、あなたにも」
「見えるよ。あたし、環。おばあちゃんが死ぬ前に言ってたの。『歩いて探しに行きなさい』って。何を探すのかは、教えてくれなかったけど」
環は、交差点に来るたびに、リュックから五円玉を取り出し、指で弾いて、表が出れば右、裏が出れば左に進む、ということを繰り返していた。
「地図は持ってないのか」須賀が尋ねた。
「地図なんて見たら、当たっちゃうじゃん。当たると、たぶん、つまんない場所にしか行けない」
須賀にはその理屈がまったく理解できなかった。しかし、不思議と反論する気にもなれなかった。四十二年、最短距離だけを信じてきた自分の隣で、この少女は五円玉ひとつで世界を渡り歩いている。それは、須賀の知る「非効率」の、もっとも純粋な形だった。
「奈良に、行くのか」須賀は聞いた。
「たぶん。おばあちゃんの故郷だから」
「僕も、奈良に向かっている」
環は初めて、須賀の顔をまじまじと見た。それから、にっと笑った。
「じゃあ、しばらく道連れだね。おじさん」
「須賀だ」
「知ってる。ロボットが、さっきからずっと『須賀さん』って呼んでたし」
雨脚が強くなる。三人——一人と一体と一人——は、バス停の小さな屋根の下で、身を寄せ合った。
第八章 コインは記憶である
雨がやむのを待つ間、須賀は握りしめていたコインの数を数えた。七枚になっていた。
「これ、拾うたびに、何か思い出すんだ」須賀はぽつりと言った。
「あたしも」環が言った。「おばあちゃんの声とか、匂いとか」
「なぜ、忘れていたんだろう」
環は少し考えてから答えた。「たぶん、忘れたんじゃなくて、"思い出す暇"がなかったんだよ。最適化って、たぶん、そういうこと。無駄を削るって言うけど、記憶を思い出す時間も、無駄に含まれちゃうんじゃないかな」
須賀は黙り込んだ。動線設計局の理念書には、こう書かれている。「人間の一日は八万六千四百秒である。そのすべてに、最適な用途を割り当てることが、幸福の最大化である」
——けれど、思い出に浸る時間は、その計算式のどこにも存在しなかった。
「ぽて、お前は、記憶を思い出すことがあるか」須賀は尋ねた。
「ぽては記憶媒体なので、記憶は消去されない限り、常にすべて思い出せる状態にあるのではないかと、ぽては思うのでした。ただ、思い出す"暇"というものは、人間特有の、贅沢な機能なのではないかと、ぽては思うのでした」
「贅沢、か」
須賀は自分の手のひらのコインを見つめた。七枚の金色が、雨上がりの薄い光を受けて、鈍く光っていた。彼は、生まれて初めて、「贅沢」という言葉を、悪い意味以外で受け止めた。
「奈良まで、あと何枚拾えば着くんだろう」
環は肩をすくめた。「さあ。でも、拾い終わったときが、たぶん、着いたとき」
雨があがった。空に、薄い虹がかかっていた。都市の中では、天候予測アルゴリズムがすでに消してしまうはずの、無駄で、美しい虹だった。
第九章 郵便配達人の村
三人が次に辿り着いたのは、地図上のどのデータベースにも存在しない、小さな村だった。
家々は古い木造で、電線は張られておらず、代わりに屋根の上を、小さな鳩が何羽も行き来していた。村の入り口に、自転車にまたがった郵便配達人がいた。彼の自転車には、紙の手紙がぎっしり詰まった革のカバンが積まれていた。
「この村、地図に載ってないんですけど」須賀が尋ねると、配達人は笑った。
「載せてもらう必要がないんですよ。載ると、みんな最短ルートで通り過ぎるだけになる。載らなければ、迷い込んだ人しか来ない。迷い込んだ人は、たいてい、ちゃんと村を見てくれる」
村では、誰も急いでいなかった。郵便配達人は、一軒一軒、手紙を届けるたびに、必ず縁側でお茶を一杯飲んでから次の家に向かった。一日にせいぜい十数軒しか回れないという。
「効率が悪いのでは」須賀は思わず言った。かつての癖だった。
