別巻 探し物レター 

〜水鏡夜話〜


まえがき
私たちは人生の中で、一体どれほどの時間を「探し物」に費やしているのでしょうか。失くした鍵、どこかへ置いた眼鏡、若い頃に追い求めた夢、そして、もう二度と会えない大切な誰かの面影。
この物語は、愛しい存在を見送った一人の老人が、ある静かな夜に体験した不思議な再会の記録です。けれどこの町には、彼と同じように「探し物」をした人々の、もうひとつの記憶も眠っていました。哀しみは消え去るものではありませんが、形を変えて私たちの行く手を照らす光になってくれる。そんな祈りを込めて、この物語を綴りました。どうぞ、あたたかいお飲み物でも片手に、ゆっくりとお楽しみください。





一 庭先で聞いた話
人生の三分の一は眠りに費やされるのだという。ならば残りの三分の一もまた、何かを探すことに費やされているのではないか。そう考えたのは、七十を過ぎた頃の私だった。
鍵。眼鏡。もう若くはない身体で、毎朝どこかへ行ってしまった小さなものたちを探す。若い頃は仕事を探し、伴侶を探し、住む場所を探した。子どもが独り立ちしてからは、これからの生き方そのものを探していた気がする。人は生涯、何かを探し続ける生き物なのかもしれない。
けれど今の私が探しているのは、たったひとつだけだ。
ぱふ。
十六年前、庭先に迷い込んできた灰色の子猫だった。段ボール箱の中でぬいぐるみのように丸くなっていたその子に、妻が「まるでパフケーキみたいね」と笑って、そのまま名前になった。ぱふは物静かで、けれど気まぐれで、夜になるといつも私の書斎の窓辺に座り、庭の暗闇をじっと見つめていた。何を見ているのと聞いても、もちろん答えは返ってこない。ただ、月の光を受けた金色の瞳だけが、こちらを見透かすように光っていた。
妻が先に逝き、それから三年後にぱふも旅立った。眠るように、静かに。私は書斎の窓辺にあの子の毛布をそのまま残し、朝になるとまだそこに丸まっているような気がして、つい声をかけてしまう。
「おはよう、ぱふ」
返事がないことにも、もう慣れたはずだった。
そんなある日、向かいに住む未亡人の田渕さんが、垣根越しに声をかけてきた。
「最近、この辺りで妙な話をよく聞くんですよ」
彼女の飼っていた老犬も、半年前に亡くなったばかりだった。田渕さんは声をひそめて言った。夜になると、この一帯の庭先に「季節外れの温い風」が吹く夜があり、その晩に限って、亡くなったはずのペットの姿を見たという人が何人もいるのだと。
「うちの奥の坂本さんもね、去年死んだ猫を見たんですって。追いかけたら、庭の先に見たこともない小道があったって言うのよ」
「それで、どうなったんです」
田渕さんは首を振った。
「わからないの。坂本さん、それから引っ越してしまって。誰も行き先を知らないのよ」
私は笑ってごまかしたが、その夜から、書斎の窓の外がやけに気にかかるようになった。


二 古い言い伝え
気になって、私は近所の小さな稲荷社を訪ねてみることにした。子どもの頃から変わらぬ、苔むした鳥居の奥にある小さな社だ。そこには代々、社を守っているという老女がいた。名前は知らない。町の人々は「宮司さん」とだけ呼んでいた。
「探し物、ですか」
事情を話すと、宮司さんは驚く様子もなくそう呟いた。
「この土地には昔から、そういう夜があります。大切なものを亡くした人のところにだけ現れる、小さな道」
「本当にあるのですか、そんなものが」
「ありますよ。けれど――」
宮司さんは私の目をじっと見た。皺だらけの顔に、どこか痛ましい光が浮かんでいた。
「その道を最後まで辿った人が、みな無事に戻ってきたわけではありません。三十年ほど前にも、奥さんを亡くした男性が、夢の中で彼女を追いかけて、そのまま道に迷い込んでしまわれた。見つかったのは三日後、村はずれの井戸のそばで、放心したまま座り込んでいたそうです。それからその方は、二度と誰のことも――ご自分の子どもたちのことさえも――思い出せなくなってしまわれた」
背筋が冷えた。
「その道には、決まりがあるのです」宮司さんは続けた。「一つ、水鏡に映るものに触れてはいけない。二つ、名を呼んではいけない。呼べば、そのものは驚いて向こうへ帰ってしまう。そして三つ――もし引き返せなくなったときは、決して自分から水に足を踏み入れてはいけない。それは、生者の踏み込む場所ではないから」
「なぜ、そんな道があるのでしょう」
宮司さんは静かに微笑んだ。
「悲しみが深すぎると、この世とあの世の境目が、ほんの少しだけ薄くなるのだと、私は思っております。それは怖いものではありません。ただ、扱いを間違えれば、痛みを二重に背負うことになる」
私は礼を言って社を後にしたが、その夜以来、庭先の暗闇がいつもと違って見えるようになっていた。


