別巻 メビウスの輪
〜三億年の帰還 〜
まえがき
もしも、今この瞬間に世界が終わりを迎えるとしたら、私たちは最後に何を想うでしょうか。そして、その破滅を「外側」からただ見つめることしかできない人間がいたとしたら――。
本作『メビウスの輪 ― 三億年の帰還 ―』は、そんな途方もない絶望と、そこから始まる果てしない旅路の物語です。
宇宙という、静寂と暗闇が支配する極限の空間で命綱を失った主人公・天野涼。彼は死を覚悟した瞬間、時空を超える謎の船に救われます。しかし、辿り着いた先は、私たちがよく知る青い地球ではなく、人間が自らの手で滅ぼしてしまった遥か未来の姿でした。
過去と未来、表と裏が境界なくつながる「メビウスの輪」。その終わりのない円環の中で、人は運命にあらがうことができるのか。失われた大切な人への想いは、時間を超えて届くのか。
人類の歩む歴史の皮肉さと、それでも失われない微かな希望の光を、壮大なスケールで描きました。どうぞ、天野涼とともに、三億年の時を超える旅へとお出かけください。
序章 漂流
宇宙は、思っていたよりもずっと静かだった。
天野涼(あまの・りょう)は、国際宇宙ステーションの船外活動中に、命綱を失った。ハッチから出て、太陽電池パネルの修理を終え、あと少しでエアロックに戻れるというところで、テザーのカラビナが外れる音を聞いた。金属が擦れる、小さな、けれど決定的な音。
「――涼、応答しろ。涼!」
無線の向こうで、相棒の声が遠ざかっていく。涼の体は、ゆっくりと、しかし確実にステーションから離れていった。
もがいても仕方がないことは分かっていた。宇宙服の推進装置は、事故の衝撃で機能を失っている。涼にできることは、ただ流されるまま、暗闇に溶けていく地球を眺めることだけだった。
青い地球が、視界の隅でゆっくりと回転していく。あの光の中に、妻の由紀(ゆき)がいる。今頃、家で夕食の支度でもしているだろうか。まさか夫がこんな形で――と、涼は乾いた笑いを漏らした。声にはならなかった。ヘルメットの中で、自分の呼吸の音だけが響いていた。
酸素の残量を示すインジケーターが、静かに点滅している。もはやこれまでか、と涼は思った。恐怖よりも、不思議な諦観が先に来た。
そのときだった。
視界の端に、それまでなかった光が生まれた。最初は星かと思った。だが、その光は瞬く間に大きくなり、輪郭を持ち、明らかに人工的な――船の形をしていることが分かった。
光る宇宙船が、音もなく涼の目の前に現れたのだ。
涼は目を疑った。この軌道上に、自分たち以外の有人施設があるとは聞いていない。まして、こんな見たこともない流線形の船体など。
船の側面が、ゆっくりと開いた。ハッチというより、まるで生き物の瞼が開くような、滑らかな動きだった。中から漏れる光が、涼の宇宙服を淡く照らす。
「お待ちしておりました」
誰のものとも分からない声が、直接、涼の頭の中に響いた。無線ではない。もっと確かな、脳の奥に届くような声だった。
助かった――。
涼はその声にすがるように、最後の力を振り絞って手を伸ばした。
「ありがとう」
そう呟きながら、涼の体は光の中へと吸い込まれていった。
だが、乗り込んだそこは、宇宙船の中ではなかった。
見渡す限り続く、長いトンネル。壁も天井も、闇そのものでできているようだった。
そして、そのトンネルの奥から、もう一つ、別の気配が漂ってきていることに、このときの涼はまだ気づいていなかった。
第一章 闇のトンネル
宇宙服のヘルメット越しに、涼は自分の荒い呼吸を聞いていた。
足元には、歩く歩道のような、緩やかに動く床があった。それが涼の体を、奥へ奥へと運んでいく。振り返っても、入ってきたはずの光る船の姿はもうどこにもなかった。あるのは、どこまでも続く暗闇だけだった。
「これは……ブラックホールか?」
声に出してみたが、答える者はいなかった。いや――先ほどの声は、たしかに聞こえたはずだ。
「誰かいるのか」
問いかけに応じるように、頭の中に再びあの声が響いた。
「ご安心を。あなたは今、安全な領域を通過しています」
「安全な領域? ここは一体どこなんだ。あんたは誰だ」
「順を追ってご説明します。今しばらく、このまま進んでください」
涼は苛立ちを覚えたが、他にできることもなかった。宇宙服の中の酸素は、なぜか尽きる気配がない。まるで時間そのものが、この場所では違う速さで流れているかのようだった。
歩く歩道は止まることなく涼を運び続けた。どれくらいの時間が経っただろうか。体感では数分にも、数時間にも感じられた。
不意に、前方の闇の中に、小さな人影が見えた。
涼は思わず身構えた。宇宙服のような、金属質の光沢を持つ何かを纏った人影が、こちらに向かって、あるいは同じ方向へと運ばれてきている。
「そこにいるのは……人間か!?」
涼が叫ぶと、人影がびくりと肩を震わせた。
「――誰? そこにいるの?」
女性の声だった。それも、涼が聞いたことのない、けれど流暢な日本語――いや、微かにアクセントの混じった日本語だった。
歩く歩道が二人の距離を徐々に縮めていく。やがて、涼のすぐ隣まで来たその人影は、涼と同じような、しかし型式の違う宇宙服を着た女性だった。ヘルメットのバイザー越しに、警戒に満ちた目がこちらを見つめている。
「あなたは……ロシアの宇宙飛行士か?」
涼が英語で問いかけると、女性は小さく頷いた。
「ミハイロヴナ・アンナ。コスモノート。ISSのロシア区画から、船外活動中に……」
「事故か」
「ええ。あなたも?」
「ああ。天野涼。JAXAの飛行士だ」
