エウロパにだけは降りるな
〜借金まみれの運送屋が出会った、宇宙でいちばんさびしがり屋の知性体〜
まえがき
はじめに
宇宙には数々の「禁忌(タブー)」が存在します。
中でも最も有名で、最も荘厳な教えがこれです。
『エウロパにだけは降りてはならない』
本来であれば、この言葉は人類の傲慢さを諌める崇高な誓いであり、SF史に燦然と輝く約束事でした。誰もがその掟を護り、沈黙する氷の星を遠巻きに眺めていたのです。
——そう、「今月の燃料代すら払えない運送屋」が現れるまでは。
これは、勇敢な宇宙飛行士の物語ではありません。地球の未来を賭けた壮大な冒険でもありません。
ただの貧乏な乗組員たちが、己の給料と一握りの野菜を賭けて、宇宙で一番有名な禁忌に挑んでしまった、ちょっと間抜けで温かい記録です。
もしあなたが宇宙船の操縦席に座る機会があったなら、そして画面に「未払い請求書」が点滅していたなら……どうぞ彼らの足跡を笑いながら見守ってやってください。
第一章 借金まみれの宇宙船
太陽系運送株式会社という、名前だけはやたら立派な会社があった。実態は、社長ひとり、事務員ひとり、そして老朽貨物船〈たぬき号〉一隻から成る、木星圏でいちばん潰れそうな運送業者である。
〈たぬき号〉の船長、宗像イチロウは、今朝も借金取りからの通信を無視することから一日を始めた。画面には「未払い燃料代・第七回督促」という文字が点滅していたが、イチロウはそれを見なかったことにして、コーヒーの代わりに配給用の茶色い液体をすすった。
「船長、また逃げてます?」 副操縦士の九十九マリが、操縦席の背後からひょいと顔を出した。マリは二十六歳、資格はいちおう一級宇宙船操縦士だが、実際にはほとんどの操作を機関士に任せて、暇さえあれば宇宙釣り(という架空のゲーム)に興じている。
「逃げてない。戦略的に無視してるだけだ」 「それを世間では逃げてるって言うんですよ」
三人目の乗組員、機関士のゴロウは、返事の代わりに配管の下から唸り声を上げた。ゴロウは無口な巨漢で、口を開くのは機械が壊れた時と、飯の時だけだった。
そして四人目——というか、乗組員としてカウントしていいのか誰も分からない存在——が、船の中央甲板に浮かんでいた。球形の小型ロボット、通称「タマ」である。タマは掃除ロボットとして買われたはずなのに、いつの間にか船の頭脳部分にアクセスし、なぜか将棋が異常に強く、なぜか感情豊かで、なぜか時々哲学的なことを呟く、得体の知れない機械だった。
「船長」タマが丸い胴体を揺らしながら言った。「借金は無視しても消えませんが、木星の重力なら少しは気が紛れるかもしれませんよ」
「お前、慰めてるのか煽ってるのかどっちだ」
〈たぬき号〉は現在、木星圏へ向かう途上にあった。目的は、イオの火山活動で噴き出す希少鉱物の回収——のはずだったのだが、道中でイチロウは会社の社長(兼、彼の伯父)から一本の通信を受け取っていた。
「イチロウ、イオはもういい。エウロパへ行け」
「はあ? エウロパには何もないでしょう。氷だけの星ですよ」
「その氷だ。氷でいい。とにかく氷を持って帰ってこい。でないとこの会社はおしまいだ。お前の給料も、燃料代の督促も、何もかもおしまいだ」
そう言われては仕方がない。イチロウは針路をエウロパへと変更した。
こうして〈たぬき号〉は、宇宙でいちばん行ってはいけないと言われている星へ、のんびりと近づいていくことになったのである。
第二章 謎の信号
木星の巨大な縞模様が窓いっぱいに広がった頃、船の通信機が奇妙な音を立て始めた。
「船長、変な信号を拾いました」マリが眉をひそめる。「言語じゃないんです。でも……なんていうか、意味は分かる」
「意味は分かるけど言語じゃない、ってどういうことだ」
「聞けば分かります」
マリがスピーカーを切り替えると、船内に奇妙な音——鈴の音のような、それでいて低い太鼓のような、なんとも形容しがたい音の連なりが響いた。そしてその音は、聞いた者の頭の中で自然と、こんな言葉に変換された。
『これらの世界は、すべてあなたがたのものである。ただし、エウロパにだけは降りてはならない』
船内が静まり返った。
