約束の軌道
―― ときの獣、めぐる恋の記 ――
まえがき
人は、人生の中でいくつもの「もし」を抱えて生きています。
あのとき違う言葉を選んでいたら。
あのとき勇気を出していたら。
あのとき、あと一歩だけ踏み出していたら。
しかし、時間は決して戻りません。
けれど不思議なことに、人生にはもう一度だけ、自分の軌道が交わる瞬間が訪れることがあります。
本作『約束の軌道 ――ときの獣、めぐる恋の記――』は、動物保護区を舞台に、人間だけが抱える「迷い」と、獣たちが教えてくれる「嘘のない生」を重ねながら、一人の男が十五年前の約束に向き合う物語です。
白い獣は何者だったのか。
刻の番人は、本当に存在したのか。
それとも、人生が見せる最後の勇気だったのか。
その答えは、読者それぞれの胸の中にあります。
読み終えたあと、大切な誰かの顔が浮かぶ物語になれば幸いです。
一
保護区の朝は、いつも獣たちの息づかいから始まる。
修一は毎朝五時に目を覚まし、まだ星の残る空の下で長靴を履き、餌の入ったバケツを両手に提げて獣舎を回る。
齢十九になる年老いた牝鹿のマユが、柵の向こうから彼を見つめている。白内障でうっすらと白濁した瞳は、もう修一の姿を捉えていないかもしれない。それでも耳をこちらへ向け、かすかに震える後ろ脚を踏みしめながら、足音だけを頼りに必ず柵際まで歩いてくる。
人間は年を取ることを厭う。老いを恐れ、隠し、抗おうとする。だが動物たちは違う、と修一は思う。彼らは老いを隠さない。飾らない。ただ淡々と、与えられた持ち時間を、嘘をつくことなく生きていく。
マユの毛並みに触れると、そこに保護区の朝の匂いが染み込んでいるのがわかる。土の湿り気、朝露の冷たさ、遠くの森から運ばれてくる樹液の匂い。動物たちはその身ひとつで、気温も湿度も匂いも、すべてを纏って生きている。まるで舞台の上でどんな名優も敵わないほどの、嘘のない表現を、その存在だけでやってのけているのだ。
獣舎の奥には、齢五十を超える老いた象のハナがいる。かつては群れの先頭に立ち、若い象たちを導いていたというハナは、今では一日のほとんどを木陰でまどろんで過ごす。それでも、修一が近づくと、長い鼻をそっと伸ばして挨拶をする。その仕草には、老いを恥じる素振りなど微塵もない。与えられた持ち時間の中で、今できることを、今この瞬間に差し出しているだけだった。
空を見上げれば、渡りの時期を過ぎてなお残った一羽の鶴が、朝靄の中に佇んでいる。群れを離れ、翼を痛めたその鶴は、もう遠くへ渡ることはできない。それでも、毎朝同じ場所に立ち、同じ方角――かつての仲間たちが去っていった北の空を、静かに見つめ続けている。嘘もなく、後悔の言葉を口にすることもなく、ただそこに在り続ける、その姿。
修一は四十二歳になっていた。保護区の獣医として働き始めてから、もう十七年が経つ。若い頃は、自分にはまだ無限の時間があると信じていた。命は永遠だとさえ思っていたわけではない。ただ、自分の時間が有限であることなど、疑いもしなかった若い日々は、とうに過ぎ去っていた。
いま、老いていくマユの瞳を見つめるたび、修一は自分自身の中にある、取り返しのつかない何かを思い出す。
それは、十五年前に置き去りにしてきた、ある約束だった。
二
その夜、保護区の見回りを終えた修一が事務所の明かりを消そうとしたとき、獣舎の奥から物音がした。
普段なら気にも留めない、風に揺れる金網の音かもしれない。だが、その夜だけは違った。吐き出す息がいつもより白く、まるで季節がそこだけ巻き戻ったかのように、張り詰めた冬の夜の匂いがした。空気そのものが、わずかに重みを増したように感じられたのだ。
懐中電灯を手に奥へ進むと、誰も入れるはずのない、廃屋になった旧獣舎の前に、一頭の白い獣がうずくまっていた。狼のようでいて、狼ではない。鹿のようでいて、鹿でもない。毛並みは霜のように白く、月明かりを吸い込んでほのかに発光しているようにも見えた。
「……お前は」
