0.5%の恋
――あるいは、自称小説家と古本屋のゆっくりな日常


まえがき

深夜のコンビニ、静まり返ったレジ打ちの合間にスマホで見つけた、「両想いになる確率は0.5%」という出所不明のまとめ記事。
計算すれば二百分の一。惚れっぽい僕は、毎日すれ違う人波の全員に片想いしているようなものだから、確率的にはそのうちの一人と結ばれてもいいはずだ。
これは、コンビニ店員で自称小説家の僕が、下町の古本屋で見つけた「二百分の一の奇跡」についての記録である。同時に、その奇跡を引き当てたあとも亀の歩みで続いていく、不器用な僕らの「生活」の物語だ。




一 プロローグ 〇・五パーセント

 誰が調べたのか知らないが、両想いになる確率は〇・五パーセントだそうだ。

 千人好きになれば、そのうちの五人が、こちらを同じように見てくれているという計算になる。割ってみれば二百分の一。つまり、二百人に一人ということになる。

 僕、坂本悠一、三十二歳、独身。職業、コンビニ店員兼・自称小説家(作品数ゼロ)。この数字を知ったのは、深夜のレジ打ちの合間にスマホで見た、根拠の怪しいまとめサイトの記事だった。

 だが妙に納得してしまったのだから仕方ない。

 なぜなら僕は、惚れっぽい。

 駅の改札ですれ違った女性、コンビニに来た常連客、電車の中で文庫本を読んでいる横顔。一日にだいたい二百人くらいとはすれ違っている計算になる。だとすれば、その中の一人くらいは、僕のことを憎からず思ってくれていても、確率的にはおかしくない。

 「それがどうした」と自分でも思う。惚れっぽいことと、惚れられることは、まったく別の確率の話なのだ。分かっている。分かっているが、深夜のレジで暇を持て余した男の妄想は、そういう都合のいい方向にしか転がらない。

 その夜、僕はレジ横のノートに「二百分の一」とだけ書き、それを見た後輩バイトの田村くんに「先輩、それ宗教の勧誘のメモですか」と真顔で聞かれた。

 「違う。恋愛の話だ」

 「余計怖いです」

 田村くんは二十二歳、大学四年生で、就活を控えているという理由でシフトに入りまくっている、妙にドライな青年だ。彼の前で人生観を語ると、たいてい半分の熱量で切り返されるので、僕は最近、彼を話し相手にすることに一定の抵抗を覚えるようになっていた。それでも他に話し相手がいないので、結局その夜も、僕は二百分の一の理論を、レジ前で滔々と語ってしまった。

二 惚れっぽい男の履歴書

 そもそも僕がこれほど惚れっぽくなったのには、それなりの来歴がある。

 小学四年生のとき、隣の席の女子に借りた消しゴムの匂いを三日間嗅ぎ続けていたのが最初だったと思う。中学では、部活の先輩に憧れて柔道部に入り、二週間で関節を痛めて辞めた。高校では、同じバスに乗る他校の女子生徒を見るために、わざわざ遠回りの停留所から乗車していた時期がある。定期代が余計にかかっていたことに、卒業後何年も経ってから気づいた。

 大学時代につきあった相手は、一人だけだ。サークルの後輩で、半年ほどつきあったが、最終的に「悠一くんは、いつも誰かのことを目で追ってるよね」と言われて振られた。心外だった。誰のことも本気で目で追ってなどいない。ただ、視界に入る人間全員を、無意識のうちに採点してしまう癖があるだけだ。あの子は笑い方がいい、あの人は歩き方がきれいだ、と。

 就職してからは、営業職についたものの、人と話すたびに緊張して噛むようになり、三年で辞めた。上司には「お前は口下手なくせに、なぜか女性客からの評判だけはいいんだよな」と、褒めているのか呆れているのか分からないことを言われたのを覚えている。以来、コンビニのバイトを続けながら、小説家になるという夢を、履歴書の趣味欄に書くくらいの熱量で燃やし続けている。

 母親には、正月に帰省するたびに「あんた、いつまでバイトしてるの。三十過ぎて実家に泣きついてこないでよ」と釘を刺される。父親は何も言わないが、代わりにビールを一本、黙って差し出してくる。それが父なりの励ましなのだと、最近になってようやく分かった。

