つゆのあとさき
〜雨宿町(あまやどりちょう)の話〜


まえがき
六月、あの重苦しく湿った季節がやってくるたびに、私たちの心には少しだけ「綻び」が生じるのかもしれません。
春のきらめきが去り、本格的な夏の眩しさが訪れる前、ほんのひととき世界を灰色に染める梅雨。それはまるで、忙しない日常の歩みを一度止めさせ、胸の奥深くに沈澱している「かつての記憶」を浮かび上がらせる呼び水のようです。
本作の主人公・高柳修一もまた、そんな雨の匂いに誘われ、二十一年前に置き去りにしてきた過去の悔恨と向き合うことになります。
この物語は、単なる失われた恋の追憶ではありません。
人は誰しも、他人には見せられない傷や、誰にも踏み荒らされたくない秘密の場所──自分だけの「谷底」を抱えて生きています。そして、それらをすべて言葉にせずとも、お互いの存在を認め合い、静かに寄り添うことのできる「大人の関係」の尊さを描きたいと思い、筆を執りました。
雨宿町に降るやわらかな雨音が、ページをめくるあなたの心にも、静かに優しく響くことを願っています。




序章 笑えない日

鏡の中の自分が、うまく笑えていないことに気づいたのは、六月に入って最初の月曜日だった。
高柳修一は洗面所の鏡の前で、いつものように口角を上げてみた。営業先で名刺を渡すときの顔、部下の失敗を許すときの顔、由美子の手料理を「うまいうまい」と食べるときの顔。どれもずっと、意識せずに作れていたはずのものだった。それが、なぜか今朝はうまく像を結ばない。頬の筋肉は動いているのに、目の奥がついてこない。まるで顔だけが独立した生き物になって、勝手に表情という名の仮面を試着しているような、そんな薄気味悪さがあった。
四十三歳。編集者という仕事柄、人の顔色を読むことには慣れているはずだった。それなのに、自分の顔だけがどうにも読めない。
修一はその朝、あえて笑うことをやめた。うまく作れないなら、無理に目指さなくてもいいだろう。そう思うことにした。
会社に着くと、後輩の女性編集者が「課長、今日はなんだか素のままって感じですね」と言った。悪気のない、むしろ好意的な口調だった。修一は曖昧に頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。
その日から、修一は少しずつ、心のままに動いてみることにした。気の乗らない飲み会は断り、読みたくもない企画書に「面白い」と嘘をつくのをやめ、電車で座りたければ躊躇なく座った。すると不思議なもので、周囲の反応が変わった。「あれ、今日の高柳さん、いつもと違いますね」という声が、あちこちから聞こえてくるようになった。
その「あれ?」という声を聞くたびに、修一の中で二つの声がせめぎ合った。
ひとつは、「これじゃあいかん、早く元の自分に戻らなくては」と諭す声。もうひとつは、それとは正反対に、「そんな面倒なことをしなくても、そのまま、思うままにやってしまえばいい」とささやく声だった。
まるで肩の両側に、天使と悪魔が乗っているようだった。
その悪魔の声が妙に説得力を持ち始めたのは、ちょうどそのころ、六月の長雨――梅雨が、東京にもやってきたからかもしれない。
夏を目前にした季節に、梅雨は決まって訪れる。それはまるで、春から夏へと駆け上がろうとする気分を、もう一度谷底へと突き落とすかのようだった。
そして修一は、その谷底で、ひとつの夢を見ることになる。
二十年以上も前に置き去りにしてきたはずの、遠い夏の――いや、遠い梅雨の記憶を。


第一章 雨宿町(あまやどりちょう)

