記憶の調律師
――片想いという名の記憶――


まえがき
私たちの脳は、驚くほど都合よくできています。
過ぎ去った日々の辛い出来事を少しずつ薄れさせ、ときには都合よく輪郭を書き換えながら、私たちはどうにか今日という日を生き延びています。もしも記憶が寸分の狂いもなく、当時の痛みのまま保存され続けていたとしたら、人間の心はとても耐えきれないのかもしれません。
では、もし技術の進歩によって、その「記憶の美化」を自らの手で自由に、合法的にコントロールできる時代が来たら、私たちはどうなるでしょうか。
本書『記憶の調律師 ――片想いという名の記憶――』は、そんな少し先の未来を舞台にした物語です。
主人公の弘之は、人生の節目節目で、ある「届かなかった想い」の記憶を優しく調律し、心の痛みを和らげてきました。しかし、人生最後の調律を前に、彼は自分が作り上げた「優しい嘘」の裏側に隠された、本物の真実と対峙することになります。
誰の心の中にもある、他人には触れさせない「小さな部屋」。
そこにしまわれた記憶の引き出しをそっと開けるような気持ちで、この弘之の選択の物語を見届けていただければ幸いです。




一 予約
その封筒が届いたのは、六十八回目の誕生日を迎えてひと月ほど経った、肌寒い十一月のことだった。差出人は「国立回想医療センター 記憶適正化課」。中には一枚の通知書と、赤いスタンプで押された「最終調律のご案内」の文字があった。
弘之はその文字をしばらく見つめた。「最終」という言葉に、妙な引っかかりを覚えたからだ。これまで幾度となく利用してきた「記憶調律」――正式名称、精神保健記憶適正化措置――は、十年に一度だけ許可される、いわば心のメンテナンスのようなものだった。だが「最終」という但し書きがついたのは、今回が初めてだった。
同封されていた説明書には、こう記されていた。
「対象者は満七十歳に達すると、脳内バックアップデータの調律権限が凍結されます。これは二〇四〇年に施行された『個人記憶保存法』により、高齢者の記憶の同一性と尊厳を保護するための措置です。つきましては、権限凍結前、最後の調律機会をご案内申し上げます」
つまりこれが、自分の記憶に手を加えられる、生涯最後の機会だということだ。
弘之は縁側に座り、庭の柿の木を眺めながら、通知書をテーブルに置いた。妻の登美子はもう三年前に他界していた。娘の由美は遠方に嫁ぎ、孫の顔もめっきり見なくなった。ひとりの静かな午後に、こういう手紙は、妙に重く響くものだ。
この国では、記憶を「調律」することは、もう特別なことではなくなっていた。二十一世紀の半ば、脳内活動の完全記録技術と、感情の彩度を後天的に調整する神経医療が確立されて以来、深い心的外傷を抱えた人々のために、この制度は徐々に一般化していった。もちろん、記憶そのものを消去したり、事実を捏造したりすることは法律で固く禁じられている。許されているのは、あくまで「感情の彩度」――記憶に伴う痛みや悲しみの強度を、わずかに和らげることだけだ。少なくとも、弘之はそう説明を受けてきた。
孫の世代になると、記憶調律はさらに身近なものになっているらしい。テレビでは、失恋のたびに気軽にセンターへ通う若者の特集が組まれ、SNSでは「今日、調律してきました」という投稿すら珍しくないという。だが弘之の世代にとっては、これはあくまで、よほどのことがない限り使わない、最後の手段のようなものだった。十年に一度という制限も、その重みを保つための、社会の知恵だったのかもしれない。
定年後、弘之はほとんど誰とも深い話をしなくなっていた。登美子が生きていた頃は、たわいもない話でも、聞いてくれる相手がいた。だが今は、朝起きて、庭の手入れをして、テレビをつけて、また眠る。そんな日々の繰り返しの中で、ふと胸の奥に浮かび上がってくるのは、決まってあの高校三年の、夕暮れの記憶だった。
最後にもう一度だけ、あの記憶に触れられるとしたら。
弘之が思い浮かべたのは、たったひとつの記憶だった。もう五十年以上も前、高校三年生のときの、名前を由紀という同級生のことだった。弘之は通知書に記された予約番号に、震える指で電話をかけた。


