加筆版
セイ・セイ・セイ 

〜僕がスターだった、あの夏〜


まえがき
ある夜、深夜ラジオから流れてきた古い曲を聴きながら、ふと思ったのです。
私たちはどれだけの「言いそびれ」を抱えて生きているのだろう、と。
ありがとう、ごめんなさい、元気にしているか。たった一言なのに、なぜか一番近い人ほど口にできない。言わないまま、時間だけが過ぎていく。
この物語は、六十三歳の誕生日に「今日は鍋でいい?」と言われる、どこにでもいる男の話です。
彼はスターでも英雄でもありません。肩は凝り、膝は痛み、息子への電話のかけ方すら忘れてしまった男です。そんな男が、一夜だけ伝説のスーパースターの身体を借りて、一九八三年のきらめくステージに立つとしたら。
これは伝記でも、ファンタジーの成功譚でもありません。
「伝えること」について書きたかった、とても小さな、でも私にとっては大切な物語です。
どうか最後まで、お付き合いください。




登場人物

• 田中 稔(たなか みのる)/ 63歳 ― 語り手。定年退職後、趣味も特になく持て余している元サラリーマン。真面目だが下心は人並みにある。

• マイキー・J ― 1980年代に世界を席巻した伝説のスーパースター(故人)。稔に「体を貸してほしい」と持ちかける幽霊(のようなもの)。飄々として何を考えているか分からない。

• ブリー・アシュフォード ― マイキー全盛期と同時代にブレイクした若手アイドル歌手。無邪気で小悪魔的。

• デイヴ&メイ ― マイキーの先輩格にあたる伝説的ミュージシャン夫婦デュオ。稔が最初に迷い込むステージの主。

• 謎の管理人(コーディ) ― 時空移動の”裏側”を管理しているらしい謎の存在。中盤で稔の前に現れ、マイキーの本当の目的を仄めかす。




第一章 プロローグ:契約

その日、田中稔は六十三歳になった。

誕生日と言っても、特に何があるわけでもない。長男からは「おめでとう」とだけ書かれたLINEが届き、次男からは何も届かなかった。妻の和子は「今日は面倒だから鍋でいい?」と聞いてきて、稔は「いいよ」と答えた。それだけの、なんということもない一日だった。

定年退職してからもう三年になる。最初の一年は「自由だ」とはしゃいでいたが、二年目には図書館に通うようになり、三年目の今は、平日の昼間からテレビの前でぼんやりしている自分に気づいて、少し愕然とすることが増えていた。

「不完全燃焼」

という言葉が、最近の稔のお気に入りだった。何が不完全なのか、自分でもよくわからない。ただ、何かをやり残したまま、ここまで来てしまった気がしてならないのだ。

その夜、風呂上がりに稔がリビングのソファでうとうとしていると、テレビの砂嵐の向こうから、聞き覚えのある鼻にかかった声がした。

「ねぇ、キミ」

稔は目を開けた。テレビの前に、見覚えのある人物が立っていた。黒い帽子、白い靴下、片方だけの白い手袋。世界中の誰もが知っている、あのスーパースターのシルエットだった。ただし、輪郭が心なしかぼんやりとして、周りの光を吸い込んでいるようにも見える。

「……幽霊、ですか」

稔は驚くよりも先に、妙に冷静にそう尋ねた。六十三年も生きていると、多少のことでは驚かなくなるものらしい。

「まあ、そんなようなものかな」

マイキー・Jと名乗るその人物は、そう言って肩をすくめた。しゃべり方は英語混じりの、聞き取りやすい日本語だった。

「単刀直入に聞くけど――キミの身体を、しばらく貸してくれないか?」

稔は思わず自分の腹の贅肉をつまんだ。

「私の……この身体を、ですか? マイキーさんほどの方が、こんな冴えない初老の身体を借りて、何をなさるおつもりで」

「ちょいと、やり残したことがあってね」

マイキーは微笑んだ。その笑顔は写真や映像で見たものと同じはずなのに、どこか寂しそうに稔には見えた。

「それなら」と稔は苦笑いした。「もっと若くて、格好いいどなたかの方がよろしいのでは。私はこの通り、腹も出ていますし、膝も痛みますし」

「いや、キミの身体でなくちゃダメなんだ」

マイキーは首を振った。

「なぜです?」

「それは……まあ、追い追い話すよ。それより、キミ、日本人だよね。それも」

マイキーは稔の全身を眺めまわしてから、少し悪戯っぽく続けた。

「特別ではない、ごく普通の初老の男性……なんて、失礼な言い方だけど」

「それは、失礼ですね」

稔は本気で少しむっとした。だが同時に、退屈しきった毎日の中に、突然舞い込んできたこの荒唐無稽な話に、抗いがたい面白さを感じてもいた。相手はあのマイキー・Jである。断る理由よりも、話に乗ってみたい好奇心の方が勝った。

「……いいでしょう。マイキーさんになら」

「決まりだ!」

マイキーはぱちんと指を鳴らした――ように見えたが、実際には指の骨が鳴っただけかもしれない。なにしろ半透明の身体である。

「じゃあ、これから稔、キミには僕にならなくちゃいけないんだ」

「は?」

稔は聞き返した。身体を貸すという話ではなかったのか。

「順番として、まず僕がキミの身体に入る。その間、キミの魂はどこに行くのかっていうと――僕にならなきゃいけない、ってわけ」

「意味がわかりません」

「簡単に言うとね」

マイキーは芝居がかった仕草で肩をすくめた。

「失礼ながら、キミはもう――は言い過ぎか。とにかく、僕の身体は、もうこの世にはない。埋葬されて、灰になって、とっくに骨も残ってない。だから、僕がキミの中に入っている間、キミの魂の"入れ物"がなくなっちゃうんだよ。だから代わりに、僕という存在――正確に言うと、僕の"データ"というか"記憶"というか――そこに、キミの魂を仮住まいさせる、ってわけ」

