『コルクの弾丸、青空を撃つ』

まえがき
誰の心の中にも、「言葉にできない欠落感」のようなものが、ひとつやふたつはあるのではないでしょうか。
「なぜだか分からないけれど、昔からずっと寂しい」
「自分には、どこか満たされないパーツがある気がする」
この物語は、そんな「胸の穴」を抱えた男が、おもちゃの射的銃で青空を撃ち抜くところから始まります。
届くはずのない遠い空に向かって、それでも手を伸ばすこと。
くだらない毎日を積み重ねて生きること。
それらが持つ、ささやかで絶対的な愛おしさを感じていただければ幸いです。
それでは、少し不思議で、少し懐かしい倉庫街の青空へとお付き合いください。





プロローグ ―― コールタールの匂い
またあの夢だ。
青い空。あまりに青すぎて、逆に不安になるような空だ。
機体が激しく震えている。エンジンの異音が鼓膜を刺す。眼下には、波間に浮かぶ敵艦の黒い甲板が見える。誰かが絶叫している。いや、叫んでいるのは自分の喉なのに、その声はまるで他人のもののように遠く響いていた。
コールタールの焦げる嫌な匂いが鼻の奥にこびりついて、目が覚めてもしばらく取れない。
大空五郎(おおぞら・ごろう)、四十二歳。この夢を、物心ついたときからずっと見てきた。
一度も戦争になど行ったことはない。生まれたのは高度経済成長も終わった後だ。なのに、なぜかこの夢だけは、やけに解像度が高い。風防ガラスの小さな擦り傷の位置まで覚えている。
「――で、また魘(うな)されてたわけね」
大家のトメさんが、湯呑みを片手にあきれ顔でこちらを見ている。トメさんは八十を超えても矍鑠(かくしゃく)としていて、元は柳橋あたりで鳴らした芸者だったらしい。今はこの古い倉庫の大家として、軒先を五郎に貸している。
「まあ、いつものことだけどね。あんたのそのポンコツな顔を見てると、こっちまで戦争行った気になるよ」
「行ってませんよそんな、生まれてもいませんし」
「知ってるよ。でもねぇ五郎ちゃん、魂ってのは律儀だからね。忘れたつもりでも、忘れさせてもらえないことがあるのさ」
五郎は苦笑いだけを返して、軒先の射的台の埃を払った。
祖父の代から続く射的屋。今どき客もほとんど来ない、倉庫の隙間に間借りしたような小さな店だ。コルクの弾を詰めて、景品のぬいぐるみやら安いチョコレートやらを狙う、あの縁日の屋台の、あれだ。
祖父が亡くなり、父も亡くなり、なぜか五郎がこの商売を継ぐことになった。継ぐというより、他に誰も継ぐ気がなかっただけなのだが。
もっとも祖父自身、この商売についてほとんど何も語らなかった。無口で、いつも空を見上げてばかりいる人だった。「なんで射的屋なんかやってるの」と幼い五郎が尋ねたとき、祖父はただ一言、「届かないもんを、届かせる稽古だよ」と答えただけだった。子供心にも、その答えは妙に腑に落ちなかったが、今にして思えば、あれはただの誤魔化しではなかったのかもしれない。
祖父は五郎が十歳の時に亡くなった。死に際、うわ言のように「すまん、すまん」と繰り返していたのを、五郎はよく覚えている。何に謝っていたのか、当時は分からなかった。父も多くを語らず、そのまま数年前に他界した。結局、祖父が何を思ってこの商売を続けていたのか、誰にも聞けないまま、五郎はこの古びた射的台の前に立つことになった。
今日も客はいない。
五郎は台に頬杖をついて、ぼんやりと空を見上げた。
雲ひとつない、綺麗な青空だった。
――あの夢の空と、同じ色をしている。
そう思った矢先、遠くの空に、真っ白な雲がひとつ、ゆっくりと流れてくるのが見えた。

一章 届かないもんを、届かせる稽古
祖父の葬式の日、五郎はまだ十歳だった。
参列者はまばらだった。戦友会の名簿に載っていたはずの人々は、当の祖父より先にほとんど亡くなっており、来てくれたのはわずか数人の老人だけだった。その中の一人が、焼香のあと、五郎の頭を撫でてこう言った。
「お前のじいさんはな、運のいい人だったんだよ。あの時代に、生きて帰ってこられたんだから」
「あの時代」が何を指すのか、幼い五郎には分からなかった。母に尋ねても、困ったような顔で言葉を濁されるだけだった。
祖父の遺品の中に、一枚の古い写真があった。若い頃の祖父らしき青年が、飛行帽を被り、白いマフラーを巻いて、屈託なく笑っている写真だ。裏には、鉛筆でうっすらと「昭和二十年」とだけ書かれていた。
五郎はその写真を、長いことお守りのように持ち歩いていた。特に意味はなかった。ただ、なんとなく、祖父の何かを受け継いだような気がしていただけだ。
射的屋を継ぐと決めたときも、その写真をポケットに入れていた。父の跡を継ぐというより、この古い商売と、祖父が最後まで手放さなかった、あの妙に達観した空気を、自分も引き継いでみたいと思ったからだ。
「届かないもんを、届かせる稽古だよ」
祖父の言葉の意味を、五郎は長いこと考え続けてきた。ただの縁日の玩具屋の理屈にしては、あまりに重すぎる響きがあったからだ。
自分が撃とうとしているのは、一体何なのか。その答えを知る日が来ることなど、当時の五郎は思いもしなかった。