三 消えた人々
田渕さんの話も、宮司さんの話も、頭から離れなかった。私は図書館で古い町史を借り、坂本さんという名を探した。三十年前の欄外に、小さな記事があった。「行方不明中の男性、三日後に発見。心身に著しい衰弱」――名前は伏せられていたが、日付は宮司さんの語った話と符合した。
もう一つ、気になる記述があった。同じ地区で、数年おきに似たような「失踪と発見」が繰り返されているというのだ。多くは高齢者で、大切な家族やペットを亡くした直後の人々だった。ある者は無事に戻り、ある者は戻っても以前とは別人のようになった。そしてごく稀に――本当にごく稀に――「まるで長い旅から帰ってきたように、穏やかな顔で戻ってきた」者もいたという。
その違いはどこにあるのか。町史は何も語っていなかった。
私は毛布の前に座り、ぱふの写真を眺めながら考えた。もし本当に、あの子がもう一度姿を見せに来てくれるのだとしたら。私はきっと、追わずにはいられないだろう。宮司さんの警告を思い出しながらも、心のどこかで、その夜が来ることを望んでいる自分がいた。


四 招かれざる夜
その夜、私はいつものように書斎でまどろんでいた。窓の外では、季節外れの生ぬるい風が庭木を揺らしている。田渕さんの言っていた、あの風だ。
ふと、頬に柔らかいものが触れた気がして目を開けると、窓辺に小さな灰色の影が座っていた。
ぱふだった。あの、初めて出会った日の小さな姿のまま。
「戻ってきたのか」
声をかけると、影はゆっくりとこちらを振り向いた。金色の瞳が、記憶の中とまったく同じ光を宿していた。ぱふは鳴かない。ただ、じっと私を見つめている。そして、するりと窓の隙間から外へ滑り出た。
私は杖も持たず、寝間着のまま庭へ飛び出した。夢だとわかっていた。わかっていたけれど、宮司さんの言葉を握りしめるようにして、追わずにはいられなかった。


五 小径の奥
庭の先には、見覚えのない小径が続いていた。両脇には見たこともない花、昼にも夜にも見える不思議な光を放つ花が咲き乱れ、その間をぱふの尻尾が見え隠れしながら進んでいく。
道の途中、私は幾つかの人影を見た。それは動かず、ただ道の脇に佇んでいた。よく見ると、それは人の形をした、白い霧のようなものだった。一つの影の足元には、古い麦わら帽子が落ちている。もう一つの影は、小さな子どもの靴を握りしめたまま、微動だにしなかった。
――名を呼んではいけない。
宮司さんの声が耳の奥で蘇った。私は震える唇を噛みしめ、声を出さぬよう堪えながら、影たちの間を足早に通り抜けた。ぱふの尻尾だけを頼りに、ひたすら前へ。
「待ってくれ、ぱふ。どこへ行くんだ」
言ってしまってから、はっとした。しかし名を呼んだわけではない。ぱふは驚いた様子もなく、こちらを振り返っただけだった。安堵で膝の力が抜けそうになった。
小径の先に、古い井戸のようなものが見えてきた。いや、井戸ではない。縁のない、丸い水鏡だった。水面には星々が映り込み、まるで夜空そのものを地面に落とし込んだかのようだった。ぱふはその縁に前足をかけ、じっと水面を覗き込んでいる。私も隣に膝をつき、水面を覗いた。触れてはいけない、と自分に言い聞かせながら。