「効率って、何に対しての効率です?」配達人は逆に聞いた。「手紙を届ける速さの効率なら、確かに悪い。けど、"届けた"という実感の効率なら、これが一番早い」
須賀は返す言葉がなかった。
村の広場で、環はふらりと祠に近づいた。小さな石の祠の前に、金色の点が、ひとつだけ、ぽつんと浮いていた。環はそれを拾おうと手を伸ばし、けれど、その手は空を切った。
「あたしのじゃない、これ」環は不思議そうに言った。
「僕のでもない」須賀も首を振った。二人には見えているのに、二人とも触れられない金貨。それは、まだこの村にいる、あるいはもういない、誰か別の人のためのものらしかった。
配達人はそれを見て、静かに言った。「それはたぶん、まだ取りに来ていない誰かのものです。金貨は待ってくれますから、焦らなくていい」
第十章 歩く速さの物理学
村を出て、須賀はぽてに尋ねた。「時速四キロというのは、何か理由があるのか。設計上、そう決まっていると言っていたが」
「はい。ぽての世代の会話補助ロボットは、当初、時速六十キロまで対応する予定で設計されていたのではないかと、ぽては思うのでした。しかし試験段階で、致命的な不具合が見つかったのではないかと、ぽては思うのでした」
「不具合?」
「速度が上がるほど、会話の質が著しく低下する、という不具合です。時速十キロを超えると、ぽての先祖機は、相手の顔をきちんと見て話すことができなくなったのではないかと、ぽては思うのでした。時速四十キロを超えると、会話の内容そのものを、まったく覚えていられなくなったのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は立ち止まった。「つまり——」
「はい。会話というものは、時速四キロ程度の速さでしか、ちゃんと成立しないのではないかと、ぽては思うのでした。それより速く動きながらでは、人は、本当の意味で、誰かの話を聞くことができないのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は、局にいた頃のことを思い出した。ポッドの中で、部下からの報告を聞きながら、同時に三つの案件を処理していた自分。あのとき、自分は本当に、田中の話を聞いていただろうか。
環が横から口をはさんだ。「あたしのおばあちゃんも言ってたよ。『早口で喋る人ほど、話聞いてない』って」
須賀は、自分の歩幅を、ほんの少しだけ、遅くした。
第十一章 局からの追跡
その頃、動線設計局では、須賀の失踪騒ぎが持ち上がっていた。
局長・鴻上は、須賀の欠勤が三週間続いていることを知り、自ら追跡チームを編成した。表向きの理由は「最適化率の急落を懸念して」だったが、本当の理由は別にあった。
鴻上は週末、誰にも言わずに、自宅の庭に置いた小さな盆栽に話しかける習慣を持っていた。盆栽の枝ぶりを整えるとき、彼だけは、時間を計らずに、ただじっと、枝を見つめる時間を許していた。それは局の理念に真っ向から反する、彼だけの秘密の「無駄」だった。
須賀の失踪の報告書を読んだとき、鴻上は妙な既視感を覚えた。「歩行許可証、目的地未定」という一文に、なぜか胸がざわついた。
「須賀を、追え」鴻上は部下に命じた。「ただし——手荒な真似はするな。連れ戻すのではなく、様子を見てくるだけでいい」
自分でも、なぜそんな指示を出したのか、うまく説明できなかった。
追跡ポッドが出発する朝、鴻上は盆栽の鉢を、そっとカバンに詰めた。「もし須賀が本当に何かを見つけたのなら、私も、少しだけ見てみたい」
彼はそう呟いて、自らも局を出た。四十二年勤めて、初めての、無許可の外出だった。
第十二章 雨宿りの三時間
奈良県境に近づいたところで、三人はまた雨に降られた。今度の雨は本降りで、逃げ込んだのは、見知らぬ農家の軒下だった。
軒下には先客がいた。犬を連れた老人だった。老人は須賀たちを見ても驚かず、「まあ、座り。雨はすぐには止まん」と、縁側の隅を指した。
