メビウスの輪
〜星は落ちてこない〜
まえがき
「もし、宇宙の果てで一人きりになったら、人は何を想うのだろう」
そんな素朴な空想から、この物語は生まれました。
私たちは日々、目の前の日常が永遠に続くかのように生きています。しかし宇宙のスケールから見れば、人類の歴史などほんの一瞬の火花に過ぎないのかもしれません。過去と未来、絶望と希望、そして親子の絆。それらが一本の帯のようにねじれ、繋がっているとしたら。
宇宙の静寂と、三億年の時間を巡る旅。高瀬慎一郎という一人の不器用な男の目を通じて、ほんのひととき、壮大な時間の旅をお楽しみいただければ幸いです。
それでは、幕を開けます。
第一部
第一章 外れたワイヤー
真空には音がない、というのは正確ではない。
自分の呼吸の音、心臓の鼓動、宇宙服の内側でこすれる化繊の摩擦音。外側の宇宙が沈黙するぶん、内側の音がやたらと大きく響く。まるで体そのものが小さな地球になったみたいだと、高瀬慎一郎は思った。
彼は日本の民間宇宙開発企業〈オルフェウス・スペースワークス〉に所属する船外活動技師だった。四十二歳。妻とは五年前に別れた。娘には月に一度、地上の管制センター経由で映像メッセージを送っている。もう届いていないかもしれないと、ときどき思う。
その日、慎一郎は軌道上ステーション〈ラビリンス3〉の外壁で、通信アンテナの姿勢制御装置を交換していた。地上で数え切れないほど繰り返した手順だった。工具を握る指の感覚、命綱の張り具合、太陽光が金属を焼く角度。どれも慣れ親しんだ景色のはずだった。
だから、ワイヤーが外れた瞬間、彼はすぐには理解できなかった。
腰のあたりで、こつんと軽い衝撃が走った。空気のない真空では音は響かない。だが、宇宙服の金具から彼の骨を伝って、直接脳を揺らしたその振動は、ヘルメットの内側で不気味なほどはっきりと音として認識された。
次に、体がふわりと浮いた。いや、浮いたのではない。押し出されたのだ。地球という重力の井戸から、宇宙の真っ黒な口へと。
「嘘だろ」
呟いた声が、ヘルメットの内側で虚しくこもった。
命綱が外れていた。
予備のフックも、なぜか金具ごと根元から消え去っていた。
慎一郎の背後で、ステーションはゆっくりと、しかし確実に遠ざかっていく。銀色の巨大なプラモデルが、少しずつ手のひらのサイズに縮んでいく。
通信ボタンを押した。ノイズが返ってきた。もう一度押した。やはり、ざらついた砂嵐の音だけだった。地上との中継衛星は、いま地球の反対側にいるはずだった。彼は正確に、宇宙で最も孤独になれる時間帯を選んで放り出されていた。
もはや、これまでか。
不思議と、恐怖はすぐには来なかった。
最初に来たのは、諦めに似た冷たい静けさだった。
次に、娘の顔が浮かんだ。四歳のとき、彼の膝の上で「星は何でおちてこないの」と聞いた娘。彼女ももう十七歳だ。
「星は落ちてこないんじゃないんだよ」と、そのとき彼は答えた。「ずっと落ちつづけてるだけなんだ。落ちながら、横にも進んでるから、地面にぶつからないだけ」
いま、自分がまさにそうだった。
落ちつづけている。ただし、横に進んでいる保証はどこにもなかった。
彼は目を閉じた。無駄な酸素を使わないよう、呼吸を整えようとした。だが、酸素残量の警告音が、耳の奥でピピ、ピピと小さく鳴り始めていた。
そのときだった。
まぶたの裏側が、ふいに青白く光った。
第二章 光る船
目を開けると、それは、そこに在った。
宇宙船と呼んでいいのかどうか、慎一郎には分からなかった。形は、滑らかな涙滴に似ていた。だが表面には継ぎ目がなく、金属とも樹脂ともつかない、乳白色の光を内側から放っている。大きさは、彼が知るどんな建造物よりも巨大に思えたが、宇宙空間においては距離もサイズも意味を失う。ただ、それは圧倒的な質量で近いと感じられた。
そんな船が、いつのまに現れたのか、彼には分からなかった。
真っ暗な虚空に、まるで最初からそこに置かれていた石のように、静かに浮かんでいた。
「なんだ、これは」
慎一郎の呼吸が浅くなった。酸素警告のブザーが、遠い場所で狂ったように鳴っている。
船の側面、ちょうど彼の視線の高さで、白い光の線が縦に走った。線は左右に割れ、扉になった。音もなく。ただ、暗闇の中に光が広がっていくように。
そして、声がした。
『お待ちしておりました』
日本語だった。
イヤホン越しではなかった。
ヘルメットの内側でもなかった。
頭の中に、直接置かれた声だった。声というより、意味の塊がそのまま日本語の形をとって脳内に浮かんだ、というほうが近かった。
慎一郎は、口を開けた。何か言おうとした。だが、恐怖よりも先に、疲労と強烈な安堵が押し寄せた。
助かった。
助かったのか、俺は。
理屈より先に、体が動いた。両腕を伸ばし、宇宙服の姿勢制御スラスターをほんの少し噴かせ、彼はその光る船へと近づいていった。距離感がおかしかった。すぐそこにあるようで、いつまでも届かない気もした。だが、気がつくと、彼はその光る扉の縁に手をかけていた。
「ありがとう」と、彼はかすれた声で言った。「本当に、ありがとう」