 要するに、僕の恋愛遍歴は、片想いと自滅の繰り返しでできている。二百分の一という数字に妙な説得力を感じてしまうのも、無理からぬことだと思ってほしい。

 店長の宮田さんには、よく「坂本、お前は面食いのくせに口下手だから、一番モテない組み合わせなんだよ」と笑われる。反論できないのが、また悔しい。宮田さんは五十過ぎの、離婚歴二回のベテラン店長で、恋愛においては僕よりよほど場数を踏んでいるはずなのだが、なぜか今は独り身で、休憩室でカップ麺をすすりながら competitive に人生訓を垂れてくる。彼の説教の八割は聞き流しているが、二割くらいは、妙に的を射ていて厄介だった。

三 文光堂の女性

 その本屋の女性に気づいたのは、三月の終わりだった。

 僕が働くコンビニの並びに、小さな書店がある。「文光堂」という、昭和から時が止まったような店構えの古本屋だ。そこのレジに、いつも同じ女性が立っていた。

 年の頃は僕と同じくらいだろうか。眼鏡をかけていて、髪を後ろでひとつに結んでいて、暇さえあれば文庫本を読んでいる。派手さはまったくないが、本のページをめくる指の動きが、なぜだか妙に丁寧で、見ているだけで落ち着く人だった。

 名前も知らない。話したこともない。ただ、夜勤明けに彼女の店の前を通るたび、僕は無意識に歩調を緩めるようになっていた。

 二百人に一人。

 毎朝すれ違う人波の中で、僕が唯一「顔」を覚えている相手が彼女だった、というのは、もしかしたら確率的な必然だったのかもしれない――というのは、もちろん僕の勝手な理屈だ。

 四月の頭、僕は勇気を出して店の前まで行き、しかし暖簾の手前で回れ右をして帰った。それを三日連続でやった。三日目、暖簾の隙間から彼女がこちらを見ていた気がして、僕はコンビニに逃げ帰り、フランクフルトを二本、無意味に温めて食べた。レジ袋を持たずに立ち食いしていたら、宮田店長に「お前、うちの商品を勝手に試食するな」と本気で怒られた。

 田村くんには「先輩、最近、変な動きしてますよね」と冷静に指摘された。

 「動きって?」

 「文光堂の前を、行ったり来たりしてるの、防犯カメラの位置から丸見えです」

 僕は自分が思っていた以上に、挙動不審な中年男になっていたらしい。防犯上、看過できない事態だと反省し、次に行くときは、せめて一直線に入店しようと心に決めた。

四 時代小説作戦

 四月に入って、僕はついに文光堂の暖簾をくぐった。

 「あの、時代小説の棚ってどこですか」

 我ながら苦しい第一声だった。時代小説になどまったく興味はない。だが「初めて入る古本屋で、いきなり何も買わずに帰る」という不自然さを避けるための、苦肉の口実だった。

 「時代小説でしたら、奥の右側です」

 彼女はそう言って、軽く会釈をした。声は思ったより低く、落ち着いていた。僕はそのまま奥へ進み、適当に一冊の文庫本――池波正太郎の何かだったと思う――を手に取ってレジへ運んだ。

 「三百円です」

 「あ、はい」

 会話はそれだけだった。それだけだったが、僕はその日、二百円の釣り銭を財布に入れずポケットに突っ込んだまま、一日中それを握りしめて過ごした。

 我ながら重症である。

 それから僕は、週に二度、三度と文光堂に通うようになった。買ってもいない時代小説の知識だけが、無駄に増えていった。池波正太郎、藤沢周平、司馬遼太郎と、いつの間にか本棚の半分近くを制覇していた。田村くんに「先輩、最近読んでる本、渋すぎません?」と言われ、「これは恋の副産物だ」と胸を張って答えたら、心底気持ち悪そうな顔をされた。

 彼女の名前が「みなみ」というらしいと知ったのは、常連の老人が「みなみちゃん、これも入荷した?」と声をかけているのを聞いたからだった。

 家に帰って、「南」という字を検索し、「澄んだ空気」というような意味があると知って、一人で頷いた。何を頷いているのか、自分でもよく分からなかった。ついでに「悠一」という自分の名前の意味も調べたが、特筆すべきことは何も書いていなかった。少し寂しかった。