「つまり、私が……マイキーさんに、なる?」

「その通り」

稔は腕を組んで考え込んだ。理屈はよくわからないが、なんとなく雰囲気は伝わってきた。

「だとしたら、私はどうすればいいんです? マイキーさんの真似をして、コンサートでもすればいいんですか。無理ですよ、私、ムーンウォークどころか、盆踊りだって怪しいんですから」

「大丈夫、大丈夫」

マイキーは笑って手をひらひらと振った。

「その間、キミは時空を好きな所へ移動していい。何なら、僕が一番華やかだった時代――あの身体で、好き勝手にやっていてくれればいいんだ」

「好き勝手に……」

その言葉の響きに、稔の胸の奥で何かがざわりと動いた。

「ほう」

稔は思わず身を乗り出した。

「それは……なんだか、楽しそうですね」

「だろう?」

マイキーはにやりと笑った。その笑みは、どこか少年めいていて、そしてやはり、どこか寂しかった。

「じゃあ、決まりだ。目を閉じて」

「ちょ、ちょっと待ってください。契約書とか、そういうのは」

「そんなもの、あの世にはないよ」

マイキーは稔の額に、すっと指先を触れさせた。冷たいような、温かいような、不思議な感触だった。

「楽しんでおいで、稔」

その声を最後に、稔の意識は、深い深い光の渦へと吸い込まれていった。

リビングでは、こたつに突っ伏したまま眠りに落ちた老人の身体が一つ、静かに寝息を立てていた。傍らのテレビはいつの間にか消えており、和子が「もう、また風邪ひくわよ」とつぶやきながら、夫に毛布をかけているのだった。


第二章 六十三年分の言葉

――と、話を急ぐ前に、少しだけ稔自身のことを話しておかねばならない。

田中稔は、大手商社の資材部門で三十八年間、実直に働き続けた男だった。派手な出世こそしなかったが、後輩からは「田中さんがいれば大丈夫」と頼られ、取引先からは「律儀な人だ」と評判だった。仕事一筋、というやつである。

その代償と言うべきか、家庭では、いつも一歩引いた立ち位置にいた。妻の和子には家のことを任せきりで、長男の一郎と次男の健二が思春期の頃、何を考えているのか分からず、結局、腹を割って話す機会もないまま、二人とも家を出て行ってしまった。

一郎とは、年に一度、正月に顔を合わせる程度だ。健二に至っては、もう三年、直接会っていない。稔の携帯には、健二の電話番号が今も登録されているが、発信履歴を遡ると、最後にかけたのは五年前のことだった。

「話すこと、特にないしな」

そう自分に言い聴かせながら、稔は結局、いつも電話をかけそびれてきた。何か特別な用事があるわけでもないのに電話をかけるという行為が、稔にはひどく気恥ずかしく、勇気の要ることのように思えてならなかったのだ。

定年退職の日、会社の後輩たちが小さな送別会を開いてくれた。花束をもらい、拍手で送り出され、「お疲れ様でした」と言われたその瞬間、稔は不思議な虚しさを覚えた。

三十八年間、何を積み上げてきたのだろう。仕事は真面目にやった。家族も養った。だが、誰かに、本当に伝えたかった言葉を、ちゃんと届けられただろうか。

「不完全燃焼」

という言葉が口癖になったのは、その頃からだった。

だから、というわけでもないのだろうが――突然現れたマイキーの誘いに、稔があれほどあっさり乗ってしまったのには、実はそんな背景があったのだ。誰かに与えられた「もう一つの人生」を、今度こそ悔いなく生きてみたい。そんな思いが、稔の胸の奥に、ずっとくすぶっていたのかもしれない。

……さて、話を戻そう。真っ白な空間で、マイキーとの契約を終えた稔は、いよいよ、あの華やかな時代への扉をくぐろうとしていた。


第三章 入れ替わり、そして選択

気がつくと、稔は真っ白な空間に立っていた。

いや、「立っていた」という表現も正確ではない。上も下も、右も左もない。ただ、真っ白な光の中に、稔の意識だけがぽつんと浮かんでいる、そんな感覚だった。

「おーい、稔、聞こえるかい」

声は四方八方から響いてきた。マイキーの声だ。

「聞こえてます。……ところで私、今、どういう状態なんでしょうか」

「今のキミは、いわば"待合室"にいる状態だね。これから僕の記憶の中――正確には、僕が生きていた時代のどこか――に、キミの意識を送り込む。だから、行き先を選んでほしいんだ」

「行き先、と言われましても」

「僕の人生をざっと見せてあげるよ。好きな時代を選ぶといい」

そう言うと、稔の目の前に、まるで映画館のスクリーンのような光景が次々と映し出された。

幼い頃、兄弟たちと歌って踊るステージ。少年から青年へと変わっていく姿。世界中を熱狂させたあのアルバムのレコーディング風景。そして――煌びやかな衣装をまとい、伝説のミュージシャン夫婦、デイヴ&メイのステージに、ゲストとして飛び入りする映像。

「おお」

稔は思わず声を上げた。デイヴ&メイと言えば、稔が若い頃、深夜のラジオでかじりつくように聴いていた伝説のデュオだ。あの二人の音楽に、若かりし日の稔がどれほど救われたか。