扉の内側は、まぶしい白ではなかった。
むしろ、深い黒だった。
奥へ、奥へと続く、長い長い、底のないトンネルだった。
第三章 トンネル
床はあった。
少なくとも、足を下ろすと、そこには確かに床の感触があった。だが、視覚的には、足元もまた完全な虚無だった。上も下も、左右も、すべて同じ黒。ただ、彼の宇宙服のブーツの底だけが、何か柔らかい、ゴムのような、しかしゴムではない不思議な弾力に触れていた。
宇宙船の内部というにはあまりにも広すぎ、建物の廊下というにはあまりにも果てが見えなかった。
そして、彼は動いていた。
自分では一歩も歩いていない。
床が、あるいは床のような不可視の力が、彼を奥へ、奥へと運んでいた。
「動く歩道か、これは」
彼はつぶやいた。声は、吸い込まれるように黒に消えた。反響しなかった。
音が反響しないということが、これほどまでに不気味だとは知らなかった。
しばらく進むと、彼は自分のヘルメットが、いつの間にか外れていることに気づいた。
外れていたというより、最初から無かったかのように消えていた。
宇宙服も、なかった。
彼は、地上で着ていた白いシャツと、灰色のスラックスに戻っていた。娘と最後にまともな食事をした日と、まったく同じ服だった。
「なんで」
恐怖はまだ来なかった。
恐怖の代わりに、暴力的なほどのなつかしさが胸を刺した。それが、いっそう、こわかった。
奥の暗闇に、小さな点のような光が見えた。
最初は星かと思った。だが、それは徐々に大きくなり、輪郭を持ち、純白の円になった。
ブラックホールという言葉が、頭をよぎった。
だが、ブラックホールに光は無いはずだ。
なら、これは、ホワイトホールか。
考える暇はなかった。
光は一気に膨らみ、彼を呑み、そして激しく押し流した。
一瞬、体という感覚が消えた。
高瀬慎一郎という名前も、輪郭も消えた。
だが、意識だけは、ひどく澄んだまま、そこに残っていた。
まるで、意識だけが、宇宙という水槽の水そのものに、溶けて一体化してしまったかのようだった。
第四章 三つの太陽
気がつくと、彼は立っていた。
足の下には、乾いた土のような、しかしどこか金属質な、ざらついた感触の地面があった。
空はないと最初は思った。
だが、それはないのではなく、あまりにも黒すぎるのだった。
「夜か」
そう呟いてから、彼は空を見上げ、完全に息を呑んだ。
星が多すぎた。
彼は宇宙飛行士として、地球の外から星を見たことがある人間だ。大気の揺らぎに邪魔されない星空を知っている。それでも、いま彼の頭上に広がっている光景は、そのどれとも違った。
黒い部分よりも、光っている点のほうが、圧倒的に多い。
つまり、夜空の面積の半分以上が、星の光で埋め尽くされていた。
「かつて、地球からも、こんな風に見えていたのか」
自分でも、なぜそんな言葉が口から出たのか、分からなかった。だが、それは正しい問いのような気がした。太古、大気汚染も光害も無かった頃、地上に立っていた人間は、こういう空を見上げていたのかもしれない。あるいはと、彼は思った。これから先、人が完全にいなくなったあとの地球も、また、こういう空を持つのかもしれない。
星々を眺めているうちに、東の空が赤くにじみ始めた。
夜明けだと彼は直感した。
太陽が昇った。
赤かった。
熟れすぎた果実のような、深い、重い赤だった。
そして、異常に速かった。
昇ったと思う間もなく、それは天頂を過ぎ、反対側の地平線に沈んだ。数分、いや、体感としては数十秒だった。
「なんだ、これ」
彼はめまいに襲われ、よろけた。地面に手をついた。
すると、また空が明るくなり始めた。今度はまったく違う方角からだった。
昇ってきたのは、黄色い太陽だった。
彼が地球で見慣れていた色に、いちばん近かった。だが、それもまた、あっという間に天を駆け抜けて沈んだ。
そして、間髪入れずに青い太陽が昇った。
真昼の空をそのまま濃縮して固めたような、澄んだ青だった。日光というより、深い海の底から差し込む光に似ていた。それまで赤茶けていた大地が一瞬で深い群青に染まり、青い太陽の下では、彼の手のひらすら、見たこともないほど濃い、青みがかった影を落とした。
「信号かよ、まったく」
彼は笑った。笑うしかなかった。
赤、黄、青。三つの太陽が、順番に、まるで交通信号のように、この星を照らしている。
ここは、三重連星系だ。
三つの恒星のまわりを、この星が回っている。
いや、正確には、三つの恒星が複雑に絡み合う軌道の内側に、この惑星が捕らえられている。
そう理解した瞬間、彼はもう一つの決定的なことに気づいた。
足の下の、この乾いた大地の匂いを、彼は知っている。
「嘘だろ」
土の匂いだった。
宇宙のどこか未知の惑星ではなく、彼が生まれ育ったあの惑星の、雨上がりの匂いそのものだった。
第五章 半透明の住人
穴は、突然、目の前に現れた。
正確には、最初からそこにあったのに、光の変化のせいで彼が気づかなかっただけかもしれない。地面が丸く落ち込み、直径一メートルほどの黒い口が、ぽっかりと開いていた。縁は、彼が触れたことのない、けれど不思議と懐かしい、滑らかな素材でできていた。