夢の中で、修一は二十二歳だった。
場所は雨宿町。群馬と長野の県境近く、地図を広げてもすぐには見つからないような、小さな温泉町だ。大学のサークル合宿で訪れたその町で、修一は遥という女性と出会った。
遥は同じ大学の一級下、文学部の学生だった。色白で、笑うと目が三日月のように細くなる女性だった。合宿の三日目、みんなが酒盛りをしている宿を抜け出し、二人だけで町を歩いた夜のことを、修一は今でも――いや、今になってようやく、鮮明に思い出せる。
雨宿町という名前は、その昔、旅の僧がにわか雨を避けて一晩泊まった祠にちなむのだと、宿の女将が教えてくれた。「だからこの町じゃ、雨はお客人を運んでくるものだって、昔から言い伝えられとるんですよ」。女将はそう言って笑っていた。
修一と遥は、その後半年ほど、東京で密かに付き合った。誰にも言わない、二人だけの秘密の恋だった。長続きしなかった理由を、修一は正確には覚えていない。就職活動が忙しかったから、遥に別の相手ができたと噂で聞いたから、あるいは単に、若さゆえの臆病さからか。
覚えているのは、最後に会った日のことだけだ。
その日も、東京は梅雨の真っ最中だった。大学の裏にある小さな喫茶店で、遥は何かを言おうとしていた。修一はそれを聞くのが怖くて、彼女の言葉が終わる前に、席を立ってしまった。
振り返らずに、店を出た。
背中に、遥の視線を感じていた。呼び止める声も、追いかけてくる足音もなかった。ただ、雨の匂いだけが、いつまでも修一の後をついてきた。
それから二十一年。修一は遥のことを思い出さない生活を、うまく築いてきたつもりだった。由美子と結婚し、娘が生まれ、仕事も順調だった。遥という名前は、記憶の底に沈んだ小石のように、静かに、動かずにあるはずだった。
それなのに――。
夢の中の修一は、あの喫茶店の席に座ったまま、動くことができない。遥が何かを言おうとしている。その口の動きを、修一は今度こそ、逃げずに見届けようとする。
しかし夢は、いつもそこで途切れる。遥の唇が最初のひと言を紡ぐ、まさにその瞬間に、修一は目を覚ましてしまうのだった。
「なんで、いまごろ……」
布団の中で、修一は天井に向かってつぶやいた。隣では由美子が、規則正しい寝息を立てている。時計は午前四時十二分を指していた。窓の外では、昨夜から降り続く雨が、まだやんでいなかった。


第二章 天使と悪魔

その夢を境に、修一の日常には、小さな綻びが増えていった。
最初は、ただの偶然だと思っていた。通勤電車の中吊り広告で「雨宿温泉」という文字を見かけた日。取引先の女性が、遥と同じ名前の会社に勤めていると知った日。エレベーターで乗り合わせた誰かの香水が、遥がつけていたものによく似ていた日。
ひとつひとつは取るに足らない偶然だ。けれど、それが重なっていくうちに、修一の中で、ある感覚が芽生え始めた。まるで梅雨の湿気が少しずつ部屋の隅にカビを広げていくように、「彼女が、近くにいる」という感覚が、じわりじわりと修一の内側を侵食していった。
心の中では、相変わらず天使と悪魔がせめぎ合っていた。
天使は言う。「いい歳をして、若い頃の未練を引きずるのはみっともない。由美子と娘のために、そんな感覚はきっぱり断ち切るべきだ」。
悪魔はささやく。「別に、会いに行くわけじゃない。ただ思い出すだけだ。誰にも迷惑はかけていない。むしろ、思い出すことすら禁じられる理由なんて、どこにあるんだ?」
修一は仕事帰り、駅前の書店でふと文学コーナーに立ち寄った。遥が好きだった作家の新刊が、平積みになっていた。手に取り、ぱらぱらとページをめくる。装丁の匂いに、記憶の底の何かが疼いた。
レジに向かおうとしたとき、背後から声をかけられた。
「高柳さん?」
振り向くと、見知らぬ中年女性が立っていた。人違いだったらしく、女性はすぐに「あ、すみません、人違いでした」と頭を下げて去っていった。
それだけのことだったのに、修一の心臓は、しばらく早鐘を打ち続けた。もし、あれが遥だったら。もし、あの一瞬に振り向いた顔が、二十年前のあの喫茶店で見た顔と重なっていたら。
修一は本を買わずに、書店を出た。
雨はその日も降っていた。傘をさして歩きながら、修一はふと、自分がどちらの声に従おうとしているのか、わからなくなっていることに気づいた。天使の説教にも、悪魔の誘惑にも、どちらにも完全には与しない、宙ぶらりんの自分。
その宙ぶらりんの感覚こそが、実は一番危うい場所なのだということに、修一はまだ気づいていなかった。
家に帰ると、由美子が夕食の支度をしていた。味噌汁の匂いと、テレビの天気予報の声。「明日から一週間、ぐずついた天気が続くでしょう」とアナウンサーが告げていた。
いつもと変わらない、平凡な夜だった。
その平凡さが崩れるのは、それから三日後のことだった。


