刻堕とし 十四 〜まんじゅう怖い異聞・恐怖喰らい〜
継ぎ目守異聞
古典落語「まんじゅう怖い」より



まえがき
「まんじゅう怖い」という噺は、若い衆が集まって「お前は何が怖い」と互いに怖い話を語り合う、たわいもない世間話から始まる。蜘蛛が怖い、蛇が怖い、幽霊が怖い――口々に怖いものを挙げる中、松公という男だけが「おれは、まんじゅうが怖い」と言い出す。
呆れた仲間たちは、悪戯心を起こし、松公の寝ている部屋に山ほどまんじゅうを積んで怖がらせてやろうと企む。ところが襖の隙間から覗いてみれば、松公は「怖い、怖い」と言いながら、まんじゅうをむしゃむしゃと美味そうに平らげているではないか。すっかり一杯食わされたと知った仲間が、「本当に怖いものは何だ」と問い詰めると、松公はにやりと笑って、今度は熱い茶が怖いのだと言ってのける。
この噺の面白さは、「怖い」という感情そのものを、ちゃっかり自分の得のために使いこなしてしまう、松公のしたたかさにある。本物の恐怖ではなく、演じられた恐怖、という点が肝要だ。
ところが、とある写しにおいて、この「演じられた偽りの恐怖」と「本物の恐怖」の区別が、あちこちの継ぎ目でごちゃまぜにされ、本物の恐怖ばかりが際限なく増幅されているという報せが届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、若い衆の集う長屋へと足を踏み入れることになった。




一 継ぎ目守、恐怖の坩堝
鏡面が、ぐらぐらと沸き立つ湯のように波打っていた。まるで、恐怖という感情そのものが、鍋の中で煮え立っているような揺れ方だった。
継ぎ目守圭馬へ。演目「まんじゅう怖い」における『偽りの恐怖』と『本物の恐怖』の型の混同が、無数の継ぎ目で発生。本物の恐怖が異常増幅し、卒倒・錯乱に至る事例が多発。至急現地調査されたし。
「恐怖が煮え立つ、たあ物騒な話だね」
圭馬が鏡面を睨むと、弥七が珍しく渋い顔で立っていた。
「旦那、まんじゅう怖いたあ、ちゃっかり者の松公が、まんじゅうをただ食いする、笑える噺のはずなんですがね」


二 若い衆の怖い話
継ぎ目を抜けると、そこは江戸の裏長屋、雨の日の退屈しのぎに、若い衆が数人集まっている座敷だった。
「なあ、お前さんは何が怖い」
「おれかい。おれは、蜘蛛が怖くてたまらねえ」
「おれは蛇だな。にゅるっとしてやがるのが、どうにも」
「おれは、幽霊だ。夜中に白いものがふわりと出たひにゃ、それこそ腰が抜ける」
わいわいと怖い話に花を咲かせる中、松公という男だけが、腕を組んで黙り込んでいた。
「松公、お前さんは何が怖い」
「おれか。……おれは、まんじゅうが怖い」
一同、どっと笑い出した。
「弥七、聞いたかい。まんじゅうが怖い、だとさ」
「へえ、罪のねえ噺でさ。……ただ、旦那、なんだかその笑い声、やけに歪んで聞こえやせんか」


三 松公、まんじゅうが怖い
「まんじゅうが怖いとは、どういうことだい」
仲間に問われ、松公はぶるぶると震えてみせた。
「あの、ふっくらとした形を見ただけで、寒気がする。餡の匂いを嗅いだだけで、目の前が真っ暗になる。ああ、思い出しただけでも、怖気が走らあ」
「おかしな野郎だ。よし、それなら一つ、松公をとことん怖がらせてやろうじゃねえか」
仲間たちは、松公が休んでいる隙に、店中のまんじゅうを買い集めて、彼の枕元に山と積み上げる算段を始めた。
圭馬はその一部始終を眺めながら、ふと眉を寄せた。
「弥七、この場面、噺の型どおりだ。だが、松公の震え方、あれは芝居にしちゃあ、妙に真に迫って見えないか」