修一が声をかけると、白い獣はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、獣のものではなかった。深く澄んだ、砂時計の中を落ちていく砂粒のような、静かな時間の色をしていた。
「わたしは、名を持たぬ者だ」と、獣は――否、その存在は、声ならぬ声で告げた。「強いて呼ぶならば、〈刻(とき)の番人〉とでも呼ぶがいい」
修一は言葉を失った。恐怖よりも先に、不思議な懐かしさが胸に込み上げてきた。まるで、ずっと昔に会ったことのある誰かに再会したような。
「なぜ、ここに」
「お前が、幾度となくここで思い出しているからだ」と番人は言った。「老いていく獣たちを見るたび、お前は思い出す。十五年前、お前が掴みそこねた、たった一つのものを」
修一の脳裏に、ある女性の顔が浮かんだ。
由紀――大学時代、彼が心の底から大切だと感じた、ただ一人の相手だった。
三
あの頃、修一と由紀は同じ研究室で、野生動物の生態を学んでいた。由紀は誰よりも動物を愛し、誰よりも真っ直ぐに、思ったことを言葉にする人だった。
「動物たちってね、嘘がつけないの」と、由紀はよく言っていた。「だからこそ、綺麗なんだと思う」
修一は、その言葉に自分の将来のすべてを重ねていた。彼女と共に、動物たちの傍らで生きていく人生を、漠然と、けれど確かに思い描いていた。
だが、卒業を控えたある日、由紀の父親の転勤が決まった。彼女は遠い北の街へ引っ越すことになり、修一には大学院への進学と、教授から紹介された保護区での実習という選択が重なっていた。
「一緒に来てとは言わない」と、由紀は最後に会った日、静かに言った。「でも、もし本当にわたしのことを想ってくれているなら、今、ここで、それを言葉にしてほしい」
修一は、言えなかった。
実習が始まったばかりで、将来が定まっていない自分には、彼女を追いかける資格などないと思い込んでいた。理性が、感情に蓋をした。今はまだその時ではない、いずれ落ち着いたら、きちんと迎えに行こう――そう自分に言い聞かせて、由紀を見送った。
だが「いずれ」は、二度と来なかった。
手紙は数回、途切れがちに交わされたが、由紀の住所はやがて分からなくなり、風の便りに、彼女が結婚したという噂を聞いたのは、それから三年後のことだった。
噂は、真実かどうか確かめる術もないまま、修一の中で十五年、凍りついたように留まっていた。
四
「惑星の軌道というものを、知っているか」
刻の番人は、修一の記憶を覗き込んだかのように、静かに問うた。
「彗星は、太陽の周りを巡る。ある軌道に乗ったものは、一度だけ太陽に近づき、光を放って、そしてまた闇の彼方へと遠ざかっていく。次にまた同じ場所に戻ってくるまでには、人の一生よりも長い歳月がかかることもある」
「それが、由紀と何の関係があるんだ」
「お前が十五年前に掴みそこねたものは、まだ完全には失われていない」と番人は言った。「軌道は、一度目の近日点を過ぎても、消えてしまうわけではない。ただ、遠ざかっているだけだ。……そして今、その軌道は再び、お前の生きる時間の近くを通り過ぎようとしている」
修一の心臓が、大きく音を立てた。
「由紀が、今、この街にいるということか」
「三日後」と番人は答えた。「三日後の夕刻、由紀という女は、この保護区からほど近い、あの丘の上の教会で、ある催しに立ち会う。それが、お前に残された、最後の――そして、おそらくは、この世でただ一つの機会だ」
「最後の、機会……」
「決して代用の効かないものだ」と番人は繰り返した。「迷い、気取り、うかうかと見過ごせば、それはまた軌道を描いて、二度と戻らぬほど遠くへと向かうだろう。お前たちの一生の尺度では、二度と巡り会えぬほどに」
修一は、震える声で尋ねた。
「もし、行ったら……何が起きる」
「わたしは、それを知らない」と番人は、初めて人間じみた、どこか寂しげな声で言った。「わたしは軌道を告げるだけの者。その先に何があるかは、お前自身が決断し、言葉を選び、その足で確かめるしかない」
五
その夜から、修一は眠れなかった。
三日という猶予は、あまりにも短く、そしてあまりにも長かった。