五 棚の整理と、少しずつの会話

 みなみさんとの会話は、少しずつ増えていった。最初は本の場所を聞くだけだったのが、そのうち「この作家、面白いですか」「今、何を読んでるんですか」というやりとりに変わっていった。

 彼女は口数は多くないが、本のことになると、急に早口になる人だった。誰それの文体がどうとか、この出版社の装丁はどうとか、僕にはよく分からない話を、目を輝かせて語る。僕はそのたびに「へえ」「そうなんですか」と相槌を打つばかりだったが、それでも嫌な顔ひとつせず話してくれるのが嬉しかった。

 ある日、閉店間際に店に入ると、彼女は脚立に乗って高い棚の本を整理していた。危なっかしかったので、思わず「持ちましょうか」と声をかけると、彼女は驚いた顔で振り返り、そのはずみで脚立がぐらついた。

 とっさに手を伸ばして支えた。彼女の腕を、思ったより強くつかんでしまった。

 「す、すみません」

 「……いえ。ありがとうございます」

 その日はそれだけだったが、僕は帰り道、自分の手のひらに、彼女の腕の感触がしばらく残っている気がして、意味もなく手を開いたり閉じたりしながら歩いた。

 コンビニに戻ると、田村くんに「先輩、今日ずっとニヤニヤしてて気持ち悪いです」と言われた。反論の余地がなかった。

 その週末、僕は生まれて初めて「デート」と呼べるものに近い時間を過ごした。彼女が休みの日、近所で開かれていた小さな古本市に、二人で足を運んだのだ。誘ったのは僕からだったが、勇気を振り絞って発した言葉は「古本市があるらしいんですが、詳しい人と行くと勉強になるかと」という、我ながら回りくどい誘い文句だった。彼女は笑って、「口実、下手ですね」と言いながらも、頷いてくれた。

 古本市で、彼女は水を得た魚のように棚を渡り歩き、僕にあれこれ解説してくれた。僕はほとんど内容を覚えていないが、彼女が楽しそうに喋る姿だけは、今でもはっきりと思い出せる。

六 告白、そして「ゆっくりでもいいですか」

 五月のある夜、僕は思い切って言った。

 「あの、今度、お店の外でお話ししてもらえませんか」

 みなみさんは、少し驚いたような顔をして、それから静かに笑った。

 「時代小説、本当は興味ないですよね」

 「……バレてました?」

 「毎回、同じ作家の本ばかり買っていくのに、感想を聞いても要領を得ないので」

 僕は観念して、正直に「あなたに会いに来ていました」と白状した。恥ずかしさで顔から火が出そうだった。彼女はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。

 「私、人と仲良くなるの、あんまり得意じゃないんです。だから、ゆっくりでもいいですか」

 その言葉に、僕は面食らった。断られると思っていたからだ。だが「いいですよ」と応じるのが精一杯で、格好いい台詞のひとつも出てこなかった。

 その帰り道、僕は嬉しさのあまり、いつもの倍の距離を遠回りして帰った。空いっぱいの月を見上げながら、頭の中で「二百分の一」を何度も繰り返した。今なら、あの怪しいまとめサイトに感謝状のひとつも書きたい気分だった。

 翌日、宮田店長にこの顛末を報告すると、彼は珍しく真面目な顔で「坂本、それは付き合ったってことでいいのか、まだ違うのか」と聞いてきた。僕にも分からなかった。「ゆっくりでもいいですか」という言葉が、始まりの合図なのか、それとも保留の返事なのか、判別する術を、僕は持ち合わせていなかった。

七 ぬるい関係と、焦れる僕

 それから僕らは、月に数回、近所の喫茶店でお茶を飲む仲になった。恋人と呼べるかどうかも曖昧な、ぬるい関係が半年続いた。

 正直に言えば、僕は焦れていた。二百分の一の確率を引き当てたのなら、もっと劇的に何かが起きてもいいはずだ、と、都合のいい期待を抱いていた。だが現実の恋愛というのは、統計の数字よりずっと不器用で、ずっと時間がかかるものらしかった。

 喫茶店では、たいてい彼女が本の話をして、僕がそれを聞いている時間が長かった。それでも僕は、たまに勇気を出して自分の話――小説家になりたいという夢、書けていない現実、コンビニのバイトのこと――を話した。