二章 燃える雲、光る雲
倉庫街というのは、独特の時間が流れる場所だ。
朝は早くからトラックの出入りで騒がしいが、昼を過ぎると嘘のように静かになる。錆びたシャッター、積み上げられたパレット、隙間から伸びる名前も知らない雑草。そんな景色の片隅に、五郎の射的屋はひっそりと軒を出している。
客が来ない日は、たいてい隣の八百屋の奥さんが世間話をしに来るか、自転車屋の親父が「今日も暇かい」とからかいに来るか、そのどちらかだった。今日は珍しく、どちらも来なかった。
五郎は台に頬杖をついて、ぼんやりと空を見上げた。
その雲は、妙だった。
あまりに白すぎる。まるで漂白したてのシーツのような白さで、輪郭がやけにくっきりしている。五郎はコルクの弾を詰める手を止めて、それをぼんやり眺めていた。
すると、雲の縁がふっと黒く滲んだ。
「――は?」
墨を垂らしたように、白い雲の中心からじわじわと黒が広がっていく。五郎が目をこすっている間に、黒は赤に変わり、次の瞬間、雲は音もなく発火した。
ボッと炎が上がる。青空の真ん中で、雲が燃えている。
「ト、トメさん! トメさん見てください、雲が!」
奥から出てきたトメさんは、湯呑み片手に空を見上げ、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「……綺麗じゃないか」
「綺麗じゃないですよ! 火事ですよ空の!」
「空が燃えて困る奴がいるのかい。消防車、呼びに行くのかい、あんた」
五郎は言葉に詰まった。たしかに、雲が燃えたところで誰かの家が燃えるわけでもない。それに――認めたくないが、たしかに美しかった。夕焼けでもないのに、空の一角だけが橙色に揺らめいている。
騒ぎに気づいた近所の人間が、ぽつぽつと軒先に集まってきた。八百屋の奥さん、自転車屋の親父、小学生が数人。誰もがスマートフォンを空に向けて、口々に好き勝手なことを言っている。
「ねえ五郎さん、あんたの店、なんかやったんじゃないの」
八百屋の奥さんが、まるで五郎が犯人であるかのような目を向けてくる。
「やってませんよ、僕はコルク弾詰めてただけで」
「でもほら、あんたの店の真上だけ燃えてるじゃないさ」
「それはただの偶然です!」
自転車屋の親父は、なぜか嬉しそうにスマホの画面を五郎に見せてきた。
「見ろよこれ、動画上がってるぞ。お前んとこの店名も一緒に映ってるし、宣伝になっていいじゃねえか」
「そんな喜んでる場合じゃないと思うんですけど……」
炎はものの一分ほどで、まるで最初から何もなかったかのように、すっと消えた。
「……夢じゃないですよね、今の」
「夢だったら、あたしも同じ夢見てることになるね」
集まった野次馬たちは、大した映像が撮れなかったことを口々に悔しがりながら、三々五々散っていった。日常というのは存外図太いもので、翌日にはもう誰もその話をしなくなっていた。
だが、五郎だけは、その夜もまた同じ夢を見た。
コールタールの匂い。震える機体。青すぎる空。
――そして今度は、夢の中の空にも、あの黒い染みが浮かんでいた気がした。
翌日、五郎は近所の居酒屋で、幼馴染の板前にその話をしてみた。
「なあ、雲が燃えるのって、見たことあるか」
「なんだよ藪から棒に。ねえよそんなの、お前、寝ぼけてたんじゃねえのか」
「いや、近所の連中もみんな見たんだって」
「じゃあただの陽炎かなんかだろ。それより五郎、その射的屋、いい加減畳んで、うちで板前修業でもする気ねえか。今どき射的で食っていけるわけねえだろ」
話を逸らされ、結局その日は釈然としないまま帰路についた。五郎自身、あれは見間違いだったのかもしれない、疲れているだけかもしれない、と自分に言い聞かせようとした。だが、コールタールの匂いの記憶だけは、どうしても頭から離れなかった。
翌々日。今度は違う雲が流れてきた。
最初は普通の入道雲だった。もくもくと膨らんで、そろそろ夕立でも来るかと五郎が軒先の商品を片付けかけたとき、雲全体がふわりと瞬き始めた。
赤、緑、青、金――まるでクリスマスツリーの電飾を、そのまま空に貼り付けたような輝き。雲の内側で無数の光の粒が明滅し、隊列を組むように渦を巻いている。
「……クリスマスにはまだ早いですよ」
五郎の呟きに答える者は、誰もいなかった。トメさんは奥で洗濯物を干していて、こちらを見ていない。
五郎は、なぜかその瞬間、無性にあの雲を撃ちたくなった。
理屈ではない。子供の頃、祖父の射的屋の前でコルクの弾を握りしめていた時と同じ、あの妙な衝動だった。届くはずがない。届くはずがないのは分かっている。相手はただの玩具の銃で、標的は数千メートル上空の雲だ。
それでも五郎は、射的銃を構えた。

三章 ドカン、と空が鳴った
「――何やってんの、あんた」
背後から声がして振り向くと、見知らぬ若い女が立っていた。首から一眼レフをぶら下げ、リュックにはやたらとステッカーが貼ってある。「未確認現象研究会」だの「we are not alone」だの、趣味の主張が激しい。
「いや、その、雲を狙って……」
「え、待って、もしかしてあなた、さっきの発火現象も見た人? クリスマスツリー雲も?」
「見たも何も、目の前で」
「――やっぱりここだ!」
女は興奮した様子でリュックを下ろし、機材を広げ始めた。名を皆川ひかりといい、フリーのライター兼、自称UFO研究家だという。ネットの掲示板で「倉庫街上空の怪光」の目撃情報を追いかけて、ここまで辿り着いたらしい。
「大学の時からずっと未確認現象を追いかけてて、この道一本でやってきたんです。おかげで親には勘当寸前ですけど」
「そこまでして追いかけるものですかね、雲が燃えたくらいで」
「くらいで、じゃないですよ! 雲が発火したうえに、次はクリスマスツリーみたいに光り出したんですよ!? こんなの、ロズウェル事件以来の大事件じゃないですか!」
「ロズウェルは知りませんけど、とりあえず落ち着いてもらえます?」
五郎が引くくらいの熱量で捲し立てるひかりに、いくらか気圧されながらも、五郎はコルクの弾を握り直した。
「で、本当に撃つの? その、コルクの弾で?」
「届くわけないんですけどね」
「届かなくていいから撃って! 私、動画回すから!」
急かされるまま、五郎は引き金を引いた。
ポン、という間の抜けた音とともに、コルクの弾が発射される。放物線を描いて、せいぜい五メートルも飛べば地面に落ちるはずのそれは――
すっ、と空に吸い込まれるように消えた。
「……え?」
五郎とひかりの声が重なった。
数秒の静寂のあと。
ドカン!
まるで花火の大玉が割れるような、腹に響く破裂音が空一面に轟いた。びりびりとガラス窓が震え、遠くで犬が一斉に吠え始める。
そして、あれほど賑やかに瞬いていたクリスマスツリー雲が、煙のようにふっと消え失せた。
「撮れた……撮れましたか?」
五郎の問いに、ひかりはカメラの液晶を凝視したまま、震える声で答えた。
「撮れた……というか、これ、弾がどこにも映ってない。空に消えた瞬間からいきなり爆発してる」
「そんな、そんな馬鹿な」
「馬鹿なのはこっちの台詞だよ! あんた何者!? その銃、本当にただのコルク銃?」
五郎は自分の銃をまじまじと見返した。安っぽいプラスチックの、赤いペンキが所々剥げた、どこからどう見てもただの玩具だ。祖父の代から使っている年代物で、バネも弱っていて、実際五メートルも飛べば上出来という代物である。
「……ただのオモチャですよ、これ」
「じゃあ何で空の雲を吹っ飛ばせるのよ!」
「知りませんよそんなの、僕が聞きたいです!」
押し問答をしていると、トメさんが奥からのっそり出てきて、爆発音に驚いた様子もなく、こう言った。
「五郎ちゃん、もう一回撃ってごらんよ」
「え、でも」
「面白いことは、二度あるって言うだろう」
「それ、二度あることは三度あるの間違いじゃないですか」
「細けえこと言うんじゃないよ」
ひかりも「私からもお願いします」とカメラを構え直す。二人がかりで急かされ、五郎は仕方なく、今度は何もない、ただ青いだけの空へと銃口を向けた。
狙いなど、つけようがない。目印になる雲もない、ただの虚空だ。
それでも、なぜか五郎は、その一点だけを狙うべきだと直感した。
引き金を引く。
ポン。
コルクの弾は、まるでスローモーション映像のように、ゆっくりゆっくりと空へ昇っていった。ひかりが「うわ、なにこの動き」と呟く声が、やけに遠く聞こえる。
そして――
コツン。
まるで見えない窓ガラスにぶつかったような、乾いた音がした。