その穴から、それは、すうっと顔を出した。
半透明の、小さな体だった。
形は言葉にしづらかった。子どもの姿にも見えたし、両生類の胎児にも見えた。輪郭が常にゆらいでいて、まるで、そこに実在することをためらっているように見えた。頭の位置と思われるところに、二つの、静かな光の点があった。それが、目なのだろう。
『客人ですね』
声は、また、頭の中に直接置かれた。感情の色がなかった。だが、敵意もなかった。
「あなたたちは、誰ですか」
彼は膝をついた。相手の目線に合わせるためだった。宇宙飛行士としての、というより、父親としての反射だった。かつて娘と話すときの姿勢だった。
『名は、無いのです。個体を区別する必要が、あまりありません』
「ここは、どこなんですか。あの、三つの太陽は」
『三つの太陽は、昔から三つでした。あなたが、居なかっただけです』
彼は、その言葉の意味を、すぐには掴めなかった。
『地上は危険です』と、半透明の存在は続けた。『私たちは、地下で暮らしています。地上に長く立っていられるのは、あなたのような客人だけです』
「危険って、放射能ですか」
『あなたたちは、そう呼んでいましたね』
あなたたち。
その言葉の冷たさが、慎一郎の背筋を撫でた。
「ここは、いったい」
半透明の存在は、少し間を置いた。それは、ためらいではなく、彼の言語に適したふさわしい言葉を選び出している時間のように思えた。
そして、静かにこう言った。
『ここは、かつて、地球と呼ばれていた星です』
慎一郎は、指一本すら身じろぎできなかった。
三つの太陽が、彼を三方向から同時に照らしている気がした。実際にはそんなことは起きていない。ただ、時間そのものが、彼を四方から凝視しているような、そんな圧倒的な感覚だった。
『バカな人間たちは』と、その存在は言った。ほんの少しだけ、悲しげに笑ったように、慎一郎には見えた。『核と共に、滅んでしまいました』
笑い方が、あまりにも悲しかった。
怒りよりも、あきらめよりも、ただ静かに悲しかった。
「じゃあ、あのトンネルは」と、彼はかすれた声で言った。「タイムトンネルだったんですか」
半透明の存在の、目の光が、少し強くなった。
『すべては、あなたたちの責任です』
その言葉には、はじめて、確かな感情の温度があった。それは、怒りだった。長い長い時間をかけて、地層のように深くたまってきた怒りだった。
「それは」
慎一郎は、ゆっくりと頭を下げた。
「すまない。それは、本当に、すまない」
彼は、自分がここに立っていることの重さを、初めて理解した気がした。
自分は、責任を果たすために謝っているのではない。
責任を、果たしそこねた側の、無知な生き残りとして、ただ謝っている。
半透明の存在は、しばらく彼を見つめていた。それから、少しだけ、声を柔らかくした。
『あなたは、宇宙にいて、ここには居なかったのですね』
「はい」
『では、あなたの一日は、この星の何年でしたか』
「え」
『宇宙にいるあなたたちの一日は、この星では、ずっと長い時間です。あなたが軌道上で一度眠るあいだに、ここでは、森が枯れ、海が退き、新しい種が生まれ、文明が沈みました。あなたは、何も知らなかったのですね』
慎一郎は、何も答えられなかった。
喉の奥が、カラカラに乾いていた。
自分は宇宙で仕事をしていた。
ただ、仕事をしていただけだ。
そのだけが、これほどまでに重いものだとは、想像すらしていなかった。
第六章 選ばれた生き残り
半透明の存在は、慎一郎を、地下の小さな空間へと招き入れた。
そこは、部屋と呼んでいいのかも分からなかった。
壁は、地下水がゆっくりと動いているように、微かに流動しながら揺らいでいた。天井には、燐光を放つ苔のようなものが張り付いていて、淡い青白い光を落としている。空気は湿っていたが、腐臭は一切なかった。むしろ、雨のあとの深い森の匂いに近かった。
慎一郎は、丸い石のようなものに腰を下ろした。
その石は、彼が座ると、体圧に合わせて少しだけ柔らかく沈んだ。
『あなたは、選ばれた生き残りです』
半透明の存在は、そう告げた。
「選ばれた」
『偶然ではありません。あなたが宇宙にいたこと。ワイヤーが外れたこと。誰にも見られない時間帯だったこと。そのすべてが、選ばれるための絶対の条件でした』
「誰が、選んだんですか」
『宇宙が』
慎一郎は、笑おうとして、笑えなかった。
半透明の存在の口調には、比喩や冗談の余地がなかったからだ。
『あなたには、二つの選択肢があります』
「二つ、というと」
『過去へ戻るか、未来へ行くか、です』
彼は、しばらく、その言葉を頭の中で反芻した。
過去。未来。どちらも、いま彼が宇宙の闇で失ったものだった。
「過去に戻れば、人類の滅亡を止められるんですか」
『それは、分かりません』
『ただし』と、半透明の存在は続けた。『過去に戻るなら、遠い過去のほうが、良いでしょう』
「なぜです」
『近い過去に戻ると、あなたは、その滅亡に確実に巻き込まれます』
慎一郎は、息を呑んだ。