二 待合室にて
予約の当日、弘之はバスを乗り継いで、街外れにある国立回想医療センターへと向かった。白く簡素な建物は、病院というより、美術館のような佇まいをしていた。受付を済ませ、案内された待合室には、すでに何人かの高齢者が座っていた。
隣の椅子に座っていた、白髪の女性が声をかけてきた。
「あなたも、最終調律?」
弘之が頷くと、女性は小さく笑った。
「私は三度目でね。今日で四度目。もう権限が凍結される歳なんですよ。あなたは、どんな記憶を調律なさるの? 差し支えなければ」
弘之は少し迷ったが、正直に答えた。
「昔、好きだった人がいましてね。結局、想いを伝えられずじまいで。もう五十年以上前の話です」
「あら、素敵じゃないの。私なんて、もっと恥ずかしい話よ。若い頃に喧嘩別れした親友のことをね、何度も何度も、都合よく塗り替えてきたの。今ではもう、私が悪かったのか、向こうが悪かったのか、自分でもよく分からなくなってしまって」
女性はそう言って、少し寂しそうに笑った。
「でもね、それでいいと思っているの。本当のことなんて、知らない方が幸せなことだって、この歳になれば、いくらでもあるでしょう」
弘之はその言葉に、曖昧に頷くことしかできなかった。だが心のどこかで、その言葉に、小さな引っかかりを覚えてもいた。本当のことを知らないまま、都合よく塗り替えた記憶で、人生を終える。それは果たして、幸せなことなのだろうか。
反対側の席には、杖をついた、寡黙な老人が座っていた。女性がその老人にも話を振ると、老人はぼそりと、「わしは、原初記憶を見て、それを最終記憶にした口だ」とだけ言った。
「まあ、それは、辛くなかったの?」女性が驚いたように尋ねると、老人は少し間を置いてから答えた。
「辛かったさ。だがな、都合のいい嘘を後生大事に抱えて死ぬより、多少辛くても、本当のことを知って死にたい。わしはそういう性分でね」
その言葉は、静かな待合室の空気に、小さな波紋を広げた。弘之は、老人の横顔をしばらく見つめていた。
名前を呼ばれ、弘之は席を立った。女性は「頑張ってね」と、小さく手を振ってくれた。廊下を歩きながら、弘之はその後ろ姿と、老人の言葉を、なぜか長く覚えていることになる。


