刻堕とし 十三 〜松山鏡異聞・鏡喰らい〜
継ぎ目守異聞
古典落語「松山鏡」より


まえがき
「松山鏡」という噺は、鏡というものをまだ誰も知らなかった時代の村を舞台にしている。死にゆく父親が、娘に一枚の鏡を渡し、「寂しくなったら、これを覗いてみるがいい。父の顔が見られよう」と言い残す。娘は言われた通り、寂しい夜ごとに鏡を覗いては、そこに映る自分自身の顔を、亡き父の生き写しだと信じ込み、毎晩語りかける。
その様子を怪しんだ継母、あるいは亭主が、隠れて何かをしている娘を不義密通と疑い、小箱を開けて自分自身の顔を見つけては、今度はそれを見知らぬ間男だと勘違いして怒り出す。最後は物分かりのよい尼僧が現れて、鏡というものの道理を教え、一同丸く収まる――そんな噺である。
思えばこの噺は、継ぎ目守の圭馬が日頃使っている「鏡面」という仕掛けそのものと、深いところで繋がっている。継ぎ目守は、鏡越しに異界からの報せを受け、鏡越しに継ぎ目を渡る。もし、その鏡が正しく己の姿を映さなくなったとしたら――継ぎ目守という仕事の根幹そのものが揺らぐことになる。
とある写しにおいて、まさにその「鏡が己の姿を正しく映さなくなる」という異変が、あちこちの継ぎ目で多発しているという報せが届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、松山の村へと足を踏み入れることになった。




一 継ぎ目守、鏡が映さぬ夜
いつものように、圭馬の傍らの鏡面が揺れた。だが、その水面に映るはずの、報せの文字も己の顔も、なぜかどちらも映らなかった。代わりに映ったのは、圭馬によく似ていて、しかしどこか目つきの違う、見知らぬ男の顔だった。
「な……」
圭馬が思わず身を引くと、鏡面はふっと元に戻り、ようやく本来の報せが浮かび上がった。
継ぎ目守圭馬へ。演目「松山鏡」における『鏡が正しく己を映す』型が、無数の継ぎ目で崩壊している事案を確認。鏡を覗いた者が、自分ではない何者かの顔を見る事例が多発。継ぎ目守本人の鏡面にも影響が及んでいる兆候あり。至急現地調査されたし。
「弥七、今の見たかい」
「へえ、旦那の顔がちらっと、違う顔に見えやした。……こいつは、いつもの型崩れとは、勝手が違いやすね」


二 松山の村、父の忘れ形見
継ぎ目を抜けると、そこは越後の山里、松山の村だった。この村では、鏡というものを、まだ誰も見たことがなかった。
村の百姓の家で、年老いた父親が病の床に伏せっていた。枕元には、若い娘が寄り添っている。
「お前には、これを形見に遺そう」
父親は、都から持ち帰った小さな鏡を、娘の手に握らせた。
「寂しゅうなったら、これを覗いてみるがよい。父の顔が、そこに見られよう」
まもなく父親は息を引き取った。娘は毎晩、父の形見の小箱をそっと開いては、鏡に映る顔に向かって語りかけるようになった。
「お父っつぁん、今日も精一杯励みました」
弥七がそっと囁いた。
「旦那、あの娘さん、自分の顔を父親の顔だと信じ込んでやがる」
「ああ。だがそれは、噺の型どおりだ。おかしいのは、その先だ」


三 亡き父の顔
数年が過ぎ、娘は嫁いだ。夫は、毎晩のように小箱を抱えてそっと部屋に籠る妻の様子を、次第に気にかけるようになった。
「お前、その小箱には、何が入っているのだ」
「これは、亡くなった父の忘れ形見にございます。寂しい時は、これを見て父と語り合うのです」
夫は初め、その言葉を信じていた。ところが、ある夜、圭馬たちが見守る中、小箱の中の鏡に映った顔が、いつもと違う、見知らぬ男の相貌に変わっているのに、娘自身は気づかぬまま語りかけ続けていた。
「弥七、見ろ。あの娘、亡き父の顔だと信じ込んでるが、実際に鏡に映ってるのは、赤の他人の顔にすり替わってる」
「こいつぁ、確かにおかしい」


