『片想いの― 記憶郵便局からの手紙 ――』


まえがき

人生には、「あのとき、ああしていれば」と思い返す瞬間が、誰にでもあるのではないでしょうか。

あの日、声をかけていたら。
あの日、手を伸ばしていたら。
あの日、「好きです」と伝えていたら。

けれど、人は選ばなかった人生を生きることはできません。私たちは、選んだ道だけを歩き、その途中で出会った人を愛し、別れ、そしてまた歩き続けます。

本作『片想いの銀河――記憶郵便局からの手紙――』は、そんな「もしも」を巡る物語です。

もし六十二歳の自分が、十六歳の自分と出会えたなら。
もし、過去へ一通だけ手紙を送ることができたなら。
人は後悔を消そうとするのでしょうか。それとも、後悔を抱えたまま生きることを選ぶのでしょうか。

SFという舞台を借りながら、この物語で描きたかったのは、未来の技術ではなく、人の心です。

伝えた想い。
伝えられなかった想い。
叶った恋。
叶わなかった恋。

そのどれもが、その人だけの人生を形づくっています。

読み終えたあと、読者の皆様が、自分自身の「選ばなかった人生」に少しだけ優しくなれたなら、作者としてこれほど嬉しいことはありません。




第一章 還暦の郵便受け

二〇八五年、初春。
風間宗一(かざま そういち)が六十二歳の誕生日を迎えた朝、玄関脇の郵便受けに、見慣れない一通の封書が届いていた。

紙の封筒だった。
この時代、紙で手紙が届くことはまずない。通信はすべて網膜投影に置き換わり、紙の封書は美術館行きの骨董品とされていた。

差出人欄には、こうあった。
――「記憶郵便局」

宗一は苦笑した。若い者の悪ふざけだろう、と思った。街を歩けば「愛してる」という言葉が挨拶のように飛び交う時代だ。言葉の重さは、蜘蛛の糸ほどに軽くなっていた。

封を切ると、中には一枚のカードと、小さな真鍮色のチップが入っていた。カードにはこう記されていた。

> 拝啓、風間宗一様
>
> 当局は、あなた様が生涯の中で「伝えられなかった言葉」の受取人となっております。
> 同封のチップを、貴殿の記憶接続端子に挿し込んでください。
> 差出人は――一九七八年五月、十六歳の風間宗一様でございます。
>
> 敬具
> 記憶郵便局

馬鹿な、と思った。
しかし、宗一の胸の奥で、何かがことりと音を立てた。

一九七八年五月。
その日付だけで、彼の胃のあたりが、ぎゅっと縮んだのだ。

思い出したくないのか、思い出せないのか、自分でもわからない曖昧な感情。その中心に、確かに一人の少女が立っていた。
名を、緑川美咲(みどりかわ みさき)といった。


第二章 記憶郵便局

宗一は、しばらくチップを掌の上で転がしていた。
妻の朋子(ともこ)は旧姓を小林といい、三年前に病で先立っている。子どもたちは独立し、広すぎる家には彼一人と、古い柱時計の音だけが残されていた。

「――挿してみるか」
誰に言うでもなく、そう呟いた。

こめかみの端子に、チップをそっと押し込む。かちり、と小さな音がした。
視界が、ふ、と歪んだ。

次の瞬間、宗一は薄暗い部屋の中に、意識だけが漂っていた。
窓の外は、夕暮れ。オレンジ色の光が、木造校舎の廊下を斜めに切り取っている。油の染みた床と、放課後の、埃っぽい匂い。