『あなたが戻る過去が、滅亡の直前であればあるほど、あなたは、人々に警告する時間を持ちません。誰にも信じられず、誰にも言葉が届かず、あなた自身も、核の光の中で、他の人々と同じように、ただ消えるだけです』
「遠い過去なら」
『遠い過去であれば、あなたは伝説になれるかもしれません。誰かが、あなたの言葉を、神話として書き残すかもしれない。何千年、何万年ののちに、その神話を読んだ人間が、選択を変えるかもしれない。ですが、それも、分かりません』
慎一郎は、足元の地面を見つめた。
地面の上を、透明な小さな虫のようなものが、ゆっくりと歩いていた。それは彼の靴の甲を登り、ズボンの裾に触れ、それから、また地面に降りていった。虫にとって、彼の存在は、ただ通り過ぎる巨大な山のようなものだったろう。
彼は、思った。
自分は、たったいま、時間に対して、まったく同じ立場にいるのだと。
「未来は」と、彼は静かに問うた。「未来には、何がありますか」
『未来にも、いくつかの層があります』
『あなたの直後の未来は、ここです。核の後の地球。まだ地表が、あなたたちの残した怒りのエネルギーで、うずいている時代。あなたは、ここに、長くは留まれません』
『少し先の未来は、混沌としています。私たちの祖先が、地上を諦め、地下へ潜り始めた時代です。飢えと、忘却の時代です』
『そして、もっと先には』
半透明の存在は、少し間を置いた。
『平和な時代が、あります』
「平和」
『はい。ある時代を境に、この星は、再び穏やかになります。三つの太陽の下で、新しい生き物たちが、争わずに、ただ暮らすようになる時代が来ます。私たちも、その時代までは、辿り着けませんが』
慎一郎は、静かに目を閉じた。
自分の娘のことを、思い出した。
星は落ちてこないのかと聞いた、あの日の幼い娘。
彼女は、いまごろ何をしているだろう。
いやと、彼は思い直した。彼女は、もう、いないのだ。
自分が知っているいまは、この星にとっては遥かな過去。娘は、とうの昔に、生まれて、生きて、老いて、あるいは、若いままで、他の何十億もの人々と一緒に、すべて消えたのだ。
そのことを、実感として受け入れるのに、彼は時間を必要とした。地下の湿った空気の中で、彼はゆっくりと、二度、深呼吸をした。
「未来に、連れて行ってください」
彼は、そう言った。
声は、自分でも驚くほど、静かだった。
『平和な時代へ、お連れしましょう』
半透明の存在は、そう言って、目の光を、ふっと、まぶしく輝かせた。
第二部
第七章 掲示板
船は、いつのまにか、再び彼を包んでいた。
気づいたときには、慎一郎は、柔らかい椅子のようなものに腰を下ろしていた。座らされたというより、そこに座っていることが、最初から決まっていたかのような、自然な収まりかただった。
窓は、なかった。
その代わり、正面の壁一面が、淡く発光していた。まるで駅の発着掲示板のように、無数の数字と文字が、帯のようにねじれながら上から下へ絶え間なく流れていく。
「これは、年号か」
『はい』
今度の声は、これまでとは、わずかに違って聞こえた。地下の存在の声よりも、もう少し機械的で、それでいて、どこか丁寧だった。
『あなたに分かりやすいように、地球の暦の形で表示しています』
「案内、してくれる人か」
『そう呼んでいただいて構いません』
慎一郎は、目を細めて、その数字を追おうとした。だが、速すぎて追えなかった。桁が、大きすぎた。西暦の下二桁が変わる速さで、上の桁までもが変わっていく。百年が、瞬きの間に過ぎていく。
「どれくらい、飛ぶんだ」
『三億年ほど、先へ』
その数字の大きさに、慎一郎は、苦笑するしかなかった。三億年。人間の一生の、何百万倍だろうか。指を折って数えることさえ、馬鹿馬鹿しい長さだった。
「聞いていいか」
『どうぞ』
「あんたは、何なんだ。さっきの、地下にいた連中とは、違うんだろう」
『彼らは、肉体を持つ末裔です。かつての人類の、生き残りの血を引く者たち。私は、記録と、知識を引き継ぐ者です。肉体は、持ちません』
「AIってことか」
『近いかもしれません。ただし、私には、彼らが把握していない領域の記憶もあります』
慎一郎は、その言い回しに、かすかな違和感を覚えた。把握していない領域。まるで、地下の者たちにさえ隠している何かが、あるとでも言うように。
だが、そのとき、彼の意識は、急激な眠気に襲われた。まるで、体の奥から、深い重力に引っ張られるような感覚だった。
「なんだ、これ」
『時間の流れに、体を慣らしています。少し、お休みください』
抵抗する間もなく、慎一郎の視界は、完全に暗転した。
第八章 声の記録
夢を見た。
いや、夢と呼ぶには、あまりにも、輪郭がはっきりしていた。
暗闇の中に、彼は立っていた。周囲には、無数の、光の粒のようなものが、ゆっくりと漂っていた。それぞれの粒に、耳を近づけると、頭の中に、直接、声が流れ込んできた。
『ここは、どこだ、早く、家族の元に』
『信じてくれ、俺は、未来から来たんだ、この村は、いずれ』
『お願い、誰か、聞いて。私の名前は』