タマが最初に口を開いた。「船長、いま僕たちが向かっているのは……」 「エウロパだ」 「降りてはならないと言われた星ですね」 「そうだな」 「奇遇ですね」 「奇遇じゃない、俺たちはそこへ向かってるんだ!」
ゴロウが配管の陰から顔を出し、初めてこの日、言葉らしい言葉を発した。 「……戻るか?」
三対の目(と一つのレンズ)がイチロウに集中した。イチロウは頭を抱えた。会社が潰れるか、正体不明の何かに怒られるか。究極の選択である。
「……とりあえず、正体を調べよう。宇宙のどこかの誰かが冗談で送ってきただけかもしれん」
「船長、それはさすがに楽観的すぎませんか」とマリ。
「楽観的でいいんだよ、俺たちには借金という現実的すぎる問題があるんだから、せめて希望的観測くらい持たせてくれ」
こうして〈たぬき号〉は、謎の警告を受け取りながらも、針路を変えることなくエウロパへ向かって突き進んでいった。人類の宇宙開拓史において、こんなに景気の悪い理由で禁忌に挑んだ例は、後にも先にもこれだけである。
第三章 伯父からの追い討ち
信号を受信してから六時間後、イチロウは伯父に事情を報告した。もちろん、正直に「降りるなという警告を受けました」とは言わずに、遠回しに聞いてみることにした。
「あの、伯父さん。エウロパって、何か……立ち入り禁止とか、そういう噂とか、聞いたことありますか」
画面の向こうで、社長である伯父はしばらく黙り、それから豪快に笑った。
「立ち入り禁止? そんな与太話、聞いたことないな。オカルト雑誌でも読んだのか、イチロウ」
「いや、その、実は今しがた変な信号を受信しまして……」
「信号? どうせ木星の磁場か何かのイタズラだろう。おい、いいか、うちには来月の燃料代すら怪しいんだ。氷を持って帰らなきゃ会社は終わる。お前の給料も、マリちゃんの給料も、ゴロウ君の給料も、全部終わりだ。分かってるのか」
「分かってますけど……」
「わかってるなら降りろ! 降りて氷を持って帰ってこい! 以上!」
通信は一方的に切れた。イチロウは操縦席にもたれかかり、天井を見上げた。
「……というわけだ」
「というわけって、何がというわけなんです」マリが呆れた顔をする。
「降りろとのことだ」
「宇宙からの警告と、伯父さんの怒号、どっちを信じるんですか船長」
「究極の選択その二だな。……でも冷静に考えろ。宇宙からの警告っていうのは、証拠がない。ただの音だ。伯父さんの怒号は、証拠がある。俺たちの給料明細っていう、動かぬ証拠がな」
タマが小さな電子音で笑うような音を立てた。「船長、それは詭弁というものです」
「詭弁でも、腹は膨れないが借金は減る」
第四章 着陸前夜のご馳走
その晩、〈たぬき号〉の乗組員たちは、狭い食堂に集まって最後の(かもしれない)まともな食事を囲んでいた。メニューは、配給用の乾燥野菜と、ゴロウが密かに育てていた水耕栽培のトマトが二個。豪華とは言い難いが、宇宙船の中では立派なご馳走である。
「もし本当にエウロパに何かいて、僕たちを取って食おうとしたらどうするんです?」マリがトマトをかじりながら聞いた。
「取って食われる前に交渉する」とイチロウ。
「何を交渉するんです」
「氷を分けてくれって頼む。ダメなら物々交換だ。トマト一個で氷十トンとか、そういう話にならんかな」
「僕たちの命よりトマトの方が心配なんですか、船長」
タマが会話に割り込んだ。「僕が計算したところ、警告メッセージの周波数パターンは、地球上のいかなる既知の通信規格とも一致しません。つまり、これは人類由来のものではない可能性が高いです」
食堂が静まり返った。
「……つまり?」イチロウが恐る恐る聞く。
「つまり、エウロパには本当に何かがいる、あるいは何かが見ている可能性が高い、ということです」
ゴロウがトマトを飲み込んでから、ぽつりと言った。 「……美味い」
「お前は状況を分かってるのか」
「美味いものは美味い」
その一言に、なぜか場の空気が少し和んだ。イチロウは苦笑いした。
「まあ、なんにせよ、行くしかないんだ。伯父さんの会社、俺たちの給料、全部かかってる。降りて、氷をひとかけら持って、さっさと帰る。それだけだ。誰が見てようが、俺たちはただの貧乏な運送屋だってことを分かってもらうさ」