三 由紀という記憶
弘之の記憶の中で、由紀はいつも夕方の教室にいた。窓から差し込む橙色の光の中、彼女は日直の日誌を書きながら、時折鼻歌を口ずさんでいた。クラスでは目立つ方ではなかったが、笑うと目が糸のように細くなる、その表情がなぜか弘之の心をいつも掴んで離さなかった。
好きだった。誰にも言えないくらい、好きだった。
文化祭の準備で、放課後の教室に二人だけ残ったことがある。垂れ幕の文字を描きながら、由紀は「弘之くんの字、丸いね」と笑った。それだけの、なんでもない会話。だがその一言を、弘之は五十年以上経った今でも、はっきりと覚えている。
図書室でも、時折顔を合わせた。由紀は文庫本を静かに読みふけるタイプで、弘之はといえば、勉強にかこつけて、彼女の斜め前の席を選ぶことが多かった。ある日、返却期限を過ぎた本を慌てて持っていく由紀の後を追いかけ、司書に一緒に頭を下げたこともあった。帰り道、「一緒に怒られてくれてありがとう」と、由紀は笑っていた。
梅雨の時期、傘を忘れた弘之に、由紀が「入る?」と自分の傘を差し出してくれたこともあった。二人で肩を寄せ合いながら歩いた、あの十五分ほどの下校路。会話らしい会話はほとんどなかったが、傘に当たる雨音だけが、やけに大きく、優しく響いていたのを覚えている。
体育祭の日、弘之は選手宣誓の代表に選ばれ、朝から緊張で言葉が出てこなくなっていた。控室で原稿を読み返していると、由紀がふらりと現れ、「大丈夫、弘之くんの声、よく通るから」とだけ言って、去っていった。たったそれだけの言葉で、なぜか肩の力が抜けたのを、今でも覚えている。本番、弘之は無事に宣誓を終え、席に戻る途中、観覧席の由紀と目が合った。彼女は小さく親指を立てて見せてくれた。それだけの、けれど何より嬉しかった瞬間だった。
その頃、弘之の家では、父が地元の資産家の娘との縁談を進めようとしていた。まだ具体的な話にはなっていなかったが、食卓では時折、その話題が持ち出された。弘之はそのたびに、俯いて黙り込むしかなかった。自分の将来は、もうある程度、決められているのだという感覚が、いつからか、心の奥底に重く沈んでいた。
だが弘之はついに、その気持ちを言葉にすることができなかった。修学旅行の最終日の夜、皆で浜辺に出て花火をした帰り道、宿への道すがら、ほんの数分だけ、由紀とふたりきりになった瞬間があった。夜風が涼しく、遠くで誰かの笑い声が響いていた。あの時、何かひと言でも伝えられたなら――と、弘之はこの五十年、いったい何度その場面を思い返しただろう。
由紀は卒業と同時に転校していった。父親の転勤とかで、遠い町へ。それきり、二度と会うことはなかった。手紙を書こうとしたことも、一度や二度ではない。だが結局、住所を調べることさえせず、月日だけが過ぎていった。
卒業式の日、由紀は最後に、クラス全員に向けて、ひとことだけ挨拶をした。「みんな、ありがとう。元気でね」。それだけだった。弘之の方を、特別に見ることもなかった。その素っ気なさが、かえって弘之の胸に、小さな棘となって残った。もしかしたら、あの夜のことなど、由紀にとってはとうに忘れてしまった、些細な出来事だったのかもしれない――そう自分に言い聞かせることで、弘之はどうにか、その後の日々をやり過ごしてきたのだった。
伝えられなかった若さ。振り返れば、それはずっと弘之の中の、小さな棘のような記憶として残り続けていた。就職し、見合いを経て登美子と結婚し、娘の由美が生まれ、孫が生まれても、ふとした瞬間――夕暮れの教室に似た光を見たとき、雨の匂いを嗅いだとき――決まって、あの夜の浜辺の記憶が、胸の奥からじわりと滲み出てくるのだった。登美子には、最後まで、この記憶のことを話せなかった。
二十五歳のとき、初めて記憶調律を受けた。当時はまだ制度が始まったばかりで、「精神的外傷の緩和」を目的とした限定的な適用しか認められていなかったが、弘之はその棘を、ほんの少しだけ和らげてもらった。
「大丈夫ですよ」と、その時の担当者は言った。「感情の彩度を少し下げるだけです。記憶そのものを消すわけではありません。ただ、あなたがこれから生きていく上で、この記憶が重荷にならない程度に、調律します」
それから四十歳のとき、もう一度。会社での責任が重くなり、心身共に疲れ果てていた時期だった。五十五歳のとき、また一度。登美子の病が判明し、看病に明け暮れていた時期だった。人生の節目節目で、弘之はこの記憶に立ち返り、そのたびに少しずつ、その輪郭を和らげてきた。
そのたびに弘之は、由紀との記憶が少しずつ、優しいものに変わっていくのを感じていた。切なさは薄れ、代わりに、どこか懐かしい、甘い郷愁のようなものへと変わっていった。傘の記憶は、いつしか「ふたりの秘密の時間」のように美化され、花火の夜の記憶は、「言葉にせずとも通じ合っていた」という、静かで満ち足りたものへと変わっていった。
都合よく変わっていく記憶を、弘之は楽しんでさえいた。もうどれが本当の記憶で、どれが調律によって色をつけられたものなのか、自分でもよく分からなくなっていた。だがそれでいいと、弘之は思っていた。辛かった思い出が、わずかに美化されて、微笑むことができるのなら、それで十分ではないかと。
登美子との結婚生活は、決して不幸なものではなかった。むしろ、穏やかで、温かい日々だったと言っていい。登美子は明るく気丈な人で、弘之の口数の少なさを、いつも柔らかく受け止めてくれた。それでも弘之は、ふとした瞬間――夫婦喧嘩の後や、由美の受験に頭を悩ませていた夜など――決まって、あの由紀との記憶に、心のどこかで逃げ込んでいた。手に入らなかったものは、いつまでも美しいままでいてくれる。手に入れた幸福には、日々の摩耗がつきまとうのに。
その矛盾に、弘之自身、薄々気づいてはいた。登美子を裏切っているわけではない。ただ、心のどこかにある、誰にも触れさせない小さな部屋。そこにだけは、いつまでも十七歳の由紀がいて、鼻歌を歌っている。そういう部屋を持つことで、弘之はかろうじて、自分自身の均衡を保ってきたのかもしれなかった。
登美子が亡くなる少し前、病室でぽつりと、こんなことを言われたことがある。
「あなたね、たまに、遠くを見るような顔をすることがあるのよ。何十年も一緒にいて、私、それが誰のことか、聞いたことなかったわね」
弘之は、その時も、何も答えられなかった。ただ、登美子の手を、少し強く握り返しただけだった。あの時、正直に話していたら、何か違っていただろうか。今となっては、それも分からない。