四章 やりやがったな
『――やりやがったな』
空から、確かにそう聞こえた。
低く、しかしどこか間の抜けた、怒っているというよりぼやいているような声だった。
「ひかりさん、今の聞きました?」
「聞いた。聞いたけど、信じたくない」
二人が固まっている間に、青空の一点が、まるでレンズを覗き込むように歪んだ。歪みは渦を巻き、次の瞬間、そこから銀色に輝く物体が姿を現した。
――UFOだ。
写真でよく見る、あの円盤形。しかし妙にみすぼらしい。表面のあちこちに凹みがあり、下部からはくすぶるような煙が細く上がっている。まるで、コルク弾を喰らって多少へこんだ、そんな風情だった。
それは急降下してきた。逃げる暇もない。悲鳴を上げる間もなく、円盤は五郎たちの目の前、地上からわずか一メートルほどの高さで、ぴたりと静止した。ドローンのように、風もないのに微かにホバリングしている。
「五郎ちゃん、これは動くんじゃないよ」
「言われなくても動けませんよ!」
腰が抜けたように立ち尽くす五郎。ひかりだけは震える手でシャッターを切り続けている。「一生分の運を使った、私、今、一生分の運を使った」とぶつぶつ呟きながら。
宇宙人でも出てくるのか。触手だろうか、それとも人型だろうか。五郎の頭の中を、子供の頃に見た特撮番組のイメージが駆け巡る。
――が、次の瞬間。
円盤はしゅるしると音を立てて縮み始め、あっという間に、掌に乗るくらいの、ぼんやり光る球体――いわゆる「オーブ」と化した。
「……なんだ」
思わず、五郎の口からそんな言葉がこぼれた。
「脅かすなよ、まったく」
すると、そのオーブが、まるで返事をするかのようにふるふると震えた。
そして、増えた。
一つだったオーブが二つに、二つが四つに、四つが八つに――まるで細胞分裂でも見ているかのような速度で、光の球はみるみる数を増やしていく。
気がつけば、五郎とひかり、そしてトメさんの周囲は、大小さまざまな色をしたオーブで埋め尽くされていた。金色のもの、水色のもの、中には虹色に明滅するものまである。まるで満天の星の中に立っているような、あるいは、水中で光るクラゲの群れに包まれているような、そんな景色だった。
音もなく、熱もない。ただ、肌の表面をそっと撫でるような、柔らかい気配だけがそこにあった。倉庫街の埃っぽい空気も、遠くで鳴り続ける犬の声も、その瞬間だけは妙に遠く感じられた。五郎は不思議と怖くなかった。むしろ、どこか懐かしい――まるで幼い頃、祖父の背中におぶさって見た夏祭りの提灯の海を思い出すような、そんな安心感があった。
「なんですかこれ、こんなの、教科書にも論文にも載ってないですよ……」
ひかりは半分呆然としながら、それでもシャッターを切り続けている。職業意識だけは失っていないらしい。
「……綺麗」
ひかりが、カメラを構えるのも忘れて呟いた。
五郎も同じ気持ちだった。恐怖はいつの間にか消えていて、ただ、この光の中に立っていることが、たまらなく心地よかった。
まるで、長いこと迷子だった誰かが、ようやく家に帰りついたときのような。
――そんな、懐かしさすら覚える光景だった。

五章 それは、キミ自身だ
無数のオーブの中の一つが、すっと五郎の前に進み出た。
他のオーブより少しだけ小さく、少しだけ淡い光をしている。それは五郎の目の高さでふわりと止まり、まるで挨拶でもするように、ゆっくりと一礼するような動きを見せた。
「……えっと、こんにちは?」
五郎が困惑気味に声をかけた、次の瞬間。
そのオーブは、迷いもなく五郎の胸に飛び込んだ。
「わっ!」
とっさに身構えたが、痛みはなかった。それどころか、何も感じない。胸に手を当てても、そこには何の異物もない。ただ、じんわりと、お風呂につかったときのような温かさだけが広がっていく。
「な、今の、何!?」
ひかりが悲鳴に近い声を上げる。トメさんだけが、なぜか妙に落ち着いた顔で、湯呑みを傾けている。
『――それは、キミ自身だよ』
耳元で、声がした。今度ははっきりと分かる。あのオーブの声だ。
「僕自身……?」
『長いこと待っていたはずの、キミだよ』
『何か、足りないと感じていた、そのものだ』
五郎は絶句した。
足りないもの。ずっと、そう感じてきた気がする。射的屋の商売がうまくいかないからでも、独り身だからでもない。もっと根源的な、名前のつけようのない欠落感。夜な夜な見るあの夢――コールタールの匂いと、震える機体と、青すぎる空――それを見るたび、目覚めても半日ほど、体の芯が冷えたような感覚が抜けなかった。
思い返せば、五郎はいつも、何かにブレーキをかけながら生きてきた。大きな夢を見ることも、誰かを本気で好きになることも、どこかで「自分にはその資格がない」と決めつけているようなところがあった。理由なんて、これまで一度も考えたことがなかった。ただ、なんとなく、そういう性分なのだと思い込んでいた。
――もし、その「なんとなく」に、ちゃんとした理由があったのだとしたら。
『えっ』
と、五郎は思わず声を上げて――
――目が覚めた。
自宅の万年床の上、天井の染みを見つめながら、五郎はしばらく動けなかった。
射的屋も、ひかりも、増殖するオーブも、円盤も、全部が夢だったのだろうか。
慌てて携帯を確認する。時刻は朝の六時。夢にしては、やけに生々しかった。コールタールの匂いすらまだ鼻の奥に残っているような気がした。
――ただし、いつもと違う点が一つだけあった。
いつもなら見終わったあとに残る、あの震えるような恐怖感が、今日はまるでない。
代わりにあるのは、なんとも言えない、じんわりとした安堵感だった。
「はてさて、これは……」
五郎は寝間着のまま、腕を組んで唸った。
「このポンコツ男、知性でも取り戻したかな。それとも――度胸か?」
答えの出ない自問を口にしながら、五郎はひとまず布団から這い出て、いつも通り射的屋の支度に向かった。
断章 ―― ある青年の記憶
出撃前夜、彼は宿舎の窓辺で、一枚の写真を見つめていた。
近所に住む、幼馴染の少女――いや、もう少女と呼ぶ歳でもなかったが、彼にとってはいつまでも、あの空き地で一緒に遊んだ幼い頃のままの姿だった。写真の中の彼女は、少し照れくさそうに、けれど確かに笑っていた。
「帰ってきたら、ちゃんと言うんだ」
誰にともなく、彼はそう呟いた。
「ちゃんと、好きだって、言うんだ。今まで、ずっと言えなかったから」
隣のベッドの戦友が、寝ぼけ眼でこちらを見た。
「おい、また写真見てんのか。お前、本当にあの人のこと好きなんだな」
「ああ。だから、絶対に帰る。帰って、店でも何でもいいから、二人でやっていくんだ」
戦友は何も言わず、ただ小さく笑って、また眠りについた。
翌朝、彼は写真を胸ポケットにしまい、飛行帽を被った。空は、恐ろしいほどに青く、澄み渡っていた。
――その先に何が起きたのかは、もう、誰も知らない。

