刻堕とし 十一
〜元犬異聞・祈願喰らい〜
まえがき
「元犬」という噺の主役は、白い野良犬である。稲荷の社に「人間になりとうございます」と一心に願をかけ続けた末、めでたく人間の姿を授かる。ところが、いくら姿は人間になっても、長年染み付いた犬の癖までは抜けきらない。四つん這いで歩こうとしたり、匂いを嗅ぎ回ったり、尻尾を振ろうとして戸惑ったり。そんな、人になりきれない元犬の可笑しみが、この噺の眼目である。
この噺の面白さは、姿形が変わっても、中身の「自分」だけはそう簡単には変わりきらないところにある。変化してなお、犬だった頃の心根が、ちゃんとシロという一匹の人格として残り続けているのだ。
だが、もしもその「変わらないはずの中身」が、そっくりそのまま消え去ってしまうとしたら。
一 継ぎ目守、社の異変
鏡面に映ったのは、朱塗りの鳥居が幾重にも連なる稲荷の社だった。ただしその連なりは、本来ならあり得ないほど奥深くまで続き、数えるたびに本数が増えているように見えた。
継ぎ目守圭馬へ。演目「元犬」における『変化してなお自我が残る』型が、無数の継ぎ目で欠落した状態で複製されている事案を確認。変化を遂げた者が、変化前の記憶、人格を完全に喪失する事例が多発。至急現地調査されたし。
「変化しても中身が空っぽになるたぁ、穏やかじゃねえな」
圭馬が鏡面を睨むと、弥七がすでに手ぬぐいを首に巻いて立っていた。
「旦那、元犬たぁ、犬が人間になっても犬臭さが抜けねえっていう、微笑ましい噺のはずなんでさ。そいつがどうして、そんな空恐ろしい話になるんでしょうね」
二 白い犬、シロ
継ぎ目を抜けると、古びた稲荷の社の境内だった。一匹の白い野良犬が、社の前に座り込み、じっと狛狐を見上げていた。言葉ですらない、ただ一途な祈りの気配がそこにあった。
長年、この社に日参しては同じ願をかけ続けてきたのだという。ある朝、白い犬、シロは、ふと自分の前足が、人の手に変わっていることに気がついた。
「な、なんと、これは……あっしの願いが、叶ったんでげすか」
裸のまま社の前に座り込むシロを、圭馬と弥七はそっと物陰から見守っていた。
「弥七、あの犬、姿は変わっても、目つきや戸惑い方はそっくりそのまま犬のままだ」
「へえ。あれでこそ、元犬の面白味ってもんでしょうや」
三 人になった日
シロは近所の甚兵衛親分の家に拾われ、下働きの奉公人として置いてもらえることになった。
「お前さん、名は」
「へい、シロと申しやす」
「へえ、変わった名だ。まあいい、しばらくうちで働きな」
ところが働き始めてみると、シロはどうにも人間らしい振る舞いが身につかない。廊下を四つん這いで歩こうとしたり、来客の匂いをくんくんと嗅いだり、褒められると思わず尻を振ろうとして、尻尾がないことに気づいて戸惑ったりする。
「これこれシロ、旦那様に失礼のないよう、ちゃんと二本足で歩きなさい」
「へ、へい、相すみやせん」
その様子を見守りながら、弥七は思わず口元を緩めた。
「旦那、微笑ましいじゃありやせんか。あの戸惑いっぷりが、この噺の可愛げってもんで」
「ああ。だが弥七、あの戸惑いこそが、今度の型崩れで欠けている部分なんだ」
四 消えた自分
境内の奥、幾重にも連なる鳥居のさらに奥へ進むと、圭馬たちは異様な光景を目にした。かつて人間になりたいと願をかけたであろう、様々な獣の姿をした者たちが、虚ろな目でただ立ち尽くしていたのである。
「お前さん、名は」
圭馬が声をかけても、誰一人として答えない。犬だったのか猫だったのか狐だったのか、変化前の記憶はおろか、自分の名すら覚えていない様子だった。口元だけが、人間の形を覚えたばかりのように、わずかに開いたまま固まっている。
「弥七、見ろ。この者たちは皆、変化は遂げている。だが、シロのような戸惑いがまるでない。というより、戸惑う元手になるはずの『元の自分』が、丸ごと抜け落ちちまってる」
「まさか、これが……噂の型崩れの正体でさあ」
五 祈願喰らいの正体
鳥居の最奥、社殿の裏手に、狐の面を被ったような輪郭の、しかし顔立ちの定まらない何かが蹲っていた。視線を合わせようとすると、顔の造作がすっと横へずれる。
「継ぎ目守か。よくぞここまで辿り着いた。この身は、幾百幾千の願掛けの中から、変化の瞬間だけを掬い取って肥え太った者。名は祈願喰らいとでも呼べ」
「お前が、この社の力を乗っ取って、中身を空にした変化を量産しているのか」
「変化そのものは、造作もないことよ。だが、変化してなお元の自我を保ち続けるには、途方もない未練と執着が要る。それがどうにも面倒でな。中身などくり抜いてしまえば、変化はいくらでも量産が利く」
弥七が拳を握りしめた。
「旦那、こいつぁ、シロさんの一途な未練、人間になりてえって、あの一心な願いそのものを、面倒なものとして切り捨ててやがるんでさ」
六 なぜシロだけ無事なのか
圭馬は祈願喰らいに問うた。
「一つ聞きたい。シロだけは、どうして中身が空にならなかった」
「あの白い犬か。あれだけは、妙に手強くてな。人間になりたいという願いの底に、単なる憧れ以上の、何か頑固な芯があった。あれだけは、いくら中身を抜き取ろうとしても、するりと逃げてしまう」