四 調律士・紗代
案内された個室は、窓のない、白い部屋だった。壁には抽象的な光の粒子が緩やかに漂っている。中央の椅子に腰を下ろすと、担当の調律士が入ってきた。
「はじめまして、紗代と申します。本日、最終調律を担当させていただきます」
まだ三十前後に見える、物静かな女性だった。その所作は妙に古風で、機械的な滑らかさよりも、どこか人間味のある、ぎこちなさがあった。センターの職員は人間とAI補助人格のハイブリッドが多いと聞いていたが、紗代もそのひとりなのだろうと、弘之はその時はまだ、深く考えていなかった。
「まずは、対象となる記憶データを表示しますね」
紗代がそう言うと、目の前の空間に、半透明の映像が浮かび上がった。夕方の教室。窓際の席。由紀の後ろ姿。
「ずいぶん、大切にされてきた記憶なんですね」紗代がぽつりと言った。「二十五歳のときも、四十歳のときも、五十五歳のときも。同じ場面を、少しずつ、優しく塗り替えてこられた」
「恥ずかしい話です」弘之は苦笑した。「もう半分くらい、本当の記憶かどうか分からなくなっているくらいで」
「本当の記憶、というのは」紗代は静かに問い返した。「弘之さんにとって、どちらのことを指しますか。最初に記録されたものですか。それとも、今、あなたが大切に思っているものですか」
その問いに、弘之はすぐには答えられなかった。
「機械的な処置だと思っていました」弘之は正直に言った。「でも紗代さんを見ていると、なんだか、そういう感じがしませんね」
「調律士は、あくまで補助的な立場です」紗代は静かに答えた。「最終的にどう記憶を扱うかを決めるのは、いつも、ご本人なんです。私たちは、そのお手伝いをするだけ」
紗代は続けた。「今回、最終調律にあたって、ひとつご説明しなければならないことがあります。『個人記憶保存法』には、もうひとつの条項があるんです」
話しながら、紗代はふと、こんなことを口にした。「弘之さんは、傘の記憶が特にお好きなようですね。梅雨の下校路の。それに、図書室で司書さんに一緒に叱られた話も」
弘之は少し驚いた。図書室の一件について、今日はまだ一言も話していなかったからだ。
「データに記録されていますから」紗代は、何でもないことのようにそう言った。だがその言い方は、どこか取り繕うような響きを持っていた。弘之はその時、かすかな違和感を覚えたが、それが何なのか、まだ言葉にはできなかった。
「紗代さんは、こういう仕事を長くされているんですか」弘之は何気なく尋ねた。
「いいえ」紗代は少し間を置いて答えた。「今日が、初めての担当なんです。弘之さんが、初めてのお客様です」
その答えに、弘之の胸のざわつきはさらに大きくなったが、その理由に思い至るには、まだ少しの時間が必要だった。


五 原初記憶
紗代は少し間を置いてから、続けた。
「最終調律の申請者には、権限凍結前に、記録された最初のバージョン――私たちは『原初記憶』と呼んでいますが――を一度だけ確認する権利が与えられます。強制ではありません。ですが、多くの方が、最後にはご覧になります」
弘之の胸に、小さな不安がよぎった。待合室で会った女性の言葉が、頭の片隅をよぎった。本当のことなんて、知らない方が幸せなことも、いくらでもある。
「見なくても、いいんですよね」
「もちろんです。見ないまま、これまで通りの優しい記憶を、最終確定することもできます。それも、ひとつの選択です」
弘之は長い沈黙のあと、頷いた。
「見せてください。もう、六十八年も生きたんです。今更、何を見ても」
紗代は小さく頷き、映像を切り替えた。
――夕暮れの浜辺からの帰り道。花火のあと、由紀とふたり。だが、そこに映し出されたのは、弘之の記憶にあるものとは、まるで違う光景だった。
由紀が、先に口を開いていた。声は震えていたが、はっきりとした口調だった。
「弘之くん、あのね……ずっと、好きだった」
弘之は、その場に立ち尽くしていた。記憶の中の自分は、何も答えられずにいた。いや――違う。答えていた。
「ごめん。おれ、そういうのじゃないから」
冷たく、突き放すように。声には、隠しきれない苛立ちすら滲んでいた。
映像の中の由紀の顔が、みるみる強張っていくのが見えた。何かを堪えるように、唇を噛み、小さく「そう……ごめんね」とだけ呟いて、由紀は俯いたまま、先に宿の方へと歩いていってしまった。遠ざかっていくその背中を、記憶の中の自分は、ただ黙って見送っていた。