同じ状況に置かれた者同士だと分かると、緊張がわずかに緩んだ。だが、アンナの目には、まだ拭いきれない疑念の色が残っていた。
「あなたも、あの光る船に助けられたの?」
「そうだ。あんたも?」
「ええ……。でも、妙だわ。私が助けられたのは、あなたよりも先だったはず。なのに、なぜ今、同じ場所を歩いているの?」
その指摘に、涼は違和感を覚えた。もし本当にアンナの方が先に船に乗り込んでいたのなら、涼よりも先にこのトンネルの奥へ進んでいてもおかしくない。だが、二人は今、ほぼ同じ地点で合流している。
「時間の流れが……この場所では、違うのかもしれない」
「私もそう思っていたところ」
アンナは油断なく周囲を見回しながら言った。
「一つ、聞いていい? あなたを助けたときの声――『お待ちしておりました』って言った、あの声。あなたにも、同じことを言った?」
「ああ、言われた」
「変じゃない? まるで、私たちが来ることを、最初から知っていたみたいに聞こえない?」
涼は、その言葉に、初めて明確な違和感を覚えた。単なる救助であれば、「お待ちしておりました」という言葉は不自然だ。まるで、事故そのものが、あらかじめ予期されていたかのような響きがある。
「考えすぎじゃないか。あるいは、単なる決まり文句かもしれない」
「そうだといいけれど」
アンナはそう言いながらも、納得していない様子だった。
二人を乗せた歩く歩道は、なおも暗闇の奥へと進み続けていく。やがて、前方に小さな光の点が見えてきた。
「ようやくか」
涼が呟いた、その瞬間だった。
歩く歩道が唐突に加速し、二人の体は光の点に向かって、まるで濁流に呑まれるように押し流された。
第二章 三つの太陽
気がつくと、涼とアンナは硬い地面の上に転がっていた。
慌てて身を起こし、周囲を確認する。真っ暗な世界――否、目が慣れるにつれて、それは「真っ暗」ではないことに気がついた。
夜空を見上げれば、そこには数えきれないほどの星が輝いていた。黒い夜空の面積よりも、星の光のほうが多いのではないかと思えるほどの密度だった。
「なんて……綺麗なの」
アンナが、思わずといった様子で呟いた。宇宙飛行士として何度も宇宙から星を見てきたはずの彼女でさえ、言葉を失うほどの光景だった。
「なるほど……。かつて地球からも、これほどの星が見えていたのか」
大気汚染も、光害もなかった時代。人類がまだ、夜空を独占していなかった時代。涼はヘルメットのバイザー越しに、その光景にしばし見入っていた。
空気を確認しようと計器を見ると、驚いたことに、この星の大気は人間が呼吸できる組成をしていた。恐る恐るヘルメットを外してみる。冷たく澄んだ空気が、肺の奥まで染み渡った。アンナも同じように、慎重にヘルメットを外した。
「地球ではないと思う?」
アンナが問いかけた。
「分からない。だが、少なくとも、俺たちの知る地球とは違う場所だ」
やがて、夜が明け始めた。
地平線の向こうから、太陽が昇ってくる。だが、その太陽は――赤かった。
しかも、そのスピードは尋常ではなかった。昇ったかと思うと、あっという間に中天を過ぎ、みるみるうちに沈んでいく。まるで早送りの映像を見ているようだった。
「な……」
涼が言葉を失っている間に、再び太陽が昇り始めた。
だが、今度は黄色い太陽だった。
さっきの赤い太陽とは明らかに違う。同じように瞬く間に空を駆け抜け、沈んでいく。
そして三度目、今度は青い太陽が昇ってきた。
「三つの太陽……」アンナが呆然と呟いた。「三重連星系。理論上は存在しうるとされていたけれど、まさか、実際にこの目で見ることになるなんて」
赤、黄、青。まるで信号機のように規則正しく繰り返されるその光景に、涼は理解した。
「この星は……三つの太陽を持つ星なのか」
三重連星系。SF小説の中でしか読んだことのない設定が、今、目の前で現実として展開されている。涼は呆然としながらも、宇宙飛行士としての観察眼で、その光景を記憶に刻みつけようとしていた。
――ここはいったい、どこなのだろう。
そう思っていたとき、涼の足元、数メートル先の地面に、突然、穴が開いた。
土がまるで水のように渦を巻き、地面に円形の穴が現れる。
アンナが咄嗟に涼の腕を掴み、後ろに引いた。
「危ない!」
穴から、何かが顔を出した。
第三章 残響体
穴から現れたのは、人の形をしているようで、そうでないようでもある、奇妙な生命体だった。
体は半透明で、向こう側の景色がうっすらと透けて見える。輪郭は人間に近いが、表情も、性別も判然としない。まるで陽炎か、水の膜でできているような姿だった。次々と、同じような姿の者たちが、地面の穴から這い出てくる。その数は、十を超えていた。
涼とアンナは、思わず後ずさった。アンナは、腰のベルトに下げていた工具――船外活動用のレンチを、無意識に握りしめていた。
「あんたたちは、一体……」
「……驚かせてしまいましたか」
その生命体――というより、複数体――のうちの一つが、涼の頭の中に直接語りかけてきた。あのトンネルで聞いた声と、どこか似ている。
「あんたたちは、一体……」
「私たちは、残響体(ざんきょうたい)と呼ばれています。かつてこの星の地上に生きていた者たちの、成れの果てです」
「地上には、今、誰もいないのか」
「地上は危険です。私たちは、地下で暮らしています」
涼は問いを重ねた。「なぜ危険なんだ。この星に、何があった」
すると、残響体の輪郭が、わずかに揺らいだ。それが彼らにとっての苦笑いなのだと、涼は後になって知ることになる。
「ここは――かつての地球です」
「……は?」
涼とアンナは同時に言葉を失った。地球? この、三つの太陽が昇る、見たこともない星が?