「わかりやすいね、キミ」

マイキーがくすくす笑う声がした。

「あの二人のステージに、僕はゲストで一度だけ立ったことがある。伝説になった夜だよ」

「そこに、行けるんですか」

「行けるよ。ただし」

マイキーの声が、少しだけ低くなった。

「一つだけ、ルールがある」

「ルール?」

「その時代に行っている間、キミは"僕"として振る舞うことになる。周りの人間には、僕にしか見えない。……つまり、キミがそこで何をしても、それは全部、僕の伝説の一部になる、ってことだ」

稔はごくりと唾を飲んだ。

「それは……なかなか、責任重大ですね」

「まあ、そう硬くならずに。何しろ、キミが選んだのはショービジネスの世界だ。多少のハプニングは、伝説のスパイスになる」

その言い方に、稔はなんだか妙な安心感を覚えた。

「よし……決めました。デイヴ&メイのステージに行きます」

「オーケー」

マイキーの声が、心なしか楽しそうに弾んだ。

「じゃあ、もう一つ。せっかくだから、その前後の時間も少し自由に動き回れるようにしてあげよう。楽屋、リハーサル、打ち上げ……好きなだけ、僕の華やかな時代を味わっておいで」

「打ち上げ、ですか」

稔の頭の中で、何やら不埒な想像が一瞬よぎった。慌ててそれを打ち消す。

「では、ブリーとの、あの……」

言いかけて、稔は口をつぐんだ。

「ん? ブリーがどうかした?」

「いえ、何でも」

マイキーはそれ以上は追及せず、ただ愉快そうに笑うだけだった。

「じゃ、行っておいで。時空の扉を開けるよ」

真っ白な空間に、一筋の光の亀裂が走った。まぶしさに稔は思わず目を閉じる。

そして次に目を開けたとき――稔は、鏡の前に立っていた。


第四章 衣装合わせと謎の機械

鏡の前で立ち尽くす稔のもとに、慌ただしくスタッフたちがやってきた。

「ミスター・J、衣装のフィッティングです。こちらへ」

腕を引かれるまま、稔は狭い控室に連れ込まれた。壁一面にずらりと並んだ、キラキラと光る衣装の数々。スパンコール、ビーズ、金属製の肩章――どれもこれも、稔がこれまでの人生で袖を通したことのない代物ばかりだった。

「これを……着るんですか」

「もちろんです。いつもの、あの一着ですよ」

スタイリストの女性がてきぱきと衣装を着せ付けていく。ジャケットの袖を通した瞬間、稔は思わず呻いた。

「うっ……肩が動かせない」

「ミスター・J、大丈夫ですか? いつもと違いますね」

「いや、その、今日はちょっと、肩の調子が」

苦し紛れの言い訳をしながら、稔は内心で冷や汗をかいていた。長年凝り固まった五十肩――もとい、四十肩ならぬこの身体の柔軟性のおかげで事なきを得たものの、あわや正体がバレるところだった。

控室の隅には、見たこともない機械がいくつも置かれていた。分厚い箱型の機械に、大きなボタンとレバーがずらりと並んでいる。

「これは……何をする機械なんです?」

稔が思わず尋ねると、若いアシスタントが怪訝そうな顔をした。

「ミスター・J、これ、いつも使ってるカセットのミキサーですよ。……本当に大丈夫ですか、今日?」

「あ、ああ、もちろん! ちょっと、寝ぼけていただけです」

稔はしどろもどろになりながら誤魔化した。よく考えれば当たり前だ。この時代には、まだスマートフォンどころか、パソコンすらほとんど普及していない。稔にとっては「懐かしい」機械が、この時代ではまさに最先端なのだった。

「ミスター・J、こちらにサインを」

差し出された書類にサインを求められ、稔は思わずペンを取り落としそうになった。マイキーのサインなど、書いたこともない。だが不思議なことに、いざペンを握ると、手が勝手に、流れるような達筆でサインを書き上げてしまう。

(これも"身体の記憶"というやつか……便利だが、なんだか少し悔しいな)

長年、稔自身のサインは、お世辞にも達筆とは言えなかった。銀行の窓口で何度も書き直しを求められたことを思い出し、稔はなんとも複雑な気持ちになった。

支度を終えて鏡の前に立つと、そこには誰もが知るあのスーパースターの姿があった。稔は深呼吸を一つして、自分に言い聞かせた。

――大丈夫。とにかく、堂々としていればいい。

その決意も虚しく、控室を出た廊下で早速、台車を押していたスタッフとぶつかりそうになり、稔は「おっとっと」と情けない声を上げてしまうのだった。


第五章 場違いなスター

鏡に映っていたのは、稔の見慣れた自分の顔ではなかった。

すらりとした体つき、はっとするほど整った顔立ち、そして――全身を彩る、きらびやかなステージ衣装。

「……これが、私?」

思わず声に出してみると、出てきたのは若々しく、しかしどこか聞き覚えのある、あの独特の高い声だった。

「うわっ」

稔は驚いて自分の口を両手で押さえた。声まで変わっている。当たり前と言えば当たり前だが、いざ実際に体験すると、その衝撃は凄まじいものがあった。

楽屋のドアがノックされた。

「ミスター・J、スタンバイです。あと五分でステージです」

「は、はいっ! ……いや、イエス!」

慌てて英語混じりで返事をしてしまう自分に、稔は内心で苦笑した。長年勤めた商社での英会話が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

袖に案内されると、割れんばかりの歓声が聞こえてきた。ステージの中央には、白髪交じりの気さくな笑顔のミュージシャンと、その隣で優雅にキーボードを弾く女性――デイヴとメイの姿があった。噂に聞いていた通り、二人の周りには温かい空気が満ちている。

「よう、来たな相棒!」

デイヴが稔(の中身をしたマイキー)に向かって、気さくに手を振ってくる。

(ど、どうしよう。振り付けなんて知らないし、歌詞だって覚えてない……!)