――ここは、僕の高校だ。

そう気づいた瞬間、廊下の向こうから、詰襟の学生服を着た少年が歩いてきた。
顔を見て、宗一は息を呑んだ。

自分だった。
十六歳の、痩せこけて、猫背で、前髪の長い、頼りない自分だ。

少年は、宗一の存在に気づかずそのまま歩き去ろうとして、ふと立ち止まった。
「――誰だ。そこにいるのか」

少年の目は、宗一を見ているようで、同時にその背後の壁を捉えているようでもあった。幽霊の気配をかすかに感じ取っているような目だった。

宗一は、思わず口を開いた。
「僕だ。……お前だよ。四十六年後の、お前だ」

少年の顔が、みるみる青ざめていった。


第三章 少年、風間宗一

少年の名は、当然ながら、風間宗一。

「……嘘だろ」
少年は、廊下の壁に背中を預け、ずるずるとしゃがみ込んだ。
「幻覚だ。俺、勉強しすぎてとうとうおかしくなったのか」

「勉強なんてしてなかっただろう、お前」
宗一が苦笑すると、少年は「うっ」と呻いて顔を伏せた。
「……確かに、してない」

「僕は、記憶郵便局というところからチップを受け取って、ここに来たんだ。差出人は、お前だそうだ」
「記憶……郵便局?」
「ああ。これから、出すんだろう」

二人は、しばらく黙って向かい合った。
夕陽が、廊下の板の節を、金色に浮かび上がらせていた。

「――なあ」と、少年が言った。「お前、いや、俺は、これからどうなる? 結婚できたか? 良い人生だったか?」

宗一は、少し考えてから答えた。
「まあ、悪くはなかった。良い妻と巡り会って、子どもも二人。仕事も、それなりに」
「……そうか」
少年は少しほっとして、それから真っ直ぐに尋ねた。
「じゃあ、緑川さんとは、どうなった?」

宗一は、答えられなかった。
少年は、じっと宗一を見ていた。

「答えないってことは、そういうことか」
「……ああ」
「告白、しなかったんだな」
「……できなかった」

夕陽が、翳った。
少年の目が涙で滲むのを、宗一は他人事のように眺めていた。いや、他人事ではなかった。四十六年前の自分が、今、目の前で泣いているのだ。


第四章 緑川美咲

緑川美咲は、隣のクラスの少女だった。
背が高く、髪は肩まで。笑うと右の頬に小さなえくぼができ、窓際で本を読んでいる姿は、まるで一枚の絵のように見えた。
少年は、一年生の頃から彼女に恋をしていた。だが口下手で、彼女の前に立つと、ただ俯くばかりだった。

「なあ」と、少年が言った。「いつ、諦めたんだ」

「文化祭の後夜祭の日だ」と、宗一は答えた。「体育館の裏で、告白しようとして、できなかった。あの日以来、僕は、言えなかった後悔ばかりで生きてきた」

少年は、勢いよく立ち上がった。
「なら、俺、今から緑川さんに告白する」

宗一は、目を見開いた。
「――待て。今日は、まだ五月だ。文化祭は十月だぞ」
「関係ない。今、言う」
「馬鹿を言うな。フラれるに決まってる」
「フラれても構わない」

少年の目は、まっすぐだった。
「だって、その顔をしてるってことは、告白しなかった俺は、一生後悔したってことだろ。だったら、フラれたって、告白した方がマシだ」

宗一は、何も言えなかった。
少年は、鞄を掴んで走り出した。
夕陽の中を、猫背の少年が、教室に向かって駆けていった。


第五章 並行世界の分岐

視界が、また歪んだ。
次の瞬間、宗一は、自分のリビングに戻っていた。

柱時計が、こつん、こつんと音を立てている。
「――夢か」

こめかみのチップを抜こうとして、彼は、はっと息を呑んだ。
違和感が二つあった。

一つは、キッチンの棚だ。朋子が使っていた、少し欠けたマグカップがない。代わりに、見覚えのない花柄の湯呑みが二つ並んでいる。

もう一つは、壁だった。
家族写真の中の女性が、朋子ではなかった。
優しげな目元、右頬のえくぼ。その女性は――緑川美咲だった。
六十歳を過ぎた、緑川美咲だ。

背後で、玄関の扉が開いた。
「――ただいま」

その声に、宗一は振り返った。
初老の女性が、買い物袋を手に立っていた。
「あなた、どうしたの? そんな顔して」

美咲だった。
髪に白いものが混じり、少しふくよかになった、緑川美咲。

「……み、さき」
四十六年ぶりに、その名が口からこぼれた。
美咲は、笑った。右頬に、小さなえくぼができた。
「なあに、急に。まるで、初めて会ったみたいな顔して」


第六章 書き換わった記憶

猛烈な勢いで、新しい過去の記憶が脳裏に流れ込んできた。

――一九七八年五月、放課後の廊下。十六歳の宗一は、緑川美咲に告白した。
フラれた。

夏休みに、もう一度告白した。フラれた。
文化祭で、また告白した。フラれた。
卒業式の日、四度目の告白をした。

美咲は、泣いた。
「……どうして、そんなに私のことを?」
「わからない。ただ、好きなんだ」

少し考えて、美咲は言った。
「……じゃあ、大学生になっても、その気持ちが変わらなかったら、もう一度言って」

大学生になって、五度目の告白をした。
美咲は、頷いた。
そこから、四十年余りの結婚生活が始まった。

宗一は、リビングの椅子に崩れ落ちた。
「あなた、大丈夫?」
美咲が駆け寄ってきた。その手のぬくもりが、確かにそこにあった。

「……ああ、大丈夫だ。少し、疲れただけだ」

だが、宗一の中には、もう一つの記憶も、鮮明に残っていた。
朋子との、四十年。二人の子ども。彼女の闘病。
二つの人生が、同時に、確かな音を立てて走っていた。


第七章 記憶郵便局からの二通目

その夜、また郵便受けが、こつん、と音を立てた。
彼は、そっと玄関に降り、扉を開けた。

白い封筒が、一通。

> 拝啓、風間宗一様
>
> 当局の配達により、貴殿の過去の分岐に変更が生じました。
> 規定により、貴殿には二つの記憶を保持する権利がございます。どちらか一つを消去することも、両方を保持することも自由でございます。
>
> なお、当局は実在の郵便局ではございません。
> 貴殿は今、二つの人生の狭間に、立っておられます。
>
> 敬具
> 記憶郵便局