「信じられないのも無理はありません。ですが事実です。あなたが今立っているこの場所は、あなたの知る地球と同じ場所。同じ座標です」
「そんな馬鹿な」とアンナが割り込んだ。「地球に太陽は一つだけよ。それに、あなたたちのような生命体が地球にいたなんて、聞いたこともない」
「時間が経てば、太陽の数さえ変わります。もっとも、それはずっと先の話ですが」
残響体はそう告げると、続けて、涼たちにとってはあまりに残酷な事実を語った。
「愚かな人間たちは、核と共に滅んでしまいました」
その言葉には、明確な嘲りが含まれていた。残響体たちの輪郭が、くすくすと笑うように震える。
「核……戦争が、あったのか」
「ええ。あなたがた人類は、自らの手で自らを滅ぼしたのです。愚かにも」
アンナの顔が、みるみる青ざめていった。
「待って……アメリカとロシアの間で? それとも――」
「詳細は、私どもには関与のないことです」
冷淡なその返答に、アンナは唇を噛んだ。彼女の祖国が、あるいはその対立国が、この破滅に関わっていたのかもしれない。その可能性が、彼女の心に重くのしかかっているのが、涼にも分かった。
「待ってくれ。ということは、あのトンネルは……」
「お察しの通り。あれは、時間そのものを通過する道――タイムトンネルです」
涼は、めまいを覚えた。自分は今、未来の地球に、それも人類が滅んだ後の地球に立っているというのか。
「すべては、お前たちの責任だ」
残響体の声が、初めて明確な怒気を帯びた。周囲に集まっていた他の残響体たちも、同調するように輪郭を波打たせる。
「それは……すまん」
涼は、思わず謝罪の言葉を口にしていた。
だが、そのとき、群れの奥から、一体だけ、他とは異なる反応を示す残響体がいることに、涼は気づいた。
その個体は、輪郭がわずかに濃く、他の残響体たちよりも安定した形を保っていた。そして、怒りに震える仲間たちから一歩離れた位置で、涼とアンナを、何かを観察するような、値踏みするような視線――輪郭のない顔のどこにそんな感情が宿るのか分からなかったが、涼は確かにそう感じた――で見つめていた。
その個体は、何も言わなかった。ただ、じっと二人を見つめ続けていた。
第四章 ヨミとカゲ
「お前は宇宙にいて、ここにはいなかったのか」
残響体の一体が、涼に問いかけた。
「え?」
「お前は、この星の――地球の破滅を、その目で見ていない。ずっと宇宙にいたはずだ。ならば、お前にとっての『今』と、この星の『今』との間には、途方もない時間差があるはずだ」
涼は、はっとした。宇宙飛行士なら誰でも知っている。国際宇宙ステーションのような低軌道であれば、時間の遅れはごくわずかだ。だが、あの光る船、そしてタイムトンネル――もし、あれが本当に時間そのものを渡る装置だったとしたら。
「俺が宇宙にいた一日は……地球では、一体何年になるんだ」
その問いに答えたのは、それまで沈黙していた、ひときわ大きな残響体だった。他の個体よりも輪郭がはっきりとしており、どこか威厳のようなものすら感じさせた。
「私はヨミ。この共同体をまとめる者です」
「ヨミ……」
「天野涼。そして、ミハイロヴナ・アンナ。あなたがたの名も、私たちは知っています。あなたがたが乗っていたステーションの記録は、地下の書庫に、わずかながら残されていますから」
涼とアンナは驚いた。人類の文明が、この生命体たちのもとに、何らかの形で継承されているということか。
「なら教えてくれ。俺たちがいなくなった後、地球で何が起きた」
ヨミは、しばらく沈黙した後、静かに語り始めた。
「詳細な経緯までは、私たちにも分かりません。ただ、記録によれば、あなたがたが宇宙に取り残されてから程なくして、複数の国家間で緊張が高まり、核兵器が使用されたとあります。最初の一発が、次の一発を呼び、それが連鎖しました」
「そんな……」アンナが両手で口を覆った。
「人類は滅びました。ですが、すべてが失われたわけではありません。地上に残れなかった一部の者たちが、地下深くに逃れ、世代を重ねるうちに、今のこの姿になりました。それが、私たち残響体です」
「あんたたちは……人間の成れの果てなのか」
「そう呼びたければ、そう呼んでいただいて構いません」
そのとき、群れの奥から、先ほど涼が気になった、あの輪郭の濃い残響体が、静かに前に進み出た。
「ヨミ様。この者たちを、そのまま解放してもよろしいのですか」
その声は、他の残響体たちのものより、どこか鋭く、冷たかった。
ヨミの輪郭が、わずかに緊張したように見えた。
「カゲ。まだ何も決まってはいません」
「しかし、この者たちは人間です。私たちを――私たちの祖先を、この姿に変えた元凶の同族です。信用に値するとは思えません」
カゲと呼ばれたその個体は、涼とアンナに向き直った。
「お前たちは、なぜ助けられたと思う? ヨミ様の慈悲か? それとも――」
「カゲ、それ以上は」
ヨミが鋭く制した。カゲは、それ以上言葉を続けなかったが、その視線は、涼たちに何か不穏なものを感じさせるのに十分だった。
涼は、アンナと目を見交わした。彼女の目にも、同じ警戒の色が浮かんでいた。
「なぜ俺たちを、ここに連れてきた」とうとう涼が問うた。
ヨミの輪郭が、わずかに揺れた。
「あなたがたには、選ぶ権利があります」
「選ぶ? 何を」
「あなたがたは、この時代における『選ばれた生き残り』です。人類の中で唯一、この破滅の瞬間を、外側から――宇宙という特異点から――生き延びた存在。私たちのシステムは、そういう存在を見つけ出し、救済する仕組みになっています」
「システム? あの光る船も、このトンネルも、お前たちが作ったものなのか」
「いいえ。あれは、私たちの祖先――まだ人類が科学の頂点にあった時代に開発された、時間航行技術の名残です。私たちには、その全容を理解することはできません。ただ、受け継がれた機能を使うことができるだけです」
その説明の最中も、カゲの視線は涼たちから離れなかった。まるで、ヨミの言葉の裏に何かを探ろうとするかのように。
涼は、自分が今、途方もなく大きな物語の中に――そして、この共同体の内部に横たわる、何か複雑な対立の中に――放り込まれていることを理解し始めていた。
第五章 夜襲
その夜――というより、三つ目の太陽が沈み、再び赤い太陽が昇るまでの束の間の暗闇――涼とアンナは、残響体たちに案内され、地下の居住区へと連れて行かれた。
地下空間は、涼が想像していたよりもはるかに広大だった。かつての地下鉄のトンネルを思わせる通路が、無数に張り巡らされ、その壁面には、淡く発光する苔のようなものが生息し、ぼんやりとした明かりを灯していた。
「まるで、迷路ね」
アンナが、通路の複雑さに眉をひそめながら呟いた。
ヨミの案内で、二人は小さな一室――かつての人類が「休憩室」と呼んだであろう空間に通された。
「今夜はここでお休みください。明日、あらためて、あなたがたの今後について話し合いましょう」