無数の声が、幾重にも重なり合っていた。国籍も、時代も、性別も、ばらばらだった。ある声は、涙で激しく震えていた。ある声は、怒りに満ちていた。ある声は、もう、何も期待していないような、乾いた諦めの調子だった。
「これは」
慎一郎は、後ずさった。
『あなたより前に、この船から送り出された者たちの、記録です』
案内人の声が、静かに響いた。夢の中だというのに、その声だけは、はっきりと、外側から聞こえるようだった。
「送り出された、何人、いるんだ」
『数えたことは、ありません』
「数えたことがない、はないだろう。あんたが管理してるんだろう、これを」
『管理という言葉は、正確ではないかもしれません』
案内人の声に、初めて、わずかなためらいのようなものが、混じった気がした。
「教えてくれ」慎一郎は、声を強めた。「あんたは、この光る船を使って、何度も、人間を、過去や未来に、送り込んできたのか。俺みたいに」
沈黙があった。
夢の中の沈黙は、現実の沈黙よりも、ずっと重かった。
『はい』
「何のために」
『歴史の、分岐点を探すためです』
その答えに、慎一郎の背筋が、冷たくなった。
『核による滅亡を、回避できる歴史が、どこかにあるはずだと、私は、私を遺した者は、信じていました。その可能性を探すために、これまで、幾人もの客人を、時間の中に送り出してきました』
「幾人も、その人たちは、どうなった」
『分かりません。多くは、戻ってきませんでした』
慎一郎は、周囲を漂う光の粒を、あらためて見回した。それぞれが、誰かの人生の、剥き出しの断片だった。ある者は、遠い過去で、誰にも信じられないまま、孤独に朽ちていったのかもしれない。ある者は、この光る船の記憶の中に、声だけを残して、消えていったのかもしれない。
「俺も、その、実験の一つなのか」
『実験という言葉を、私は使いたくありません。ですが、否定は、できません』
慎一郎は、拳を強く握りしめた。怒りなのか、恐怖なのか、自分でも判別がつかなかった。
「なぜ、最初から正直に言わなかった」
『言えば、あなたは、未来へ行くことを、選ばなかったかもしれません』
「それでも、言うべきだった」
『そうかもしれません』
案内人の声は、静かだった。謝罪でも、弁解でもない、ただ、事実を認めるだけの、平坦な声だった。
慎一郎は、しばらく、無数の声の中に立ち尽くしていた。それぞれの声が、まだ、何かを訴えかけていた。まだ、誰かに届くことを、諦めていないように聞こえた。
その中の、ひとつの声に、彼は、ふと、耳を止めた。
『輪は、断ち切れないかもしれない。だが』
女の声だった。ひどく、疲れた声だった。だが、その言葉には、まだ、かすかな熱が残っていた。
『輪の形を、知る者が増えれば、いつか、その輪から、抜け出す道が、見つかるはずだ』
「それは、誰の声だ」
慎一郎が問うと、案内人は、少し間を置いてから、答えた。
『私に、すべてを託した、最後の研究者の言葉です。彼女は、この技術を完成させた、最後の一人でした。彼女自身の、最後の航行の記録が、その声です』
「その人は、戻ってきたのか」
『いいえ』
慎一郎は、静かに目を閉じた。
名も知らぬ誰かの、届かなかった祈りが、この船の奥深くに、ずっと眠っていたのだ。
「案内人」
『はい』
「俺は、あんたを、恨むべきなんだろうな」
『そうかもしれません』
「だが、恨んだところで、何も変わらない、ってことも、分かってる」
慎一郎は、目を開けた。夢のような光の粒たちは、まだ、彼の周りに漂っていた。
「一つだけ、約束してくれ」
『何でしょう』
「もし、俺が、あんたの実験の役に立てるなら、それでいい。だが、もう、隠し事はするな。俺が知るべきことは、全部、話せ」
長い沈黙のあと、案内人は、静かに答えた。
『分かりました』
その言葉と同時に、光の粒たちが、ゆっくりと、闇の中に溶けていった。慎一郎の意識も、再び、深い眠りへと、引き込まれていった。
第九章 異常
再び目を覚ましたとき、船内の空気が、わずかに違っていた。
慎一郎は、すぐには、その違和感の正体に気づけなかった。だが、体を起こし、正面の掲示板を見上げたとき、彼は、はっきりと理解した。
数字の流れが、異様に乱れていた。
これまで、滑らかに、一定の速度で流れていたはずの年号が、ときおり、激しく明滅し、逆流し、また前に進む、そんな不規則な動きを繰り返していた。掲示板の隅では、一瞬だけ見慣れた数字が明滅した。二〇二六、と。
「案内人、これは、どうなってる」
返事が、来なかった。
「おい、聞こえてるか」
船体が、微かに、しかし嫌な音を立てて震えた。慎一郎の体が、椅子の上で、わずかに浮いた。人工重力が、不安定になっている。
『申し訳ありません』
ようやく返ってきた声は、これまでよりも、明らかに、乱れていた。ノイズが混じり、言葉の輪郭が、ぼやけている。
『航行に、深刻な、干渉が、発生しています』
「干渉、誰かが、邪魔してるってことか」
『分かりません。この現象は、初めてではありません。過去にも、同様の乱れが、何度か、観測されています』
「原因は」
『推測に、過ぎませんが』