 「悠一さんの小説、読んでみたいです」

 そう言われた日、僕は初めて、原稿用紙にして三十枚ほどの短編を、真剣に書き上げようとした。結果として、書けたのは冒頭の二枚だけだったのだが。

 深夜のバイト明け、ノートパソコンを開いては閉じる日々が続いた。書けない言い訳ばかりが上手くなっていく自分に、嫌気が差すこともあった。それでも「読んでみたい」と言ってくれた人がいるというだけで、キーボードに向かう理由には、十分すぎるほどだった。

 宮田店長には「お前、最近シフトの合間にノートパソコンばっかり見て、仕事に身が入ってないぞ」と怒られた。田村くんには「先輩、あの南さんって人と、まだ手も繋いでないんですか」と、余計なお世話を焼かれた。

 「そういうことは、段階ってものがあるんだ」

 「先輩の段階、遅すぎません? 亀じゃないんだから」

 言い返せなかった。事実、僕らの関係は、亀どころか、止まって見えることすらあった。それでも僕は、焦って何かを崩すよりは、このぬるさに付き合う方を選んだ。臆病だったのかもしれないし、単に、それしかやり方を知らなかっただけかもしれない。

八 雨の日の誤解

 その年の梅雨、僕らの間に、初めての小さなすれ違いが起きた。

 文光堂に、僕と同年代くらいの男性が、頻繁に出入りするようになったのだ。聞けば、みなみさんの大学時代の同期で、出版関係の仕事をしているらしい。彼女が店の経営や仕入れについて相談しているのを、僕は暖簾の外から何度か見かけた。

 正直、穏やかではいられなかった。二人が親しげに笑い合っているのを見るたび、胸の奥がざわついた。惚れっぽい男の悪いところは、こういうとき、余計なことをしでかしてしまうところだ。

 田村くんに愚痴をこぼすと、彼は珍しく真剣な顔で言った。

 「先輩、それ、確率がどうこうって話じゃなくて、単純に嫉妬してるだけですよね」

 「……そうかもしれない」

 「だったら統計とか言い訳にしてないで、ちゃんと聞けばいいじゃないですか」

 二十二歳の若者に諭される三十二歳というのも情けない話だが、彼の言葉は的確だった。それでも僕は、素直に聞くことができず、ある雨の夜、文光堂の前で、傘も差さずに突っ立っているという、我ながら子供じみた行動に出てしまった。

 みなみさんが店を閉めて出てきて、僕を見つけ、驚いた顔をした。

 「悠一さん、何してるんですか、濡れて」

 「その人、誰なんですか」

 言った瞬間、自分の声の情けなさに嫌気が差した。彼女は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。

 「大学の同期です。うちの店の帳簿を見てもらってるだけ。……もしかして、心配してくれてたんですか」

 図星を突かれて、何も言えなくなった。彼女は傘を差し出し、僕の頭の上に掲げながら言った。

 「私、ゆっくりでいいって言いましたけど、悠一さんがちゃんと不安になってくれてるの、ちょっと嬉しいです」

 その言葉で、僕の中の情けなさが、少しだけ救われた気がした。翌日、僕は風邪を引いて三日間寝込んだ。みなみさんが差し入れにお粥を持ってきてくれたのだが、味付けが恐ろしく薄く、彼女に「料理は本の解説ほど得意ではないんです」と申し訳なさそうに言われた。それでも、僕はそのお粥を、三日分きっちり完食した。

九 父の入院

 十一月、みなみさんの父親が入院した。彼女は店番と看病を掛け持ちし、目に見えて疲れていった。

 僕はシフトの合間を縫って、できる限り店を手伝った。値付けも品出しも素人だったが、みなみさんが看病で店を空ける時間、レジに立つくらいはできた。常連の老人たちに「みなみちゃんの彼氏かい」と聞かれるたび、僕は曖昧に笑ってごまかした。宮田店長には無理を言ってシフトを調整してもらい、田村くんには「先輩、コンビニより本屋の方が楽しそうですね」と、若干うらやましそうに言われた。