ヨミがそう言い残し、他の残響体たちと共に去っていった。
部屋に二人きりになると、アンナが小声で言った。
「涼、あのカゲという者、信用できないと思う」
「俺もそう思う。ヨミとの間に、何か対立があるみたいだった」
「この共同体、一枚岩じゃないのかもしれない」
そのとき、通路の奥から、複数の足音――というより、何かが滑るような気配が近づいてくるのを、涼は感じ取った。
「アンナ、静かに」
涼は、部屋の入り口に近づき、外の様子を窺った。
薄闇の中、通路の向こうに、複数の残響体の輪郭が見えた。先頭に立っているのは、間違いなくカゲだった。
「――どういうことだ」
涼は身を隠しながら、聞き耳を立てた。
「ヨミ様は甘い。人間を信用するなど、愚の骨頂だ」カゲの声が、他の同調者らしき残響体たちに向けて響いた。「奴らを生かしておけば、いずれまた同じ過ちを繰り返す。ならば、今のうちに――」
「まさか」
アンナが息を呑んだ。
「奴らを、時の狭間に消してしまえばいい。誰にも知られることなく」
涼とアンナは、顔を見合わせた。逃げなければならない。だが、この迷路のような地下空間で、どこへ逃げればいいのか、見当もつかなかった。
「涼、どうする」
「……行くしかない」
涼は、部屋の反対側にあった、もう一つの通路を指さした。カゲたちが来た方向とは、逆の道だ。
二人は、足音を殺しながら、暗い通路を進み始めた。だが、迷路のような地下空間は、すぐに二人の方向感覚を奪った。
「こっちよ、多分」
「いや、待て、さっきの分岐は――」
背後から、カゲの声が響いた。
「奴らがいない! 探せ!」
二人は、もはや躊躇している場合ではないと悟り、闇雲に走り出した。
通路は、複雑に枝分かれし、時に急な下り坂となり、時に狭い隙間となって二人を苦しめた。宇宙服のブーツが、地下水で濡れた床を何度も滑らせる。
「涼、あそこ!」
アンナが指さした先に、微かな光が見えた。通路の出口かもしれない。
二人は、その光を目指して駆けた。だが、行く手を塞ぐように、三体の残響体が、暗闇の中から姿を現した。
「逃がさない」
冷たい声が、涼の頭の中に響いた。
第六章 ヨミの真意
行く手を塞がれた涼とアンナは、背中合わせになって、迫りくる残響体たちを警戒した。
「アンナ、何か武器は」
「レンチだけよ。こんなもの、通用するかどうか……」
半透明の体を持つ残響体たちに、物理的な武器が効くのかどうかも分からない。涼は、絶望的な状況に、それでも思考を巡らせ続けた。
「お前たちは、ここで終わりだ」
三体の残響体が、じりじりと距離を詰めてくる。その輪郭が、まるで威嚇するように、大きく波打っていた。
そのときだった。
「そこまでです」
凛とした声が、通路に響き渡った。
振り返ると、ヨミが、他の複数の残響体を従えて、そこに立っていた。カゲも、その少し後ろに控えていたが、その輪郭には、明らかな動揺の色が見えた。
「ヨミ様……」
三体の残響体が、慌てて後ずさった。
「カゲ。これは、どういうことですか」
ヨミの声は、静かだったが、有無を言わせぬ力があった。
カゲは、一瞬たじろいだものの、すぐに反論を口にした。
「ヨミ様。我々の同胞は、この者たちの祖先によって、この姿にされたのですよ。にもかかわらず、あなたはこの者たちを歓待しようとしている。それが、私には理解できません」
「歓待しているわけではありません。彼らに、選択の機会を与えようとしているだけです」
「選択などという生易しいものが、我々の怒りを晴らすとでも?」
カゲの輪郭が、激しく波打った。それは、深い怒りの表れだった。
「私の――私たちの家族は、地上に取り残されたまま、放射線の中で死んでいきました。地下に逃げ延びることさえできなかった者たちが、無数にいたのです。それを、あなたは忘れたのですか、ヨミ様」
その言葉に、ヨミの輪郭も、わずかに揺れた。
「忘れてはいません。ですが、目の前のこの二人が、その罪を背負う理由にはなりません。彼らは、破滅の瞬間、宇宙にいた。彼らの手に、この星を滅ぼした責任はない」
「屁理屈だ! 人間という種族全体に、責任があるのです!」
カゲの怒声が、地下空間に反響した。
涼は、その言葉の重さを、痛いほど感じていた。自分は確かに、あの核戦争を引き起こした張本人ではない。だが、同じ人類として、その罪から完全に無関係でいられるとも思えなかった。
「カゲ」
ヨミが、静かに、しかし決然と告げた。
「あなたの怒りは、理解できます。私も、同じ痛みを抱えています。ですが、私たちがこの二人を害すれば、私たちもまた、かつての人類と同じ過ちを繰り返すことになる。憎しみの連鎖を、私たちの代で断ち切らなければならない」
カゲは、しばらく無言でヨミを見つめていたが、やがて、輪郭を大きく震わせると、踵を返した。
「……好きになさるがいい。だが、ヨミ様。あなたの甘さが、いつか私たちの共同体を滅ぼすことになる。それだけは、忘れないでいただきたい」
そう言い残し、カゲは同調者たちを引き連れて、暗闇の奥へと消えていった。
ヨミは、その後ろ姿を見送りながら、静かに息を――彼らに肺があるのかどうかは分からなかったが――吐いた。
「怖い思いをさせてしまいましたね。申し訳ありません」
「いや……助かった。ありがとう」
涼は、心底からの感謝を込めて言った。アンナも、緊張が解けたのか、その場に座り込みそうになるのを、涼が支えた。
「カゲの言うことにも、一理あるのです」
ヨミが、静かに続けた。
「私たちの中には、人類への憎しみを、まだ消化しきれていない者が多くいます。ですが、私は、憎しみだけでは、何も生み出せないと信じています」
涼は、ヨミの言葉に、深い覚悟のようなものを感じ取った。
「ヨミ、聞きたいことがある」
「何でしょう」
「あんたは、俺たちに『選ぶ権利がある』と言った。過去にも未来にも行けると。だが、それだけじゃないんじゃないか。あんたには、俺たちをここに連れてきた、もっと別の理由があるんじゃないのか」
ヨミの輪郭が、わずかに硬直した。その反応こそが、涼の疑念を裏付けていた。
「……鋭いですね」
ヨミは、しばしの沈黙の後、静かに言葉を続けた。
「ええ、あります。ですが、それをお話しするのは、もう少し後にさせてください。今は、あなたがたが安全に、選択をする時間が必要です」
涼とアンナは、顔を見合わせた。まだ、何かが隠されている。だが、今この瞬間、それを問い詰める余裕は、二人にはなかった。
第七章 アンナの告白
追われる恐怖から解放された二人は、ヨミの計らいで、より安全な、共同体の中枢に近い一室へと移された。
夜――というにはあまりに短い、三つの太陽の狭間の暗闇の中、涼とアンナは、並んで座り、これまでの出来事を振り返っていた。
「涼、あなたに謝らなければならないことがある」
アンナが、不意に口を開いた。
「謝る? 何を」