六章 迷子になった「未来」
軒先に着くと、すでにひかりが台の前で仁王立ちしていた。目の下には濃いクマができている。
「五郎さん、私、全然寝てないですよ! 昨日の映像、編集してたら気づいちゃったことがあるんです」
「昨日の映像って、あれ、夢じゃなかったんですか」
「夢だったら私のカメラも夢を見たことになりますね」
差し出されたノートパソコンの画面には、たしかに発光する円盤と、無数のオーブに囲まれた昨夜の光景が映っていた。ただし、映像の中の五郎は明らかに真顔で「脅かすなよ」と呟いており、傍から見るとただの独り言にしか見えない、実に締まらない絵面だった。
「これ、拡散したら大変なことになりますよ」
「あの、それより気づいたことって」
ひかりは画面を一時停止し、円盤の表面を拡大した。よく見ると、円盤の側面には、かすれた文字のようなものが刻まれている。判読できる範囲で読むと――
『昭和二十年 第○特別攻撃隊 所属不明機体 ――記録に存在せず』
「……は?」
「これ、ネットの好事家たちが昔から追ってる噂なんですけど。太平洋戦争末期、特攻に出撃したはずなのに、公式記録のどこにも存在しない機体があるらしいんです。目撃談だけがぽつぽつある。『空の途中で消えた』とか『帰ってきたのに機体だけで、乗っていた人間の記憶がなかった』とか」
五郎の背筋に、冷たいものが走った。
あの夢だ。震える機体、コールタールの匂い、青すぎる空。
「まさか……僕が、その」
「生まれ変わりだって言いたいんですか? いや、私もオカルト好きですけど、さすがに突飛――」
「――突飛でもないさ、お嬢さん」
そこへ、低いしわがれた声が割って入った。振り返ると、いつの間に寄ってきたのか、よれよれの背広を着た老人が、みたらし団子の串を咥えながら杖をついて立っていた。名乗るには名乗ったが、「まあ好きに呼びなさい」としか言わず、結局二人は彼を「じいさん」と呼ぶことになった。
「儂は長いこと、こういう類の『はぐれ』を見てきたのでな」
「はぐれ、ですか」
「魂ってのは、時々、迷子になる。特に、あまりに大きな恐怖や絶望を前にしたときにな。本体は諦めて前に進むしかない。だが、諦めきれなかった部分――『これから』を望む気持ちだけが、本体から千切れて、置き去りになることがある」
じいさんは団子の串で、宙をつつくような仕草をした。
「――『未来』だよ、それは。生きていたら見られたはずの、これからの人生そのものだ。恐怖のあまり本体と分離して、そのまま、あてもなく空をさまようことになる。雲の隙間に紛れ込んだり、光になって彷徨ったり――ま、人間の目には、時々UFOだの怪光だのと映るわけだ」
「じゃあ、世の中で目撃されてるUFOって、全部そういうものなんですか」
ひかりが身を乗り出して尋ねる。じいさんは苦笑して首を振った。
「いや、そこまでは知らんよ。宇宙人が本当にいるのかどうかも、儂には分からん。儂が知ってるのはただ、こういう類の『はぐれ』が、時々この世界に紛れ込んでくるということだけだ。――それに、はぐれた魂の欠片は、いつまでも彷徨っていられるわけじゃない。長い年月をかけて薄れ、やがて消えてしまうものも多い」
「消える、って」
「戻る場所を、永遠に見つけられなかったということさ」
じいさんは団子の串を弄びながら、遠くを見るような目で続けた。
「儂が知ってるだけでも、色々あったよ。戦場で仲間を置き去りにした罪悪感が、街の外れで人魂になって彷徨ってた話とか。事故で片腕を失った少女の『失われなかったはずの右腕』が、長いこと病院の廊下を漂ってた話とかな。たいていは、誰にも気づかれず、何十年もかけてゆっくり薄れていく。今回みたいに、ちゃんと本体と再会できるケースは、実のところ、かなり珍しいのさ」
「珍しいって、どのくらい」
「儂の記憶にある限り、五指に足りるかどうかだね。大抵の場合、本体の方がとっくに『もう昔のことだ』と割り切って、迷子になった自分の一部を、迎えに行く気力すら失っちまってるものだから」
五郎は、自分がなぜあの日、あの意味のない衝動――届くはずのない空に向かって銃を構えるという行為――に駆られたのか、改めて考えた。あれは偶然だったのか、それとも。
「じいさん、僕があの日、空を撃とうと思ったのは、偶然ですか」
「さあな。ただ、儂に言えるのは一つだけだ。届かないと分かっていても、それでも撃とうとする人間のところにしか、はぐれた魂は帰ってこられん。――そういう意味では、偶然でも必然でもいい。キミが撃ったという事実が、全てだよ」
その一言に、五郎は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。もし自分があのとき、コルクの弾を空に向けていなければ。あの妙な衝動に従わなければ。あのオーブは、いずれ誰にも気づかれないまま、静かに消えていたのかもしれない。
五郎は言葉を失った。あの夢の主が、七十年以上も前に空の途中で恐怖に負け、自分の「これから」を置き去りにしたまま、敵艦に――いや、その先は考えたくなかった。
「じゃあ、あのオーブは……」
「キミの『未来』そのものだよ、五郎くん」
じいさんは初めて、五郎の名を呼んだ。まるで、はじめから知っていたかのように。
「長いこと待っていたのさ。キミという入れ物が、ちゃんと『これから』を受け止められるようになる日をな」
「あの、そもそも、じいさんは何者なんですか」
五郎が尋ねると、じいさんは近くの団子屋で買った串団子を、恐ろしい速さで五本ほど平らげてから、こう答えた。
「儂か? 儂はまあ、そういう『はぐれ』の面倒を見て回る、しがない世話役だよ。長生きしすぎて、自分がいつから生きてるのかも忘れちまったがね」
「答えになってないですよ、それ」
「なってないから、いいのさ。世の中、説明のつくことばかりじゃ、つまらんだろう」
ひかりが「取材させてください!」と食い下がったが、じいさんは団子の代金として、見たこともない古い硬貨を店主に握らせると、「ではまたな」とだけ言い残し、路地の角を曲がって姿を消した。追いかけたひかりが戻ってきて、開口一番こう言った。
「――消えました。本当に、煙みたいに」
「じいさんまでオーバーテクノロジーなんですか、この話」
「もう何が起きても驚きませんよ、私」

七章 疑うひかりと、ふてくされる五郎
映像を見返しながら、ひかりは急に黙り込んだ。
「……五郎さん、正直に言ってください。これ、何かの仕込みじゃないですよね」
「は?」
「いや、その、ドローンで発煙筒仕込んで、雲みたいな模型を浮かべて――みたいな。今どき、そういう悪ふざけ系の動画、結構バズってるから」
「そんな手の込んだこと、僕にできると思います? 射的屋のポンコツ親父ですよ、僕」
ひかりは疑わしそうな目で五郎を睨んだ。無理もない。冷静に考えれば、雲が発火し、光り、UFOが現れ、それが自分の胸に飛び込んでくるなど、正気の沙汰ではない。
「正直、私も混乱してるんです。信じたい気持ちと、信じたら負けだって気持ちが、半々で」
「負けって、何にですか」
「――こういうの、簡単に信じちゃう人間だって、周りに笑われるのが怖いんですよ、私」
五郎は少し黙ってから、ぽつりと言った。
「僕だって、正気を疑ってますよ。でも、あの声だけは、嘘じゃなかった。少なくとも、僕の中では」
「証拠にならないですよ、それ」
「証拠なんて、最初から求めてません。ただ、あの日から、僕はずっと見てた悪夢を、一度も見てないんです。それだけは、嘘でも仕込みでもない、僕の中の事実です」
ひかりはしばらく黙って、それから小さくため息をついた。
「――分かりました。信じます。信じて、もし笑われたら、その時はその時です」
「それでいいんですか」
「いいんです。UFOなんか信じてる時点で、もう色々手遅れですから」