稔は内心パニックに陥りながらも、とりあえず満面の笑みを浮かべて舞台に躍り出た。

不思議なことに、身体が勝手に動いた。足がステップを踏み、腕がしなやかに宙を切る。まるで身体そのものが、何十年分もの練習の記憶を覚えているかのようだった。

(なるほど、これが"身体の記憶"というやつか……!)

歌詞の方は完全にお手上げだったが、口も勝手に動いて、聞き覚えのあるメロディを紡いでいく。稔はただ、その勢いに身を任せることしかできなかった。

観客は熱狂していた。何しろ、伝説のステージに伝説のゲストが現れたのだ。多少の――いや、正直に言えばかなりの――歌詞の怪しさなど、誰も気にしていないようだった。

「ここが……一番、良い時代だったのかもしれないな」

曲間、稔はふと素の呟きを漏らした。若い頃、深夜のラジオで聴いた憧れの音楽の中に、自分がまさに今、立っている。それだけで、胸がいっぱいになるようだった。

そのとき、ステージの袖から、誰かがこちらに向かって小さく手招きしているのに気づいた。

キラキラのミニドレスに身を包んだ、あの若きアイドル――ブリーだった。


第六章 ブリーの誘い

「ねえ、こっち、こっち!」

ブリーは唇に指を当て、いたずらっぽく笑いながら稔を手招きした。

(ブ、ブリー本人だ……!)

稔の中で、六十三年分の理性が音を立てて崩れていくのがわかった。若い頃、テレビの音楽番組で彼女を見るたびに、隣で寝ている和子に気づかれないよう、こっそり画面に見入っていたことを思い出す。あのブリーが、今、目の前で自分を呼んでいる。

曲の合間、稔はふらふらとステージ袖に引き寄せられていった。

「マイキー、今日の振り、キレッキレじゃない! 特に二番のあそこ、いつもと違う動きしてたでしょ」

「あ、ああ、うん、そう、その、いろいろ、研究してね……」

しどろもどろになりながら、稔は鼻の下をだらしなく伸ばしていた。長年連れ添った和子には申し訳ないと思いつつも、この状況で平静を保てる六十三歳男性が、果たしてこの世に何人いるだろうか。

「ねえ、このあと打ち上げ、来るでしょ? デイヴのおじさまのお家で」

「もももちろん、行きます! 行かせていただきます!」

思わず敬語が出てしまい、ブリーが「なにその喋り方、変なマイキー」とけらけら笑った。

(いかん、いかん。マイキーさんの伝説に傷がつく)

稔は必死に自分を律しようとするが、久しぶりに全身にみなぎる若さと、目の前の眩しい笑顔の前では、理性はほとんど役に立たなかった。


第七章 エロオヤジ、散る

打ち上げの会場は、デイヴの自宅の広々としたテラスだった。夜風が心地よく、色とりどりのランタンが揺れている。

「かんぱーい!」

グラスを合わせる音があちこちで響く中、稔はソファの端に腰掛け、隣に座ったブリーとの距離の近さに、内心では大変な動揺を隠しきれずにいた。

(こここ、これは……ワインのせいなのか、それとも本当に彼女は距離が近い人なのか……)

「ねえマイキー、聞いて。今度出す新曲なんだけどね」

ブリーが肩にもたれかかるようにして話しかけてくる。稔――もといマイキーの身体――は、香水の匂いにくらくらしながら、なんとか相槌を打った。

「そそそ、それは、楽しみですね」

「なにその話し方、やっぱり変!」

ブリーがけらけら笑いながら、稔の肩を軽く叩く。その瞬間、六十三年分の「なんとかしたい」という下心が、稔の中で一気に沸点を突破した。

(ええい、ままよ! ここでスマートに、こう、片手をさりげなく背もたれに回して……!)

稔は意を決して、渾身の"さりげなさ"を装い、片腕をソファの背もたれに伸ばした。しかし長年商社の会議室で椅子に座ってばかりいた身体の癖が抜けきらず、動きは見事なまでにぎこちなく、まるで肩の関節が錆びついたブリキ人形のようだった。

「な、なにその動き!?」

ブリーが目を丸くする。

その拍子に、稔の肘がテーブルの端に置かれていたグラスタワーに触れた。

「あっ」

シャンパングラスが、まるでドミノのように次々と倒れていく。

「うわああああっ!」

会場中の視線が一斉に稔に集まった。テラス中に響き渡る盛大な音を立てて、ピラミッド状に積まれていたグラスタワーが崩れ落ち、稔――もといマイキー――は、頭から泡だらけになって尻もちをついた。

「ミスター・J!?」

「マイキー、大丈夫!?」

騒然とする会場の中、稔はびしょ濡れのままへたり込み、天を仰いだ。

(伝説に、傷をつけてしまった……)