第三章 名前を呼んだ夜

その夜、由美子は珍しく、赤ワインを一本開けていた。娘の美桜が部活の合宿で家を空けている、久しぶりの二人きりの夕食だった。
「たまにはゆっくり飲もうと思って」
由美子はそう言って、修一のグラスにも注いだ。結婚して十八年、こんなふうに二人だけでゆっくり食卓を囲むことも、近ごろはめっきり減っていた。
修一はワインを飲みながら、由美子の話に相槌を打っていた。娘の進路のこと、実家の母親の体調のこと、来月のマンションの更新費用のこと。ごく普通の、夫婦の会話だった。
だが修一の意識のどこか奥のほうでは、あの夢の続きが、じわじわと像を結ぼうとしていた。喫茶店の席、雨の匂い、遥の唇の動き。何かを言おうとしている彼女の顔が、由美子の顔と交互に明滅する。
「――でね、母さんったら、また同じ話を三回もするのよ」
由美子が笑いながら、こちらを見た。修一もつられて微笑もうとした。そのとき、口が、ひとりでに動いた。
「遥――」
その一音が、修一の口から零れ落ちた瞬間、部屋の空気が固まった。
修一自身、何を口にしたのか、一拍遅れて理解した。血の気が引くのがわかった。それから間髪を入れず、今度は顔中から脂汗が噴き出し、耳の裏がかあっと熱くなった。
――しまった。
この場面、どうすればいい。誤魔化すべきか。開き直るべきか。それとも、すぐさま土下座するほどの勢いで謝るべきか。
その判断を、修一はコンマ数秒の間に、頭の中でぐるぐると回した。天使は「正直に謝れ」と叫び、悪魔は「聞き間違いだと押し通せ」と耳元でささやいた。
由美子は、グラスを口元に運んだまま、しばらく動かなかった。
「……何て言った?」
由美子の声は、驚くほど静かだった。怒っているのか、ただ聞き逃しただけなのか、その声色からは判別がつかない。
「いや」修一は喉の奥から声を絞り出した。「――遥か昔の話だな、って。母さんの昔話、遥か昔だなって、そう言おうとして」
我ながら苦しい言い訳だった。だが由美子は、それ以上追及してこなかった。
「ふうん」
そう言って、由美子はグラスを傾け、話題を娘の進路のことに戻した。何事もなかったかのように。
修一はほっと胸を撫で下ろした。同時に、心のどこかで、奇妙な違和感が疼いた。由美子はあまりにも、あっさりと引き下がりすぎていなかったか。
その夜遅く、風呂から上がった修一が寝室に入ると、由美子はすでに布団に入って、背を向けて眠っていた――ように見えた。
修一は明かりを消し、隣に横になった。天井を見上げながら、修一は思う。誤魔化された振りをしてくれる女なのか、本当に気づかなかった女なのか。それとも――すべてを承知の上で、あえて何も言わずにいる女なのか。
闇の中で、由美子の背中は、静かすぎるほど静かだった。