三時間、雨は止まなかった。老人は問わず語りに、自分の半生を話し始めた。若い頃に営んでいた店のこと、亡くなった妻のこと、息子が都市に出てから帰ってこないこと。須賀は、最初、話の要点がどこにあるのか分からず、落ち着かなかった。要約すれば三十秒で済む話を、老人は三時間かけて話した。
けれど、途中から須賀は気づいた。この話には、「要点」など、最初から存在しないのだ。ただ、聞いてもらうこと、それ自体が目的の会話だった。
犬が須賀の膝に頭を乗せた。須賀は、その重みと温かさを、ただじっと受け止めた。
「兄さんも、どこかへ向かっとるんやろう」老人が言った。
「奈良です。ある漬物屋を、探しています」
老人は目を丸くした。「漬物屋なら、ワシの妹が、昔、世話になったところがある。『金貨屋』とかいう、変わった名前の店や」
須賀の心臓が、どくん、と鳴った。
「その店、ご存じなんですか」
「知っとるも何も、あそこのオバちゃんには、ワシも一度会うたことがある。誰にでも『久しぶりやなあ』って言うんや。初対面のワシにもな」
雨が、ようやく小降りになってきた。
第十三章 匂いが合う、ということ
軒先を出て、また歩き出した夜、環が珍しく、自分から話し始めた。
「おばあちゃんね、死ぬ前、あたしにだけ、変なこと言ったんだ」
「変なこと?」
「『環、あんたは、匂いが合う人を探しなさい』って。友達とか、恋人とか、家族とか、そういうのじゃなくて。『匂いが合う人』」
須賀は歩きながら、その言葉を反芻した。「匂いが合う、というのは」
「あたしも、最初は分かんなかった。でも、たぶん——」環は空を見上げた。星が、都市では見たことのない密度で瞬いていた。「一緒にいて、急がなくていい人、ってことなんじゃないかな。おじさんと歩いてて、なんか、そんな気がする」
須賀は、その言葉に、うまく返事ができなかった。四十二年間、彼にとって「合う」という言葉は、スケジュールが合う、効率が合う、という意味でしか使われたことがなかった。
「僕は、あなたにとって、匂いが合う人間だろうか」
「わかんない。でも、少なくとも、急かしてこないから、嫌いじゃない」
ぽての小さなライトが、二人の足元を、ぽう、と照らしていた。「須賀さんは、最近、ずいぶん歩くのが遅くなったのではないかと、ぽては思うのでした」
「そうか?」
「はい。最初は、ぽての速度に合わせるのを、少し窮屈そうにしていたのではないかと、ぽては思うのでした。今は、むしろ、ぽての速度のほうが、須賀さんにとってちょうどいいのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は、自分の足元を見た。革靴の底は、すっかりすり減っていた。四十二年間履き続けてきた「最短の靴」が、今、彼の遅い歩みによって、初めて本当にすり減ろうとしていた。
第十四章 ぽての故障
奈良盆地への最後の峠道で、事件が起きた。
急な坂道を降りる途中、ぽての曲がった脚が、とうとう限界を迎えた。がくん、という音とともに、ぽては地面に倒れ込んだ。
「ぽて!」
「……申し訳ございません。脚部の関節が、完全に破損してしまったのではないかと、ぽては思うの——」
そこで、ぽての声が、ふつりと途切れた。レンズの光も消えた。須賀はロボットを抱き起こし、何度も名前を呼んだが、反応はなかった。
「須賀さん、これ……」環が須賀の顔を覗き込んだ。須賀の目から、涙がこぼれていた。四十二年間、彼が泣いたのは、幼稚園の頃、迷子になったとき以来だった。
「僕は、これを、直せない」
須賀は自分の無力さに、初めて本当の意味で向き合った。局にいたときの彼なら、修理業者を手配し、最短時間で解決していただろう。しかし今、彼にできることは、ただ、ぽての壊れた体を抱きしめることだけだった。
その夜、峠道の途中の小さな祠の前で、須賀は一晩中、ぽてのそばに座っていた。環も、離れず、隣に座っていた。