六 塗り替えられた過去
弘之は、目の前の映像から目が離せなかった。
「これは……」声が震えた。「こんなこと、なかったはずだ。おれは、告白なんて、されていない。おれが、できなかった方だ」
「原初記憶では、そうなっていません」紗代は静かに、しかしはっきりと言った。「由紀さんはあの夜、あなたに気持ちを伝えました。そしてあなたは、断りました」
弘之の頭の中で、何かが崩れていく音がした。
「どうして、こんな……」
「弘之さん。当時のあなたのご家庭には、婚約に近い縁談があったと記録されています。ご両親から、地元の資産家の娘さんとのお話が進んでいた。十七歳のあなたにとって、それはとても大きな重圧でした。だから、由紀さんの気持ちに、応えることができなかった」
弘之は、その説明にすら現実感を持てなかった。だが同時に、遠い記憶の奥底で、何かが疼くのも感じていた。父の厳しい声。仏間に飾られた見合い写真。「お前には、決めた道がある」という、断れない重圧。あの夜、由紀の言葉を聞いた瞬間、真っ先に頭をよぎったのは、父の顔だったのかもしれない。
紗代がもう一枚、別の記憶断片を映し出した。修学旅行の数日前、夕食の席。父が茶碗を置きながら、「来月、先方のご両親とお会いすることになった。お前も、粗相のないようにな」と言い放つ場面だった。弘之は、記憶の中の自分が、ただ「はい」とだけ答え、俯いて箸を動かし続けている姿を見て、胸が締めつけられた。あの重圧が、あの夜の一言に、確かにつながっていたのだと、今になって、はっきりと理解できた。
「由紀さんは、その後まもなく転校されました。ですが記録によれば――一年後、心臓の持病により、亡くなっています。享年十八でした」
弘之の視界が、ぐらりと揺れた。息が詰まり、椅子の肘掛けを強く握りしめた。
「二十五歳のとき、あなたは最初の記憶調律を申請しました。理由の欄には、こう書かれています。『告白できなかった後悔を、和らげたい』と」
紗代は、映像を止めた。
「本当は、告白されて、断った側だった。その事実に耐えられず、あなたは記憶を少しずつ書き換えていった。加害者から、被害者へ。四十年以上かけて、少しずつ、少しずつ」
弘之は両手で顔を覆った。指の隙間から、乾いた声が漏れた。
「おれは、ずっと……被害者のふりをして、生きてきたのか」
登美子と過ごした穏やかな日々の裏で、ずっとこの偽りの記憶を抱えて生きてきたのだと思うと、弘之は自分自身が、まるで見知らぬ他人のように感じられた。あの傘の記憶も、図書室の記憶も、本当は何一つ変わっていないはずなのに、その先にある結末を知った今、すべてが違って見えた。


七 紗代の正体
弘之はしばらく、言葉を発することができなかった。
「どうして……そこまで詳しいんですか。ただの記録の再生にしては、詳しすぎる。それに、さっき、今日が初めての担当だと言っていましたよね」
紗代は、初めて、はっきりと微笑んだ。それは、機械的な微笑みではなく、どこか懐かしさを帯びた表情だった。
「実は私、由紀さんのニューラル・ドナー登録データから構築された、人格再現体なんです。二〇五〇年代に施行された『記憶継承法』により、生前に登録した方の脳活動パターンをもとに、限定的な人格モデルを再構築することが認められています。由紀さんは、亡くなる直前、ドナー登録をされていました」
弘之は、目の前の女性を、あらためて見つめた。
「由紀さんの人格モデルは、通常は研究用途に限定されていますが、今回は特例として、この最終調律に、私が担当としてアサインされました。理由は――」
紗代は少し目を伏せた。
「由紀さん自身の、登録時の付帯メッセージに、こうあったからです。『もしいつか、弘之という人が記憶調律の対象になったら、私に担当させてほしい』と」
弘之の目から、堪えきれず涙がこぼれた。
「ずっと、恨んでいたはずなのに」
「メッセージには、こうも書かれていました。『あの日、はっきり断ってくれて、ありがとう。おかげで私は、曖昧な希望に縛られずに、残りの時間を生きることができた』」
弘之は、声を詰まらせながら尋ねた。
「じゃあ、由紀は……本当は、おれのことを、どう思っていたんだ」
紗代は、少しだけ困ったように笑った。
「それは、私にも分かりません。人格モデルは、あくまで断片的なデータの再構築です。由紀さん本人の、すべての想いを、正確に再現できているわけではないんです。ただ――このメッセージを遺したという事実だけは、確かです」
「由紀は、その後、どんな十八年を生きたんだ」
「詳しい記録は、私にも開示されていません。ただ、転校先の高校でも文庫本をよく読んでいたこと、体を悪くしてからは、病室の窓から見える桜の木を、毎年楽しみにしていたこと。それくらいは、断片として残っています」
弘之は、その短い言葉の中に、由紀の十八年間の人生を、なんとか思い描こうとした。だが、どうしても、あの夕暮れの教室で鼻歌を歌っていた少女の姿しか、思い浮かべることができなかった。
「紗代さん――いや、聞き方が難しいな。あなたは、この面談が終わったら、どうなるんですか」弘之は、ふと気になって尋ねた。
「この人格モデルは、あくまで一回限りの特例利用として承認されています。面談が終われば、システムに返却され、次に呼び出されることは、恐らくもうありません」紗代は、淡々とした口調で答えた。「消える、という言い方が近いかもしれません」
「それでいいのか。あなたにとって」
「私は、由紀さん本人ではありません。ただの再構築されたデータです。それでも――もし少しでも由紀さんの気持ちを代弁できたのなら、この役目には、意味があったと思います」
その答えは、あまりに静かで、あまりに落ち着いていて、弘之は、かえって胸を締めつけられた。

