午後の雨、宇宙まで降りやまない
〜モテ期台風と堕天使たちの記録〜
まえがき
「人生の午後」を迎えた男たちには、二つの道がある。
一つは、これまでの嵐を生き抜いた知恵で、穏やかな陽だまりを楽しむ道。
もう一つは――忘れた頃にやってきた「モテ期」という名の暴風雨に、身も心も吹き飛ばされる道。
本書は、ある平凡な団地を舞台に巻き起こった、気象学の常識を覆す「局地的モテ期豪雨」と、それに翻弄された男たちの戦い(あるいは自業自得の結末)を記録したものである。
もしあなたが、最近どうも空模様が怪しい、あるいは身の回りで妙に色恋の風が吹いていると感じるなら、どうか襟を正して読み進めてほしい。これは、明日のあなたの身に起こるかもしれない、宇宙規模の「反省」の記録なのだから。
序章
桜ヶ丘団地の異常気象
気象庁の若手研究員・雨宮ミライが「これは誤作動です」と三度目の報告書を破り捨てたのは、七月のある午後だった。
観測地点はどこにでもある郊外の団地、桜ヶ丘。そこだけ、ピンポイントで積乱雲が発生し、しかも雲の中心に「熱源」ではなく「なぜか色恋沙汰特有の脳内物質の反応」らしきものが検出される――という、気象学の教科書のどこにも載っていない現象だった。
「先輩、これ絶対おかしいですよ。雲の中心に、既婚男性の"浮気心"みたいな数値が出てるんです」
先輩研究員はコーヒーを吹き出した。
「雨宮くん、気象庁でその発言はまずいよ」
しかし数値は嘘をつかない。桜ヶ丘団地では今、原因不明の「局地的モテ期豪雨」が多発していた。
第一章
わしが白黒つけたがる男である件について
わしの名は八十島セイイチ。齢七十二。この団地では「ご隠居」と呼ばれている。
毎日毎日、何かを追いかけて生きてきた。気になったことには、まず首を突っ込んでみる。それがわしの流儀だ。ガキの頃から「違うな」と思ったら即座に退場、次へ向かう。白黒つけねば気が済まん性分でな、おかげで怪我ばかりしてきた。
そんなわしが最近、妙な胸騒ぎを感じている。
向かいに住む山田のダンナが、ここ最近やけに機嫌がいい。休日には妙にめかしこんで出かけていく。ついでに空模様も妙だ。晴れていたと思ったら、午後になると決まって、山田さんの家の上空だけ、黒い雲がむくむくと湧いてくるのだ。
「おい、カミさん。あれ、見てみい」
台所からカミさんが顔を出した。
「あら、また山田さんとこだけ雨雲。最近多いわねぇ」
そう、良く言うだろう。午後から降り出した雨はやまない、と。
わしはこの言葉を、若い頃の自分自身の教訓として胸に刻んできた。斜に構えていたバカな男――つまりかつてのわし自身のことだが――そういう手合いは、人生の午前中にさんざん痛い思いをしておく。だからこそ、人生の午後は穏やかになる。
だが山田さんは違う。あの人は「モテ期」という名の嵐を、この歳になって、しかも人生の午後になってから浴びようとしている。
こいつは、とんでもないことになる予感がした。
第二章
呑み屋のネエちゃんとわしの武勇伝
わしにも覚えがある。
若い時分、男女の仲というグレーゾーンでの駆け引きが、どうにも苦手だった。悩む時間がもったいないと、いつも即答してきた。おかげで、いつも迷子道である。
呑み屋のネエちゃんに口八丁で丸め込まれ、財布ごと軽くなった経験も一度や二度ではない。あの頃は「モテている」と本気で錯覚していた。今にして思えば、あれは"モテ"ではなく"カモ"であった。
しかしその痛い経験のおかげで、家族を持ってからは免疫ができた。おだてに弱い性分は変わらんが、少なくとも「これは呑み屋のネエちゃんの手口と同じだ」と見抜く勘は養われた。