 ある晩、閉店後の文光堂で、彼女は棚の整理をしながら、ぽつりと言った。

 「悠一さんて、なんで私なんかを好きになったんですか」

 「なんかって……」

 「私、地味だし、愛想もないし。もっと素敵な人、いっぱいすれ違ってきたでしょう」

 僕は少し考えて、正直に答えた。

 「二百人に一人、なんです」

 「はい?」

 「両想いになれる確率、〇・五パーセントらしいんです。だから僕、毎日すれ違う二百人くらいの中の誰かに、大体惚れてるんですけど」

 みなみさんはぽかんとした顔をした。我ながら、口説き文句として最低の部類だと思う。

 「その中で、ちゃんと本屋の棚まで通ってきたのは、みなみさんだけでした」

 しばらくの沈黙のあと、彼女は小さく吹き出した。

 「なにそれ。バカにしてるんですか、それとも口説いてるんですか」

 「両方です、たぶん」

 彼女は目に涙をためながら笑って、それから急に真顔になって言った。

 「父、あと半年もつかどうかって、お医者さんに言われました」

 僕は何も言えず、ただ隣に立っていた。彼女は棚の本の背表紙をひとつひとつ、指でなぞりながら続けた。

 「この店、父の代からずっとこのままなんです。私が継ぐって言ったとき、父、すごく嬉しそうでした。でも正直、この先ひとりでやっていけるか、不安で」

 「一人じゃなくていいんじゃないですか」

 言った瞬間、自分の声が震えているのに気づいた。カッコつけたつもりが、ただの弱気な男の台詞になっていた。それでもみなみさんは、驚いた顔のあと、静かにうなずいた。

 「……ゆっくりでも、いいなら」

 「ゆっくりで、いいです」

十 病室での会話

 年が明けてすぐ、僕はみなみさんに連れられて、初めて病院を訪れた。彼女の父親は、思ったより穏やかな顔つきの、痩せた老人だった。

 「お前が、悠一くんか」

 「は、はい」

 「みなみから聞いてる。本屋の棚まで通ってきたんだって? 熱心だな」

 からかうような口調だったが、目の奥には、何かを見定めるような光があった。僕は緊張しながら、コンビニ店員であること、小説家を目指しているが一行も書けていないこと、そして「二百分の一」の話を、正直に話した。

 老人はしばらく黙って聞いていたが、やがて低く笑った。

 「くだらん理屈だが、嫌いじゃない。数字がどうであれ、通い続けるってのは、簡単なことじゃないからな」

 その言葉が、僕の中に長く残った。

 「小説は、書けてるのか」

 「……まだ、冒頭だけです」

 「まあ、焦るな。店だって、うちの親父の代から数えりゃ、五十年かけてやっと今の形になった。人間、そう簡単に何かを仕上げられるようにはできてないんだよ」

 その言葉に、僕はなぜか泣きそうになった。誰かにそんなふうに言ってもらえたのは、営業職を辞めて以来、初めてのことだった。

 帰り際、廊下でみなみさんが小さく言った。

 「父、悠一さんのこと、気に入ったみたいです」

 「よかった……のかな」

 「よかったんです」

 そう言った彼女の横顔が、いつもより少しだけ、柔らかく見えた。

十一 別れ

 みなみさんのお父さんは、その年の春、桜が散り始める頃に亡くなった。

 葬儀の日、僕はずっとみなみさんの隣にいた。何を言えばいいのか分からず、ただ黙って隣に立つことしかできなかった。彼女は気丈にふるまっていたが、通夜の晩、二人きりになった瞬間、堰を切ったように泣いた。僕はただ、その背中をさすり続けた。

 文光堂は、正式にみなみさんが継ぐことになった。僕はコンビニのシフトを減らし、週の半分を店の手伝いに費やすようになった。宮田店長は渋い顔をしたが、「まあ、お前の人生だからな」と、最終的には送り出してくれた。田村くんには「先輩、ついに本気出したんですね」と、珍しく真面目な顔で言われた。

 「今まで本気じゃなかったみたいに言うな」

 「いや、だって先輩、告白するのに一年かかった人ですよ」

 反論の余地がなかった。

 店を手伝いながら、僕は相変わらず小説を書けずにいたが、古本の値付けの仕方だけはやたら詳しくなった。夜、店を閉めたあと、みなみさんと二人で棚の前に座り、彼女がお茶を淹れてくれる時間が、いつしか僕の一日の中で、一番大事な時間になっていた。

 母親には、久しぶりの帰省の際に「あんた、ようやく落ち着きそうな相手ができたのね」と、涙ぐまれた。父親は、相変わらず何も言わなかったが、代わりにビールを二本、黙って差し出してきた。二本になったのは、僕なりの成長の証だと、勝手に解釈することにした。