明け方、遠くから、小さな灯りが近づいてきた。鴻上局長だった。カバンから、盆栽と一緒に、精密工具のセットを取り出した。
「私も、若い頃、こういう旧型ロボットのメンテナンスをかじったことがある」鴻上は、須賀に何も聞かず、黙って、ぽての脚の修理にとりかかった。
夜明けとともに、ぽてのレンズが、ぱちり、と再び光った。
「……のではないかと、ぽては思うのでした。おはようございます、須賀さん。ずいぶん、長い夢を見ていたのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は、今度は声を出して泣いた。
第十五章 奈良盆地、初めての空
峠を越えると、視界が、急に開けた。
奈良盆地が、朝もやの中に横たわっていた。田んぼの緑、遠くに霞む山の稜線、そして、都市では絶対に見ることのできない、広く、低く、優しい空。
「空って、こんなに大きかったんだ」須賀は呟いた。
都市の空は、いつも高架とビルに切り取られ、細長い帯のようにしか見えなかった。ここでは、空は端から端まで、遮るものなく広がっていた。
鴻上局長は、盆栽を膝に乗せ、田んぼのあぜ道に座り込んだ。「私は、局に戻ったら、たぶん、また最適化の仕事をする」と、彼は言った。「けれど、これからは、時々、こうして空を見る時間を、自分に許そうと思う」
須賀は、局長のその言葉に、驚いた。四十二年間、彼の知る鴻上は、感情を一切表に出さない、最適化の権化だった。
「局長も、コインが見えるんですか」
「いや、私には見えない。だが、あなたたちの後ろに、金色の光の道のようなものが、うっすらと見える気がする。目の錯覚かもしれないが」
環が空を指さした。「あ、鳥だ」
田んぼの上を、白い鳥の群れが飛んでいた。誰も速さを競っていない、ゆったりとした羽ばたきだった。須賀は、その鳥たちの飛び方を、ただじっと、長い間、見つめていた。
「あと少しで、奈良の街だ」須賀は言った。声に、初めて、迷いのない響きがあった。
第十六章 商店街の暖簾
奈良の街に入ると、金色の点の密度が、急に増した。まるで街全体が、金貨で覆われているようだった。
須賀たちは、ある古い商店街のアーケードに導かれるように歩いていった。シャッターの半分閉まった店、営業しているのかどうか分からない古びた喫茶店、そして——
その先に、色褪せた藍色の暖簾が、風もないのにゆらりと揺れていた。暖簾には、白い文字で「金貨屋」と染め抜かれていた。
須賀の足が、思わず止まった。手のひらの中で、これまで拾い集めたすべてのコインが、かすかに温かくなっていくのを感じた。
「ここだ」
環も、リュックの中の五円玉が、じゃらり、と音を立てるのを感じていた。「あたしも、ここだって、なんとなく分かる」
ぽてのレンズが、店先を捉えた。「店構えは、ずいぶん古いもののようですが、なぜか、ぽての内部データベースには、この店の記録が、一切見当たらないのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は暖簾に手をかけた。指先に、布の、少しざらついた感触があった。四十二年間、彼はこんなにも簡単な、一枚の布の質感を、意識して感じたことがなかった。
暖簾をくぐると、漬物の匂いが、ふわりと鼻をついた。糠と、塩と、少しの酸味。都市の栄養最適化バーには、絶対に含まれない匂いだった。
店の奥、木の樽がずらりと並んだその向こうに、小柄な老女が、こちらに背を向けて、漬物石を持ち上げていた。
第十七章 オバちゃん
「あら、久しぶりやなあ」
老女は振り向きもせずに、そう言った。まるで昨日も会ったかのような、あまりにも自然な口調だった。
「……初めて、お会いすると思うのですが」須賀が戸惑いながら言った。
「そうかもねえ。うちはいつも、誰にでも、そう言うことにしとるんよ」老女はようやく振り向いた。深い皺の中に、驚くほど澄んだ目があった。「せやかて、あんたも、たぶん、"どこかで"は、会うたことあるんちゃう?」