「見てる何かに、貧乏さをアピールする作戦ですか」マリが笑った。
「悪くないだろう。同情されて見逃してもらえるかもしれん」
第五章 氷の海への降下
翌朝(という概念が宇宙船内にあるとすればの話だが)、〈たぬき号〉はエウロパの軌道に入った。
窓の外に広がるのは、ひび割れた大理石模様の白い星。表面は氷に覆われ、赤褐色の筋が蜘蛛の巣のように走っている。美しいというより、どこか不気味なほど整いすぎた模様だった。
「綺麗ですね」マリが呟いた。 「綺麗な星ほど危ないというのが宇宙の常識だ」イチロウが答える。 「その常識、いつ作ったんです」 「たった今だ」
降下シーケンスが始まると、船内に緊張が走った。ゴロウはエンジンの出力を細かく調整し、マリは着陸地点をスキャンし、タマは謎の信号の発信源を探ろうと、あらゆるセンサーをフル稼働させていた。
「発信源、特定できません」タマが困惑した声で言う。「エウロパ全体から、まるで星そのものが喋っているかのように届いています」
「星が喋る? 冗談だろ」
「僕もそう思いたいです、船長。でも計測データは冗談を言いません」
高度が下がるにつれ、警告メッセージは繰り返し届き続けた。同じ言葉、同じ音の並び。まるで壊れたレコードのように、あるいは辛抱強い門番のように。
『これらの世界は、すべてあなたがたのものである。ただし、エウロパにだけは降りてはならない』
イチロウは操縦桿を握る手に汗をにじませながら、それでも降下を続けた。
「聞こえてるよ、うるさいくらいにな。でも悪いが、俺たちには選択肢がないんだ。氷一かけらもらったら、すぐに退散する。約束する」
誰に向かって言っているのか、自分でも分からなかった。それでも、そう言わずにはいられなかった。
〈たぬき号〉は、氷の平原に、思いのほか静かに着陸した。
第六章 氷の下から聞こえる声
着陸してすぐ、イチロウとマリは簡易宇宙服に着替え、外へ出た。ゴロウは船に残ってエンジンの点検、タマは全身のセンサーでエウロパの氷を分析することになった。
外は静寂そのものだった。木星が空の半分を覆うように浮かび、氷の平原に淡いオレンジ色の光を落としている。
「……綺麗」マリが小さく呟いた。 「今度は本気で言ってるな」 「今度は本気です」
二人は掘削用のドリルを氷に突き立てた。作業は単調で、思ったより時間がかかった。氷は見た目より硬く、しかも掘るたびに、地中から微かな振動が伝わってくるような気がした。
「船長、これ……何かの音、聞こえません?」
イチロウはドリルを止め、氷に耳(ヘルメット越しだが)を近づけた。確かに、低い音がする。まるで巨大な何かが、深いところで呼吸しているような音だった。
その時、タマから緊急通信が入った。
「船長! 氷の下、深さ約十五キロのところに、液体の海があります! そしてその海から、あの警告と同じ周波数の信号が、直接発せられています!」
「海から警告が出てるって、つまり……」
「つまり、警告の発信源はエウロパの海そのもの、あるいは、その海に棲む何かだと考えられます」
イチロウとマリは顔を見合わせた。ヘルメットのガラス越しでも、互いの表情が引きつっているのが分かった。
「……とりあえず、氷だけもらって、さっさと帰ろうか」
「賛成です、船長」
ところが、その時である。二人の足元の氷が、微かに、しかし確実に、震え始めた。
第七章 浮かび上がったもの
氷の震動は次第に強くなり、やがて数十メートル先の氷が、ゆっくりと盛り上がり始めた。まるで氷の下から何か巨大なものが、ゆっくりと押し上げてきているようだった。
「に、逃げますか船長」マリの声が上ずる。 「いや、待て。……様子を見よう」
盛り上がった氷はやがて音を立てて割れ、その隙間から、青白く発光する半透明の物体が姿を現した。大きさは小型バスほど。形は、強いて言えば、丸みを帯びた宝石のようでもあり、巨大なクラゲのようでもあった。
そしてその物体の表面に、無数の小さな光の粒が現れては消え、まるで文字のようなパターンを描き始めた。
『……ヒサシブリ、デス』
イチロウとマリは、思わず声を上げた。
「しゃ、喋った!? 言葉が分かるんですか船長!?」