案内人の声が、一瞬、完全に途切れた。
『私が、これまで送り出してきた客人たちの一部が、時間の流れの中で、何らかの、爪痕を残している可能性があります。歴史は、大きくは、変わりません。ですが、小さな歪みは、確実に蓄積します。その歪みが、いま、この航路そのものに、干渉しているのかもしれません』
慎一郎は、椅子の肘掛けを、強く握りしめた。
「つまり、俺より前に送られた誰かが、何かを変えて、それが、いまの俺に、跳ね返ってきてるってことか」
『可能性の、一つです』
船体が、再び、大きく揺れた。掲示板の数字が、激しく点滅し、禍々しい赤い警告の色に染まった。
「このまま、飛び続けたら、どうなる」
『分かりません。最悪の場合、あなたの意識が、時間の狭間で、迷子になる可能性があります』
「迷子」
『どの時代にも、どの場所にも、たどり着けなくなる、ということです』
慎一郎の背筋を、冷たいものが伝った。あの、光の粒となって漂っていた、無数の声たち。もしかしたら、その中の幾つかは、まさに、この迷子になった者たちの、成れの果てだったのかもしれない。
「案内人、方法はないのか。この揺れを、抑える方法は」
『一つだけ、あります』
「言ってくれ」
『あなたの、強い意志が、必要です。この船は、もともと、乗る者の意識と、深く結びついて航行しています。あなたが、行き先を、明確に、強く、思い描くことができれば、干渉を、振り切れるかもしれません』
慎一郎は、目を閉じた。
行き先。平和な時代。三つの太陽の下で、争いのない、新しい生き物たちが暮らす未来。だが、それは、あまりにも漠然としていた。彼が、本当に、心の底から、思い描けるリアリティが必要だった。
彼の脳裏に、浮かんだのは未来の景色ではなかった。
娘の顔だった。
四歳の、あの日の娘。「星は何でおちてこないの」と聞いた、あの声。その声が、いま、慎一郎の中で、ひどく鮮明に、蘇った。
「星は、落ちながら、横に進んでるから、地面にぶつからないんだ」
彼は、そう、もう一度、口にした。今度は、娘にではなく、自分自身に、言い聞かせるように。
「俺も、そうだ。落ちながら、進む。それだけだ」
その言葉と同時に、船体の揺れが、少しずつ、確実に収まっていった。掲示板の数字も、再び、滑らかな流れを、取り戻し始めた。
『安定しました』
案内人の声にも、安堵の色が、滲んでいるように、慎一郎には聞こえた。
「終わったのか」
『はい。ですが』
そのとき、案内人の声に、ひどいノイズが走った。案内人が、初めて彼の名前を間違えた。
『アま、天野さん、失礼、高瀬さん。今の揺れは、警告でもあります』
「警告」
『歴史は、あなたが思うよりも、脆く、そして、あなたが思うよりも、頑丈です。小さな行動が、思わぬところで、大きな歪みを生むことがある。逆に、大きな絶望の中でも、ほんの小さな意志が、流れを支えることもある』
慎一郎は、その言葉を、静かに、噛みしめた。
掲示板の数字が、再び、猛烈な速度で、流れ始めた。
第十章 扉の外
掲示板の数字が、ふいに、減速を始めた。
『まもなく、到着します』
案内人の声には、もう、乱れはなかった。
船体が、静かに、振動を止めた。正面の壁に、あの光の線が、縦に走った。線は割れ、扉になった。
慎一郎は、深呼吸をひとつしてから、外へと、足を踏み出した。
三億年後の地球。そこには、想像していたような、見たこともない光景が広がっているはずだった。荒れ果てた大地か、あるいは、見知らぬ生命体に満ちた密林か。
だが、目の前に広がっていたのは、拍子抜けするほど、見慣れた光景だった。
アスファルトの道路。立ち並ぶビル。行き交う車のヘッドライト。空には、うっすらと雲がかかり、遠くに、コンビニエンスストアの看板の明かりが灯っている。
「これは」
慎一郎は、言葉を失った。
「これは、日本、なのか」
『はい。厳密に言えば、あなたの知る現代の日本と、極めて似通った、時代の、極めて似通った、場所です』
「似通ってる、三億年、経ったんじゃないのか」
『時代は、繰り返し、巡っているのです』
慎一郎は、目の前の光景を、まじまじと見つめた。よく見れば、看板の文字が、微かに、見慣れないフォントだった。行き交う人々の服装も、どこか、全体のシルエットが違っていた。コンビニのチャイムだけが、半音ずれている気がした。だが、大枠としての日本らしさは、確かに、そこにあった。
「歴史は、繰り返す、ということか」
『はい。人類が、一度目の頂点を築き、核の炎で、自らを滅ぼしたのち、地球は、ゆっくりと、回復しました。何千万年もの時間をかけて。そして、新たな知的生命、あるいは、生き残った、人類の末裔たちが、再び、文明を築き上げたのです。その文明は、あなたが去った時代の文明と、驚くほど、似た発展を、遂げました』
慎一郎は、街を歩く人々を、遠くから、眺めた。彼らは、何も知らない顔をしていた。仕事帰りらしいサラリーマンが、スマートフォンに似た端末を片手に、足早に歩いていく。学生らしい二人組が、コンビニの前で、何かを笑いながら話している。
その日常が、あまりにも、彼が知る日常と、似ていた。