四 疑いの眼差し
夫はとうとう我慢できず、妻の留守中に小箱を開けてしまった。中の鏡を覗き込んだ夫は、そこに映った、これまた見知らぬ男の顔――本来であれば夫自身の顔が映るはずのそれを見て、顔色を変えた。
「これは……妻の情夫の顔に違いない」
夫婦の間に、激しい諍いが起きた。妻は身に覚えのないことだと泣きながら訴えるが、夫は聞く耳を持たない。
「弥七、まずいぞ。本来ならこの場面、夫が鏡に映った自分自身の顔を、見知らぬ男だと勘違いして、後で尼僧に道理を教えられ、笑い話として丸く収まるはずだ。だが今は、鏡そのものが、誰の顔も正しく映していない」


五 開かれた小箱
村中の噂を聞きつけた尼僧が、仲裁に入ろうと家を訪れた。
「これこれ、その鏡、しばし拙僧にも見せてはくれぬか」
尼僧が鏡を覗き込むと、そこに映ったのは、尼僧自身の顔ではなく、これもまた見知らぬ人物の顔だった。
「な、なんとしたことじゃ……」
物分かりのよい尼僧でさえ、鏡の道理を説くどころか、困惑するばかりだった。
「弥七、これでは噺そのものが立ち行かない。誰も、鏡越しに自分自身へたどり着けなくなってる」


六 幾千の鏡、映らぬ我が身
圭馬が継ぎ目守の証を掲げると、村の周囲に、幾千もの同じ松山の村が、鏡合わせのように連なって見えた。そのどの継ぎ目でも、鏡は持ち主自身の顔ではなく、誰か別の顔を映し出しており、疑心暗鬼と諍いが際限なく広がっていた。
「弥七、この分だと、俺たち継ぎ目守が普段使ってる鏡面まで、いずれ食い荒らされる」
「旦那、まさか、あっしらの目と鼻の先に、そこまでの化け物が」
圭馬の懐の鏡面が、再びぐらりと揺れ、あの見知らぬ男の顔がちらついた。


七 鏡喰らいの正体
幾千の鏡が収束する先、古い井戸の底のような暗がりに、無数の鏡の欠片を鱗のように纏った影が蹲っていた。
「継ぎ目守か。……この身は、幾百幾千の写しで宙に浮いたままだった『己と気づかぬ姿』から生まれた者。名は鏡喰らい。鏡を覗いた者が、そこに映る顔を自分だと気づかぬ、あの一瞬の戸惑い――それが何よりの馳走よ」
「お前が、あちこちの鏡から、正しい顔を抜き取ってるのか」
「正しく気づかれてしまえば、旨みは失せる。ならば、いつまでも気づかせねばよい。疑い、戸惑い、諍う――それこそが、この身の糧よ」
弥七が唸った。
「旦那、こいつぁ、あっしらの商売道具そのものを喰い物にしてやがる」


八 圭馬、己の鏡を覗く
鏡喰らいは、圭馬に向かって嗤いながら、大きな鏡の欠片を突きつけた。
「継ぎ目守とて、例外ではない。……さあ、覗いてみよ。お前は、そこに映るのが本当に己の顔だと、言い切れるか」
圭馬が恐る恐る鏡を覗くと、そこには、自分によく似ていながら、目の奥に昏い影を宿した、見知らぬ男の顔が映っていた。
「これは……」
一瞬、圭馬の足元が揺らいだ。継ぎ目守として、幾つもの噺の型を継ぎ直してきた自分自身が、果たして本当に自分なのか――そんな根源的な疑いが、胸の底から湧き上がってくる。


