刻堕とし 十二 紙入れ異聞 確定喰らいの事
継ぎ目守異聞
まえがき
「紙入れ」という噺の肝は、最後まで白黒つけないところにある。若い男、新吉は、世話になっている旦那の女房と、ふとした過ちを犯してしまう。ある晩、旦那が不意に帰ってきて、新吉は命からがら逃げ出すが、自分の名を記した紙入れ、今でいう名刺入れのようなものを、うっかり寝間に忘れてきてしまう。
翌日、生きた心地もせず店を訪ねた新吉は、旦那から遠回しに昨夜妙な忘れ物があったと聞かされ、冷や汗をかく。だが旦那は、知っているのかいないのか、最後まではっきりとは言わない。もし亭主が間抜けなら心配はいらぬが、もし亭主が利口者だったら、それはそれで女房の機転次第、そんななんとも言えない曖昧な塩梅で噺は幕を閉じる。
この噺の面白さは、知っているか知らないかという二つの状態が、最後まではっきり定まらないまま、それでいて丸く収まってしまうところにある。曖昧なままにしておく大人の分別、とでも言おうか。
ところが、とある写しにおいて、このあえて確定させないという型が、無理やり引き裂かれ、あちこちの継ぎ目で知っているか知らないかのどちらかに、強制的に決着をつけられてしまう事件が多発しているという報告が届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、その紙入れの行方を追うことになった。
一 継ぎ目守、紙入れの行方
鏡面が、二重写しのようにちらちらと明滅していた。一つの像が、重なり合った二枚の絵のように、定まらないまま揺れている。
継ぎ目守圭馬へ。演目紙入れにおけるあえて確定させない型が、無数の継ぎ目で強制的に崩壊させられる事案を確認。曖昧なまま丸く収まるはずの間柄が、各所で暴露、破局へと転じている模様。至急現地調査されたし。
圭馬が鏡面を睨むと、弥七が困った顔で立っていた。
「旦那、紙入れたあ、旦那が知ってるんだか知らねえんだか、最後まで匙加減で丸く収める、大人の噺のはずなんでさ」
「曖昧なまま収まるはずが、暴露に転じるたあ穏やかじゃねえな。行ってみよう」
二 新吉と女房
継ぎ目を抜けると、そこは江戸のとある商家の裏手だった。若い奉公人風の男、新吉が、こそこそと裏木戸から出てくるところだった。
「新吉さん、また今度、ゆっくりと」
「へ、へい。それじゃあっしはこれで」
物陰から様子を窺っていた弥七が、小声で囁いた。
「旦那、ありゃあまずいことになってやすね。あの女、旦那様の女房でさ」
「弥七、噺の筋どおりだ。この後、旦那が不意に帰ってくる」
三 忘れ物
案の定、その晩、旦那が急な用向きで早く帰ってきた。新吉は慌てて縁の下に身を潜め、旦那が寝間に入った隙をついて、命からがら逃げ出した。
だが、逃げる途中で、懐に入れていたはずの紙入れが、寝間の布団の下に落ちていたことに、新吉はまだ気づいていない。
翌朝、身支度を整えていた新吉は、懐がやけに軽いことに気づき、青くなった。
「し、しまった。あっしの紙入れ、あそこに置き忘れちまった」
紙入れの中には、新吉の名の入った書付が入っている。名が記されているからこそ、誰のものかは一目で知れてしまう。もし旦那がそれを見つけていたら、新吉は生きた心地もせず、店へと向かった。
四 旦那の匙加減
「新吉、おはよう。ときに、お前さんに聞きたいことがあるんだが」
「ひ、ひえ、な、なんでござんしょう」
「実は昨夜、うちの寝間に、妙な紙入れが落ちていてな。中を見たら、名の入った書付が入っていた」
新吉は今にも卒倒しそうな顔で、しどろもどろに答える。
「そ、それは、その、ど、どうなさいましたので」
旦那は、にやりともせず、しかしどこか含みのある笑みを浮かべて言った。
「なあに、新吉。心配するねえ。亭主が間抜けなら紙入れの忘れ物は案ずるに及ばず、もし亭主が利口者だったらそこから先は女房の機転次第、ってな古い言葉もあるくらいだ。どうだい、うちのかみさんの機転は、大したもんだろう」
新吉には、旦那が本当に何もかも承知の上で言っているのか、それとも本当にただの世間話として言っているのか、最後まで見当がつかなかった。
五 幾千の紙入れ
その場面を見届けた圭馬が、ふと懐から継ぎ目守の証を取り出すと、店の壁が透け、その奥に、幾千もの同じような場面が入れ子のように連なっているのが見えた。
こりゃあ一枚の紙入れの噺じゃねえな、と圭馬が呟く。
だが、様子がおかしい。多くの継ぎ目では、旦那が新吉を問い詰め、女房を折檻し、店を追い出し、家庭が壊れ、事件沙汰にまで発展しているものもあった。
「弥七、見ろ。本来の噺は、旦那の匙加減一つで、丸く収まるはずだ。だが、この継ぎ目の大半で、匙加減も何もなく、いきなり白黒つけられちまってる」
「旦那、こいつぁ、あの知ってるんだか知らねえんだかっていう、粋な曖昧さが、根こそぎ引っこ抜かれてやがるんでさ」
六 確定喰らいの正体
幾千の継ぎ目が収束する先、薄暗い蔵の奥に、二つの貌を持つ影が蹲っていた。片方の貌は勝ち誇るようににやにやと笑い、もう片方の貌は生気を失った死人のように無表情に沈んでいる。その足元には、無理やり引き裂かれ、真っ赤な血のように染まった紙入れがいくつも転がっていた。