「さっき、カゲが言っていたこと。核戦争のこと。あれを聞いたとき、私、真っ先に思ったの。もし、これが私の国――ロシアが引き金だったとしたら、って」
アンナの声は、微かに震えていた。
「私の家族は、軍関係者が多いの。父も、兄も。もし、本当に核戦争が起きていたのだとしたら、彼らが、その最前線にいた可能性は、十分にある」
涼は、何と声をかければいいのか分からなかった。
「それに……」
アンナは、続けるべきかどうか迷うように、しばらく沈黙した。
「実を言うと、私、あなたのことを、最初は疑っていたの」
「俺を?」
「ええ。ISSでは、いろいろな緊張があった。国家間の対立が、宇宙にまで持ち込まれることも、少なくなかった。だから、あの光る船で助けられて、あなたと再会したとき――いえ、初めて出会ったとき、これは何かの罠かもしれないと思った」
涼は、驚きながらも、アンナの正直な告白に、どこか納得もしていた。宇宙という極限環境では、国籍や政治的立場が、時に人間関係に影を落とすことがある。それは、涼自身も知らないわけではなかった。
「今は?」
「今は……あなたを信じている。少なくとも、この状況では、あなたと協力する以外に、生き延びる道はないもの」
その言葉に、涼は小さく笑った。
「合理的な判断だな」
「悪い?」
「いや。悪くない」
二人は、しばし沈黙した。地下空間特有の、湿った冷たい空気が、二人の間を流れていく。
「涼、あなたには、待っている人がいるの?」
「ああ。妻が。由紀という名前だ」
「そう……」
アンナの声に、わずかな寂しさが滲んだ。
「私には、誰もいない。両親は、私が宇宙に行く前に、事故で。兄とは、疎遠になっていた。もし、この状況が本当なら――地球が本当に、核で滅んでしまったのなら、私にはもう、帰る場所すらないのかもしれない」
涼は、何か言葉をかけようとしたが、うまく言葉が見つからなかった。ただ、隣に座るアンナの肩に、そっと手を置いた。
「一人じゃない。少なくとも今は、俺がいる」
アンナは、涼の顔を見つめ、小さく頷いた。
「ありがとう」
その静かな時間の中で、二人は、単なる遭難仲間以上の、確かな絆を築き始めていた。
だが、その絆もまた、これから訪れる選択によって、試されることになる。
第八章 選択
翌朝――赤い太陽が昇る頃、ヨミが再び二人のもとを訪れた。
「お休みになれましたか」
「ああ、なんとか」
涼は、まだ拭いきれない疲労を感じながら答えた。
「では、あらためて、あなたがたの今後についてお話ししましょう」
ヨミは、静かに語り始めた。過去に戻ることも、未来に行くこともできること。ただし、近い過去に戻れば、同じ破滅を繰り返すことになるということ。
「歴史は……変えられないということか」
「小さな力では、大きな流れは変えられません。それが、私たちがこれまでに見てきた結論です」
アンナが、思い詰めた表情で尋ねた。
「もし、遠い過去に戻れば……核戦争そのものを、防ぐことはできないの?」
「原理的には、不可能ではありません。ですが――」
ヨミは、言葉を選ぶように、一度言葉を切った。
「これまでに、遠い過去へと送り出された者たちの多くは、二度と、この時代へ戻ってくることはありませんでした。彼らがどうなったのか、成功したのか失敗したのか、私たちには知る術がありません」
その言葉に、涼とアンナは息を呑んだ。
「つまり……賭けだということか」
「ええ。それも、極めて分の悪い賭けです」
涼は、考え込んだ。もし遠い過去に戻れたとしても、そこには由紀もいなければ、自分が知る文明もない。まったくの異邦人として、一からやり直すことになる。それでも――もし、そこで核戦争そのものを防ぐことができたなら。
「涼」
アンナが、涼の思考を遮るように声をかけた。
「あなた、まさか、過去に戻って、戦争を止めようなんて考えていないでしょうね」
「……可能性がゼロじゃないなら」
「無謀よ。ヨミの話を聞いていたでしょう。戻った者は、二度と帰ってこられない。それに、遠い過去に戻ったところで、あなた一人に何ができるというの」
「何もしないよりは、ましだ」
「涼」
アンナの声に、鋭さが混じった。
「あなたには、由紀さんがいるんでしょう。彼女に、もう一度会いたいとは思わないの?」
その言葉に、涼は言葉を詰まらせた。由紀の顔が、脳裏に浮かぶ。もう一度、あの温もりに触れたい。その願いは、確かに涼の中にあった。
「俺は……」
「未来へ行きましょう」
アンナが、静かに、しかし決然と言った。
「過去に戻って、賭けに出るくらいなら、この星がどう変わっていくのか、その先を見届けたい。それに――」
アンナは、涼をまっすぐに見つめた。
「もし、由紀さんに会える可能性が、ほんの少しでもあるのなら、それを捨てるべきじゃない」
涼は、アンナの言葉に、胸を打たれた。彼女自身は、帰る場所がないと言っていたはずだ。それでも、涼のために、未来を選ぶことを勧めている。
「アンナ、お前は……」
「私も、一緒に行くわ。もう、あなたと離れるつもりはない」
ヨミは、二人のやり取りを静かに見守っていたが、やがて口を開いた。
「では、未来へお連れしましょう。ただし――」
ヨミの声に、微かな緊張が混じった。
「一つ、お伝えしなければならないことがあります。この選択をする前に、知っておいていただきたい」
「何だ」
「あの光る船――時間航行を可能にするあの技術には、実は、まだ誰にも語られていない、もう一つの目的があります」
涼とアンナは、顔を見合わせた。ついに、ヨミが隠していた「もう一つの理由」が、語られようとしていた。
第九章 案内人の目的
「あの船を動かしているのは、私たち残響体ではありません」
ヨミが、静かに切り出した。
「では、誰が……」
「案内人と呼ばれる存在です。かつて、人類が生み出した知性体系の末裔。私たち残響体が、肉体を持つ末裔だとすれば、案内人は、記録と知識を継承する、いわば意識だけの末裔です」
「AIのようなものか」
「近いかもしれません。ただし、案内人には、私たち残響体にも制御できない、独自の意志があります」
ヨミの声に、微かな警戒の色が滲んだ。
「案内人は、これまでにも、多くの『選ばれた生き残り』を、過去や未来へと送り出してきました。その目的について、案内人自身は、『破滅を回避する可能性を探るため』だと説明しています。ですが……」
「ですが?」
「私たちの中には、その説明を、完全には信じていない者もいます」
涼は、緊張を覚えた。「どういうことだ」
「送り出された者たちの記録を辿ると、ある共通点が見えてくるのです。過去に送られた者たちの多くは、まるで示し合わせたかのように、特定の時代――核戦争が起きる直前の、ごく短い期間に、集中して送り込まれています」
「それは……」
「まるで、案内人が、特定の歴史の分岐点に、何度も何度も、人を送り込んでいるかのようです。単なる救済であれば、これほど特定の時代に集中する理由がありません」
アンナが、鋭く尋ねた。「案内人は、何を狙っているというの?」