六 水鏡の真実
映っていたのは、見知らぬ台所だった。若い夫婦が笑いながら食卓を囲んでいる。その足元に、生まれたばかりの灰色の子猫がじゃれついていた。
「これは……」
私が声を上げた瞬間、ぱふがこちらを振り返った。その目には、これまで見たことのない穏やかさが宿っていた。まるで「大丈夫だよ」とでも言うように。
水面が揺らぎ、映像が変わった。今度は、私の知っている台所だった。若い頃の妻が、生まれたばかりのぱふを抱いて笑っている。「まるでパフケーキみたいね」――あの日と同じ声が、風の中に溶けて聞こえた気がした。
妻の姿がふと顔を上げ、こちらを――水鏡のこちら側を――見たように思えた。優しく、けれど確かに、首を横に振っていた。まだ来てはいけない、と。
「探し物は、もういいのかい」
私は震える声で尋ねた。ぱふは答えない。当たり前だ、猫なのだから。けれど、その沈黙は今までのどの沈黙とも違って聞こえた。まるで、長い手紙を読み終えたあとの静けさのように。
私は水面に手を伸ばしかけ――そして止めた。宮司さんの言葉と、妻の首の動きが、同時に私を押しとどめた。触れてはいけない。呼んではいけない。ただ、見送るのだ。
ぱふはもう一度私を見上げ、それから静かに水面へと歩み出た。波紋ひとつ立てず、灰色の身体が星々の中へ溶けていく。
その瞬間だけ、私はどうしても堪えきれなかった。
「ぱふ!」
叫んだ声で、目が覚めた。


七 目覚めと、もうひとつの朝
書斎の窓辺には、いつものからっぽの毛布があるだけだった。庭には見慣れた朝の光が差し込み、鳥の声が聞こえる。すべては夢だった。そう自分に言い聞かせながら、私は毛布を畳もうと手を伸ばした。
――名を呼べば、そのものは驚いて向こうへ帰ってしまう。
宮司さんの言葉が蘇り、胸が締めつけられた。最後の最後で、私は約束を破ってしまったのだろうか。
そのとき、庭の隅で小さな鳴き声がした。
振り返ると、生垣の陰から、灰色の子猫がこちらをじっと見つめていた。金色の瞳。見覚えのある、あの光。
私はゆっくりと庭へ降り、手を差し出した。子猫は少し迷うように後ずさりしたが、やがて恐る恐る歩み寄り、私の指先に鼻先を寄せた。温かかった。
「おかえり」
声が震えた。子猫は答える代わりに、頼りなく、けれど愛おしそうに小さく喉を鳴らした。その瞳の奥に、確かに見知った光が揺れていた気がした。
後日、私は稲荷社を訪ねた。子猫のことを報告するつもりだった。しかし鳥居の奥に、社はなかった。あるのは古い切り株と、長年放置されたような瓦礫だけ。近所の人に尋ねても、「そんな社はもうずっと前になくなりましたよ」と、皆一様に不思議そうな顔をするばかりだった。
宮司さんは、いったい誰だったのだろう。今も、私にはわからない。ただ、彼女の言葉のおかげで、私は名を呼んでしまったにもかかわらず、ぱふを――否、ぱふの生まれ変わりを――こちら側へ迎え入れることができたのだと、そう信じることにしている。
人はきっと、生涯のうちに何度も何かを探す。物を探し、居場所を探し、答えを探し、そしていつか、大切な誰かをもう一度探し始める。探し物が見つかるかどうかは、誰にもわからない。けれど、探し続けることをやめない限り、きっとどこかで再び巡り合える。そんな気がしてならない。
私は今日も、書斎の窓辺に新しい毛布を敷いた。小さな灰色の来訪者のために。私は、静かに問いかける。
「今度は、何を探しに来たんだい」
答えの代わりに、温かな寝息だけが返ってきた。
窓の外では、今夜もまた、どこかの庭先で、生ぬるい風が吹いているのかもしれない。




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あとがき
身近な動物や大切な人との別れは、心にぽっかりと大きな穴をあけてしまいます。しかし、彼らが遺してくれた温もりや記憶は、決して消えることはありません。今回、物語に「もう一つの側面」――同じ悲しみを抱えながら、道を違えてしまった人々の記憶――を加えることで、あの夜の再会が奇跡であると同時に、危うさの上に成り立つものであったことを描きたいと思いました。
作中で主人公が「古い毛布」から「新しい毛布」へと敷き直したように、喪失を受け入れた先にある新しい出会いや日々の愛おしさ、そして、名を呼んでしまうほどの深い愛情そのものが、時に奇跡を手繰り寄せるのだということを表現したいと思い、この手紙のような物語を書きました。
この物語が、あなたの心にある「大切な探し物」に、そっと寄り添うものとなれば幸いです。