南へ流れる島
まえがき
いつからか、時間がまっすぐにだけ進んでいるのではないような気がすることがあります。
ふとした瞬間に漂う既視感や、行ったこともない場所の匂い。あるいは、遠い過去に誰かが手放さざるを得なかった強い思いが、巡り巡って今の私たちの背中を押しているような感覚。
この小説は、そんな「目に見えない時間の重なり」と、いま私たちが生きている現実の少しだけ先(あるいは裏側)を描いた物語です。
静かな朝の光の中で、あるいは夜眠る前のひとときに、この小さな島と「私」の物語にそっと付き合っていただけたなら幸いです。
一 光る夢
始まりはいつも同じだ。世界が真っ白に光る。それからゆっくりと、エレベーターが止まる直前のように落ちていく。落ちながら、ああ、死んだな、と思う。悲しいとか怖いとかはない。そうか、これで終わりか、という平らな納得だけがある。
目が覚める。天井の木目を数え、心臓の音を聞く。生きている、と確かめる。時計はたいてい午前三時か四時を指している。また眠りに落ちる。次に目が覚めたときには、夢の半分はもう霧の中だ。
ここ数ヶ月、その夢だけは鮮明になってきた。光る直前の一瞬、誰かの体の中にいる。女か男かもわからない。ただ、その人の目を通して、遠くに低い山並みが見える。川の匂いがする。路面電車の軋む音がする。空はひどく青く、あまりにも普通の朝で、それが恐ろしい。
その街に行ったことはない。覚えている限りでは。
慌てて飛び起きて、ああ生きていた、夢か、と思うところまではいつも通りだ。違うのは二度寝のあとだ。誰かに手首をつかまれて引き戻される感覚が残る。この世界に戻ることを、許可されているような、強制されているような。
そんな夜が続いて、生活の輪郭が少しずつ薄くなっていくのを感じていた。
二 目覚めの向こう側
仕事は翻訳のチェックだった。海外のミステリを、別の訳者の訳稿と突き合わせて、間違いや不自然な言い回しを直していく。静かで地味で、誰の目にもとまらない仕事だ。嫌いではなかった。文章の裏側に、もう一つの、正しいはずの文章が透けて見える瞬間が好きだった。
ベランダに、いつからか猫が来るようになっていた。灰色と白の縞で、片方の耳が少し欠けている。餌をやっているわけでもないのに、夕方になると決まって手すりに座り、部屋の中をじっと覗き込んでいる。
ドン、と呼ぶことにした。夢の中で落ちていくとき、腹の底に残る重さ。あのドンという着地の感覚に似ていたからだ。
「どこから来たんだ」
猫は答えない。欠けた方の耳をこちらに向けて、何かを聞くような格好をする。遠くで鳴っている音に耳をすませているみたいに。
その頃から、駅前の商店街の奥にある古書店に、理由もなく通うようになった。
三 古書店の女
「梟書房」。看板の文字はほとんど消えかけていた。扉を開けると、紙とインクと、微かに線香のような匂いが混ざって迎えてくれる。店主は五十代くらいの女性で、いつも同じ紺色のカーディガンを着ていた。
「探し物ですか」
初めて声をかけられたとき、何も探しているつもりはなかったのに、口が勝手に動いた。
「戦争の頃の、地図とか写真とか、ありますか」
自分で驚いた。女性は奥の棚から、色褪せた茶封筒をいくつか出してきた。中には古い地図や、白黒の写真。市電の路線図。橋の名前。川沿いに並ぶ商店の屋根。見覚えはないはずなのに、指先がその場所を知っている気がした。
「懐かしいですか」
「いえ。行ったことはないと思います。でも」
「でも、知っている」
うなずいた。女性はそれ以上聞かず、静かに笑った。
「時々、そういうお客さんがいらっしゃるんですよ」
「時間というのは、私たちが思っているほど、行儀よく前にだけ進むわけじゃないのかもしれません」
占いのような思わせぶりさではなく、天気の話のような言い方だった。だから耳に残った。
四 広島の手のひら
その夜の夢は、これまでで一番長く、鮮やかだった。
市場のような場所を歩いている。誰かの手を握っている。骨ばった、小さな手だ。子どもの手かもしれない。自分の口から、聞いたことのない声が出る。
「もうすぐお昼だから、帰りましょうね」
橋を渡る。川面が朝を跳ね返して眩しい。向こう岸に、丸い屋根が見える。自転車のベル。魚を売る声。洗濯物が翻る音。すべてが具体的で、生きている。
空の端に、小さな光が見える。最初は太陽の反射かと思った。次の瞬間、世界の音がすべて消えて、白い光がすべてを塗りつぶす。
握っていた手を、最後まで離さなかった。
ドンという重さとともに落ちていく。今回は、悲しい、とはっきり感じた。自分の感情ではなく、あの手のひらの持ち主だった誰かの、最後の感情だった。
飛び起きたとき、泣いていた。理由もわからないまま、暗い部屋でしばらく膝を抱えていた。ベランダの向こうで、耳の欠けた猫がじっとこちらを見ていた。
五 テレビの中の握手
週末、理由もなくテレビをつけていた。ニュースでは、大きな国から来た大統領が、この国の総理と握手している映像が繰り返し流れていた。二人は笑顔で、フラッシュが焚かれる。
会見では、抑止のため、同盟強化のため、という言葉と一緒に、防衛予算を増やすという話が繰り返されていた。画面の下に「安全保障」というテロップが流れる。
翌朝、ゴミ出しのときに隣の老人と顔を合わせた。新聞を小脇に抱えて、ため息まじりに言った。