十二 プロポーズ

 つき合って三年が経った、去年の秋のことだ。

 僕は、文光堂の閉店後、レジ横の小さな椅子に座るみなみさんの前に立ち、震える手でポケットから小さな箱を取り出した。何度も練習したはずの台詞が、頭から全部飛んでいった。

 「あの、その、二百分の一の……」

 「悠一さん、緊張しすぎて、また変な数字の話になってますよ」

 彼女は笑いながら、それでも目には涙をためて、僕の手から箱を受け取った。

 「はい、じゃあ。この先も、ゆっくりでいいですか」

 「……はい。ゆっくりで、いいです」

 僕らは、その年のうちに籍を入れた。彼氏彼女が、ダンナとカミさんになる確率は、僕が最初に見たあの怪しいまとめサイトには載っていなかった。載っていたとしても、もっとずっと低い数字だったに違いない。

 結婚式は、ごく身内だけの、小さなものにした。宮田店長は招待客の中で誰よりも大きな声で泣き、田村くんは「先輩、ついに人間になれてよかったですね」という、褒めているのか分からない祝辞を述べた。みなみさんの親戚には、「文光堂を継いでくれる人が見つかって安心した」と、何度も頭を下げられた。僕はその都度、「こちらこそ」と、意味もなく深々とお辞儀を返した。

十二・五 新婚旅行、のようなもの

 結婚式のあと、僕らは「新婚旅行」と呼ぶには少々こぢんまりとした一泊二日の温泉旅行に出かけた。文光堂を二日間閉めるのは開店以来初めてのことらしく、みなみさんは前日まで「本当に閉めていいのかな」と、そわそわしていた。

 「二日くらい、閉めても大丈夫ですよ。お父さんだって、たまには休めって言ってたんでしょう」

 「言ってましたけど……休店の張り紙、三回も書き直しちゃいました」

 彼女がそんなふうに落ち着かない姿を見せるのは珍しく、僕はそれだけで、この旅行に付き合わせてよかったと思った。

 宿は、ネットの評判を頼りに選んだ、山あいの小さな温泉旅館だった。部屋に案内されると、みなみさんは真っ先に、備え付けの小さな本棚に目をやり、「こんなところにも本棚があるんですね」と、早速一冊を手に取っていた。旅行に来てまで本を読む気かと呆れる一方で、彼女らしいと思って、僕は笑ってしまった。

 「たまには僕と喋ってくれてもいいんですよ」

 「喋ってますよ、ちゃんと。……この作家、装丁が変わっていて」

 「本の話じゃなくて」

 「あ、はい。すみません」

 そう言いながらも、彼女はしばらくして本を閉じ、縁側に並んで座る僕の隣に腰を下ろした。山の空気は町よりずっと冷たく澄んでいて、遠くに小さな灯りがいくつか見えた。

 「悠一さんと結婚するって、正直、まだちょっと現実感がないんです」

 「僕も、たまに夢なんじゃないかって思います」

 「二百分の一の夢、ですか」

 「そのうえで、更に何百分の一かの、奇跡みたいな夢です」

 みなみさんは小さく笑って、僕の肩に頭を預けてきた。特別な会話をしたわけではない。ただ、夜風に吹かれながら、しばらく黙って隣にいただけだ。それでも僕は、その時間のことを、この先何年経っても、忘れないだろうと思った。

 翌朝、宿の朝食で出た温泉卵の割り方に二人して手間取り、仲居さんに助けられるという、微笑ましいというよりただの間抜けな一幕もあった。帰りの電車の中、みなみさんは早々に眠ってしまい、僕はその寝顔を見ながら、ノートパソコンではなく手帳を取り出し、いつか書く小説のための、いくつかのメモを書きつけた。

 「レジ横の椅子で、妻が本を読み、夫がノートを取る話」

 我ながら、なんの捻りもない題材だと思ったが、それでいいような気もした。

十三 文光堂の夜

 結婚してからも、僕らの生活は、大きくは変わらなかった。僕は相変わらず小説を書けていないが、最近になって、ようやく一本、短編を書き上げた。文光堂のレジで、みなみさんが一番最初の読者になってくれた。