八章 ひかりの、探し物
ひかりが本格的に「未確認現象」を追いかけるようになったのは、高校生の頃だったという。
きっかけは些細なことだった。夏休みのある夜、実家の田んぼの上に、説明のつかない光の玉を見た。両親に話しても「見間違いでしょ」と一蹴され、友人に話しても「またひかりの妄想か」と笑われた。誰も本気で取り合ってくれなかったことが、ひかりにとっては、光そのものよりもずっとショックな出来事だった。
「その時、決めたんです。誰も信じてくれないなら、自分で証拠を見つけてやろうって」
五郎に問われるでもなく、ひかりはそんな昔語りを、ぽつりぽつりと始めた。倉庫街の片隅、二人並んでコルクの弾を数えながらの、何でもない午後のことだった。
「でも、正直に言うと」
ひかりは箱の中のコルクの弾を弄びながら続けた。
「あの夜見た光が何だったのか、いまだに分からないままなんです。証拠も、結局見つからずじまいで。だから今回のことも、心のどこかで期待してるんです。もしかしたら今度こそ、何かがちゃんと分かるんじゃないかって」
「証拠が見つかったら、満足するんですか」
「――さあ、どうでしょう。証拠が欲しいっていうのは、多分、建前なんです。本当は、あの夜の自分に『お前は嘘つきでも、妄想癖のある変な子でもないよ』って、誰かに言ってほしいだけなのかもしれません」
五郎は、その言葉に、自分の中の何かが重なるのを感じた。
「僕も似たようなものですよ。あの悪夢を長年見てきて、誰にも打ち明けられずにいました。話したところで、どうせ『気にしすぎだよ』で片付けられるだけだと思ってたので」
「――今回のことで、少しは楽になりました?」
「なりましたね、だいぶ」
「なら、私にとっても、今回のことは無駄じゃなかったってことですね」
ひかりは、心底ほっとしたような顔で笑った。五郎は、その笑顔を見て、なんとなく、この妙な騒動に巻き込まれたことも、案外悪くなかったのかもしれないと思った。
断章 ―― 空き地で手を振る少女
見送りの日、彼女は精一杯の笑顔を作っていた。
泣いたら、彼が心配する。だから絶対に泣かない、と決めていた。倉庫の裏の空き地は、二人がいつも待ち合わせに使っていた場所だった。遠くの空に、彼の乗る機体が小さくなっていくのを、彼女はずっと手を振りながら見送った。
「必ず、帰ってきてね」
声には出さなかった。声に出したら、涙も一緒に出てしまいそうだったから。
機体が豆粒ほどの大きさになり、やがて青空に溶けるように見えなくなるまで、彼女はその場に立ち尽くしていた。
――それから八十年近く、彼女はこの同じ空を、この同じ場所で、見上げ続けることになる。

九章 トメさんの、待ち人
その夜、五郎はどうしても気になって、トメさんの部屋を訪ねた。
じいさんの話を聞いてから、ずっと引っかかっていることがあった。あの日、雲が燃えた瞬間、トメさんだけが少しも驚かなかったこと。「綺麗じゃないか」と、まるでその光景を待っていたかのように呟いたこと。
「トメさん、ちょっといいですか」
「なんだい、こんな時間に」
「昔の話、聞いてもいいですか。戦争の頃の」
トメさんは一瞬だけ手を止め、それから、いつもより幾分小さな声で「お上がり」と言った。
出された茶をすすりながら、トメさんはぽつりぽつりと語り始めた。
「あたしにはね、五郎ちゃん、若い頃に許嫁がいたのさ。近所の、飛行学校に通ってた真面目な青年でね。戦争が激しくなって、ある日突然、出撃することになった」
「……それって」
「ああ。特攻、というやつだよ。あの日、あたしはこの倉庫の裏の空き地から、飛んでいく彼の機体を見送ったのさ。もう二度と会えないと分かってて、それでも、精一杯手を振った」
トメさんは湯呑みを両手で包み込むように持ち、遠くを見るような目をした。
「でもね、変な話があるのさ。彼の乗った機体は、結局、記録のどこにも残らなかった。戦死の公報も来ない。生きているという知らせも来ない。ただ、消えたのさ、あの日の青空の向こうに」
「それから、あたしはずっとこの空を見て育ったよ。もしかしたら、どこかで生きてるんじゃないかってね。莫迦みたいだろう。八十年近くも、そんなことを考え続けてきたんだから」
五郎は、言葉を失っていた。じいさんの言った「はぐれ」の話と、あまりに符合しすぎている。
「トメさん、その人の名前、覚えてますか」
「……いいや。もう名前で呼ぶのはよすよ。名前を口にすると、涙が出ちまうからね」
トメさんは、それ以上多くを語らなかった。ただ、湯呑みの茶を静かに飲み干して、こう付け加えただけだった。
「五郎ちゃん、あんたがあの空を撃つようになってから、なんだか気持ちが軽いんだよ。理由は分からないけどね」
その夜、五郎は自分の胸に手を当てて、ずっと考えていた。
もしかしたら、あの日、自分の中に還ってきた光は――トメさんが、八十年近く待ち続けた誰かの、忘れ形見の一部だったのかもしれない、と。

十章 射的屋の夜、コンビニのおでん
じいさんが去った後、ひかりはしばらくの間、パソコンの画面と五郎の顔を交互に見比べていた。何かを言いかけては、やめる。それを三回ほど繰り返してから、ようやく口を開いた。
「五郎さん、今夜暇です?」
「暇も何も、僕はいつも暇ですよ」
「じゃあ、ちょっと付き合ってください。一人で抱えるには、今日の話は重すぎます」
連れて行かれたのは、倉庫街の外れにある、寂れたコンビニの前だった。ひかりはおでんを二つ買い、五郎に一つ押し付けると、駐車場の縁石に腰を下ろした。五郎も仕方なく隣に座る。
「変な話ですけど」
ひかりは大根を頬張りながら、ぽつりと言った。
「私、子供の頃から、みんなが当たり前に信じてる『普通』が、どうしても信じられない性分で。UFOとか怪奇現象とか追いかけてるのも、突き詰めれば、『まだ誰も説明できてないものを、誰かが説明できる日が来てほしい』って、そういう気持ちからなんです」
「立派な動機ですね」
「立派じゃないですよ。ただの現実逃避です、これ。就職もせず、彼氏もできず、気づけばこんな歳になって、コルク銃で空を撃つオッサンの隣でおでん食べてる」
「オッサンで悪かったですね」
「いや、悪いとは言ってないです」
五郎は、はんぺんを箸で割りながら、ふと思ったことを口にした。
「ひかりさんは、僕とは逆かもしれませんね」
「逆、とは」
「僕はずっと、『足りないもの』を探してた気がします。あなたは、『まだ説明できないもの』を探してる。方向は違うけど、似たような穴を、似たようなやり方で埋めようとしてるのかもしれません」
ひかりは箸を止めて、しばらく五郎の横顔を見つめていた。
「……五郎さんって、意外とちゃんとしたこと言うんですね」
「意外は余計です」
二人はそれからしばらく、他愛のない話をした。倉庫街の家賃相場のこと、トメさんの武勇伝のこと、じいさんが結局何者だったのかということ。おでんの汁がすっかり冷めるまで、二人はそこに座り続けていた。
翌朝、テレビ局のロケバスが倉庫街に横付けされた。地元の情報番組が「謎の発光現象、その真相に迫る」と題した特集を組みたいというのだ。五郎はもちろん固辞したが、トメさんが「せっかくだから出なさいよ、宣伝になるじゃないか」と勝手に取材を了承してしまい、気づけばマイクを向けられていた。
「――で、こちらが噂の『伝説の射的銃』ということですが」
リポーターが差し出したマイクに向かって、五郎はただただ困り顔で答えるしかなかった。
「いや、本当にただのコルク銃なんですよ。バネも弱ってて、普段は五メートルも飛ばないんです」
「五メートルしか飛ばない銃が、なぜ雲を吹き飛ばせたと?」
「僕が聞きたいです、それは」
放送は思いのほか反響を呼び、五郎の射的屋は「ポンコツだけど何かが起きる店」として、しばらくの間ちょっとした観光名所になった。もっとも、その後何度撃っても雲一つ燃えることはなく、訪れた客たちは判で押したように「なんだ、普通のコルク銃じゃん」と拍子抜けした顔で帰っていくのだったが。