「もう、そういう時代じゃないんだけどねえ」
「そうですね」と相槌を打った。
「こんな小さな国だ。軍艦だのミサイルだのを並べたって、向こうが本気になれば、遠くから二発、東京と大阪に撃ち込めばそれで終わりだろう。それをわかった上でやってるのか、わかってないのか」
老人は力なく笑った。何も言えなかった。あの光る夢のことを話してみようかと思って、やめた。
六 前世か予知か
「予知だと思いますか。それとも」
梟書房で、夢の話をしていた。誰にも話したことがなかったのに、この店の中では言葉がするすると出てきた。
女性はしばらく黙って聞いていた。それから茶封筒の中から一枚の写真を出し、手のひらに置いた。橋のたもとで子どもを抱いた女性の写真だった。
「前世か予知か、というのは、正しい問いじゃないのかもしれません。時間を一本のまっすぐな糸だと考えるから、前と後ろに分けたくなる。でも、糸じゃなくて輪だとしたら」
「輪」
「同じ場所を何度も通り過ぎる輪。ある人にとっては昔のことでも、輪の別の場所にいる人にとっては、これから起こることかもしれない。あなたが握っていたその手は、過去のものでもあり、未来のものでもある。両方が同時に本当なんです」
うまく飲み込めなかった。でも、体のどこかが、それを正しいと感じていた。
「大事なのは」女性は続けた。「誰かがあなたをこちら側に引き戻しているということです。まだやることが残っているからかもしれませんよ」
七 もう一つの光
次の夢は、これまでと違っていた。
見慣れた街並みだった。高いビル、交差点、駅の案内板。間違いなく、今住んでいるこの国のどこかだ。人々は普段通り歩き、スマートフォンを見て、コーヒーを飲んでいる。
空の端に、あの光が見えた。
今度は誰の手も握っていなかった。自分のまま、その光を見上げていた。逃げようとしたが、足が動かない。周りの誰もまだ気づいていない。ビルの窓ガラスに光が反射して、一瞬、街全体が金色に染まる。
そのとき初めて、この夢が過去の記憶であると同時に、これから起こりうる何かの影でもあるのだと、はっきりわかった。前世でもあり、予知でもある。輪の上の違う場所。同じ光。
飛び起きたとき、心臓が痛いほど鳴っていた。ベランダでドンが、いつになく激しい声で鳴いていた。何かを急いで伝えようとしているみたいに。
八 島が動く夜
数日後の深夜、奇妙な揺れで目が覚めた。地震かと思ったが、揺れは横ではなく、ゆっくりと一定の速度で一方向に続いていた。大きな船に乗っているような感覚だった。
朝になって窓を開けると、空気の匂いが違っていた。少し湿って、少し暖かい。庭の木の影がいつもと違う角度に伸びている気がした。
ニュースをつけても、変わったことは報じられていなかった。総理はまだ握手をしていた。防衛予算の話も続いていた。けれど体感としての何かが確かにずれていた。
梟書房に行くと、女性は棚の整理をしながら何でもないことのように言った。
「南に少し動いたんじゃないですかね、この国」
「え」
「昔からそういう話があるでしょう。危ないところから、そっと離れていく島の話。誰も気づかないくらいゆっくりと」
笑っていいのか真剣に受け止めていいのかわからなかった。ただ、その日ドンがいつもより機嫌よさそうに日向で丸くなっていたことだけは覚えている。
九 南への朝
それから、あの光る夢を見なくなった。
理由はわからない。握っていた手の持ち主が、ようやく安心して眠りについたのかもしれない。輪の上のその場所を、もう通り過ぎたのかもしれない。あるいは、見なくてもよくなっただけかもしれない。
ある朝、いつもより早く目が覚めてベランダに出た。空気は暖かく、少し湿っていて、南の島のような匂いがした。ドンが手すりの上で伸びをしていた。
「お前もわかってるんだろう」
猫は答えなかった。欠けた方の耳を、南の方角に向けていた。
あの光が過去のものなのか、これから来るものなのかは、まだわからない。知る必要もないのかもしれない。確かなのは一つだけだ。誰かが、あの手を離さなかった誰かが、こちら側に引き戻し続けてくれている。そしてこの国もまた、誰にも気づかれないくらいゆっくりと、少しずつ、安全な方へ、暖かい方へと身をよじりながら進んでいるのかもしれない。
そう信じることだけが、今の自分にできるささやかな抵抗だった。
(了)
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あとがき
この作品は、「過去の惨劇を忘れないこと」と「未来への漠然とした不安」の間で揺れる、現代の私たちの呼吸を物語として形にしたものです。
夢の中で誰かが握りしめていた手。そして、理由もわからず私たちを「こちら側」へと引き戻してくれる力。それは、かつて酷い光の中で命を終えた誰かが、未来を生きる私たちに託した「生きてほしい」というささやかな祈りなのかもしれません。
世界がどれほど不穏な音を立てていても、私たちが暮らすこの島は、誰にも気づかれないくらいゆっくりと、暖かく安全な場所へ逃げようとしているのかもしれない——そんな風に信じることで、私たちは今日という日を少しだけ優しく生きられる気がしています。
作中に出てくる耳の欠けた猫「ドン」のように、どこか遠くの音に耳を澄ませながら、この物語をあなたに届けます。