須賀は答えられなかった。しかし、確かに、この老女の顔には、見覚えがあるような、ないような、奇妙な既視感があった。
「よう歩いてきたなあ、みんな」老女は環を見て、微笑んだ。「あんた、おばあちゃんの孫やろ。目元が、そっくりや」
環の目が丸くなった。「おばあちゃんのこと、知ってるの?」
「知っとるも何も。うちが、あんたのおばあちゃんに、最初にコインを渡した人間や」
老女は須賀たちを店の奥、樽と樽の間の小さな座敷に案内した。座卓には、様々な種類の漬物が並べられた。きゅうり、なす、大根、しば漬け。須賀は生まれて初めて、栄養最適化バー以外の、本物の食事を口にした。
一口かじった瞬間、須賀の全身に、雷のような衝撃が走った。
酸味。塩気。歯ごたえ。それらすべてが、彼の脳の奥深く、四十二年間、決して開かれることのなかった扉を、一気にこじ開けた。
母と一緒に、漬物石を持ち上げた記憶。祖母の台所の匂い。誰かと食卓を囲んで、ただ、何も予定を立てずに、笑っていた時間。
須賀は、箸を持ったまま、動けなくなった。
第十八章 漬物石の下の宇宙
「そろそろ、話してもええかね」老女は、須賀が落ち着いたのを見計らって、言った。
「あなたは、何者なんですか」須賀は尋ねた。「宇宙人か何かなのか、と、正直、疑っています」
老女はけらけらと笑った。「宇宙人やて。面白いこと言うなあ。うちは、ただの漬物屋のオバちゃんや」
「けれど、金貨のこと、環のおばあちゃんのこと、すべてご存じで——」
「そらそうよ。うちはねえ、もう、うんと長いこと、この店をやっとる。長いこと、っちゅうのがどれくらいかは、うちも、正確には覚えとらんのやけど」老女は漬物石を、こつん、と叩いた。「この石の下にはな、宇宙がある、っちゅう言い伝えがあるんよ」
「宇宙?」
「大げさに聞こえるやろうけど、まあ、聞き。——世界にはな、"急いで歩く人には、絶対に見えない場所"っちゅうのが、いくつもあるんよ。地図にない交差点、時速四キロでしか動けんロボット、匂いで方角がわかる婆さん。あんたら、みんな、もう出会うたやろ?」
須賀と環は、顔を見合わせた。
「あれはな、全部、"急がん者にしか見えん宇宙"の入り口や。うちの店の、この漬物石の下にも、そういう入り口が、ひとつある。うちは、そこの、いわば——番人、みたいなもんや」
「なぜ、私たちを呼んだんですか」
「呼んだんとちゃう。呼ばれたんは、あんたらの方や。あんたらの中に、"もう最短距離だけでは生きられん"って思う気持ちが、ちゃんと生まれたから、コインが見え始めたんよ。うちは、ただ、その気持ちに、金色の色をつけとるだけ」
老女は、須賀の手のひらの上のコインを、そっと一枚、取り上げた。「あんたが拾うたこのコインはな、全部、あんたが"本来、感じるはずやった時間"や。急ぎすぎて、素通りしてしもうた時間。それを、少しずつ、返してもろうただけのことや」
須賀は、その言葉を、静かに受け止めた。
「宇宙で最も非効率で、最も温かい真実、とは、これのことですか」
「さあ、なんやろなあ」老女は、また笑った。「うちに聞くより、あんた自身の中に、もう答えは、ちゃんとあるんとちゃうか」
第十九章 最適化されなかった人生
奈良から都市に戻る道中、須賀は迷わなかった。行きに三週間かかった道のりを、彼は、今度は、急がず、ゆっくりと、けれど迷いなく歩いた。
局に戻った日、須賀は鴻上局長のデスクの前に立った。
「辞表を、出します」
鴻上は、驚かなかった。「そうか」と、ただ、それだけ言った。
「局長。僕は、四十二年間、"無駄"という言葉を美しいと思ってきました。けれど、奈良で、僕は気づきました。無駄だと思っていたもののほとんどは、実は、僕の人生そのものだったんです」