つまりわしは、人生の午前中にしこたま雨に降られ、ずぶ濡れになった男なのだ。だからこそ今、こうして午後の陽だまりの中、孫たちと縁側で微笑んでいられる。
カミさんが救ってくれたから、今のわしがある。それは間違いない。
だが向かいの山田さんは――どうも、午前中の嵐を経験せずに、いきなり人生の午後に嵐を呼び込んでしまったクチらしい。
これは危険だ。免疫のない男に降る雨は、ただの雨では終わらない。
第三章
台風発生、そして竜巻
事件はある土曜日の午後に起きた。
山田さんの家の上空に発生した積乱雲が、みるみるうちに発達し、団地の集会所の温度計が「モテ度87%」という気象庁史上例のない数値を叩き出したのだ(この数値の単位については誰も説明できなかった)。
わしが縁側から空を見上げていると、雲の中から、なんと外国人の「呑み屋のネエちゃん」らしき影がぼんやり浮かび上がって見えた。山田さんはそれに向かって、鼻の下を伸ばしながら手を振っている。
「山田さん! あんた、そりゃいかん! 午後から降り出した雨はやまんぞ!」
わしは叫んだが、もう遅かった。
積乱雲は渦を巻き、見る間に竜巻へと姿を変えた。山田さんの体がふわりと宙に浮く。
「お、おおおおおおおお!!」
山田さんは叫び声とともに、雲の中へと吸い込まれていった。
団地中の人間が飛び出してきて、空を見上げた。竜巻は山田さんを飲み込んだまま、みるみる上空へと駆け上り、やがて青空にぽっかり空いた「穴」――としか表現しようのない何か――の中へと消えていった。
静寂。
「……気象庁、呼んだ方がいいかしら」
カミさんが言った。呼ぶまでもなく、その日の夕方には雨宮ミライ研究員が団地に飛んできた。
第四章
堕天使化のメカニズム
「つまりこういうことです」
雨宮くんは公民館の黒板に、汗だくで図を描いた。
「人間の"邪な感情"――高慢、嫉妬、浮気心。この三つが一定量、大気中に蓄積すると、局所的に大気の水蒸気と共鳴して、"モテ期台風"が発生します。台風の目の部分には、対象者の願望を具現化した幻影――今回で言えば、外国人の呑み屋のネエちゃんの幻影が生じ、これが本人を引き寄せる形で竜巻化、最終的には次元の裂け目を通じて、遠方の惑星系まで吹き飛ばしてしまうようです」
わしは黒板の図を睨みつけた。
「つまり山田さんは、宇宙のどこかへ飛ばされたっちゅうことか」
「はい。過去の記録によれば……」
雨宮くんが持ってきた分厚いファイルには、驚くべきことに、過去数十年分の「モテ期台風による行方不明男性」のデータが記録されていた。
高慢な男、嫉妬深い男、そして浮気に走った男たち。彼らは皆、家庭という楽園から自ら反逆し、そして嵐に飲まれて、遠くへ飛ばされていた。
「まるで、堕天使ですなぁ」
わしがぽつりと呟くと、雨宮くんは目を輝かせた。
「その表現、いただきます! 報告書のタイトルにします!」
第五章
カミさんたちの逆襲と、土下座の化学反応
さて、問題は山田さんの奪還である。
団地の奥さん連中が公民館に集結した。山田さんの奥さんは気丈に振る舞っていたが、目の下にはくっきりとクマができていた。
「あの人、帰ってきたら、どうしてやろうかしら」
「まあまあ、まずは帰ってきてもらわないと」
わしはここで、長年の経験から得た仮説を提示した。
「雨宮くん、台風の"目"には対象者の願望の幻影があるという話だったな。ならば――逆に、"反省と謝罪"の感情を大気中に送り込んだら、どうなる?」
雨宮くんはしばし黙考した後、はっと顔を上げた。