「分かりません。ですが、私の推測では――案内人は、歴史そのものを、少しずつ書き換えようとしているのではないかと思っています。何度も何度も、繰り返し試行することで、いつか、破滅を回避できる『正しい歴史』に辿り着こうとしている」
その言葉に、涼は背筋が冷たくなるのを感じた。
「もしそうなら、俺たちも、その実験の一部だということか」
「可能性としては、否定できません」
ヨミは、申し訳なさそうに輪郭を揺らした。
「それでも、私は、あなたがたに未来へ行くことを勧めます。過去に送られた者たちの末路が分からない以上、少なくとも未来であれば、あなたがた自身の意志で、その先の行動を選ぶことができるはずです」
涼とアンナは、しばし沈黙した。案内人という存在の、底知れない目的。それを完全に理解しないまま、その力を借りることへの不安。
「ヨミ、一つ聞かせてくれ」と涼。「あんたは、なぜそこまで、俺たちのことを気にかけてくれるんだ」
ヨミの輪郭が、わずかに揺らいだ。それは、深い感情の表れのように、涼には見えた。
「……私にも、かつて、家族がいました。地上に取り残され、二度と会うことのなかった家族が」
ヨミの声に、初めて、明確な悲しみの色が滲んだ。
「あなたがたを見ていると、その家族のことを思い出すのです。もし、あの日、誰かが手を差し伸べてくれていたなら――そう思わずにはいられません」
涼とアンナは、ヨミの言葉に、深い共感を覚えた。
「分かった。未来へ、連れて行ってくれ。案内人の目的が何であれ、俺たちは俺たち自身の意志で、この先を選ぶ」
涼の言葉に、ヨミは、静かに頷いた――ように見えた。
「では、平和な時代へとお連れしましょう」
ヨミがそう告げると、周囲に集まっていた残響体たちが、一斉に何かを唱え始めた。声にならない、けれど確かに空気を震わせる響き。
そして、涼たちの頭上の夜空――赤い太陽と黄色い太陽の狭間の暗闇に、再びあの光る船が姿を現した。
第十章 三億年の飛翔
待つことなく、光る船は瞬く間に涼たちの目の前まで近づいてきた。まばたきをする間もなく、気がつけば涼とアンナは、船内の椅子に腰掛けていた。
椅子は、まるで二人の体に合わせて作られたかのように、しっくりと馴染んだ。
「では」
頭の中に、再びあの声が響いた。ヨミの声とも、最初にトンネルで聞いた声とも、どこか違う――もっと機械的で、しかしどこか温かみのある声だった。これが、案内人か。涼は、緊張を新たにした。
「三億年ほど先へ」
その言葉と同時に、船は一瞬にして飛び立った。
船内に、窓はなかった。その代わり、正面の壁一面に、掲示板のような発光体が広がっていた。そこには、無数の数字と記号が、猛烈な速さで流れていく。
「案内人」
涼は、思い切って呼びかけた。
「はい、天野涼」
「ヨミから聞いた。あんたは、過去に人を送り込んで、歴史を書き換えようとしているのか」
船内に、一瞬の沈黙が流れた。
「……ヨミは、鋭い観察眼を持っていますね」
案内人の声は、否定しなかった。
「肯定するのか」
「私の目的は、単純です。この星の破滅を防ぐこと。そのために、あらゆる可能性を試してきました。過去への介入も、その一環です」
「俺たちも、その『可能性』の一つだということか」
「そう言われても、否定はできません。ですが――」
案内人の声が、わずかに変化した。それは、涼には、どこか懇願するような響きに聞こえた。
「私には、他に方法がないのです。何百回、何千回と、過去に人を送り込んできました。ですが、いまだに、破滅を回避する歴史には辿り着けていません」
「何百回……?」
アンナが、驚愕の声を上げた。
「そんなに多くの人間を、犠牲にしてきたということ?」
「犠牲、という言葉が正しいかどうかは分かりません。彼らの多くは、過去の時代で、それぞれの人生を生きました。ある者は、歴史に埋もれ、ある者は、わずかながら歴史に影響を与えました。ですが、大きな流れを変えるには至りませんでした」
涼は、言葉を失った。無数の人間たちが、この案内人の「実験」のために、時間の中に送り込まれ、そして、大きな流れを変えることなく、それぞれの結末を迎えていった。
「なぜ、そこまでする」
「私は、この星の――かつての人類の、最後の願いを託された存在だからです」
案内人の声が、静かに、しかし強い意志を込めて響いた。
「破滅の直前、ある研究者が、この技術を完成させました。彼女は、自らの命と引き換えに、私にすべての知識を託しました。『いつか、この過ちを繰り返さない未来を、見つけ出してほしい』と」
涼は、その言葉に、案内人の――そして、その研究者の、深い悲願を感じ取った。単なる実験や、非情な操作ではない。そこには、切実な願いがあったのだ。
「その研究者は……」
「名前は、記録に残っていません。ただ、彼女が最後に遺した言葉だけが、私の中枢に刻まれています」
「何て?」
「『輪は、断ち切れないかもしれない。だが、輪の形を知る者が増えれば、いつか、その輪から抜け出す道が見つかるはずだ』」
その言葉に、涼は、あのメビウスの輪のイメージを思い出した。終わりのない、繋ぎ目のない輪。だが、その輪の形を知ることが、あるいは、そこから抜け出す第一歩になるのかもしれない。
「俺たちを未来に送るのも、その一環なのか」
「はい。過去への介入が、これまでうまくいかなかった以上、私は別のアプローチを試そうとしています。未来を見た者が、その記憶を持って、再び過去に――あるいは、別の分岐点に立つことができれば、何かが変わるかもしれない」
アンナが、警戒するように尋ねた。
「つまり、私たちも、いずれは、また別の時代に送り込まれるということ?」
「それは、あなたがた自身の選択に委ねます。私には、あなたがたを強制する権利はありません」
船内の掲示板の数字が、猛烈な速度で流れ続けていた。百年が、一瞬で過ぎ去っていく。千年が、瞬きの間に流れていく。
涼は、窓のない壁を見つめながら、静かに、しかし確かな決意を固めていた。
――たとえ、この案内人の「実験」の一部だとしても。今の自分にできることを、探してみよう。
掲示板の数字が、ふいに減速し始めた。
「まもなく到着します」
案内人の声が、そう告げた。
第十一章 帰還した地球
船体が、静かに振動を止めた。
「到着しました」
案内人の声とともに、船のドアが音もなく開いた。
涼とアンナは、緊張しながら外に足を踏み出した。三億年後の地球――一体、どんな光景が広がっているのか、想像もつかなかった。荒れ果てた大地か、それとも見たこともない生命体に満ちた密林か。
だが、目の前に広がっていたのは――拍子抜けするほど、見慣れた光景だった。
アスファルトの道路。立ち並ぶビル。行き交う車。空にはうっすらと雲がかかり、遠くに看板の明かりが灯っている。
「これは……」
涼は言葉を失った。
「これは、現代の日本ですよね」
思わず、涼は案内人に問いかけた。