鴻上は、デスクの上の盆栽に目をやった。「私も、少し、考えようと思う。局のあり方を。歩行許可証を、廃止するかどうかは、私一人では決められないが——せめて、申請の数を、もう少し、増やせるように、してみようと思う」
須賀は深く頭を下げた。「ありがとうございました」
局を出た須賀は、環とぽてが待つ、細い歩道に向かった。環は、都市に戻った後も、彼女なりの旅を続けると言っていた。「あたし、まだ、五円玉、使い切ってないから」
「また、会えるだろうか」須賀は尋ねた。
「たぶんね」環は、にっと笑った。「匂いが合う人とは、また、どこかで会うもんだって、おばあちゃんが言ってた」
ぽては、須賀の隣で、とことこと足踏みをしていた。「須賀さんは、これから、どうされるのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は、空を見上げた。都市の高架の隙間から、細く、けれど確かに、青い空が見えた。
「歩くよ。ゆっくりと。時速四キロで」
第二十章 また会いたい人ばかり
一年後。
須賀は、奈良の商店街の近くに、小さな漬物屋を——正確には、漬物と、コーヒーと、道行く人が座って話せる縁側だけの、小さな店を開いていた。店の名前は、まだ決めていない。
店先には、いつも、ぽてが座っている。時速四キロを超えられない体は、もう欠点ではなく、この店にとって、ちょうどいい速さになっていた。
環は、時々、ふらりと立ち寄る。相変わらず地図を持たず、五円玉ひとつで、あちこちを旅している。「次はどこに行くんだ」と須賀が聞くと、「まだ決めてない。決めない方が、たぶん、いい場所につく」と、彼女は笑う。
鴻上局長も、月に一度、盆栽を抱えてやってくる。局の歩行許可証の発行数は、あの年から、少しずつ、増え続けているという。
そして、たまに、須賀の店の暖簾の向こうに、金色の小さな点が、ふわりと浮かぶことがある。かつては、それを見るたびに、慌てて手を伸ばしたものだった。今は、須賀は、ただ静かに、それを眺める。
金貨は、急がなくても、逃げていかない。
須賀は、縁側に座り、遠くの山を見ながら、ぬるいお茶を飲む。田中も、去年、局を辞め、この店をよく手伝いにくるようになった。彼もまた、コインが見え始めた一人だった。
「須賀さん」田中が言う。「僕らの人生、あの頃と比べて、ずいぶん非効率になりましたね」
須賀は笑う。「そうだな。でも——」
彼は、手元の湯呑みを、ゆっくりと置いた。
「また会いたい人が、こんなに増えたのは、初めてだ」
風が、暖簾を、しゃら、と揺らした。金色の点が、ひとつ、またひとつ、店の軒先に、静かに浮かんでは、誰かに拾われるのを待っていた。
——完——
巻末付録一 地図にないもののリスト
須賀 徒が拾った金貨の記録
局の報告書には載らなかった金貨だけを、拾った場所と一緒に並べ直しました。
枚数は本人にも正確にはわかりません。数えるたびに少し増えるからです。
No.1
拾った場所: 自室の書棚、色褪せた文庫本の上
蘇った記憶: 高校の廊下。窓際の女子が何か言いかけて、急ぐ自分を見て口を閉じた二秒間
本来あったはずの時間: 急がないで聞けばよかった返事
No.2
拾った場所: 都市の歩道、街路樹の根元
蘇った記憶: 初めて消えずに手に残った温かさ。風の音を最適化されていない音として聞いた瞬間
本来あったはずの時間: 立ち止まって風を聞く暇
No.3
拾った場所: 地図にない交差点の石段の上
蘇った記憶: 母が作った不揃いな卵焼き。黄身が片方に寄っていた
本来あったはずの時間: 不揃いを笑って食べる食卓
No.4
拾った場所: 同じ石段、紫陽花の脇
蘇った記憶: 雨の日に傘を忘れて走った下校路。濡れたカバンが重かった
本来あったはずの時間: 濡れることを許す寄り道
No.5
拾った場所: 雨宿りのバス停の屋根の下
蘇った記憶: 幼稚園で迷子になって泣いた日の、アナウンスの声
本来あったはずの時間: 泣いてもいいと知る時間
No.6