「……理論上は、台風の勢力を弱める"高気圧"が発生する可能性があります! 反省の感情は、いわば大気を安定させる作用があるはずです!」
そこで白羽の矢が立ったのが、団地中の反省し損なっている男たち――つまり、かつて竜巻に飲まれかけたが、寸前で踏みとどまった経験を持つ、わしを含む数名の"元・浮気予備軍"であった。
「よし、お前ら。全員で、土下座するぞ」
「ご隠居、なぜわしらが」
「山田を助けたいなら、黙って地面に頭をつけろ!」
こうして団地の広場に、七人のオヤジが並んで土下座するという、なんとも滑稽な光景が展開された。近所の子供たちがゲラゲラ笑い、それを見た奥さん連中まで笑い出す始末。
だが雨宮くんの観測機器は、確かに反応を示していた。広場上空の気圧が、じわじわと上昇し始めたのである。
「効いてます! 反省と、周囲の"笑い"――つまり緊張の緩和が、高気圧を生んでいます!」
第六章
竜巻の中心へ
高気圧は次第に勢力を増し、ついに団地上空にぽっかり空いた「穴」を、逆に引き寄せることに成功した。
穴の向こうから、へとへとに疲れ果てた山田さんが転がり出てきた。裸足で、頭には見たこともない植物の葉っぱが絡みついている。
「た、助かった……向こうの星、ネエちゃんの正体、蜘蛛みたいな生き物でした……」
「言わんこっちゃない」
わしは山田さんの肩を叩いた。
「あんた、人生の午前中にこの嵐を経験しとらんかったから、午後になって食らったんだ。まあ、命があっただけ儲けもんと思え」
山田さんの奥さんが、涙目で駆け寄ってきた。山田さんは条件反射のように、その場でまた土下座をした。
「すまん! 二度とせん! 一生分の反省を今した!」
その瞬間、団地上空の雲は嘘のように晴れ渡り、久しぶりの夕焼けが桜ヶ丘を照らした。
終章
穏やかな午後
事件から数ヶ月。桜ヶ丘団地の空は、平和そのものだった。
雨宮ミライ研究員は、この一連の現象を「モテ期台風、通称・堕天使ハリケーン現象」として学会に発表しようとしたが、上司に「気象学会でその発表はまずいよ」と止められたそうだ。
山田さんは以来、休日は奥さんと一緒に買い物に出かけるようになった。空に雲一つない日々である。
わしはといえば、相変わらず縁側でカミさんの淹れた茶をすすりながら、孫たちの遊ぶ姿を眺めている。
そう、良く言うだろう。午後から降り出した雨はやまないと。
だが、それは裏を返せば――午前中にきちんと雨に打たれ、ずぶ濡れになって学んだ者にだけ、穏やかな午後が訪れる、ということでもある。
ご近所の旦那衆よ、くれぐれもお気をつけなされ。その下心、いつか宇宙の彼方の蜘蛛のネエちゃんのもとへ、あんたを吹き飛ばすかもしれんのだから。
――笑。
了
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あとがき
ことわざに「午後からの雨は止まない」というものがあります。若い頃の失敗や経験は、その後の人生の糧になりますが、歳を重ねてからの「道ならぬ嵐」は、取り返しのつかない大雨になりかねません。そんな人生の教訓を、もしも本当に「物理的な嵐」として可視化したらどうなるだろう? という遊び心から、この物語は生まれました。
山田さんを救ったのは、最新の科学兵器ではなく、男たちのプライドを捨てた「土下座」と、それを笑い飛ばす家族の絆(と呆れ)です。家庭という名の楽園で、今日も穏やかなお茶をすするすべてのご隠居と旦那衆に、ささやかな敬意とユーモアを込めて。
どうか皆さんの上空が、明日も雲一つない日本晴れでありますように。