九 弥七の眼力
「旦那!」
弥七が、鏡越しの圭馬の肩を、後ろからがしっと掴んだ。
「そこに映ってる顔なんぞ、知ったこっちゃありやせん。あっしが知ってるのは、井戸から呼び出されて、面倒臭そうに起き上がる旦那の顔でさ。皿屋敷でお菊さんに優しく語りかけた顔、居残り佐平次に感心してた顔、元犬のシロさんの一途さに唸ってた顔――そういう積み重ねが、旦那の顔ってもんでしょうが」
「弥七……」
「鏡なんぞ、いくらでも誤魔化しが利く。だが、あっしが隣で見てきた旦那は、誤魔化しようがねえ。それが、あっしにとっての、本物の旦那の顔でさ」
圭馬の胸の奥で、揺らいでいた何かが、すとんと定まった。


十 尼僧の知恵、正しき見方
圭馬は鏡喰らいに向き直った。
「お前の狙いは分かった。鏡に映る姿だけを、自分自身の証だと思い込ませることだ。だが、鏡はただの表面だ。自分が自分である証は、そんなものだけじゃない」
「戯言を。鏡こそが、何よりも雄弁に姿を語るというに」
「いいや。あの尼僧が本来説くはずだった道理はな、鏡は正しく映すものだが、それが誰かは、覗き込む者自身が、そこに宿した心当たりで決めるものだってことだ。……お前がいくら顔をすり替えても、その顔を自分だと『認める』心まではすり替えられねえ」
圭馬は懐から継ぎ目守の証を掲げ、幾千の鏡すべてに向けて、力強く語りかけた。
「松山の娘よ、あんたが鏡に見ていたのは、亡き父の顔でもあり、あんた自身の顔でもある。あんたが父によく似ているというその事実こそが、何よりの証だ。夫よ、あんたが鏡に見たのは、他でもないあんた自身だ。疑う前に、まずそれを認めてやりな」


十一 型を取り戻す
圭馬の言葉が、幾千の継ぎ目すべてに染み渡っていくと、鏡はそれぞれ、正しい持ち主自身の顔を映し始めた。娘は鏡に映る自分自身の面影の中に、確かな父の面影を見出し、涙ぐみながらも穏やかに微笑んだ。夫は鏡に映る、間抜けにも取り乱していた自分自身の顔に気づき、ばつが悪そうに頭を掻いた。
鏡喰らいは、正しく認められてしまった無数の反射に耐えかね、纏っていた鏡の鱗を一枚また一枚と剥がされながら、悲鳴もなく静かに霧散していった。
「ぐ……気づかれては、旨みも、何も……」
幾千の松山の村は、一枚また一枚と収束していき、やがて、あの一つの村だけが、正しい形で残った。


十二 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、鏡に映ってたのは、亡き父の顔でも、間男の顔でもござんせん。ただの、自分自身の顔でございました。人は誰しも、鏡に映る自分をすぐには自分と気づかねえもんでございます。だからこそ、隣にいる誰かが、そいつの本当の顔ってやつを、ちゃあんと見ていてくれる。それが何より、心強いってもんでございましょう。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。



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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十三作目、今回は「松山鏡」という、鏡を知らぬ村を舞台にした、素朴で滑稽な噺を題材にしました。
継ぎ目守シリーズは、そもそも「鏡面」を通じて異界からの報せを受け取り、継ぎ目を渡るという設定で始まっています。今回はその根幹そのものを揺るがす題材として、「鏡が正しく己を映さなくなる」という事件を描いてみました。圭馬自身が、鏡に映る見知らぬ顔に戸惑う場面は、シリーズを通じて初めて、継ぎ目守自身の足元が揺らぐ瞬間だったのではないかと思います。
それを支えたのが、弥七の「積み重ねてきた顔こそが本物だ」という一言でした。鏡という表面だけがその人を語るのではなく、隣で見てきた者の記憶や積み重ねもまた、その人を確かにする証なのだという、シリーズを通じてのテーマにも通じる結末になったのではないかと思います。
自分の顔に気づかない滑稽さと、それを見守る誰かの温かさ、その両方を楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。