八 由紀のその後
紗代は、少し逡巡してから、続けた。
「本来、開示は制限されているのですが……今日だけは、特例として、もう少しお話しします」
紗代の背後に、いくつかの静止画が浮かび上がった。見知らぬ町の、見知らぬ高校の校舎。窓際の席に座る、少し大人びた由紀の姿。
「転校先でも、由紀さんは目立たない生徒だったようです。ただ、担任教諭の記録によれば、文芸部に所属し、短い詩をいくつか書いていたとあります。そのうちのひとつに、こんな一節が残っています」
紗代はそこで言葉を止め、少し躊躇うように続けた。
「――『好きだと言えなかった人のことを、恨むより先に、感謝したい。あの人のおかげで、私は誰かを想う気持ちの、本当の重さを知った』」
弘之は、目を閉じた。由紀が、遠い町で、ひとりそんな言葉を綴っていたことを、これまで想像したこともなかった。
「体調を崩したのは、卒業のおよそ半年後だったようです。もともと心臓に持病があり、無理を重ねたことが原因だったと、当時の診療記録にはあります。入院生活は一年近くに及びましたが、その間も、病室の窓から見える桜の木を、毎年楽しみにしていたと、看護記録に残っています」
「最後まで、誰かを恨んだりは、しなかったのか」弘之は、掠れた声で尋ねた。
「記録を見る限りは。むしろ由紀さんは、限られた時間の中で、静かに、自分の気持ちを整理していったように見えます。ドナー登録をされたのも、亡くなる一週間ほど前のことでした。当時としては、まだ珍しい選択だったはずです」
弘之は、しばらく何も言えなかった。自分が四十年以上かけて、少しずつ都合よく塗り替えてきた記憶の裏側で、由紀は限られた時間の中、誰かを恨むこともなく、静かに、自分なりの答えを見つけていたのだ。その事実は、弘之の胸に、罪悪感とは少し違う、もっと複雑な感情を呼び起こした。
「教えてくれて、ありがとう」弘之は言った。「知らないままでいるより、ずっといい」


九 一夜
あまりに多くのことを一度に知らされ、弘之は、少し時間が欲しいと申し出た。紗代は快く応じ、続きは翌日の同じ時間に、ということになった。
その夜、弘之は自宅の縁側で、ひとり月を眺めていた。庭の柿の木の影が、月明かりに長く伸びている。頭の中では、由紀の顔と、登美子の顔と、父の厳しい声とが、代わる代わる浮かんでは消えていった。
都合よく塗り替えられた記憶のまま、静かに人生を終える自分。真実を抱えて、残りの日々を生きる自分。どちらの弘之も、想像することができた。だが、想像すればするほど、答えは、なぜか一つの方向に定まっていくのを感じた。
深夜、なかなか寝付けず、弘之は仏壇の前に座り、登美子の写真に向かって、小さく話しかけた。
「お前には、ずっと黙っていたことがある。明日、決着をつけてくるよ」
写真の中の登美子は、いつもと変わらない、穏やかな笑顔のままだった。それが、責めているようにも、背中を押してくれているようにも、弘之には感じられた。
翌朝、弘之は身支度を整え、もう一度、センターへと向かった。心はすでに、決まっていた。