四 悪戯の企み
夜更け、仲間たちはこっそりとまんじゅうの山を松公の枕元に積み上げ、襖の隙間からその様子を窺った。
「さあ、目を覚ませば、さぞかし腰を抜かすことだろう」
やがて松公が目を覚まし、枕元の山を見て「ひっ」と小さく声を上げた。仲間たちは息を潜めて見守る。
ところが松公は、震える手でまんじゅうを一つ取り上げると、「ああ、怖い、怖い」と呟きながら、それをぱくりと頬張った。
「むう、怖い……ああ、怖い……」
そう言いながら、次から次へとまんじゅうを平らげていく。


五 むしゃむしゃ
「な、なんだこりゃあ」
襖を開けて詰め寄る仲間たちに、松公はにやりと笑ってみせた。
「いやあ、済まねえ済まねえ。実あ、おれは怖いものなんぞ、これっぽっちもねえんだ。ただ、まんじゅうをただで食いたくてよ」
「この野郎、一杯食わされたか」
「じゃあ、お前さん、本当は何が怖いんだ」
松公は満足げに茶を一口飲んで、こう答えた。
「そうさなあ……今度は、熱い茶あ一杯が怖いねえ」
一同、呆れながらも大笑いになった。圭馬はその笑い声を聞きながら、なおも何かが引っかかっている様子だった。
「弥七、この一件、確かに愉快な悪戯話だ。だが、この笑い声の向こうに、何か別の唸り声のようなものが混じってる気がする」


六 幾千の恐怖、正体不明の丘
圭馬が継ぎ目守の証を掲げると、長屋の壁が透け、その奥に、幾千もの見知らぬ町や村が連なって見えた。だが、そのどこでも、松公のような愛嬌のある悪戯ではなく、本物の恐怖に取り憑かれ、卒倒し、錯乱し、動けなくなっている者たちの姿があった。
「怖い……怖い……」
うわ言のように繰り返す者たちの姿は、まんじゅうを頬張る松公とは似ても似つかぬ、切実な恐怖そのものだった。
「弥七、見ろ。あちこちの継ぎ目で、恐怖という感情そのものが、本物か偽物かの見分けもつかず、ただ際限なく膨れ上がってる」
「旦那、こいつぁ、松公の可愛げのある悪戯とは、まるっきり質が違いやすね」


七 恐怖喰らいの正体
幾千の恐怖が渦を巻く先、暗い坩堝の底のような場所に、無数の悲鳴の欠片を纏った、輪郭の定まらない影が蠢いていた。
「継ぎ目守か。……この身は、幾百幾千の写しで生まれた、本物の恐怖の成れの果て。名は恐怖喰らい。松公のような、演じられた偽りの恐怖には、何の旨みもない。だが、本物の震え、本物の悲鳴――それこそが、この身の何よりの馳走よ」
「お前が、あちこちの継ぎ目で、本物の恐怖ばかりを引き出して喰い散らかしてるのか」
「偽りの恐怖と本物の恐怖の境目を、曖昧にしてやりさえすればよい。誰もが自分の恐怖が本物か偽物か分からなくなれば、この身はいくらでも太れる」
弥七が拳を握った。
「旦那、こいつぁ、松公の呑気な悪戯心を、逆手に取って悪用してやがる」


八 弥七、本物の恐怖に呑まれる
調べを進める中、弥七がふと、幼い頃の本物の恐怖――暗い蔵に閉じ込められた記憶を思い出してしまった。
「な……こいつは」
弥七の体が、恐怖喰らいの気配にじわりと絡め取られていく。
「弥七!」
圭馬がとっさに弥七の肩を掴んだ。
「弥七、しっかりしろ。今のお前は、あの蔵の中の子供じゃねえ」
「旦那……すいやせん、つい、本物の恐怖ってやつに、足元をすくわれちまって」