だが同時に、なぜか妙な爽快感もあった。六十三年間、こんなにも大胆に、そしてこんなにも派手に失敗したことなど、一度もなかったのだから。

ブリーが吹き出すように笑い始めた。

「あはは、マイキー、そんな顔しないでよ! ……でも、こういうマイキーも、なんか、好きかも」

その言葉を聞いた瞬間、稔の意識が、ふっと遠くなっていく感覚に襲われた。


第八章 宴の後始末

シャンパンまみれで尻もちをついたまま、稔はしばらく動けずにいた。

「大丈夫かい、相棒」

デイヴが笑いながら手を差し伸べてくれた。その笑顔には、非難の色など微塵もなく、むしろどこか懐かしむような温かさがあった。

「す、すみません。せっかくの打ち上げを台無しに」

「なに言ってんだ。パーティーってのは、こういうハプニングがあってこそ、後々まで語り草になるもんさ」

デイヴはそう言って、稔の背中をばんばんと叩いた。その豪快さに、稔は思わず胸が熱くなった。

「メイ、この子ったら、いつもはあんなにキレのいいダンスをするのに、今夜はどうしたのかしら」

メイが優しく微笑みながら、濡れたタオルを差し出してくれる。

「なんだか、今夜のマイキーは、いつもと違って人間くさいわね。……それはそれで、悪くないと思うけど」

「人間くさい、ですか」

稔はその言葉に、なぜだかひどく救われる思いがした。伝説のスーパースターとしてではなく、ただの不器用な一人の人間として受け止めてもらえたような気がしたのだ。

スタッフたちが手分けしてグラスの破片を片付ける中、ブリーが濡れたシャツの稔に、そっとタオルケットを羽織らせてくれた。

「ねえ、マイキー」

「な、なんでしょう」

「さっきは、笑っちゃってごめんね。でも、本当に、今日のあなた、なんかいつもと違って良かったよ」

「そう、ですか」

「うん。……いつものマイキーって、完璧すぎて、ちょっと近寄りがたいところあるから」

その言葉に、稔――いや、その奥で見守っていたであろうマイキー自身も、きっと何か思うところがあったに違いない。稔はふと、そんな気がした。

夜も更け、宴もお開きになった頃、稔はテラスの隅で一人、夜空を見上げていた。あれほど失態を演じたというのに、不思議と心は軽かった。

(こんな夜、六十三年生きてきて、初めてかもしれないな)

しみじみとそう思った、その時だった。

急に視界がぐらりと揺れ、意識が遠くへ吸い込まれていく感覚に、稔は襲われた。


第九章 強制送還?

気がつくと、稔はまた真っ白な空間に浮かんでいた。

「……あれ? 私は、その、まだ打ち上げの途中だったのでは」

「残念ながら、強制送還だよ」

マイキーの声が、どこか苦笑交じりに響いた。

「グラスタワーを盛大にぶっ壊した挙句、あわや大惨事、ってところで、僕のほうの"許容量"を超えちゃったみたいでね。安全装置が働いたんだ」

「そんな……! まだ、何も……」

言いかけて、稔は口をつぐんだ。「まだ何もしていない」というのは、正確には嘘だった。ブリーの好意的な一言に舞い上がった直後だった自分を思い出し、稔は少しばかり気恥ずかしくなった。

「まあまあ、そう気を落とさずに」

マイキーは笑った。

「でもね、稔。正直に言うと、僕はちょっとがっかりしてるんだ」

「がっかり……ですか」

「うん。キミにあの時代を託したのは、ただ好き勝手に楽しんでほしかったから、というだけじゃなかったんだ。……いや、これは、まだ話す時じゃないな」

「え、どういうことです? 教えてください」

「まあ焦らずに。もう一度チャンスをあげるから」

「本当ですか!」

稔は思わず声を弾ませた。しかし――。

「ただし」

マイキーの声が、少しだけ真剣な調子を帯びた。

「今度は、下心じゃなくて、"本当の目的"を持って行ってほしいんだ。それが何か、まずは調べてくるといい」

「調べる、って、どこで、何を」

「それを教えてくれる人がいる。この空間の、ずっと奥にね」

マイキーがそう言った瞬間、真っ白な空間の一角に、小さな扉が現れた。古びた木製の扉で、この無機質な空間にはひどく不釣り合いだった。

「あの扉の向こうに、コーディという名の管理人がいる。彼(彼女? それとも、それ?)が、僕についての"本当のこと"を、少しだけ教えてくれるはずだ」

「マイキーさんご本人が教えてくれれば、早いのでは」

「それができないから、こうして回りくどいことをしているんだよ」

マイキーは寂しげに笑った。その表情に、稔はそれ以上何も聞けなくなってしまった。


第十章 管理人コーディ登場

扉を開けると、そこは小さな図書室のような空間だった。

床から天井まで、無数の古びた本棚が並び、その一つ一つに、ぎっしりとレコードやカセットテープ、写真アルバムが収められている。中央には木製の机があり、その向こうに、丸眼鏡をかけた小柄な人物が座っていた。年齢も性別も、なんとなく判然としない、不思議な雰囲気の人物だった。