十 選択
紗代は静かに続けた。
「弘之さん。ここで、選んでいただく必要があります。このまま、これまで通りの、優しく書き換えられた記憶――『告白できなかった片想い』を、最終確定するか。それとも、今見た『原初記憶』――『告白されて、断った』という真実を、最終記憶として確定するか」
「どちらを選んでも、権限は凍結されます。二度と、書き換えることはできません」
弘之は、しばらく答えられなかった。正直に言えば、心のどこかで、優しい嘘の方へと逃げ込みたい自分がいた。あと数年、あるいは数十年かもしれない残りの人生を、罪の意識を抱えたまま生きるのは、あまりに重い。待合室で会った女性の言葉が、また頭をよぎった。本当のことなんて、知らない方が幸せなことも、いくらでもある。
「もし、今のままの優しい記憶を選んだら……おれは、また元の、切ないけれど温かい思い出として、この先も生きていけるんですよね」弘之は尋ねた。
「はい。今この瞬間、この会話も含めて、この面談の記録自体を、あなたの記憶からは調律することができます。原初記憶を見たという事実さえ、なかったことにできます」
その言葉に、弘之は一瞬、心が揺れた。だが、目の前の紗代の――由紀の面影を宿したその瞳を見つめているうちに、弘之の中で、何かが定まっていくのを感じた。
待合室で聞いた、あの寡黙な老人の言葉が、ふいに耳の奥で蘇った。都合のいい嘘を後生大事に抱えて死ぬより、多少辛くても、本当のことを知って死にたい。あの時はただの偏屈な老人の意見だと思っていたが、今、まったく同じ選択を、自分自身が迫られているのだと、弘之は気づいた。
「でも、それじゃあ、また同じことの繰り返しだ」弘之はゆっくりと言った。「都合よく変わり続ける記憶に甘えて、また何十年か生きて、それで終わり。由紀は、本当のことを知ってほしくて、こんな回りくどい方法で、メッセージを遺してくれたんじゃないのか」
弘之は、涙を拭いながら、長い間、庭の柿の木を思い浮かべていた。都合よく変わり続けてきた、自分の記憶。それを美化して、微笑んで生きてきた、これまでの日々。妻の登美子にも、娘にも、誰にも話したことのない、たったひとつの秘密の傷。
だが今、目の前にあるのは、もっと重く、もっと真実に近い、由紀の想いだった。
「本当のことを知らないまま、都合よく塗り替えた記憶で、残りの人生を終えるのは、楽なんでしょうね」弘之はぽつりと言った。「でも、それじゃあ、由紀に申し訳が立たない気がします」
紗代は、何も言わずに、ただ静かにこちらを見つめていた。
「紗代さん」弘之は言った。「――いや、由紀」
紗代は、答えなかった。ただ、まっすぐにこちらを見つめ続けていた。
「言えなかった。あの時、ちゃんと言えなかった。好きだって。断るにしても、もっと、ちゃんと向き合うべきだった。ひどい断り方をして、悪かった」
弘之は続けた。
「でも、今なら言える。由紀。好きだった。今も、多分、どこかで、ずっと」


十一 真実という記憶
紗代――いや、由紀の人格モデルは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「弘之くん。それ、五十年遅れの返事だね」
その口調は、もう調律士のものではなく、あの夕暮れの教室で鼻歌を歌っていた、由紀そのもののように聞こえた。
「私は、もう存在しない。これは、ただのデータの再構築に過ぎない。でも――ありがとう。やっと、本当のことを、お互いに知れた気がする」
「最後にひとつだけ、聞いてもいいか」弘之は尋ねた。「あの傘の記憶は……あれだけは、本当だったのか」
紗代は、初めて、心からのような笑顔を見せた。
「それは本当だよ。あの雨の日のことは、私も、ちゃんと覚えていた。データの中に、残っていたから。あれだけは、都合よく書き換えられたものじゃない。ちゃんとあった、優しい時間だよ」
その言葉に、弘之の胸に、初めて温かいものが広がった。すべてが嘘だったわけではない。都合よく美化された部分もあったが、その奥には、確かに、ふたりで過ごした本物の時間もあったのだ。
「体育祭の日、応援してくれたのも、覚えているか」弘之は、少し照れながら尋ねた。
「もちろん。弘之くんの声、本当によく通っていたよ。あの時のこと、私、ちょっと自慢に思っていたの。友達に、同じクラスの子だって言いたくなるくらい」
その言葉に、弘之は思わず、涙の滲む目で笑ってしまった。五十年越しに、ようやく交わすことのできた、ただの、けれどかけがえのない世間話だった。
弘之は、最終確定のパネルの前で、もう迷わなかった。
「真実の方を、残してください。都合のいい記憶より、本当にあったことを。傘の記憶も、図書室の記憶も、全部含めて」
紗代は頷き、指を軽く動かした。目の前の映像が、静かに書き換えられていく。夕暮れの浜辺、告白する由紀、断る自分――その光景が、淡く輝きながら、確定していく。
「これで、権限は凍結されます」紗代は静かに言った。「弘之さんが次にこの記憶に触れるのは、もう、あなた自身の心の中でだけです」