「はい。厳密に言えば、あなたの知る『現代の日本』と極めて似通った時代の、極めて似通った場所です」
「似通った? どういうことだ。三億年経ったんじゃないのか」
案内人は、少し間を置いてから答えた。
「時代は繰り返し巡っているのです」
アンナが、困惑した様子で周囲を見回した。目の前には、コンビニエンスストアの明かりが灯り、遠くを走る電車の音まで聞こえてくる。三億年前――いや、涼にとっての「元の時代」と、寸分違わぬように見える光景。
「まさか、俺は……元の時代に戻ってきたのか?」
「いいえ。あなたは確かに、三億年の未来に来ています。ただ、文明というものは、ある一定の周期で、似たような姿を繰り返す傾向があるのです。人類が一度目の頂点を築き、核の炎で自らを滅ぼした後、地球はゆっくりと回復し、新たな知的生命――あるいは、生き残った人類の末裔――が、再び文明を築き上げました。そして、その文明は、あなたが去った時代の文明と、驚くほど似た発展を遂げたのです」
涼は、目の前の光景を、まじまじと見つめた。よく見れば、看板の文字も、行き交う人々の服装も、微妙に違う部分がある。だが、大枠としての「日本らしさ」は、確かにそこにあった。
「歴史は繰り返す、ということか」
「ほら」
案内人が、そう言うと、涼の視界に、突然、光の映像が投影された。それは、宇宙全体を俯瞰するような、壮大な図だった。銀河が渦を巻き、星々が生まれては消えていく。その中に、一本の帯のような光の筋が浮かび上がった。
その帯は、ねじれながら、輪になっていた。
表側をたどっていくと、いつのまにか裏側に、そして裏側をたどっていくと、いつのまにか表側に戻ってくる――終わりのない、一つの面でできた輪。
「これは……メビウスの輪」
涼は、思わず声を漏らした。
そうだ。あの、子供の頃、理科の授業で作った、あの奇妙な帯。表と裏の区別がなくなる、不思議な輪。
宇宙もまた、そうなのだと言うのだろうか。文明が生まれ、滅び、また生まれる。過去と未来が、まるでメビウスの輪のように、繋ぎ目のないまま、ぐるりと一周してしまう。
「この文明も……いずれは、また同じように核で滅びるということ?」
アンナが、震える声で問うた。
「その可能性は、否定できません」
案内人が、静かに答えた。
そのとき、涼たちの背後で、何かが動く気配がした。振り返ると、船のドアの陰から、見覚えのある輪郭が、ゆっくりと姿を現した。
「カゲ……!?」
半透明の輪郭。冷たい視線。間違いなく、あの残響体だった。
「よくもまあ、のんびりと、こんなところまで辿り着いたものだ」
カゲの声には、あの地下空間で聞いたときよりも、さらに深い怒りが滲んでいた。
第十二章 カゲの真実
「なぜ……お前がここに」
涼は、警戒しながら問うた。まさか、あのタイムトンネルを、カゲも追ってきたというのか。
「私にも、あの船を呼ぶ権利くらいはある。この共同体の、古参の一人としてな」
カゲは、ゆっくりと二人に近づきながら、続けた。
「ヨミ様が、お前たちを未来に送ると聞いて、私は決めた。この目で、お前たち人間が、どんな未来を選ぶのか、見届けてやろうと」
「見届ける、だけなのか?」
アンナが、鋭く問い返した。カゲの輪郭が、わずかに揺らいだ。
「……いや。正直に言おう。私は、お前たちが、この平和そうな時代で、のうのうと生き延びることを、良しとしない」
カゲの声に、抑えきれない憎悪が滲んでいた。
「私の家族は、地上に取り残され、苦しみながら死んでいった。お前たちの祖先が引き起こした戦争のせいで。それなのに、お前たちだけが、こうして時を超えて、新しい人生を手に入れる。それが、許せるはずがないだろう!」
カゲの体が、突如として大きく膨張し、その輪郭が、まるで刃物のように鋭く尖った形へと変化した。
「カゲ、待て!」
涼が叫んだが、カゲは止まらなかった。
「お前たち人間は、何度でも、同じ過ちを繰り返す。ならば、いっそ、ここで――」
そのとき、案内人の声が、鋭く響いた。
「カゲ、それ以上の行動は、私が許可しません」
船の周囲に、突如として、光の障壁のようなものが展開された。カゲの体が、その障壁に阻まれ、弾き返される。
「案内人……! 貴様、人間の味方をするのか!」
「私は、どちらの味方でもありません。ただ、無用な争いを、これ以上見過ごすことはできないだけです」
カゲは、障壁に阻まれながらも、なおも涼たちを睨みつけていた。その輪郭には、深い、癒えることのない哀しみと怒りが、渦巻いているようだった。
涼は、その様子を見て、ふと、心の奥底から、ある思いが湧き上がってくるのを感じた。
「カゲ」
涼は、静かに、しかしはっきりとした声で呼びかけた。
「お前の怒りは、当然のものだと思う。俺たちの祖先が、お前たちの家族を殺したことに、変わりはない。それを、俺は否定しない」
カゲの動きが、わずかに止まった。
「だが、俺は、その罪を、なかったことにするつもりはない。もし、俺にできることがあるなら――お前たちの怒りを、これ以上、誰かにぶつけさせない未来を、探したい」
「綺麗事を……!」
「綺麗事かもしれない。それでも、俺は、由紀に――俺の妻に、そしてこの世界に生きる、これから生まれてくる子供たちに、誇れる選択をしたい」
涼の言葉に、カゲの輪郭が、大きく波打った。それは、怒りとも、哀しみとも、あるいは別の何かとも取れる、複雑な揺らぎだった。
長い沈黙の後、カゲは、静かに輪郭を戻し、元の人型に近い姿に戻った。
「……お前の言葉が、真実かどうか、私には分からない。だが」
カゲは、涼を見つめながら、続けた。
「もし、お前が、本当にこの輪を断ち切る道を見つけたなら――そのときは、私のところにも、教えに来い。地下の同胞たちにも、伝えたい」
そう言い残すと、カゲの体は、光の粒子となって、静かに宙に溶けていった。地下へと、あるいは、元の時代へと戻っていったのだろう。
涼とアンナは、しばし、その場に立ち尽くしていた。
「……終わったの?」
「分からない。だが、少なくとも、今は」
案内人の声が、静かに響いた。
「よい判断でした、涼。憎しみに、憎しみで応えなかったことは、小さくとも、確かな一歩です」
第十三章 メビウスの輪の先に
騒動が収まった後、涼とアンナは、あらためて、目の前に広がる「現代の日本」を見つめた。
「案内人」と涼が呼びかけた。「俺たちは、これから、どうすればいい」
「それは、あなたがた自身が決めることです。ただ、一つだけ、お伝えしておきたいことがあります」
案内人の声が、静かに続けた。
「この時代は、あなたがたの知る時代と、極めて似ています。ですが、完全に同じではありません。もし、あなたがたがこの時代に留まり、いずれ訪れるかもしれない破滅を、この時代の人々に――あるいは、この時代を生きる中で出会う誰かに――伝えることができれば」
「歴史が、変わるかもしれないということか」
「保証はできません。ですが、可能性はゼロではありません」