「継ぎ目守か。この身は、幾百の写しで宙に浮いたままだった知っているか知らないかの狭間から生まれた者。名は確定喰らい。曖昧なままでは、腹の足しにならぬ。白黒はっきりつけさせてこそ、旨みが出る」
「お前が、あちこちの継ぎ目で、無理やり真実を暴かせてるのか」
「暴露の瞬間の、あの動揺、あの絶望、あの醜態。バレちまったと、すべてが壊れる瞬間の音が、何よりの馳走よ。曖昧なまま丸く収めるなど、味気のうてかなわぬ」
弥七が拳を握った。
「旦那の匙加減も、女房の機転も、みんな台無しにしてやがるんでさ」
七 旦那という要石
圭馬は、あの旦那の姿を思い返した。
「弥七、あの旦那の言い草、思い出してみろ。亭主が間抜けなら、亭主が利口者なら。あれは、白黒つけない代わりに、相手の器量を試してるんだ。責め立てず、かといって見過ごすでもなく、女房の分別を信じて、あえて宙ぶらりんのままにしておく。あれこそが、この噺の要石だ」
「なるほど。あの旦那の懐の深さが、確定喰らいにとっちゃ、一番の邪魔ってわけでさ」
「ああ。だから確定喰らいは、旦那の匙加減そのものを引っこ抜いて、単純な暴露に作り変えてやがるんだ」
八 弥七、覗いてしまう
調べを進めるうち、弥七がふと、ある継ぎ目の障子の隙間に目を奪われた。
「おっと、覗きは野暮と分かっちゃいるんでさ。分かっちゃいるんですがね、いけねえと思えば思うほど、中がどうなったか、男の性ってやつで、つい」
その瞬間、確定喰らいの気配が、弥七の背後にすっと伸びた。
「見てしまったな。ならば、その先まで、はっきりさせてやろう」
「弥七」
圭馬がとっさに弥七の目を覆い、その場から引き離した。
「弥七、知りたいって気持ちは分かる。だが、何もかも白黒つけりゃいいってもんじゃねえ。覗き見しちまった分は、見なかったことにする分別も、時には要るんだ」
九 圭馬の対応
圭馬は確定喰らいの前に立ち、あえてゆっくりと口を開いた。
「確定喰らい、お前に一つ、匙加減ってもんを教えてやろう」
「匙加減、だと」
「そうだ。お前は白黒つけることしか知らねえようだが、だったらこれはどうだ。お前さん、今ここで俺に正体を見破られてるのか、それとも上手く騙せてるのか、どっちだと思う」
「な」
「知ってるようで知らねえ、知らねえようで知ってる。お前の存在そのものを、その薄暗い狭間に放り出して、宙ぶらりんにしておいてやる。居心地が悪いだろう。だがな、全部を暴かねえのが、江戸の、この噺の粋ってもんだ」
圭馬の言葉が、幾千の継ぎ目すべてに、じわりと染み渡っていく。強制的に暴かれかけていた知っているか知らないかの狭間が、少しずつ、あるべき曖昧さを取り戻し始めた。
十 型を取り戻す
「ぐ、曖昧なままでは、旨みが、身が、保たぬ」
確定喰らいは、白黒つかぬまま宙に浮いた自分自身の正体に耐えかね、二つの貌をぐにゃりと歪ませながら、霧のように薄れていった。
幾千に連なっていた継ぎ目は、一枚また一枚と収束していき、やがて、あの商家の一夜だけが、正しい形で残った。
新吉は、旦那の顔色を必死に窺いながらも、結局その日、何もはっきりとは分からずじまいだった。旦那はただ、いつもと変わらぬ様子で店先に立っていた。
十一 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、旦那が本当のところを知ってたんだか、知らなかったんだか、これは誰にも分かりゃしません。もし亭主が間抜けなら、まあ大事はござんせん。もし亭主が利口者だったなら、そこから先は女房の腕次第、というやつでございます。何もかも白黒つけりゃいいってもんじゃねえ、そんな大人の分別も、たまには乙なもんでございましょう。本日はこれまで、何卒お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。
了
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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十二作目、今回は紙入れという、白黒つけない大人の噺を題材にしました。
この噺の魅力は、旦那が知っているのかいないのか、最後まではっきりさせないまま、それでも丸く収まってしまうという、その懐の深さにあると思います。今回はそのあえて確定させないという型そのものを、暴露の快楽だけを求める怪異確定喰らいが食い荒らすという事件にしてみました。
圭馬が最後に取った策は、剣で斬るのでも術で祓うのでもなく、あえて白黒つけずにおくという、この噺そのものの流儀を、そのまま怪異への切り返しに使うというものでした。何でもかんでも明らかにすることだけが誠実さではない、という主題を、シリーズを通じて描けていれば幸いです。
知っているようで知らない、知らないようで知っている、そんな大人の駆け引きの噺を楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。