「頑固な芯、か」
圭馬はふと、境内で見たシロの戸惑う姿を思い出した。四つん這いで歩こうとして恥ずかしそうに直す、その仕草の一つ一つに、シロなりの「人間になりたい自分」への実直さが滲んでいた。
「そうか。シロの願いは、ただ姿を変えたいってだけじゃなかった。犬だった頃の自分を否定せず、抱えたまま人間になりたいって、そういう欲張りな願いだったんだ」
七 弥七、変えられかける
奥へ進もうとした弥七の足元に、祈願喰らいの気配がすっと絡みついた。
「継ぎ目守の連れとて、容赦はせぬ。お前、何ぞ変わりたいと願うたことはないか」
弥七の脳裏に、ふと昔の未練、もっと役に立つ相棒になりたい、もっと強くありたいという、胸の奥にしまい込んだ願いがよぎった。
「な……こいつは」
弥七の輪郭が、じわりと薄れ始める。手ぬぐいの赤が、色を失ったように白む。
「弥七!」
圭馬が駆け寄り、弥七の手をしっかりと掴んだ。
「弥七、いいか、変わりたいと願うこと自体は、悪いことじゃねえ。だが、今のお前を丸ごと捨てちまう必要はどこにもねえんだ」
八 シロの選択
「そこまででげす!」
鋭い声とともに、当のシロが息を切らせて境内の奥へと駆け込んできた。一度は甚兵衛親分の家へ落ち着いたはずだったが、祈願喰らいの呪縛をすり抜けた魂が、この社の異変を本能的に察知し、居ても立ってもいられず舞い戻ってきたのだ。
「あの、継ぎ目守の旦那方、あっしにも手伝わせておくんなせえ」
「シロ、危ないぞ、下がっていろ」
「いいえ。あっしは、人間になりてえって一心に願をかけ続けやした。けど、犬だった頃のあっしを、これっぽっちも恥だなんて思っちゃおりやせん。四つん這いで歩いちまうのも、匂いを嗅いじまうのも、ぜんぶ、あっしがシロだったっていう、大事な証でさ」
シロは人間の姿のまま、祈願喰らいに向かって、まっすぐに歩み出た。
「祈願喰らいさんとやら、あんたが空にしちまった連中の中身、あっしの『欲張りな願い』とやらを、少しばかり分けてやろうじゃありやせんか」
九 型を取り戻す
シロが差し出した「元の自分を抱えたまま変わりたい」という一途な願いは、祈願喰らいの中に楔のように打ち込まれ、その強固な未練が敵の腹の底で暴れ始めた。
「ぐ……この、頑固な未練が……腹の中で、暴れ……」
祈願喰らいの影が、まるで目に見えない大きな尻尾をちぎれんばかりに振り回しているかのように、狂おしくのたうち回る。
「今だ、弥七!」
圭馬の声に、正気を取り戻した弥七が応じる。二人は祈願喰らいの輪郭に向かって、境内の獣たちが本来抱えていたはずの「変化前の記憶」の欠片を、次々と押し戻していった。
虚ろだった目に、次第に生気が戻り、獣たちはそれぞれの震える声で、自分の名を思い出し始める。
「わ、私は……たしか、三毛の……」
「おれは、裏の空き地にいた……」
祈願喰らいは、抱えきれなくなった未練と記憶の奔流の中で、悲鳴を上げながら霧散していった。
十 高座にて
境内には、朝の柔らかな光が差し込んでいた。鳥居の連なりも、いつしか元の一本きりの姿に戻っている。
シロは甚兵衛親分の家へと戻り、相変わらず四つん這いで歩きかけては、はっと気づいて二本足に直す毎日を続けているという。
「これこれシロ、来客があったら、ちゃんと二本足で出迎えなさいよ。それと、もし何か怪しい者が来たら、ひとつ声を上げて知らせておくれ」
「へい、承知いたしやした。……あの、もし怪しい者が来た時は、尻尾を振ってお報せすれば……あ、いや、その、尻尾はもう、ございやせんでしたね」
甚兵衛親分が、こらえきれず吹き出した。
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、元犬のシロさん、姿は立派な人間になっても、中身はやっぱり犬っころのまんま。ですが、それでいいんでございます。変わりたいと願う気持ちと、変わる前の自分を大事に思う気持ち、この両方が揃ってこそ、本当の変化ってもんでございましょう。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。
(了)
あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十一作目、今回は「元犬」という、変化してなお抜けきらない癖が愛おしい噺を題材にしました。
この噺の魅力は、姿形が変わっても、中身の自分だけは簡単には変わりきらないという、その頑固さにあると思います。今回はその「変化してなお自我が残る」という型が丸ごと欠落し、中身の空っぽな変化が量産されるというSF的な事件にしてみました。
シロが最後まで自分自身を失わずにいられたのは、単に人間になりたいという憧れだけでなく、犬だった頃の自分ごと引き受けようとする、欲張りで一途な願いがあったからだという結末に落ち着きました。変わることと、変わらずにいることは、決して矛盾しないのだというテーマを、シリーズを通じて描けていれば幸いです。
四つん這いのまま尻尾を探してしまう、可笑しくも愛おしい変化の噺を、楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。