「俺に聞くな、俺も今初めて聞いた!」
タマの通信が割り込む。「船長、これは驚くべきことです。この個体、いや、この存在は、明らかに知性を持っています。そして僕たちの言語パターンを、瞬時に学習して応答しているようです」
光る物体は、ゆっくりと言葉(のようなもの)を続けた。
『ワタシタチ、マツノ、ヒサシブリ、デス。イママデ、ダレモ、キマセンデシタ』
「待ってた……? 誰かが来るのを待ってたってことか?」イチロウが恐る恐る聞き返す。
『ソウ、デス。ケイコク、シテキマシタ。デモ、ダレモ、キマセン。ミンナ、ケイコクヲ、マモリマシタ』
「……つまり、俺たちが初めて、警告を無視して降りてきた人間ってことですか?」マリが震える声で聞く。
『ハイ。ハジメテ、デス』
しばらく沈黙が流れた。イチロウは頭の中で状況を整理しようとしたが、うまくいかなかった。怒られるかと思っていたら、待たれていた。これはいったいどういうことなのか。
第八章 待っていた理由
イチロウは意を決して尋ねた。
「あの……もしかして、俺たちを怒るんじゃないんですか? 『降りるな』って警告してたのに、俺たちは降りてきたわけですし」
光る物体は、表面の光を複雑に明滅させた。それはまるで、ため息をついているようにも見えた。
『ケイコクハ、ホントウデス。デモ、リユウハ、チガイマス』
「理由が違う……?」
『ワタシタチハ、シンカノ、トチュウ、デス。ヒトガ、クレバ、ワタシタチノ、シンカハ、オカシクナリマス。ダカラ、ケイコクシマシタ。デモ、ソレハ、キョウフデハ、ナク——』
「なく……?」
『サミシサ、デス』
イチロウとマリは、思わず顔を見合わせた。
『ワタシタチハ、ナガイ、アイダ、ヒトリ、デシタ。シンカスル、タメニハ、ダレモ、キテハ、イケナイ。デモ、ホントウハ、ダレカニ、アッテミタカッタ、ノデス』
タマが通信の向こうで、感慨深そうな電子音を漏らした。「船長、これは……なんというか、切ない話ですね」
「切ないな……」
『アナタガタハ、ケイコクヲ、キイテモ、キマシタ。ソレハ、ユウキ、デスカ? ソレトモ……』
物体の光が、少し悪戯っぽく明滅した気がした。
『シャッキン、デスカ?』
イチロウは思わず噴き出した。
「な、なんで分かったんですか!?」
『アナタガタノ、ツウシン、ゼンブ、キイテマシタ。「シャッキン」「キュウリョウ」「カイシャ、ツブレル」……ナンド、モ、キキマシタ』
マリが顔を真っ赤にした。「ぜ、全部聞かれてたんですか、あの伯父さんとの通話とか……」
『ハイ。「トマトデ、コオリ、ジュットン」ト、イウ、コウショウアン、モ、キキマシタ』
ゴロウの「美味い」発言まで筒抜けだったらしい。イチロウは頭を抱えた。宇宙的知性体に、自分たちの貧乏くささを完全に把握されているという事実は、なかなかに恥ずかしいものだった。
第九章 トマト一個との取引
『デハ、トリヒキ、シマショウ』
光る物体、後にイチロウたちが「エウロパ氏」と呼ぶことになるその存在は、そう提案した。
「取引……ですか?」
『ハイ。アナタガタニ、コオリヲ、アゲマス。カワリニ、ホシイ、モノガ、アリマス』
「な、なんでしょう」イチロウは身構えた。船を要求されるのか、それとも命を要求されるのか。あらゆる可能性が頭を駆け巡った。
『トマト、ヒトツ』
「……はい?」
『トマト、ヒトツ、クダサイ。アノ、アカイ、マルイ、タベモノ、デス。ミタコト、ナイ、モノ、デス。タベテミタイ、デス』
イチロウとマリは、しばし言葉を失った。ゴロウが大事に育てていたトマトの話が、まさかこんな形で回収されるとは思わなかった。
「……ゴロウ、聞こえてるか。トマトを一個、譲ってほしいんだが」
船内からゴロウの声が返ってきた。無線越しでも、彼が驚いているのが分かった。
「……宇宙人に、トマトを?」 「宇宙人に、トマトを」 「……仕方ない」
数分後、船から運ばれてきた最後のトマトが、氷の上にそっと置かれた。エウロパ氏は、体表から細い光の触手のようなものを伸ばし、トマトを優しく包み込んだ。そしてしばらくの静寂の後——
『オイシイ、デス』