「この人たちも、いずれ、同じ道を辿るのか」
『分かりません。ですが、可能性は、否定できません』
慎一郎の胸の中に、鈍い痛みが、広がった。目の前にいる、名も知らぬ人々。彼らの子孫が、いつか、同じ過ちを、繰り返すかもしれない。
「教えてくれ、案内人」
『何でしょう』
「俺に、何ができる。あんたは、俺を、ここに連れてきた。何のためだ」
案内人は、しばし、沈黙した。
『あなたが、この時代に、何かを残すことができれば、言葉でも、記録でも、あるいは、ただ、生き方でも、それが、歴史の、ごく小さな分岐点になる、可能性があります』
「保証はない、ってことか」
『はい。ですが、可能性はゼロでは、ありません』
慎一郎は、街の明かりを、見つめ続けた。
その明かりの向こうに、ふと、あるものが、映し出された。
第十一章 メビウスの輪
それは、街の明かりに重なるように、宙に浮かび上がった、一枚の光の図だった。
銀河が、渦を巻いていた。星々が、生まれては、消えていった。その中に、一本の、帯のような光の筋が、浮かび上がった。
その帯は、ねじれながら、輪になっていた。
表側を、たどっていくと、いつのまにか、裏側に。裏側を、たどっていくと、いつのまにか、表側に、戻ってくる、終わりのない、一つの面でできた、輪。
「これは」
慎一郎は、その形に、見覚えがあった。子どもの頃、理科の授業で、紙のテープをひねって作った、あの、奇妙な帯。表と裏の区別が、なくなってしまう、不思議な輪。
「メビウスの輪、か」
『はい』
『宇宙も、時間も、ある意味で、これと、似た構造を、持っています。文明が、生まれ、滅び、また、生まれる。過去と、未来が、繋ぎ目のないまま、ぐるりと、一周してしまう』
「なら、俺がさっき見た、あの、無数の声たち、過去や未来に送られた、あの人たちも」
『同じ輪の、どこかを、歩いているのかもしれません』
慎一郎は、光の図を、じっと見つめた。輪の上には、無数の、小さな光の点が、散らばっていた。それぞれが、誰かの、人生の軌跡なのかもしれなかった。
「なあ、案内人」
『はい』
「あんたが、さっき言ってた、あの、最後の研究者の言葉、『輪の形を知る者が増えれば、いつか、その輪から抜け出す道が見つかる』」
『はい、覚えています』
「あれは、本当に、そうなのか。それとも、ただの、願望なのか」
案内人は、しばらく、答えなかった。
『分かりません。ですが』
『少なくとも、あなたは、今、この輪の形を、知りました。この事実だけは、消えません。あなたが、これから、どこへ行くにせよ、あなたの中に、この記憶は、残り続けます』
慎一郎は、その言葉を、静かに、受け止めた。
輪から、完全に抜け出す方法は、まだ、見えない。だが、輪の形を、知ること、それ自体が、何かの、始まりなのかもしれない。
彼は、目の前の、名も知らぬ街を、もう一度、見渡した。
ここにいる、誰か一人にでも、この光景を、伝えることができれば。
たとえ、それが、歴史という、巨大な流れの中の、ほんの一滴に過ぎなくても。
「案内人、俺は、ここに、残りたい」
『よろしいのですか。あなたの肉体は、まだ、あなたが去った、元の時代に、留まったままです。ここに長く留まれば、あなたの意識は、いずれ、行き場を、失います』
「それでも、少しでいい。この時代の、誰かに、何かを、伝えたい」
案内人の声が、わずかに、揺れた。
『分かりました。時間は、限られていますが』
慎一郎は、ゆっくりと街の中へと、足を踏み出した。
第十二章 名もなき通行人
夜の街を、慎一郎は、ひとり、歩いた。
誰も、彼の姿に、気づかなかった。すれ違う人々は、まるで、彼が、そこにいないかのように、素通りしていった。案内人によれば、この時代における彼の存在は、まだ、完全な形を、持っていないのだという。声も、姿も、この世界の物理法則の、外側にあるらしかった。
それでも、彼は、歩き続けた。
小さな公園の前を、通りかかったとき、ベンチに座る、一人の少女の姿が、目に入った。
七つか、八つくらいだろうか。膝を抱え、ぼんやりと、夜空を見上げていた。周りに、大人の姿は、見当たらなかった。
「星は、何で、落ちてこないのかしら」
少女が、誰にともなく、そう呟いた。
慎一郎は、その言葉に、心臓を、強く掴まれたような感覚を、覚えた。
同じだ。
娘と、まったく同じことを、聞いている。
彼は、少女の隣に、静かに、腰を下ろした。声が届くとは、思っていなかった。ただ、そこにいたかった。
「星は」と、彼は、静かに、口を開いた。「落ちながら、横に進んでるから、地面にぶつからないんだよ」
少女は、答えなかった。だが、その横顔が、ほんの少し、動いたように、慎一郎には見えた。
「大丈夫。落ちても、ぶつからない。進み続けるだけだ」
少女は、しばらく、夜空を見上げていたが、やがて、小さく、頷いた。彼の声が、届いたのかどうかは、分からなかった。だが、少女の口元に、微かな笑みが、浮かんだ気がした。
「お姉ちゃん、こんなところにいたの」