十一章 倉庫街、大騒動
じいさんの話を丸ごと信じるには、あまりに現実離れしていた。しかし、あの夢と、あの映像と、あの声を経験してしまった以上、五郎にはもう「そんな馬鹿な」と笑い飛ばす余裕は残っていなかった。
問題は、こういう話が、当然のように広まってしまうことだった。
ひかりが編集した映像は「不本意ながら」拡散し、三日で百万回再生を超えた。倉庫街には見物人が押し寄せ、五郎の射的屋は連日、コルクの弾を求める客で――というより「あの伝説の銃で自分も空を撃ちたい」という物好きたちで、生まれて初めての繁盛ぶりを見せることになった。
「五郎ちゃん、今月は家賃、まけてやらなくてもよさそうだね」
トメさんはすっかり上機嫌である。
インターネット上では「射的おじさん」というタグが勝手に流行り出し、五郎の困り顔を切り抜いたコラ画像や、「ポン、ドカン!」という効果音だけを繰り返す謎の音MADまで作られる始末だった。五郎自身はスマートフォンにすら疎いため、その大半を知らずに過ごしていたが、ひかりが逐一報告してくるので、否応なく耳に入ってきた。
「五郎さん、見てくださいこれ、もう『射的おじさんチャレンジ』とか言って、みんな謎の的を空に向かって撃つ動画上げ始めてますよ」
「僕、何も悪いことしてないですよね」
「してないですけど、多分もう止まらないやつです、これ」
案の定、模倣者たちの銃からは誰一人として雲一つ燃やすことはできず、数日もすれば「なんだ結局普通の射的か」という空気とともに、ブームは潮が引くように収まっていった。五郎にとっては、些か拍子抜けではあったものの、ようやく静かな日常が戻ってきたことに、内心ほっとしてもいた。
厄介だったのは、どこからか嗅ぎつけてきた「内閣府未確認事象対策室」なる、聞いたことのない部署の職員二人が、スーツ姿でやってきたことだった。
「大空五郎さんですね。例のコルク射撃事案について、いくつか確認を」
「事案て言われても、ただの縁日の玩具ですよ、これ」
「その玩具が観測史上初めて、地球外――もしくは、それに類する未確認飛翔体との有意な接触を記録したという報告が」
「これ、玩具ですって!」
押し問答の末、職員たちは銃を持ち帰ろうとしたが、いざ手に取ると何の変哲もないただのコルク銃で、バネの弱った引き金は空砲すら満足に飛ばず、二人の職員の目の前で情けなくポロリと弾が真下に落ちるという、なんとも締まらない実演になってしまった。
「……これは、その、我々の方でも精査を」
「精査もなにも、見ての通りポンコツですよ」
結局、職員たちは「経過観察対象」という、なんの解決にもならない紙切れを一枚残して帰っていった。
その翌週には、今度は妙に羽振りの良さそうな中年の男が、黒塗りの車で乗り付けてきた。名刺には「オカルトグッズ蒐集家」とだけ刷ってある。
「その銃、ぜひとも譲っていただきたい。言い値でお支払いします」
「言い値って、いくらですか」
「まずは百万から、いかがでしょう」
五郎は一瞬ぐらついたが、すぐに首を振った。
「すみません、これは売り物じゃないんです。祖父の代からの、大事な商売道具なので」
「では二百万」
「金額の問題じゃなくて」
「では三百万」
「話聞いてます?」
粘りに粘った蒐集家も、最終的には「気が変わったらいつでもご連絡を」と名刺を置いて帰っていった。トメさんは後から「なんで断ったんだい、三百万だよ」と本気で悔しがっていたが、五郎自身、なぜあの銃を手放したくないのか、うまく説明できなかった。ただ、あの引き金の重さに、祖父の指の記憶が染み込んでいるような、そんな気がしていただけだった。
一方、ひかりは連日五郎に張り付き、「今夜も撃ってください、お願いします」と粘るようになっていた。しかし、あの夜以来、どれだけ夜空に向かって撃っても、コルクの弾は普通に五メートルほど飛んで、普通に地面に落ちるだけだった。
「あれ……あれ? 効かない」
「そりゃそうですよ。もう会っちゃったんですから、僕」
五郎は静かに、そう答えた。
騒動のさなかでも、五郎自身の心はどこか凪いでいた。あの夜以来、一度もあの悪夢を見ていなかったからだ。
コールタールの匂いも、震える機体も、青すぎる恐怖の空も――
代わりに見るのは、光の粒に包まれる、あの温かい夢ばかりだった。
だが、じいさんは去り際、意味深な忠告を残していた。
「――安心するのは、まだ早いぞ、五郎くん。あの子は、キミの中に還ってきただけだ。まだ、ちゃんと『統合』が済んだわけじゃない」
「統合、ですか」
「魂の欠片ってのはな、還ってきただけじゃ、本当の意味で一つにはなれん。最後にもう一度、ちゃんと『向き合う』必要があるのさ。――キミが、あの日の自分自身と」
五郎は、その言葉の意味を、じきに思い知ることになる。

十二章 懐疑派の先生
騒動が世間を賑わせ始めると、当然のように「科学的に説明してやろう」という人間も現れた。
その筆頭が、大学で物理学を教えているという初老の男、蟹江教授だった。彼はわざわざ倉庫街まで足を運び、開口一番、こう宣言した。
「いいですか、雲が発火するだの、円盤が現れるだの、そんなものは全て、大気光学現象と集団幻覚、あるいは悪質な演出のいずれかで説明がつきます。私が、その正体を暴いて差し上げましょう」
五郎は特に反論もせず、いつも通りコルクの弾を渡した。
「じゃあ先生、試しに一発、撃ってみてください」
「――ふん、いいでしょう。子供だましの玩具に何ができるか、見せてもらおうじゃないですか」
蟹江教授は慣れない手つきで銃を構え、盛大に的を外して、コルクの弾は虚しく足元に転がった。集まった野次馬たちがどっと笑う。
「わ、私は狙いを外しただけで、この現象を否定する証拠にはですね」
「先生、僕が撃ったときも、毎回届くわけじゃないんですよ。あの日はたまたま――としか言いようがないんです」
「たまたま、で科学が語れるものですか!」
結局、蟹江教授は三日間、朝から晩まで倉庫街に張り込み、五郎に何十発と弾を撃たせては、ノートに難しそうな数式を書きなぐっていた。だが三日目の夕方、疲れ果てた様子で、こうぽつりと漏らした。
「――正直に言うとですね、大空さん。私は、あの日の映像を見た瞬間から、少しだけ、期待していたのかもしれません。この歳になって、まだ説明のつかない不思議に出会えるということに」
「先生も、じいさんやひかりさんと、似たようなこと言うんですね」
「じいさん、とは?」
「いえ、こっちの話です」
蟹江教授は結局、これといった反証も、これといった証明も得られないまま、「継続して観察する価値がある事案です」という、なんとも歯切れの悪い所感だけを残して大学へ戻っていった。それでも帰り際、彼は少しだけ晴れやかな顔をしていたのを、五郎は見逃さなかった。
蟹江教授と入れ替わるようにして今度は、近所の神社の若い宮司が、白装束に身を包んでやってきた。
「――この地に宿りし邪なるものを、祓い清めに参りました」
「いや、邪なものじゃないと思うんですけど」
「念のためです、念のため」
宮司は真剣な顔で、射的台の周りに塩を撒き、祝詞をあげ始めた。トメさんが「ちょいと、商売の邪魔だよ」と文句を言うのも聞かず、小一時間にわたって熱心に祈祷を続けた末、額の汗を拭いながらこう宣言した。
「――ふむ。どうやら、悪いものではなさそうですな。むしろ、随分と穏やかで、優しい気配です。これは、無理に祓うようなものではありません」
「それ、最初から言ってくれれば良かったのに」
「念のため、というやつです」
宮司は最後に、賽銭箱代わりの空き缶に律儀に五百円を入れて、「良い商売をなさってください」と一礼して帰っていった。五郎はその背中を見送りながら、この一件で一体何人の変わり者が倉庫街に押し寄せたのか、指折り数えるのを途中で諦めた。