「やあ、いらっしゃい。田中稔さん、ですね」

「あ、はい。……あなたが、コーディさんですか」

「そうです。マイキーの"記録係"、とでも言いましょうか」

コーディは机の上に置かれた一冊の古いノートを、ぱらぱらとめくった。

「マイキーがあなたに何も教えなかった"本当の目的"について、少しだけお話ししましょう」

「お願いします」

稔は身を乗り出した。

「マイキーは生前、あるとても大切な人に、伝えたかった言葉があったんです。でも、彼は結局、それを言えないまま、この世を去ってしまった」

「大切な人、というと……もしかして、ブリーさんのことですか」

「いいえ」

コーディは静かに首を振った。

「もっと、彼のすぐ近くにいた人物です。……名前は、今はまだ、あなたには言えません。ただ、ヒントは残しておきましょう」

コーディはノートを一枚破り取り、稔に手渡した。そこには、こう書かれていた。

「リハーサル室、鏡の裏、あの夜だけ弾かれなかったピアノの下」

「これは……?」

「あなたが次にあの時代へ戻った時、そこを探してみてください。きっと、マイキーが本当に取り戻したかったものの、手がかりが見つかるはずです」

「わかりました。……あの、コーディさん」

「なんでしょう」

「なぜ、マイキーさんご本人は、ご自分の口で、その大切な人に伝えられなかったんですか」

コーディは少しの間、黙り込んだ。

「それは……あなた自身が、その答えを見つけた時に、きっとわかりますよ」

そう言って、コーディは眼鏡の奥で、ふっと優しく目を細めた。


第十一章 もう一度、あの時代へ

真っ白な空間に戻ると、マイキーが待っていた。

「話は聞いたね」

「ええ、大体は。……マイキーさん、あなたには、伝えられなかった大切な言葉があったんですね」

マイキーは何も答えず、ただ微笑むだけだった。

「もう一度、あの時代に行かせてください。今度は、ちゃんと目的を持って」

「いいだろう」

マイキーは頷いた。

「ただし、今度はグラスタワーを壊さないようにね」

「善処します」

稔は苦笑いした。

「それと、稔」

マイキーの声が、少しだけ改まった調子になった。

「今回のことで、一つだけ、僕の本音を言っておくよ」

「はい」

「僕は、ずっと後悔していたんだ。何もかもが華やかだったあの時代の裏側で、本当に大切なことを、一つだけ、言い忘れたまま終わってしまったってね。……キミになら、それを託せる気がしたんだ」

「なぜ、私に?」

「キミが、"特別ではない、普通の初老"だからだよ」

マイキーは、失礼だったはずのその言葉を、今度はまるで最大級の褒め言葉のように口にした。

「特別な人間には、案外、本当に大切な言葉って、届けられないものなんだ。……さあ、行っておいで」

再び、光の亀裂が稔の視界を包み込んだ。

そして目を開けたとき、稔は――誰もいない、静まり返ったリハーサル室に立っていた。

鏡には、あの見慣れたマイキーの姿が映っている。だが今度は、下心も気負いもなく、稔はまっすぐに、その鏡の奥へと歩み寄っていった。


第十二章 見当違いの手がかり探し

「リハーサル室、鏡の裏、あの夜だけ弾かれなかったピアノの下」

コーディにもらったメモを片手に、稔は勇んで会場中を歩き回った。だが、いざ探し始めてみると、この時代のリハーサル室というのが、一つや二つではないことに気づく。

「鏡がある部屋、って言ったって、ここ、鏡だらけじゃないか……」

ダンススタジオ、楽屋の姿見、化粧室の三面鏡。稔は一つ一つ、律儀に鏡の裏側を覗き込んでいったが、そこにあるのは埃と、忘れ去られた古い付け髭だけだった。

「ピアノの下……ピアノなんて、何台あるんだ、まったく」

ステージ用のグランドピアノ、練習用のアップライトピアノ、控室に置かれた電子キーボードまで含めれば、軽く十台は下らない。稔は蜘蛛の巣だらけの舞台裏を這いずり回り、そのたびにスタッフたちから怪訝な目で見られた。

「ミスター・J、何をなさっているんですか」

「いや、その、探し物を」

「ネズミでも出ましたか?」

「いえ、そういうわけでは……」

しどろもどろになりながら、稔はふと、あるアップライトピアノの下に、小さな鍵のようなものが挟まっているのを見つけた。

「あった!」

期待に胸を膨らませて拾い上げると、それはただの、誰かの部屋の合鍵だった。

「はぁ……違うのか」

肩を落としながら、稔はもう何時間も歩き回っていることに気づいた。この時代の身体はいくら若くて丈夫とはいえ、さすがに空腹と疲労がじわじわと押し寄せてくる。

「ちょっと、休憩しよう……」

くたびれ果てて廊下の椅子に腰を下ろした稔の目の前を、ふと、見覚えのある白髪の人物が通り過ぎた。あの照明機材を黙々と点検していた老人――トムだった。

(そうか。彼が、いつもいる場所……)

そこまで考えて、稔はハッと閃いた。トムが日頃出入りする場所と言えば、決まって特定のリハーサル室だ。他のスタッフたちとは違い、いつも一人で黙々と機材の準備をしている、あの静かな部屋。

「そうか、"あの夜だけ弾かれなかったピアノ"というのは、あの部屋の……」

稔は疲れも忘れて立ち上がり、真っ直ぐに、最初に訪れたあの静かなリハーサル室へと向かった。


第十三章 リハーサル室の秘密

リハーサル室は、しんと静まり返っていた。壁一面の鏡、隅に置かれたグランドピアノ、床には養生テープで貼られたフォーメーションの目印。稔は、コーディにもらったメモを取り出し、もう一度読み返した。

「リハーサル室、鏡の裏、あの夜だけ弾かれなかったピアノの下……」

鏡の裏、というのは比喩なのだろうか。稔は鏡張りの壁に手を這わせてみたが、特に何も見つからない。次にピアノの下に潜り込んでみることにした。六十三年分の身体だったら到底無理な体勢だが、今の身体は驚くほど柔軟に動いてくれる。

ピアノの底板の裏に、テープで貼り付けられた小さな封筒があった。

「あった……!」

震える手で封を開けると、中には一本の古びたカセットテープと、一枚のメモが入っていた。メモには、若い頃のマイキーらしい丸みを帯びた字で、こう書かれていた。

「トムへ。いつも、ありがとう。これを、伝えなきゃと思いながら、結局言えないまま何年も経ってしまった。今度こそ」

そこで文章は途切れていた。

「トム……?」

稔には、その名前に心当たりがなかった。だが、リハーサル室の隅に置かれた古い椅子――そこに、名札のようなものが貼られていることに、ふと気づいた。

「TOM — STAGE CREW」


第十四章 本当の頼みごと

「トム、というのは、裏方のスタッフさんか」

稔はカセットテープを手に、リハーサル室を出た。廊下の奥、機材倉庫の前で、一人の白髪の老人が黙々と照明機材を点検しているのが見えた。長年この現場を支えてきたのだろう、その手つきには年季が感じられた。