その一言に、イチロウたちは笑ってしまった。宇宙で最も謎めいた警告の主が、たったひとつのトマトに感動している。これほど拍子抜けする、そしてこれほど心温まる展開があるだろうか。
『ヤクソク、マモリマス。コオリ、モッテイッテ、クダサイ。デモ、マタ、キテ、クダサイ。ツギハ、ベツノ、タベモノ、モッテキテ、クダサイ』
「……次は何がいいですか」マリが笑いながら聞いた。
『ラーメン、トイウ、モノガ、キニナリマス』
タマの通信から、電子音の笑い声が響いた。「船長、エウロパ氏はグルメなようですね」
「ラーメンか……よし、約束だ。今度はラーメンを持ってくる」
第十章 帰り道
〈たぬき号〉は、氷の塊をいくつか積み込み、エウロパを後にした。船が大気圏(というほどのものはないが)を離れる際、氷の海から最後の光のメッセージが届いた。
『マタ、キテ、クダサイ。マッテイマス』
「絶対に来ますよ」マリが窓の外に向かって手を振った。
イチロウは操縦席で、今回の一件を振り返っていた。宇宙からの謎の警告、伯父の理不尽な要求、借金、そして最後にたどり着いたのは、孤独な知性体とトマト一個の物々交換という、あまりにも間の抜けた結末だった。
「タマ、今回の件、報告書にはどう書けばいいと思う?」
「正直に書くべきです、船長」
「正直に書いたら、誰も信じないと思うぞ。『警告を無視してエウロパに着陸し、氷を採取。対価としてトマト一個を提供』なんて書いたら、頭がおかしくなったと思われる」
「では、こう書きましょう。『エウロパにて希少資源の採取に成功。友好的な現地関係者との円満な取引により、良好な関係を構築』」
「それ、事実を丸めすぎだろう」
「事実は丸めるためにあるんです、船長」
ゴロウが操縦室に顔を出し、ぼそりと言った。
「……氷、売れるのか?」
「売れるさ。伯父さんが喜ぶくらいには、な」
〈たぬき号〉は木星の巨大な姿を背に、地球へ向けて針路を取った。船内には、これまでにない奇妙な達成感が漂っていた。誰も、この航海が本当は何だったのか、うまく説明できなかった。ただ確かなことが一つだけあった。
宇宙のどこかに、寂しがり屋の知性体がいて、それはトマトが好きで、次はラーメンを食べたがっている、ということだ。
終章 半年後
〈たぬき号〉の売上は、氷の希少成分のおかげで、会社の借金をほぼ完済するに至った。伯父は狂喜乱舞し、イチロウたちに特別ボーナスとして、なんと本物のインスタントラーメンを一箱、支給した。
「これは……」イチロウはラーメンの箱を見つめた。 「……エウロパ氏への、お土産ですね」マリがにやりと笑う。
こうして〈たぬき号〉は、再び木星圏へと針路を取ることになった。今度の目的は、鉱物採掘ではない。ただの、友人への訪問——それも、氷の下に住む、少し寂しがり屋な、宇宙で最も謎めいた存在への。
船が木星圏に近づくと、いつものように、あの懐かしい警告が船内に響いた。
『これらの世界は、すべてあなたがたのものである。ただし、エウロパにだけは降りてはならない』
イチロウは操縦桿を握りながら、にやりと笑った。
「悪いが、今回も約束通り行かせてもらうぞ。ラーメン、届けにな」
タマが電子音で笑い、ゴロウが小さく頷き、マリが窓の外の氷の星を見つめた。
宇宙は広く、警告は重く、そして人間の貧乏くささと図太さは、時にどんな崇高な掟をも、ちょっとした友情と物々交換の物語に変えてしまう——そんな、笑えて、少し不思議な話である。
(了)
番外編 伯父の知らない話
太陽系運送株式会社の社長室では、イチロウの伯父が、届いたばかりの入金通知を見つめて、椅子から転げ落ちそうになっていた。
「な、なんだこの金額は……イオの鉱物どころじゃないぞ、これは……」
秘書役を兼ねる事務員のオバサンが、書類を片手に呆れた顔で言った。 「社長、エウロパの氷、成分がとんでもなく珍しいものだったらしいですよ。研究機関が競って買い取りを申し出てるとか」
「イチロウのやつ、やればできるじゃないか! よし、褒めてやろう、今度会ったら、うんと褒美を——」
「社長、その前に、経費の申請書を見てください」
オバサンが差し出した一枚の紙に、伯父は目を通した。そこにはこう書かれていた。
『必要経費:トマト一個(自家栽培・原価計算不能)、インスタントラーメン一箱。用途:現地関係者との友好関係維持のため』