第四章 あとさきという店

それから修一は、仕事が手につかなくなっていった。
打ち合わせ中に、遥のことをふと思い出す。企画書を書いていて、気づけば「雨宿」という単語を無意識に打ち込んでいる。夜、由美子が寝静まった後、修一はスマートフォンで「雨宿町」を検索するようになった。
検索結果に出てきたのは、寂れた温泉街の観光協会のページと、いくつかの個人ブログだけだった。その中のひとつ、十年ほど前に更新が止まっているブログに、古い喫茶店の写真があった。
『あとさき』
木製の看板に、そう書かれていた。修一と遥が最後に会った、あの東京の喫茶店と同じ名前だった。いや――ブログの文章をよく読むと、事情が違った。この店は、雨宿町にある店だという。東京の店の名を継いで、遥自身が、大学卒業後にこの町で開いた店だというのだ。
修一は画面を見つめたまま、しばらく息をするのを忘れていた。
ブログの更新は、十年前でぴたりと止まっていた。
その週末、修一は「学生時代の友人と会う」と由美子に告げ、新幹線と在来線を乗り継いで、二十一年ぶりに雨宿町へ向かった。梅雨前線が停滞し、車窓には終始、灰色の景色が流れていった。
町は記憶よりもずっと小さく、寂れていた。かつて賑わっていたはずの温泉旅館は半分がシャッターを下ろし、土産物屋の看板も色褪せていた。
『あとさき』は、駅から歩いて十五分ほどの、川沿いの通りにあった。木製の扉には「営業中」の札がかかっていたが、店内は薄暗く、人の気配がなかった。
扉を押すと、からんとベルが鳴った。
奥から出てきたのは、遥ではなかった。腰の曲がった、七十過ぎと見える老婦人だった。
「いらっしゃい。こんな雨の日に、お客さんなんて珍しい」
老婦人は志乃と名乗った。この店の、今の店主だという。
「遥さんという方を、探しているんですが」
修一がそう切り出すと、志乃は雨に濡れた修一の顔を、じっと見つめた。まるで、何かを確かめるような目だった。
「……高柳さん、ですね」
修一は驚いて、思わず一歩後ずさった。名乗ってもいないのに、なぜ。
「遥さんから、聞いておりました。いつか雨の季節に、あなたが訪ねてくるかもしれないって」
志乃はそう言って、修一に椅子を勧めた。窓の外では、川面に雨粒が無数の輪を描いていた。
「あの子は、この店を開いてから、毎年この時期になると、あなたの話をしていましたよ。二十二の夏、いいえ、梅雨の日に、何かを言おうとして、言えなかったって」
修一の胸が、きしむような音を立てた。
「彼女は、今――」
志乃は、修一の言葉を遮るように、静かに首を振った。
「十年前の、六月でした。この店から駅へ向かう途中、川が増水していて。傘を差していて、足を滑らせて」
言葉の続きを、志乃は口にしなかった。しなくても、修一には十分すぎるほど伝わった。
店内には、古い柱時計の音だけが響いていた。