九 松公の入れ知恵
そこへ、当の松公が、ひょっこりと顔を出した。
「旦那方、難儀してなさるようだね。一つ、おれの知恵を貸してやろうか」
「松公さん、あんたの入れ知恵とは」
「なあに、簡単なことよ。おれがまんじゅうを怖がる芝居をしたのは、本当に怖いものなんぞ、これっぽっちもなかったからだ。……その化け物、本物の恐怖しか喰えねえってんなら、うんとこさ、偽物の恐怖を食わせてやりゃあいい」
「偽物の恐怖、か」
「そうともよ。おれみてえに、大げさに震えて、大げさに怖がって、その実、これっぽっちも怖くねえ――そういう空っぽの恐怖を、腹いっぱい食わせてやりゃあ、そのうち腹を壊すに決まってらあ」


十 圭馬の芝居
圭馬は恐怖喰らいの前に進み出ると、松公さながらに、大げさに身を震わせてみせた。
「ああ、恐ろしい、恐ろしい。継ぎ目守として、幾多の怪異と渡り合ってきたこの俺が、お前を前にすると、腰が抜けそうになる。ああ、怖い、怖い」
「な……その震え、まことのものか」
「まことかどうか、お前自身の舌で確かめてみるがいい」
恐怖喰らいは疑いながらも、目の前の「怖い、怖い」という言葉に釣られ、大口を開けて圭馬の芝居がかった恐怖を丸呑みにした。だが、その中身は空っぽの器も同然、いくら飲み込んでも腹の足しにならない。
「ぐ……これは、まことの恐怖ではない……胸焼けが……」


十一 型を取り戻す
「今だ、弥七!」
圭馬の合図で、弥七も松公に倣い、大げさな作り笑いの恐怖を、恐怖喰らいに次々と浴びせかけた。本物と偽物の境が曖昧だったはずの恐怖喰らいは、松公直伝の「空っぽの恐怖」を延々と食わされ続け、次第にその輪郭を保てなくなっていく。
「もう、たくさんだ……本物と偽物の区別もつかぬ食い方をしたのは、この身自身であったか……」
恐怖喰らいは、悲鳴の欠片をぼろぼろと零しながら、坩堝の中へと溶けるように消えていった。取り憑かれていた者たちの震えも、次第に収まっていった。
幾千の町や村は、一枚また一枚と収束していき、やがて、あの一つの裏長屋だけが、正しい形で残った。


十二 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、本物の恐怖ってのは、案外、ちゃっかり者の空いばりの前じゃ、大した歯応えもねえもんでございます。松公さんの、まんじゅうが怖いなんて可愛げのある嘘が、まさかこんな大立ち回りの決め手になろうとは、あっしも思いやしませんでした。……ええ、今度あっしが本当に怖いのは、この一件の顛末を番所にどう説明するかってことでございます。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。




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あとがき
刻堕としシリーズも十四作目、今回は「まんじゅう怖い」という、ちゃっかり者の松公が愛される、痛快な悪戯噺を題材にしました。
この噺の面白さは、本物の恐怖ではなく、演じられた偽りの恐怖を、自分の得のために使いこなしてしまう、松公のしたたかさにあると思います。今回はその「偽りの恐怖」と「本物の恐怖」の境目そのものが曖昧にされ、本物の恐怖ばかりが際限なく増幅されるというSF的な事件にしてみました。
圭馬たちが最後に取った策は、力ずくで恐怖喰らいを祓うのではなく、松公直伝の「空っぽの恐怖」を、逆にたっぷりと食わせてやるという、噺そのものの精神を借りた反撃でした。本物と偽物、まことと嘘、その境目を軽やかに渡り歩く松公のしたたかさこそが、この一件を丸く収める鍵になったのだと思います。
たわいもない悪戯噺の奥に潜む、恐怖という感情そのものの正体を、楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。