封筒を握りしめた。
二階からは、美咲の安らかな寝息が聞こえる。

しかし、もう一つの記憶の中では、朋子が、病室のベッドで彼の手を握ったまま、静かに息を引き取った日のことも、鮮明に残っていた。

「――どちらを、選べというんだ」
彼は、月の光に向かって呟いた。


第八章 朋子

宗一は、書斎で古いアルバムを開いた。
そこにある写真は、すべて美咲との日々だった。朋子との写真は、一枚もない。

しかし、記憶の中には、確かにあった。

一番鮮明なのは、告知を受けた夜だ。
朋子は、検査結果の紙を握りしめたまま、台所の床に座り込んで泣いた。宗一は何も言えず、ただ隣に座って彼女の背中をさするしかできなかった。換気扇の音だけが、やけに大きく聞こえていた。

結婚式の日、朋子が涙ぐみながら、「私で良かったの?」と聞いたこと。
長女が生まれた日、産院の廊下で、宗一が父にコレクトコールをかけたこと。
最期の日、朋子が微笑んで、「あなたと一緒で、幸せだったよ」と言ったこと。

それらすべてが、今の世界には存在しないのだ。

宗一は、机に突っ伏して、声を殺して泣いた。

朋子。ごめん。ごめんな、朋子。
僕は、若い頃の一つの後悔を消したくて、お前との人生を、消してしまうところだった。
いや、消したのは、僕じゃない。
あの、十六歳の、青臭い僕だ。


第九章 少年への手紙

宗一は、便箋を取り出し、万年筆にインクを入れた。
そして、書き始めた。

> 拝啓、十六歳の風間宗一様
>
> この手紙が届くことを願って書いています。僕は、六十二歳の、あなたです。
>
> 先日、僕は、あなたに会いました。あなたは、緑川さんに告白すると言って、走り出しました。
> その結果、僕の世界は、書き換わりました。美咲さんは、僕の妻になりました。
>
> しかし、それによって、僕がもう一つの世界で愛した女性――朋子――が、この世界から消えてしまいました。
>
> あなたは「知ったことか」と思うかもしれません。その気持ちはわかります。あなたは、僕なのですから。
> でも、これだけは、聞いてほしい。
>
> 愛は、伝えてこそ叶う。それは、正しい。
> しかし、伝えられなかった愛も、それはそれで、一つの愛なのです。
>
> 伝えなかったからこそ、あなたは別の道を歩き、別の人と出会い、別の幸せを手にする。
> どちらが「正解」かは、誰にもわからない。
>
> 僕は、選択をあなたに委ねます。
> 告白しても、しなくても、どちらでも構わない。ただ、選んだ先で出会う人を、大切にしなさい。
>
> 振り返って、「あの時、ああすれば良かった」と思う日が、必ず来ます。
> でも、それは、選ばなかった道への未練であって、選んだ道が間違っていたということでは、決してない。
>
> どの道の先にも、あなたを愛してくれる人が、待っています。
>
> 敬具
> 風間宗一(六十二歳)