「あの、すみません」

稔が声をかけると、老人――トムは驚いた様子で振り返った。

「ミスター・J? こんな時間にどうされました。もうリハーサルは終わりましたよ」

「いえ、その……少し、お伺いしたいことがありまして」

稔は手にしたカセットテープを差し出した。

「これ、ご存知ですか」

トムはテープを一目見るなり、目を見開いた。

「これは……もしかして、あなたが昔、私に何か録音するとおっしゃっていた……」

「昔から、あなたに何か伝えようとしていたようなんです。私――いや、僕は」

稔は言葉を選びながら、慎重に続けた。

「あなたに、ちゃんと"ありがとう"を伝えられていなかったんじゃないか、と思って」

トムは、しばらく黙り込んでいた。長年裏方として、決して表舞台には出ないその立場で、彼はいったいどれほどの時間、スターの成功を陰から支え続けてきたのだろう。

「ミスター・J……いえ、マイキー」

トムの声が、少し震えていた。

「私は別に、お礼なんて期待して、この仕事をしてきたわけじゃありません。ただ、あなたの音楽が好きで、あなたのステージが誇らしくて、それだけで、十分でした」

「それでも」

稔は――そしてその中に眠るマイキーの想いは――強く首を振った。

「それでも、伝えたかったんです。あなたがいなければ、僕は僕でいられなかった。忙しさにかまけて、ずっと言えないままでいたことを、今さらですが、後悔しているんです」


第十五章 代わりに、伝える

「トムさん」

稔は深く頭を下げた。もはやそれは、マイキーの身振りというよりも、稔自身の――何十年も、感謝の言葉を胸にしまい込んだまま生きてきた、一人の日本人男性の、心からの所作だった。

「本当に、ありがとうございました。あなたのような方が、陰で支えてくれていたから、彼は――僕は、輝いていられたんです」

トムは目に涙を浮かべながら、小さく笑った。

「変な言い方をしますね、まるで、あなた自身が本人じゃないみたいに」

「あはは……それは、まあ、いろいろありまして」

稔は誤魔化すように笑った。

「でも、ありがとう。今、その言葉を聞けて、本当に良かった」

トムはそう言うと、稔の――いや、マイキーの手を、両手でしっかりと握りしめた。その温かさに、稔は不覚にも胸が熱くなるのを感じた。

その瞬間、リハーサル室の照明が、ふっと柔らかく明滅した。まるで、長年閉じ込められていた何かが、ようやく解き放たれたかのように。

「――ありがとう、稔」

耳元で、マイキーの声がした。今度は寂しさの色はなく、ただ穏やかな安堵だけがそこにあった。

「僕の代わりに、伝えてくれて」

「いえ……こちらこそ、貴重な経験をさせていただきました」

「そろそろ、時間だ。キミを、キミの世界に帰さなくちゃいけない」

「え、もう……ですか」

もっとこの時代にいたい、という未練が、稔の胸をちくりと刺した。だが同時に、不思議な満足感もあった。まるで、長年つかえていた何かが、すとんと胸から下りたような。

「大丈夫、キミの人生にも、まだ"言えていないこと"が残っているんじゃないかい?」

マイキーの声に、稔は思わず言葉を詰まらせた。

視界が、再び白い光に包まれていく。


第十六章 それぞれの夜

トムとの一件のあと、稔がふらふらとテラスに戻ると、まだそこにはデイヴとメイ、そしてブリーが残っていた。

「あら、マイキー、どこ行ってたの? ずっと捜してたのよ」

ブリーが駆け寄ってくる。稔は少し照れくさそうに、事の次第――といっても、本当のことは話せないので、当たり障りのない範囲で――説明した。

「トムに、ちゃんとお礼を言いに行っていたんです」

「トムに?」

デイヴが意外そうな顔をした。

「あの裏方の? ……そうか。あいつ、もう十五年もお前のツアーに付き合ってるもんな」

「そんなに長く……」

稔は改めて、トムという人物の存在の大きさを思い知らされた。

「私たちもね」

メイが柔らかく微笑んだ。

「若い頃、随分と支えてもらったものよ。名前も知らないような裏方さんに、何度助けられたか分からない」

「その人たちに、ちゃんとお礼、言えましたか」

稔が思わず尋ねると、メイは少し困ったように笑った。

「どうかしらね。伝えたつもりでも、本当に伝わっていたかどうかは、分からないものよ」

その言葉が、稔の胸に静かに染み込んでいった。

ブリーが、稔の隣にちょこんと腰掛けた。

「ねえ、マイキー。今日のあなた、なんだかいつもと違うね。……悪い意味じゃなくて」

「そうですか?」

「うん。いつもは、もっとこう……遠くを見てるみたいな目をしてるのに、今日は、ちゃんとここにいる、って感じがする」

稔は、その言葉に何と答えていいか分からず、ただ静かに微笑んだ。

夜空には、満天の星が輝いていた。稔はふと、この時代の空気を、この光景を、できるだけ長く記憶に焼き付けておきたいと思った。

「なあ、マイキー」

デイヴが、稔の肩に手を置いた。

「お前、たまにでいいから、こうやって肩の力を抜いてみろよ。伝説だの、スターだのって肩書きは、たまには脱いだっていいんだ」

「……はい」

稔は素直に頷いた。その言葉は、きっと稔自身にも、そして本来のマイキーにも、同じくらい必要な言葉だったのかもしれない。

風が優しく吹き抜け、テラスのランタンがゆらゆらと揺れていた。稔は、この束の間の平穏な時間を、心ゆくまで味わっていた。

――そして、その静けさの中で、稔の意識は再び、あの真っ白な空間へと引き戻されていくのだった。


第十七章 エピローグ:目覚め

「……あなた? ちょっと、あなたったら」

肩を揺すられる感触で、稔は目を覚ました。

見慣れたリビングの天井、こたつの天板、テレビの砂嵐――いや、テレビはとっくに消えていて、和子が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。