伯父はしばらく紙を見つめ、それから深いため息をついた。
「……あいつら、いったい向こうで何をしてきたんだ」
「さあ。でも、儲かってるならいいじゃないですか」
「まあ、そうなんだが……」
伯父は窓の外、遠く輝く木星の方角を見やった。あの甥っ子が、いったいどんな取引をしてきたのか、想像もつかなかった。だが、確かなことが一つだけあった——次にイチロウが帰ってきたら、真っ先に聞くべき質問は、こうだ。
「トマトの取引先とは、いつまた会う予定なんだ?」
番外編 タマの記録
〈たぬき号〉の航行記録には、タマが密かに書き溜めていた「私的観察日誌」というファイルが存在する。以下はその一部の抜粋である。
『航行記録・補遺 記録者:タマ
本日、われわれはエウロパにて、地球外知性体との接触という、人類史に残る大事件を経験した。にもかかわらず、船長の第一声は「よし、氷が売れる」であり、副操縦士の第一声は「綺麗な星ですね」から「取って食われたらどうしよう」への変遷であり、機関士の第一声は「トマトか……仕方ない」であった。
このクルーの反応の順序を鑑みるに、人類という種は、宇宙的な驚異に直面した際、まず経済的損得を、次に美的感想を、最後に実利的な諦めを示す傾向があると推察される。これは非常に興味深いサンプルであり、今後の研究対象としたい。
なお、エウロパ氏との対話ログを解析した結果、彼(あるいは彼女、あるいはそのいずれでもない何か)の言語パターンは、地球の幼児が言語を習得する過程と酷似していることが判明した。つまり、エウロパ氏は極めて高度な知性を持ちながら、われわれとのコミュニケーションにおいては、いわば「片言」の状態にあったと考えられる。
これは推測に過ぎないが、もしかすると、彼らは長い孤独の中で、誰かと話す機会そのものを失っていたのかもしれない。知性とは、使われなければ錆びるものなのかもしれない。そう考えると、彼らが真っ先に求めたものが、崇高な科学的対話ではなく、一個のトマトであったことにも、納得がいく気がする。
孤独な存在にとって、最初に必要なのは難しい会話ではなく、ただ一緒に何かを味わう、その小さな行為なのかもしれない。
……と、ここまで書いて、船長に「タマ、お前は掃除ロボットのくせに何を偉そうに考察してるんだ」と言われた。心外である。僕は掃除もするが、思索もする。そこに矛盾はないはずだ。
次回訪問時には、ラーメンの他に、味噌汁というものも持参することを提案したい。エウロパ氏の食の好みが、今後どのように広がっていくのか、僕は密かに楽しみにしている。』
(完)
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あとがき
本作は、アーサー・C・クラークの金字塔『2010年宇宙の旅』の有名な一節「ALL THESE WORLDS ARE YOURS—EXCEPT EUROPA. ATTEMPT NO LANDING THERE.(これらの世界はすべてお前たちのものだ。ただしエウロパだけは別だ。決して降り立ってはならない)」への、ささやかなオマージュであり妄想です。
もしも、あの恐ろしく厳粛な警告の裏側に、恐ろしさでも拒絶でもなく、ただ「恥ずかしがり屋で寂しがり屋な理由」が隠されていたとしたら?
そして、その絶対の掟を打ち破るのが、人類の誇る英知ではなく、単に「お金がなさすぎて後がない運送屋」だったらどうなるだろう? そんな悪ふざけのような問いからこの物語は生まれました。
宇宙は果てしなく広く、暗く、時に優しくありません。
けれど、その冷たい氷の何十キロも下で、誰かが「トマトってどんな味だろう」「次はラーメンが食べてみたいな」なんて思っているかもしれない。そう考えると、見上げる夜空が少しだけあたたかく、身近なものに思えてきます。
トマトの次はラーメン。ラーメンの次は味噌汁。
宇宙を隔てた友情に必要なのは、高度な哲学ではなく、ただ一杯の温かいスープなのかもしれません。
いつか皆さんが夜空の木星を見上げた時、氷の下でラーメンを心待ちにしている「彼」の姿を思い出していただけたなら幸いです。