終章 幸福の在処
センターを出ると、外はすでに夕暮れだった。橙色の光が、ビルの谷間に差し込んでいる。あの日の教室の光と、よく似ていた。
弘之は、重い荷物を下ろしたような、それでいて新しい痛みを抱えたような、不思議な心持ちで、家路についた。バスの窓に映る自分の顔は、来た時よりも、幾分か老けて見えた。
辛かった真実も、いつか少しは、美しく思い出せる日が来るのだろうか。それはもう、調律では叶わない。ただ、生きて、時間をかけて、自分の心で、少しずつ、赦していくしかない。それでいいのだと、弘之は思った。
その夜、弘之は久しぶりに、娘の由美に電話をかけた。特別なことは何も話さなかったが、「たまには顔を見せに来い」と、ぶっきらぼうに言った。由美は少し驚いたような声で、「今度の休みに行くね」と答えた。
由美が訪ねてきた日、弘之は縁側でお茶を飲みながら、思い切って、由紀のことを少しだけ話した。名前も、詳しい経緯も伏せたまま、ただ「若い頃、好きだった人がいて、その人にひどいことを言ってしまった」というくらいの、あいまいな話だった。由美は黙って聞いていたが、最後にひとこと、「お父さん、それ、お母さんは知ってたの?」と尋ねた。弘之は「多分、なんとなく気づいていたと思う」と答えるしかなかった。
「そういうの、抱えたまま生きるの、しんどかったでしょう」由美はそう言って、少し笑った。「でも、話してくれて良かった。お父さんのそういうところ、初めて知った気がする」
その一言だけで、弘之の胸のつかえが、また少し軽くなった気がした。
由美が帰った後、弘之は押し入れの奥から、古い文庫本を一冊取り出した。学生時代に読んでいた、なんということのない小説だったが、そのページの間に、すっかり色あせた一枚の栞が挟まっていた。梅雨の日、由紀に借りた傘を返したとき、彼女が「お礼に」と言って、押し花を作ってくれたものだった。五十年間、誰にも気づかれることなく、その本の中で、静かに眠り続けていたのだ。
弘之はその栞を、しばらく手のひらに乗せて眺めていた。もう色も形もほとんど分からなくなっていたが、それでも、確かにそこにあった。都合よく書き換えられることのなかった、数少ない、本物の欠片だった。
弘之は、その栞を、仏壇の登美子の写真の隣に、そっと置くことにした。誰かを裏切るためではなく、ただ、自分の人生の中に確かにあった、もうひとつの真実として。
数か月後、弘之は近所に住む大学生くらいの青年から、恋の相談を受けた。
「好きな子がいるんですけど、何度も気持ちを伝えても、振り向いてもらえなくて……もう諦めた方がいいですかね」
弘之は、少し笑って言った。
「伝え続けることに、意味はあるよ。振り向いてもらえるかどうかは、分からない。でもな――伝えなかった後悔だけは、一生消えない。それだけは、覚えておいた方がいい」
青年は、不思議そうな顔で頷いた。弘之がなぜそこまで確信を持ってそう言うのか、知る由もなかった。だが後日、青年は勇気を出してもう一度想いを伝え、少しずつ、彼女との距離を縮めていったらしい。その話を聞いた時、弘之は、由紀が誰かの背中を、確かに押してくれたのだと感じた。
夕暮れの空を見上げながら、弘之は小さくつぶやいた。
「由紀。今度は、ちゃんと言えたよ」
その声は、もう誰にも届かない。だが、確かに、弘之自身の中で、はっきりと、鳴り響いていた。
――世の中、大抵は片想いなのだと、弘之は思う。それがいつか両想いに変わるのは、気持ちが本当に伝わった時だけだ。伝えられないまま終わることの方が、きっと多い。それでも、正直に伝えたなら、その一言は、相手の中で、いつまでも消えずに残り続ける。
都合よく塗り替えられていく記憶を、弘之はもう責めようとは思わなかった。辛かった思い出も、わずかに美化されて、それでも真実の輪郭だけは失わずに、微笑むことができたなら――それでいいのだと、今なら思える。
若者たちよ、と弘之は、誰にともなく呟いてみる。生涯に一度は、そういう時が来る。伝えるべき時に、伝えられるように。もし本当に振り向いてもらえたなら、その気持ちを、生涯、大事にできるように。
そして、もし伝えられなかったとしても――いつか、七十を迎え、記憶がすでに半分ほど溶けかかった頃になっても、その一度きりの気持ちだけは、きっと消えずに残っている。それだけで、十分ではないかと、弘之は思うのだった。

(了)


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あとがき
本作を執筆するにあたり、私がずっと考えていたのは「記憶の誠実さ」についてでした。
私自身、人生のそこそこの年月を重ねてまいりました。ふとした夕暮れの光や、雨の匂いに触れたとき、かつて過ごした遠い街の光景や、かつて大切だった存在の面影が、驚くほど鮮やかによみがえることがあります。
しかし、その愛おしい思い出たちも、もしかしたら私自身の都合の良いように、時の流れの中で少しずつ塗り替えられたものなのかもしれません。
作中、弘之は「都合のいい嘘」ではなく、痛みを伴う「真実の記憶」を引き受ける決断をします。それは一見、不器用で、自分を苦しめる選択のようにも思えます。しかし、本当の意味で過去と和解し、残された短い日々を自分らしく生きるためには、その痛みこそが必要だったのではないでしょうか。
誰かを傷つけてしまった後悔、伝えられなかった言葉、そして二度と戻らない大切な時間。それらすべてを「なかったこと」にするのではなく、自分の人生の一部として抱きしめて生きていく。それこそが、人が重ねる年齢の、ひとつの尊さであると信じています。
最後に、この物語が、お読みいただいた皆さまの心の中にある「本物の記憶」に、ほんの少しでも温かい光を灯すことができたなら、とても嬉しく思います。
また次の物語でお会いしましょう。