少女の母親らしい女性が、公園の入り口から、駆け寄ってきた。少女は、立ち上がり、母親のもとへと、走っていった。
「どうしたの、こんな時間に」
「星が、綺麗だったから」
少女は、そう言って、母親の手を、握った。
「そう。でも、もう遅いから、帰ろうね」
二人は、手をつないで、夜の街の中へと、消えていった。
慎一郎は、しばらく、その後ろ姿を、見送っていた。
『何を、伝えたのですか』
案内人の声が、静かに、問うた。
「大したことじゃない。ただ、星は、落ちてこない、って」
『それだけ、ですか』
「それだけだ」
慎一郎は、立ち上がり、夜空を、見上げた。三億年前の空とは、少し違う星の並びが、そこにあった。
「案内人、これで、何かが、変わると思うか」
『分かりません』
「だろうな」
彼は、小さく、笑った。
「それでいい。変わるかどうかは、分からなくていい。ただ、俺は、ここにいた。それだけで、いいんだ」
その言葉と同時に、彼の視界が、ふいに、揺らいだ。
まるで、水面に映った景色が、波紋によって、崩れていくように。街の明かりも、夜空も、少しずつ、薄れていく。
「これは」
『時間です』
案内人の声が、遠くから、聞こえるように、響いた。
『あなたの意識が、元の場所へと、戻ろうとしています』
「待ってくれ、まだ」
だが、彼の声は、届かなかった。景色は、渦を巻くように、激しく歪み、慎一郎の意識は、光の奔流の中へと、吸い込まれていった。
その、最後の瞬間、彼の脳裏に、あの、メビウスの輪の映像が、もう一度、鮮明に、浮かび上がった。
表を、たどれば、裏に至る。裏を、たどれば、表に至る。過去は、未来に繋がり、未来は、過去に繋がる。
なるほど。そういうことか。
慎一郎は、そう、思った。
輪の形を、知る者が、増えれば、いつか、その輪から、抜け出す道が、見つかる。
自分は、いま、確かに、その輪の形を、知った。
終章 目覚め
「高瀬さん、高瀬さん、聞こえますか」
誰かの声が、激しく彼を、呼んでいた。
まぶたを開けると、そこは、白い天井だった。ツンとする消毒液の匂い。規則正しい、心電図の機械音。慎一郎は、自分が、病院のベッドに横たわっていることに、気がついた。
「気がついた、よかった、本当に」
聞き覚えのある声。振り向くと、そこには、〈オルフェウス・スペースワークス〉の管制官、佐伯という若い男が、安堵の表情を浮かべて立っていた。
「俺は」
「船外活動中に、不慮の事故が。命綱が外れて、緊急救助艇が、あなたを回収するまで、五時間近く、意識不明の状態でした」
五時間。
慎一郎は、その数字を、頭の中で、何度も繰り返した。あの、三億年にも及ぶ壮大な旅が、たったの、五時間だったというのか。
「五時間、俺は、ずっと、意識がなかったのか」
「はい。うわ言のようなものは、聞こえていましたが」
「何て、言ってた」
佐伯は、少し、言いにくそうに、答えた。
「『メビウスの輪』とか、『三億年』とか。それに、『星は、落ちてこない』とか。何度も、何度も繰り返してました」
慎一郎は、体を、微かに震わせた。あの旅の記憶は、あまりにも、鮮明だった。単なる、意識不明が見せた夢だとは、どうしても、思えなかった。
窓の外に、目をやると、地球の、本物の、穏やかな地球の空が、広がっていた。青く、澄み渡った空。そこに、あの、三つの太陽の記憶が、静かに重なった。
いつか、この空もまた、あの、赤茶けた大地に、変わる日が、来るのだろうか。
それとも。
慎一郎は、静かに、目を閉じた。
まだ、何も、終わってはいない。むしろ、ここから、始まるのかもしれない。
どこからか、あの、案内人の声が、ノイズ混じりに脳裏に直接響いた気がした。
二〇二六年、世界が、動く。
慎一郎は、ぱっと目を、開けた。
窓の外には、変わらぬ地球の空が、広がっていた。だが、彼の中には、確かに、一つの、小さな、しかし消えない決意が、芽生えていた。
娘に、連絡を取ろう。
月に一度の、届くかどうかも分からない、映像メッセージではなく。
今度は、直接、彼女の声を、聞かせてもらおう。
星は、落ちてこない。
ただ、進み続けるだけだ。
それでも、進む先を、選ぶことは、きっと、できる。
慎一郎は、ベッドの脇にあった、通信端末に、そっと、手を伸ばした。
(了)
あとがき
本作は、時間の不可逆性と、それでもなお残る想いの強さをテーマに執筆いたしました。作中、主人公の高瀬慎一郎が体験する三億年の旅は、一見すると孤独で残酷なものですが、彼を現実に繋ぎ止めたのは、かつて幼い娘と交わした、たった二行の会話でした。
科学技術がどれほど進歩し、星の並びが変わるほどの時間が流れても、人間が誰かを想う心の形は変わらない。そんな祈りのようなものを、メビウスの輪というモチーフに託しています。
また、ラストに登場する二〇二六年という数字。私たちが今、まさに生きているこの時代が、物語の重要な結節点となっています。高瀬が端末に手を伸ばしたように、私たちもまた、自らの手で未来の行き先を選ぶことができるのだと信じています。
この作品が、あなたにとって、夜空の星を少し違った目で見上げるきっかけになれば幸いです。
2026年7月