 「面白いです。特に、確率の話をする主人公のところ」

 「それ、僕そのまんまなんですけど」

 「知ってます」

 彼女はそう言って、いたずらっぽく笑った。

 夜、店を閉めたあと、二人でレジ横の椅子に並んで座り、彼女が本を読み、僕がノートパソコンに向かうという時間が、僕らの日課になった。窓の外を、夜の街灯が照らしている。時折、通りを歩く人影が、ガラス越しにぼんやりと見える。あの中の誰かも、きっと二百分の一の確率を、知らないうちに探しているのだろうと思うと、少しだけ愉快な気持ちになった。

 奇跡、というほど大げさな言葉を使う気はないが、少なくとも僕は、二百分の一を、そのまま更に何十分の一、何百分の一へと絞り込んでいったのだと思っている。運が良かったわけではなく、単に、毎日その店の前を通り続けただけの話だ。

十四 喧嘩と、それでも続く日々

 結婚生活は、当然ながら、平坦ではなかった。

 半年ほど経ったころ、僕らは初めて、まともな喧嘩をした。原因は些細なことだった。僕が書きかけの原稿にかまけて、店の棚卸しを手伝わなかったことに、みなみさんが珍しく強い口調で怒ったのだ。

 「悠一さん、小説を書きたい気持ちは分かります。でも、生活は、二人でやってることなんです」

 正論だった。だからこそ、僕は言い返す言葉を持たなかった。その夜、僕らは互いに黙り込んだまま、同じ部屋で背中を向けて眠った。

 翌朝、気まずい空気の中、みなみさんが先に口を開いた。

 「昨日は、言い過ぎました」

 「いや、僕が悪い。棚卸し、ちゃんとやるべきだった」

 「……小説も、ちゃんと書いてください。それも大事なことだから」

 「うん」

 それだけのやりとりだったが、僕らはその日から、互いのやりたいことを、もう少しだけ尊重し合うようになった。喧嘩は、二百分の一を引き当てたからといって、なくなるものではないらしい。むしろ、そこからが本番なのだと、僕は少しずつ理解していった。

十五 エピローグ いつか年老いたとき

 年老いたとき、「仕方ない」と思われる夫にだけはなるまいと、今でも時々思う。言葉を絶やさぬように、レジ横の小さな椅子に座って、彼女が本を読む横顔を、飽きずに眺めている。

 先日、田村くんが久しぶりに店に顔を出した。今では別の会社で働いているらしい彼は、僕とみなみさんを交互に見て、「先輩、あの頃と変わらないですね」と笑った。変わらないと言われて、悪い気はしなかった。

 宮田店長は、あれからも独り身を貫いているが、たまに店を覗きに来ては、「坂本、お前が幸せそうにしてるのを見ると、なんだか腹が立つ」と憎まれ口を叩いていく。それでも毎回、みなみさんの淹れたお茶を、律儀に一杯飲んでから帰っていく。

 もっとも、これが大谷翔平だったなら、確率もへったくれもなく、百パーセントだったのだろうけれど。

 僕は大谷ではないし、これからも二百人に一人分の幸運を、大事に大事に使っていくしかないのである。

 書きかけの小説は、まだ完成していない。だが、レジ横の椅子で、みなみさんが「今日はどこまで進みました?」と聞いてくれる限り、僕はきっと、書き続けることができるのだと思う。

 二百分の一。その数字は、もう僕にとって、単なる確率の話ではなくなっていた。

(了)


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あとがき
このお話は、劇的な大恋愛の物語ではありません。むしろ、確率〇・五パーセントという奇跡のような数字のあとに続く、残りの九九・五パーセントの「なんてことのない日常」についての物語です。
主人公の悠一は、三十を過ぎて夢も中途半端、口下手で嫉妬深い、どこにでもいる(そしてちょっと格好悪い)男です。ですが、彼がみなみさんのために興味のない本を買い続け、お父さんの言葉に救われ、一行ずつ小説を書き進めていく姿は、どこか私たちの日常の足取りに似ている気がします。
結婚はゴールではなく、二百分の一の確率を引き当てたあとの「本番」の始まりです。時にすれ違い、薄味のお粥に苦笑いしながらも、「ゆっくりでいい」と並んで歩く二人の背中に、ささやかな祝福を込めて筆を置きました。
今夜、あなたの隣にいる人、あるいは明日すれ違う二百人の誰かに、ほんの少しの優しい眼差しを向けたくなる一冊となれば幸いです。
2026年 夏 ――著者