十三章 倉庫街の縁日
騒動もようやく落ち着き始めたころ、トメさんが「せっかくだから」と、倉庫街の空き地で小さな縁日を開くことを言い出した。
「あんたの店ばっかり注目されて、他の店が拗ねちまうからね。いっそのこと、みんなでお祭りでもやろうじゃないか」
八百屋の奥さんは焼きそばの屋台を、自転車屋の親父はかき氷機を持ち出し、ひかりは「取材」という名目で終始うろうろしながら、結局誰よりも楽しそうに焼きそばを頬張っていた。五郎はもちろん、いつもの射的台を出した。
「今日は特別に、コルクの弾、みんな好きなだけ持っていっていいですよ」
「え、いいの五郎さん、それ商売あがったりじゃない?」
「今日くらいは、いいんです」
子供達がコルクの弾を撃ち、景品の駄菓子を奪い合い、大人達は縁石に座って缶ビールを傾ける。ありふれた、けれど確かに幸せな夕方だった。
日が傾き、提灯に灯が入る頃、五郎はふと空を見上げた。橙色の夕焼けの中に、うっすらと最初の星が瞬き始めている。あの日見た燃える雲も、光る雲も、増殖するオーブも、もうどこにも見当たらない。ただの、いつも通りの夕暮れだった。
「――なんか、拍子抜けですね」
隣に座ったひかりが、缶ジュースを片手に呟いた。
「あれだけの騒動があったのに、今はもう、ただの平和な縁日ですもんね」
「平和が一番ですよ」
「それはそうですけど。でも、ちょっとだけ寂しくもあります。あの光景、もう二度と見られないのかなって」
五郎は少し考えてから答えた。
「見られなくていいと思いますよ、僕は。あれは、僕にとって、一度きりでよかったことなので」
「一度きりで、良かったこと、か……」
ひかりはその言葉を、何かを噛みしめるように繰り返した。そして、少し照れくさそうに付け加えた。
「じゃあ私、これからも定期的にここに来ますね。あの光景の代わりに、五郎さんのポンコツな商売っぷりを取材しに」
「それ、全然代わりになってないですよ」
「なってますって。私にとっては、割と貴重な光景なので」
その夜、五郎は縁日の後片付けをしながら、なんとなく、心が満ちているのを感じていた。あの不思議な出来事の意味を、まだ完全には理解できていない。だが、それでいいのだと、今は素直に思えた。
そして、その晩――五郎は久方ぶりに、あの震える機体の夢を見ることになる。ただし今度は、これまでとは決定的に違う形で。

十四章 震える機体で、笑う
その夜、五郎は、久しぶりにあの夢を見た。
青すぎる空。震える機体。コールタールの匂い。
だが、今度は何かが違った。操縦席に座るのは、五郎自身であり――同時に、七十年以上前のあの日、恐怖のあまり自分の「これから」を置き去りにした、名も知らぬ誰かでもあった。
眼下に敵艦が見える。エンジンが狂ったように唸る。もう引き返せない。
――そのとき、隣に、誰かがいることに気づいた。
振り返るまでもない。あの温かい光の感触。オーブだ。いや、もう「オーブ」と呼ぶのも変な話だった。それは、五郎自身の「これから」なのだから。
『――怖いよな』
声は、五郎自身の声にも、若い誰かの声にも聞こえた。
『怖くて、当然だ。だってキミは、これから先の人生を、まだ何一つ見ていないんだから』
五郎は、震える手で操縦桿を握りしめたまま、掠れた声で答えた。
「……見たかった。結婚も、仕事も、くだらない失敗も、しょうもない日々も。全部、見たかったんだ」
脳裏に、断片的な光景が次々と流れ込んでくる。田舎の駅で見送られた朝。飛行学校の寮で仲間と分け合った、たった一つの饅頭。将来は小さな店でも持てたら、と誰にともなく漏らした呟き。――そのどれもが、五郎自身の記憶ではないはずなのに、まるで自分のことのように懐かしく、切なかった。
「……店、持ちたかったんだ、本当は。お客さんの笑った顔が見られるような、そんな小さな店を」
光は、消え入りそうな声でそう零した。
五郎は、思わず笑ってしまった。
「持ってるよ、それ。しょぼい射的屋だけど、ちゃんと、持ってる」
『……そうか。ちゃんと、持ててたのか』
ふと、脳裏に、見たこともないはずの光景が浮かんだ。倉庫の裏の空き地。手を振る、若い女の姿。――トメさんだ。今よりずっと若い、そして今よりずっと悲しい顔をした、若き日のトメさんだった。
「あの人にも、ちゃんと伝えたかった。行ってきますって、ちゃんと言いたかった」
声は、五郎のものでもあり、五郎ではない誰かのものでもあった。
『分かってる。だから、待ってた。キミが、もう一度そう思える日まで』
五郎は胸の奥が熱くなるのを感じた。光が、優しく揺らめきながら五郎の身体を包み込んでいく。
「――僕は、ちゃんと、生きたよ」
五郎は、震える機体の中で、ふいにそう呟いた。
「あの日、キミが行けなかった『これから』を、ちゃんと僕が生きてきた。射的屋を継いで、赤字続きで、彼女もできなくて、正直しょぼい人生だったけど――それでも、ちゃんと今日まで生きてきたんだ」
『しょぼくなんかない』
光が、少しだけ強く瞬いた。
『キミは知らないだろうけど、しょぼい毎日を積み重ねるのって、本当は結構、大変なことなんだよ。逃げ出さずに、腐らずに、明日も店を開けようって思い続けるのって』
「そんな大層なもんじゃないよ、ただの意地みたいなもんさ」
『それでいいんだ。意地でも何でも、キミはちゃんと、これからを歩き続けてくれた。それだけで、儂は――いや、僕は、十分に報われたよ』
初めて、光は「僕」と自分を呼んだ。まるで、ようやく五郎と同じ人称を取り戻したかのように。
『……それだけで、十分だよ』
光が、五郎の胸の中でふわりと解けていくのが分かった。
『ありがとう。ちゃんと、キミがキミを生きてくれて』
震える機体は、いつの間にか震えを止めていた。
青すぎた空は、いつの間にか、ただ穏やかな青空に変わっていた。
そして――目が覚めた。
朝の光が差し込む万年床の上で、五郎はしばらく天井を見上げていた。
コールタールの匂いは、もうしない。震える機体の記憶も、もう恐怖としては残っていない。ただ、遠い誰かの、大切な想い出として、静かに胸の奥にしまわれているような感覚だけがあった。
「――終わった、のかな」
呟いた声に、答える者はいない。だが、なぜか五郎は、確信していた。
これでもう、あの悪夢を見ることはない、と。