第五章 谷底の再会

修一はしばらく、言葉を失っていた。雨音だけが、耳の奥で大きくなっていくようだった。
「彼女は、あの日――東京の喫茶店で、俺に何を言おうとしていたんでしょうか」
やっとの思いで、修一はそう尋ねた。二十一年間、ずっと胸の底に沈めてきた問いだった。
志乃は、カウンターの奥から、一冊の古びたノートを取り出した。革の表紙はすっかり色褪せ、端がめくれている。
「あの子が、この店を開いてすぐの頃から、つけていた日記です。誰にも見せるなと言われていましたが……もう、時効でしょう」
志乃はページをめくり、ある一節を指し示した。修一はそれを、震える指でなぞった。
―― 六月十四日。今日もまた、あの日の夢を見た。修一くんが、私の話を最後まで聞かずに、店を出ていく夢。本当は、あの日、私はこう言おうとしていた。「怖がらなくていいよ、ちゃんと聞かせて」って。彼が就職のことで悩んでいるのを、私は知っていた。だから、ちゃんと支えたいと思っていた。それなのに、彼は逃げるように出ていってしまった。私は、呼び止める勇気がなかった。今でも思う。もし、あのとき呼び止めていたら、私たちは、どうなっていただろう。――
修一の目の奥が、熱くなった。
彼女が去っていったのではなかった。自分が、逃げたのだ。彼女の言葉を聞くのが怖くて、勝手に「別れを告げられる」と決めつけて、背を向けたのは、自分のほうだった。
「あの子はね」志乃が静かに言った。「あなたを恨んでなんかいませんでしたよ。ただ、毎年この季節になると、寂しそうな顔をして、川を眺めていました」
窓の外、川はいよいよ水嵩を増していた。
その時だった。
カウンターの奥、暖簾の向こうに、ふっと人影が動いた気がした。修一は思わず立ち上がった。
「今――」
志乃は、驚いた様子もなく、ただ穏やかに微笑んだ。
「雨の日は、時々あるんですよ。誰かが、ふらりと立ち寄っていくような気配が」
修一はカウンターの奥を覗き込んだ。そこには、誰もいなかった。ただ、かすかに、あの日の喫茶店で嗅いだのと同じ、雨に濡れた木の匂いがしただけだった。
修一は、その匂いに向かって、二十一年越しの言葉を口にした。
「――聞かせてくれ。ちゃんと、最後まで」
答える声はなかった。けれど、店の奥の暖簾が、風もないのに、一度だけ、ふわりと揺れた。
修一は、それで十分だと思った。


第六章 器(うつわ)

東京に戻った修一を、由美子はいつもと変わらぬ様子で迎えた。
「学生時代の友人」に会ってきたという話を、由美子は特に詮索することもなく聞き流した。修一はそのことに、かえって落ち着かない気持ちになった。
その夜、修一は思い切って切り出した。
「――先週、変なことを口走っただろう。あれのこと、聞かないのか」
由美子は洗い物の手を止め、少し間を置いてから、こちらを見ずに答えた。
「聞いてどうするの」
その一言に、修一は返す言葉を失った。
「あなたね」由美子は水を止め、タオルで手を拭きながら、続けた。「結婚して十八年よ。あなたが時々、遠い目をしてため息をつく季節があること、知らないとでも思った? 毎年、梅雨の時期になると、決まって」
修一は言葉を失った。
「気づいて――いたのか」
「気づかないわけ、ないでしょう」
由美子は微笑んだ。それは怒りでも呆れでもない、どこか懐かしむような微笑みだった。
「私にもね、あるのよ。あなたには言ったことないけど」
由美子は台所の椅子に腰かけ、窓の外の雨を見つめた。
「大学四年の冬、婚約寸前まで行った人がいたの。事故で、突然いなくなった人。あなたと結婚してからも、しばらくは、その人の夢を見ることがあった。特に、あの人と最後に会った日と同じ、雪の降る日にはね」
修一は、由美子の横顔を見つめた。十八年連れ添って、初めて聞く話だった。
「言わなかったのは、隠していたわけじゃないの。ただ――それは、私だけの、大事な谷底だったから。誰にも踏み荒らされたくない場所」
由美子はそう言って、修一を見た。
「あなたにも、そういう場所があるんでしょう。今も」
修一は頷くしかなかった。
「それでいいのよ」由美子は静かに続けた。「見て見ぬふりをするのとは、違うの。知っていて、それでも、あなたの隣にいると決めているだけ。私たち、お互いにそういう谷底を、ひとつずつ抱えて生きているんだと思う」
修一の脳裏に、志乃の店で見た、あの古びたノートの文字が浮かんだ。誰にも見せられない、それぞれの季節の記憶。
「あなたが誤魔化そうと、開き直ろうと、慌てて謝ろうと」由美子は微笑んだ。「私は多分、その全部を見抜いてる。その上で、何も言わずにいてあげるだけの、器はあるつもり」
窓の外で、雨がやんでいくのがわかった。厚い雲の切れ間から、うっすらと、夏の気配をはらんだ光が差し込んでいた。