涼は、目の前の見慣れた、しかしどこか違う街並みを見つめた。ここにも、由紀のような誰かがいるのかもしれない。ここにも、何も知らずに日々を過ごす、無数の人々がいるのかもしれない。
「アンナ、お前はどうしたい」
涼が問うと、アンナは、しばらく考え込んだ後、静かに答えた。
「私は……この時代で、生きてみたい。帰る場所がないのなら、ここで、新しい人生を始めてみる。それに」
アンナは、涼を見つめた。
「もし、少しでも、この星の未来を変える手助けができるなら、そのために生きてみたい」
涼は、アンナの決意に、深く頷いた。
「俺は――」
言いかけたところで、涼の視界が、ふいに揺らいだ。
まるで、水面に映った景色が、波紋によって崩れていくように。光る街並みも、隣に立つアンナの気配も、少しずつ薄れていく。
「これは……?」
「時間です」
案内人の声が、遠くから聞こえるように響いた。
「あなたの意識が、元の場所へと戻ろうとしています。あなたの肉体は、今も、あなたが去った時代――事故の直後の時間軸に、留まったままなのです」
「待ってくれ、アンナは――」
「彼女の運命は、彼女自身が選びます」
「涼!」
アンナの声が、遠くから聞こえた。
「大丈夫、行って。由紀さんのところへ」
「アンナ、お前は――」
「私は、ここに残る。この時代で、できることを探してみる。あなたは、あなたの時代で、できることを探して」
涼は、何かを言おうとしたが、景色はすでに、渦を巻くように歪み、涼の意識は、光の奔流の中へと吸い込まれていった。
その最後の瞬間、涼の脳裏に、あのメビウスの輪の映像が、もう一度、鮮明に浮かび上がった。
表をたどれば、裏に至る。裏をたどれば、表に至る。過去は未来に繋がり、未来は過去に繋がる。
――なるほど。そういうことか。
涼は、そう思った。
輪の形を知る者が増えれば、いつか、その輪から抜け出す道が見つかる。案内人が語った、名もなき研究者の言葉が、涼の中で、確かな意味を持って響いていた。
自分は、今、その輪の形を知った。そして、アンナもまた、別の場所で、同じ輪の形を知っている。
一人ではない。
その事実が、涼に、不思議な安堵をもたらした。
終章 目覚め
「――さん! 天野さん、聞こえますか!」
誰かの声が、涼を呼んでいた。
まぶたを開けると、そこは白い天井だった。消毒液の匂い。規則正しい機械音。涼は、自分がベッドに横たわっていることに気がついた。
「気がついた……! 先生、彼、目を覚ましました!」
聞き覚えのある声。振り向くと、目に涙を浮かべた由紀の顔があった。
「由紀……?」
「よかった……本当に、よかった……!」
由紀が、涼の手を強く握りしめる。その温もりが、確かに現実のものだと、涼に教えてくれた。
医師の説明によれば、涼は船外活動中の事故で意識を失い、緊急帰還したソユーズ宇宙船で地球に搬送されたのだという。幸い、命に別状はなく、数日間の昏睡状態を経て、今、意識を取り戻したところだった。
「事故……そうか、俺は……」
涼は、混乱する頭の中で、記憶を整理しようとした。命綱が外れたこと。光る船が現れたこと。長いトンネル。アンナとの出会い。三つの太陽が昇る星。半透明の残響体たち。ヨミという名の、この共同体をまとめる者。カゲとの対立と、和解。そして、三億年後の――繰り返す文明。メビウスの輪。
あれは、夢だったのだろうか。それとも――。
涼は、傍らの由紀を見つめた。彼女は、涼が意識を失っている間、ずっと病室に付き添ってくれていたのだという。
「涼、うなされてたよ。ずっと、何か喋ってた」
「何て言ってた?」
「よく聞き取れなかったけど……『三億年』とか、『メビウスの輪』とか。それに――アンナ、って、何度も」
涼は、体を震わせた。あの旅の記憶が、単なる昏睡状態が見せた夢だとは、どうしても思えなかった。あまりにも鮮明で、あまりにも、確かな手触りがあった。
「アンナって、誰なの?」
由紀が、少し不安そうに尋ねた。
「ロシアの……コスモノートだ。俺と同じように、事故に遭ったはずの」
涼は、看護師に頼んで、事故の詳細な記録を見せてもらった。だが、そこには、涼以外の宇宙飛行士が事故に遭ったという記録は、どこにもなかった。ISSのロシア区画に、ミハイロヴナ・アンナという名の飛行士が搭乗していた記録すら、見当たらなかった。
「そんな……」
涼は、言葉を失った。アンナは、本当に存在したのか。それとも、涼の意識が生み出した、幻だったのか。
だが、涼の脳裏には、はっきりと、アンナの声が残っていた。「大丈夫、行って。由紀さんのところへ」――あの、最後の言葉が。
窓の外に目をやると、地球の――本物の、平和な地球の空が広がっていた。青く、澄み渡った空。そこに、あの三つの太陽の記憶が重なる。
いつか、この空もまた、あの赤茶けた大地に変わる日が来るのだろうか。それとも――。
涼は、由紀の手を握り返しながら、静かに目を閉じた。
まだ何も終わってはいない。むしろ、ここから始まるのかもしれない。
どこからか、あの声が、もう一度聞こえた気がした。
「2026年は、世の中が大きく変わる。備えよ」
涼は、目を開けた。
窓の外には、変わらぬ地球の空が広がっていた。だが涼の中には、確かに一つの決意が芽生えていた。
――もう一度、あのメビウスの輪を、この目で確かめに行こう。
いつか、この輪を断ち切る方法を、見つけ出すために。
そして、いつか、遠い未来のあの街で、アンナと再会できる日が来ることを、涼は静かに願っていた。
数日後、退院した涼のもとに、一通の匿名の手紙が届いた。差出人の名前はなかった。ただ、一枚の便箋に、こう記されていた。
「輪の形を知る者が増えれば、いつか、その輪から抜け出す道が見つかる。――A」
涼は、その手紙を、大切に手帳へと挟み込んだ。
(了)
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あとがき
本作のテーマである「メビウスの輪」は、表をたどっていけばいつの間にか裏になり、裏をたどれば表に戻るという、不思議な構造を持っています。私たちの歴史や文明、そして人間関係もまた、このような目に見えない輪の中で繰り返されているのではないか――そんな一風変わった思考実験から、この物語は生まれました。
作中で主人公の涼は、過酷な未来を目撃しながらも、決して絶望に押しつぶされることなく、目の前の対話を選びました。そしてロシアの宇宙飛行士・アンナもまた、自分の新しい運命を切り開くために未来に残りました。彼らが知った「輪の形」は、小さな一歩かもしれませんが、繰り返される悲劇を断ち切るための大いなる鍵となるはずです。
作中の案内人が遺した「2026年は、世の中が大きく変わる」という言葉。私たちが生きるこの現代もまた、さまざまな選択を迫られる分岐点にあるのかもしれません。読者の皆様の心に、涼やアンナの決意が少しでも残ったなら、とても嬉しく思います。
2026年7月