エピローグ ―― 不思議な夢ばかり
騒動から半年が過ぎた。
「内閣府未確認事象対策室」からは、その後も年に一度くらいの頻度で、思い出したように点検の電話がかかってくる。「例のコルク銃、まだお持ちですか」「ええ、普通のオモチャですけど」というやり取りを、五郎はもう慣れっこになっていた。
ひかりは、あの映像をきっかけに小さな出版社から声がかかり、今では「日本の怪異と未確認現象」を専門に取材するライターとして、それなりに食べていけるようになったらしい。今でも月に一度は倉庫街に顔を出し、「五郎さん、最近なんか変な夢見てないですか」と、期待に満ちた目で聞いてくる。
「見てますよ、相変わらず」
「え、ほんとですか! どんな!?」
「クリスマスツリーみたいな雲とか、光る球体とかが、普通に出てくる夢です」
「悪夢じゃないやつ!」
「はい、もう随分と、悪夢の方は見てないですね」
先日、そのひかりから、一冊の本が届いた。彼女が書き上げた初めての著書だという。タイトルは『倉庫街の光――ある射的屋に起きた、ちいさな奇跡の記録』。あとがきには、こう記されていた。
「この物語を証拠として提示するつもりは、もうありません。ただ、この世界には、説明のつかない優しい出来事が、確かに起きることがある――そのことだけを、誰かに伝えたくて書きました」
五郎はその本を一晩かけて読み、翌朝、電話をかけた。
「ひかりさん、本、読みました」
「ど、どうでした、正直に言ってくださいね」
「正直、僕のポンコツっぷりが赤裸々に書かれすぎてて、恥ずかしかったです」
「そこ!? 感想そこなんですか!」
「でも、いい本でした。ありがとうございます」
電話の向こうで、ひかりが小さく笑う気配がした。
「――また今度、縁日やる時は呼んでくださいね。今度は取材じゃなくて、ただの客として行きたいので」
「いつでもどうぞ。コルクの弾、サービスしますよ」
トメさんは相変わらず軒先で茶をすすりながら、五郎の商売の様子を眺めている。客足はあの騒動のピークほどではないが、以前よりは幾分マシになった。物好きな観光客が「例の射的屋」を目当てに、ぽつぽつと立ち寄ってくれるようになったからだ。
あの夜以来、トメさんは倉庫の裏の空き地に、小さな花を供えるようになった。誰のためか、五郎は聞かなかったし、トメさんも語らなかった。ただ、ある晴れた日の午後、トメさんがぽつりとこう言ったのを、五郎は覚えている。
「――ようやく、待つのをやめられそうだよ」
「トメさん」
「いいんだよ、これで。長い間、ご苦労様でしたって、そう思えるようになったのさ」
それ以上、二人の間で、あの日の話が語られることはなかった。ただ、トメさんの湯呑みを傾ける仕草が、以前よりいくらか穏やかになったように、五郎には見えた。
「なあ五郎ちゃん」
「なんですか」
「あんた、あの日から、なんだか顔つきが変わったよ」
「そうですかね」
「前は、なんというか、いつも何かに謝ってるみたいな顔してたのさ。今は、ちゃんと自分の顔で笑ってる」
五郎は、コルクの弾を丁寧に銃に詰めながら、その言葉を静かに噛みしめた。
ふと、祖父の言葉を思い出す。「届かないもんを、届かせる稽古だよ」――あの言葉の意味を、五郎はようやく、自分なりに理解できた気がしていた。届くはずのないものは、この世にたくさんある。失われた時間も、言えなかった言葉も、置き去りにしてきた誰かの想いも。それでも、届かないと分かっていて、なお手を伸ばし続けること。それ自体に、意味があったのだ。
もしかしたら祖父もまた、若い頃、何かを――誰かを――この空の向こうに置き去りにしてきたのかもしれない。死に際に繰り返していた「すまん、すまん」という言葉の意味も、今となっては、なんとなく分かるような気がした。祖父もまた、自分なりのやり方で、届かない何かに手を伸ばし続けていたのだろう。
そう考えると、この古びた射的屋を継いだことも、あながち偶然ではなかったのかもしれない。
長いこと見ていたあの夢――コールタールの焦げる匂いを伴って、震えながら敵艦に突っ込む悪夢は、もう見なくなった。
代わりに見るのは、燃える雲や、瞬く光の粒や、増殖するオーブに囲まれる、あの不思議な夢ばかりだ。
はてさて、あれは一体何だったのか。
このポンコツ男、ようやく取り戻したのは、知性だったのか。それとも、度胸だったのか――。
答えは、まだ五郎にも分からない。
ただ、今日も青空の下、五郎は軒先に立ち、コルクの弾を詰めている。
届くはずのない、あの遠い空に向かって。
――もっとも、今度撃つときは、ちゃんと届く相手がいないことを、五郎は誰よりもよく知っていた。
あの日撃つべき相手は、もう、ちゃんと自分の中に還ってきたのだから。
それでも五郎は、今日もなんとなく、青空に銃口を向けてしまう。
理由はきっと、単純だ。
――ただ、あの日々を、忘れないためだけに。
ふと見上げれば、今日も綺麗な青空に、真っ白な雲がひとつ、ゆっくりと流れてきていた。
もう燃えることも、瞬くこともない、ただの、当たり前の雲だ。
それでも五郎は、なんとなく嬉しくなって、その雲に向かって、コルクの弾を一発、景気づけに撃ってみた。
弾は案の定、五メートルほど飛んで、あっさりと地面に落ちた。
「――ま、こんなもんか」
五郎は笑いながら、その弾を拾いに、のんびりと歩き出した。
青空はどこまでも広く、どこまでも青く、そしてどこまでも、ただ穏やかに晴れ渡っていた。

(了)


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あとがき
本作は、ある日ふと頭に浮かんだ「射的の銃で青空を撃つ男」という、ひとつの情景からスタートしました。
縁日の露店というノスタルジーと、太平洋戦争末期の特攻隊という少し重い歴史的背景。そして雲が燃えるといった不思議な現象。これらをどう調和させるか試行錯誤しましたが、「どんなに平凡で冴えない日常であっても、それを愚直に生き抜くこと自体に大きな価値がある」というテーマへと自然に辿り着くことができました。
作中で五郎が自分の「はぐれた未来」を受け入れたように、誰しもが心の中に小さな欠落や、叶わなかった想いを抱えて生きているのかもしれません。この物語が、読んでくださったあなたの心に優しく寄り添い、ほんの少しでも温かい気持ちを残せたのなら、とても嬉しく思います。
最後に、最後までこの作品にお付き合いくださった読者の皆様に、心からの感謝を申し上げます。ありがとうございました。