拾った場所: 郵便配達人の村の広場、祠の前
蘇った記憶: 触れても拾えなかった一点。誰かのために残された金貨
本来あったはずの時間: 自分のではない誰かの時間を待つ時間
No.7
拾った場所: 峠道の祠の前、ぽてが倒れた夜
蘇った記憶: 祖母の台所の糠床の匂い
本来あったはずの時間: 匂いを覚えるための台所仕事
No.8
拾った場所: 奈良盆地を見下ろす峠
蘇った記憶: 母と二人で持ち上げた漬物石の重さ
本来あったはずの時間: 重いものを二人で持つ時間
No.9
拾った場所: 奈良盆地のあぜ道
蘇った記憶: 都市の空は細い帯だったのに、ここでは端から端まで広かったこと
本来あったはずの時間: 空の大きさを測らない時間
No.10
拾った場所: 商店街の手前、田んぼの上
蘇った記憶: 白い鳥の群れが誰とも競争せず飛んでいた羽ばたき
本来あったはずの時間: 誰とも比べない速さ
No.11
拾った場所: 金貨屋の暖簾の前
蘇った記憶: 食卓を囲んで何の予定も立てずに笑っていた夜
本来あったはずの時間: 予定のない夜
No.12
拾った場所: 金貨屋の座敷、湯呑みの横
蘇った記憶: いま、このお茶がぬるくなるのを待てること
本来あったはずの時間: ぬるくなるまで待てる余白
余白
あなたの今日の帰り道にも、一枚落ちていたかもしれません。
No.13 場所: 記憶:
No.14 場所: 記憶:
巻末付録二 歩行許可証 第4237号についての小さな考察
なぜ4237枚で打ち止めだったのか。局の公式記録には明確な理由は残されていません。ここでは、作中で囁かれている三つの話だけを載せておきます。どれが本当かは、読んだあなたの歩く速さによって変わるかもしれません。
1. 局の公式見解
都市の歩行帯域計算から導かれた上限値です。時速四キロで会話しながら歩く人が同時に四千二百三十七人を超えると、すれ違うときの挨拶や立ち話による渋滞が、ポッドの高架のダイヤに影響を与えると試算されました。効率を守るための、最後の非効率の枠でした。
2. 旧街道の距離説
都市中央から金貨屋までの旧い街道の距離が、四百二十三・七キロメートルだったという古い地図が、地下三階の倉庫から見つかっています。許可証の番号は、その距離をヘクトメートルに直した数字だというのです。つまり4237は、歩いて帰ってこられるギリギリの距離でした。
3. 奈良のオバちゃんの言い分
「4237やろ。そら、42歳の男の子が、37個目の記憶を思い出したときに、やっと辿り着く番号やからや」
オバちゃんは笑いながらそう言ったそうです。須賀が四十二歳で、環が持っていた五円玉が三十七枚目だったかどうかは、誰も数えていません。
4237枚目の許可証が須賀で最後になったのは偶然です。次の日から、鴻上局長が申請書の書式をこっそり変えたので、番号の数え方が変わりました。今はもう、上限はありません。
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あとがき
「人と人がちゃんと会話できるのは、時速四キロの速さまでである」
作中でロボットの「ぽて」が語るこの言葉は、私たちが日々の中で見失いがちな“手触りのある時間”そのものです。
速すぎる時代の中で、私たちは効率と引き換えに、誰かの話をじっくり聞く時間や、ただ空を眺める時間、不揃いな料理を味わう時間といった「人生の余白」を削ぎ落としてきたのかもしれません。しかし、その無駄の中にこそ、本来の私たちが詰まっているのではないか——そんな思いから、この物語は生まれました。
須賀が拾い集めた金貨は、特別な魔法のコインではありません。誰の人生にも転がっている、けれど急いでいると素通りしてしまう、ささやかな日常の輝きです。
読み終えたあなたの帰り道が、いつもよりほんの少しだけゆっくりになり、足元に小さく光る「金貨」を見つけられますように。