「こんなところで寝ちゃって、風邪ひくわよ。もう、いい歳なんだから」

「あ……和子」

稔は自分の手を見た。染みの浮いた、皺だらけの、見慣れた六十三歳の手。それを見て、稔はなぜだかひどく安堵した。

「今、何時?」

「もう夜中の一時よ。誕生日くらい、ちゃんとベッドで寝てちょうだいな」

「そうか……夢だったのか」

呟きながら、稔はふと、こたつの天板の上に、見覚えのない小さな紙切れが置かれていることに気づいた。手に取ってみると、そこには丸みを帯びた字で、こう書かれていた。

「ありがとう、稔。楽しかったよ」

「これは……」

稔は思わず声を漏らした。夢にしては、あまりにも生々しい。

「あなた、何ぶつぶつ言ってるの」

「いや、なんでもない……いや、和子」

稔は、こたつのテーブルに手をついて、居住まいを正した。

「なに、急に改まって」

「三十五年間、ずっと言いそびれてたことがあるんだ」

和子は、少し驚いた顔をした。

「ありがとう。……今まで、ずっと」

「なによ、藪から棒に」

和子は照れたように笑いながら、そっぽを向いた。だがその口元は、まんざらでもなさそうに緩んでいた。

「ところで」

稔は紙切れを大事にポケットにしまいながら、ふと考えた。

――僕になったマイキーは、あの間、いったい何をしたかったのだろうか。

トムへの感謝は、確かに伝えた。だが、あの真っ白な空間で、最後にマイキーが見せた、あの寂しそうな笑顔の奥に、まだ何か別の想いが残っていたような気がしてならない。

そっちが知りたくて、稔はもう一度、目を閉じてみた。

けれど、もう二度と、あの光の空間には辿り着けなかった。ただ、隣で寝息を立てる和子の温かさだけが、確かにそこにあった。

その日の昼過ぎ、稔は書斎の引き出しから、埃をかぶった住所録を取り出した。ページをめくり、次男・健二の携帯番号を見つける。

指が、少しだけ震えた。

「……いや、なに、大した用事があるわけじゃないんだが」

そう独り言をつぶやきながら、稔は発信ボタンを押した。呼び出し音が三回鳴ったところで、電話は繋がった。

「もしもし? 父さん? どうしたの、珍しい」

健二の声には、明らかな驚きが滲んでいた。

「いや、その……別に、用事があるわけじゃないんだが」

稔は言葉に詰まりながら、それでも続けた。

「元気にしてるかと思ってな。それだけだ」

電話の向こうで、健二がしばらく黙り込んだ。

「……うん、元気だよ。父さんも?」

「ああ、こっちも変わりない」

他愛のない会話が、ぽつりぽつりと続いた。仕事のこと、天気のこと、近所の話。特別なことは何一つ話していない。それでも、電話を切る間際、稔は思い切って口にした。

「健二」

「なに?」

「今まで、あまりちゃんと話す時間を作れなくて、悪かったな。……お前のこと、いつも気にかけてたんだぞ」

電話の向こうで、健二が小さく息を呑む気配がした。

「……なんだよ、急に。柄にもない」

そう言いながらも、その声は、どこか嬉しそうに震えているように、稔には聞こえた。

「今度、盆にでも帰ってきたらどうだ。和子も、喜ぶと思うぞ」

「うん……考えてみるよ。父さんも、身体、大事にしてね」

電話を切ったあと、稔はしばらく、受話器を握りしめたまま、動けずにいた。

たったこれだけのことが、なぜ、三十八年もの間、できなかったのだろう。

窓の外に目をやると、夏の午後の光が、庭の紫陽花をやわらかく照らしていた。稔の頬には、自分でも気づかぬうちに、一筋の涙が伝っていた。それは寂しさの涙ではなく、どこか清々しい、安堵の涙だった。

翌朝。

稔が寝室で目を覚ますと、枕元に置いていたはずの古いラジカセから、聞き覚えのないメロディが小さく流れていた。電源など入れた覚えもないのに。

首をかしげながら耳を澄ますと、それは、若い頃に一度だけ深夜のラジオで聴いた、あの伝説のミュージシャン夫婦、デイヴ&メイの、めったに流れることのない幻の一曲だった。

稔は、思わず頬が緩むのを感じた。

「まったく……最後まで、食えない人だ」

窓の外では、六十四回目の夏に向けて、朝の光が眩しく差し込んでいた。

――了――


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あとがき
書き終えて、最初に思い浮かんだのは、自分の父のことでした。
父は商社マンではありませんでしたが、やはり口数の少ない人で、感謝や心配を言葉にするのがひどく下手でした。私がこの物語の稔のように、電話の前で何度もためらったことがあったことを思い出します。
物語の中のトムという人物は、創作です。しかし、どの現場にも、どの家庭にも、必ずいるはずの人です。光の当たらない場所で、誰かの人生をずっと支え続けてきた人。その人に、ちゃんとありがとうと言えただろうか。書いている間、ずっと自分自身に問いかけていました。
タイトルの「セイ・セイ・セイ」は、あの伝説的なデュエット曲からお借りしました。Say、つまり「言え」。何度も繰り返してようやく届く言葉がある、という祈りのような気持ちを込めています。
拙い物語ですが、あなたの心の中にも、まだ伝えられていない誰かの顔が浮かんだなら、とても嬉しく思います。