終章 またつゆが来る

それから一年が過ぎた。
六月、修一はまた、鏡の前でうまく笑えない朝を迎えた。だが今度は、それを不吉な兆候だとは思わなかった。ただ、季節が巡ってきただけのことだ。梅雨は毎年やってくる。谷底は、誰の心にも、そっと口を開けて待っている。
その週末、修一は由美子を伴って、雨宿町を再び訪れた。今度は、隠し立てすることなく、正直に行き先を告げてのことだった。
『あとさき』の扉を開けると、志乃が変わらぬ様子で迎えてくれた。由美子は志乃に深々と頭を下げ、「主人が、お世話になりました」とだけ言った。志乃は何も詮索せず、ただ「よくいらっしゃいました」と微笑んだ。
三人で、川沿いの窓辺の席に座った。由美子は、修一が初めてここに来た日のことを、まるで自分もその場にいたかのように、静かに聞いていた。
窓の外、川はあの日よりも穏やかに流れていた。雨は降っていたが、それは激しい雨ではなく、町全体をやわらかく包み込むような、静かな雨だった。
「あの子がね」志乃がぽつりと言った。「昔、こんなことを言っていました。梅雨って、悪いものだけじゃないのよって。降り注いだ分だけ、地面の下では、見えない根っこが、静かに育っているんだって」
修一は、由美子と目を合わせた。由美子は小さく頷いた。
帰りの電車の中、由美子は修一の肩に軽くもたれかかりながら、言った。
「あなたの中の天使と悪魔、まだ喧嘩してる?」
修一は、少し考えてから、笑った。今度は、うまく笑えた気がした。
「たぶん、これからもずっと、喧嘩し続けるんだろうな。それが人間ってものなんだろう」
由美子はくすりと笑い、窓の外に目をやった。
「それでいいのよ。誤魔化しても、開き直っても、平謝りしても――全部ひっくるめて、あなたなんだから」
電車は、灰色の雲の下を走り続けていた。だがその雲の向こうには、確かに夏の気配が待っている。梅雨は、いつか必ず明ける。そして季節はまた巡り、来年の六月には、きっとまた同じ谷底が、誰かの心の中に、そっと口を開けているのだろう。
それでも、隣に誰かがいてくれるのなら――その谷底も、悪いものだけではないのかもしれない。
修一はそう思いながら、由美子の手に、そっと自分の手を重ねた。

(了)


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あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作『つゆのあとさき ― 雨宿町の話』は、日常の中にふっと現れる「非日常の隙間」と、大人の夫婦が織りなす「沈黙の信頼」をテーマに執筆した作品です。
作中、修一の妻である由美子は、夫の不貞とも取れる失言を責め立てることはしません。彼女自身にもまた、胸の奥に秘めた大切な「谷底」があったからです。すべてを暴き立て、白黒つけることだけが正しさではない。お互いのグレーな部分や、過去の傷跡をまるごと抱え込むだけの「器」を持つことこそが、年月を重ねた夫婦の、ひとつの美しい完成形ではないか。そんな想いを、由美子の「知っていて、それでも、あなたの隣にいると決めているだけ」という言葉に込めました。
ちなみに、舞台となった「雨宿町」は架空の町ですが、どこか日本のどこかに本当にありそうな、ひっそり とした温泉街をイメージしています。
雨は、時に憂鬱なものとして語られます。しかし、作中で志乃が語ったように、雨が地面に深く染み込むからこそ、見えない地下で植物の根っこは静かに、逞しく育っていきます。私たちの人生における「憂鬱な時期」もまた、次の季節を迎えるために必要な、静かな蓄えのときなのかもしれません。
今、この本を閉じたあなたの心に、雨上がりの爽やかな風が吹き抜けることを、心より祈っております。