その手紙を、玄関の郵便受けに、そっと入れた。
差出人欄には、こう書いた。

「記憶郵便局気付 風間宗一様(十六歳)宛」


第十章 選択

翌朝、目覚めると、頭の中でまた記憶が渦を巻いた。

少年は、あの日、廊下を走り、教室に飛び込んだ。
そこでふっと、不思議なイメージが頭をよぎり、立ち止まった。
緑川美咲は、窓際で、静かに本を読んでいた。

少年は、深呼吸をして言った。
「――緑川さん」

「……なあに?」
美咲が、顔を上げた。

少年の口から出た言葉は、こうだった。
「あの、明日の数学のノート、貸してくれないかな」

美咲は、笑った。右頬に、えくぼができた。
「いいよ」

少年は、ノートを受け取って、教室を出た。
廊下で、彼は、ぽつりと呟いた。
「――今日は、これでいい。いつか、告白する。でも、今日じゃない」

彼は、微笑んだ。
彼の中には、確かに、六十二歳の自分からの手紙があった。

『どの道の先にも、あなたを愛してくれる人が、待っている』


第十一章 朋子との再会

宗一は、目を覚ました。
リビングに降りていくと、壁の家族写真が戻っていた。

朋子の写真だ。
美咲との記憶は、遠い夢のように朧げになっていた。しかし、消えたわけではなかった。心のどこかに、確かに残っていた。

二つの人生を、彼は、抱えて生きていくのだろう。
それが、記憶郵便局からの、最後の贈り物だった。

宗一は、写真の中の朋子に、そっと語りかけた。
「――ただいま」

朋子は、写真の中で、いつもの優しい微笑みを、返してくれた。


第十二章 三通目の手紙

その日の夕方、また郵便受けに、白い封筒が届いた。

> 拝啓、風間宗一様
>
> 貴殿のご選択、確かに承りました。貴殿は、若き日の自分に「告白しなくてもよい」と伝えることを選ばれました。
> しかし、これは「諦めよ」という意味ではないと、当局は理解しております。
>
> 貴殿が伝えたかったのは、「どの道を選んでも、そこには愛がある」ということでございましょう。
> 当局からの最後の配達物を、同封いたします。
>
> 敬具
> 記憶郵便局

封筒の中には、一枚の写真が入っていた。
セピア色の、古い写真。

高校の廊下で、十六歳の宗一と、十六歳の美咲が、並んで写っていた。
美咲は、ノートを差し出して笑っており、宗一は、少し照れくさそうに、それを受け取っていた。

写真の裏には、鉛筆の薄い文字で、こう書かれていた。

> 『一九七八年五月 風間宗一君と緑川美咲さん 撮影:小林朋子』

「――朋子」

宗一は、写真を、震える手で、胸に押し当てた。

あの日、あの廊下に、朋子がいたのだ。
少年が美咲にノートを借りたあの日、その微笑ましい光景をカメラに収めていた少女が、いた。
彼女は、猫背で頼りない、それでいて緑川美咲を密かに想う、少年の横顔を、ずっと見つめていたのだ。

そして、数年後、大学のキャンパスで、宗一は朋子と出会う。
「――あなた、あの時の、風間君でしょう?」

朋子は、そう言って、悪戯っぽく笑ったのだった。


終章 片想いの銀河

夜、宗一は、庭に出て、空を見上げた。
春の星々が、しずかに瞬いていた。

「――片想い、か」
彼は、呟いた。

伝えられなかった想い。伝えた想い。伝えなかったからこそ、別の人と結ばれた想い。

この宇宙には、無数の並行世界がある。そこには、告白した自分、しなかった自分、フラれた自分、結ばれた自分――ありとあらゆる「自分」が、それぞれの人生を、生きている。
そのすべてが、この夜空の星のように、輝いている。

どの星も、正解ではない。どの星も、間違いではない。
ただ、それぞれが、それぞれの光を放って、そこにあるだけだ。

宗一は、夜空に向かって、そっと囁いた。
「――朋子。愛してるよ」

齢を重ねると、そんな言葉さえ、冗句に聞こえるようになる、と、若い頃の自分は言うかもしれない。
だが、今の彼には、その言葉が、確かな重さを持って、口から出た。

星々が、瞬いた。
まるで、宇宙のどこかで、無数の「風間宗一」が、それぞれの愛する人に、それぞれの言葉を、伝えているかのように。

――そう。
世の中、大抵は、片想い。
だが、その片想いが、いつか、どこかの銀河で、両想いになる日が、きっと来る。
その瞬間を、大切にせよ。

六十二歳の風間宗一は、夜空に向かって、静かに微笑んだ。
半分消えかかった記憶の中で、若き日の自分と、朋子と、美咲と――すべての「もしも」の自分たちが、それぞれの銀河で、それぞれの愛を、生きていた。

柱時計が、こつん、と、優しい音を立てた。

(了)


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あとがき

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

この物語を書き終えた今、私自身も、若い頃の自分を思い出しています。

人生は、不思議なものです。

叶わなかった恋があったから出会えた人がいます。
失ったものがあったから見えた景色があります。
後悔があったからこそ、今を大切にできることもあります。

主人公・風間宗一は、二つの人生を知ることになりました。

しかし、現実の私たちには一つの人生しかありません。

だからこそ、その一つを懸命に生きるしかないのでしょう。

もし、この物語を読んで、昔好きだった人を思い出した方がいるなら、それもまた一つの「記憶郵便局」からの手紙なのかもしれません。

過去は変えられません。

けれど、過去の受け止め方は、今日からでも変えられます。

あなたの人生で出会ったすべての人が、どこかの銀河で、今も幸せでありますように。

心より感謝を込めて。