翌朝、獣舎を回りながら、修一は一頭一頭の獣たちと、いつもより長く向き合った。
白内障のマユ。片翼の関節が変形し、もう飛ぶことのできない鷹のシロ。群れからはぐれ、一頭だけで生きてきた老いた狼のクロ。
クロは、修一が近づいても、決して媚びることをしなかった。ただ静かに、獲物を狙うでもなく、警戒するでもなく、まっすぐにこちらを見つめ返す。その瞳の奥には、嘘のない、飾らない生の重みがあった。
「お前は、迷わないんだな」
修一がそう呟くと、クロはふいと視線を外し、また眠りについた。まるで、迷うという行為そのものが、獣にとっては無縁のものだとでも言うように。
人間だけが、迷う。人間だけが、理性という名の重石を抱えて、心の叫びに蓋をする。
修一は思い出す。由紀と最後に会った日、彼女の瞳が、じっと自分を見つめていたことを。あれは、クロの瞳と同じだった。嘘のない、まっすぐな、たった一度の願いだった。
そして自分は、その願いから目を逸らした。
その足で、修一は老いた象のハナのもとへ向かった。ハナは相変わらず木陰でまどろんでいたが、修一の気配を感じると、薄目を開けて長い鼻をこちらへ伸ばしてきた。
「お前は、群れの先頭を歩いていたんだってな」と修一は、誰に言うともなく呟いた。「迷わず、進む道を選んで」
ハナは答えない。ただ、大きな体をゆっくりと揺らし、鼻先で修一の手のひらを撫でるようにした。その仕草は、まるで「迷いなど、いくらでも抱えていい。ただ、それでも歩みを止めるな」と語りかけているようだった。
翼を痛めた鶴のところにも、修一は足を運んだ。鶴は今日もまた、北の空を見つめて佇んでいる。渡ることのできなかった鶴が、それでも同じ方角を見つめ続ける理由を、修一はふと理解できた気がした。届かないと分かっていても、目を逸らさずにいることそのものが、その存在の証だからだ。
夜、寝床に入っても、修一の頭の中では由紀との記憶が何度も再生された。彼女の笑い方、動物の子を抱き上げるときの手つき、雨上がりの匂いを深く吸い込んで目を細める癖。十五年という歳月は、それらの記憶を色褪せさせるどころか、かえって輪郭をくっきりとさせていた。
迷いは消えなかった。だが、迷いながらも進むことはできる――ハナが、鶴が、そしてクロが、その身をもって教えてくれていた。
二日目の夜、修一は再び白い獣に会った。
「怖いのか」と番人は尋ねた。
「怖い」と修一は正直に答えた。「もし行って、彼女がもう幸せに暮らしていたら。もし、噂通り結婚していて、子供もいたら。もし、こんな十五年越しの想いなど、迷惑にしかならなかったら」
「それでも」と番人は言った。「お前は、行かずに済ませられるのか」
修一は、答えられなかった。
答えは、もう自分の中に、ずっと前から在った。
六
三日目の夕刻、修一は保護区での仕事をすべて片付け、上司に事情を話して早退の許可を得た。丘の上の教会までは、車で四十分の距離だった。
道中、修一の脳裏には、由紀の言葉が繰り返し蘇っていた。
「動物たちってね、嘘がつけないの。だからこそ、綺麗なんだと思う」
自分は、あの日から十五年間、嘘をついてきたのかもしれない。忙しさを理由に、若さを理由に、将来の不確かさを理由に。だが本当は、ただ怖かっただけだ。心の底から誰かを求め、その答えを聞くことが怖かっただけなのだ。
丘を登る道の途中、修一は車を停め、外に出た。夕暮れの空の下、遠くの森から、獣の遠吠えが一つ、風に乗って届いた。クロの声かもしれない。あるいは、この世界のどこかで、同じように誰かを想い、迷い、それでも前へ進おうとする、名もなき獣の声かもしれなかった。
「今すぐ、手を差し出して、掴み、手繰り寄せねばならない」
修一は、自分にそう言い聞かせた。
もしそれが最後のチャンスならば。もし、この世でたった一つの、代用の効かないものならば。
迷っている暇はない。だが、慌てふためいて駆け出すのでもない。刻の番人が最後に告げた言葉が、耳の奥で静かに響いていた。
「悠々として、急げ」
それは矛盾した言葉のようでいて、修一の中で、不思議なほどすとんと腑に落ちた。慌てず、しかし止まらず。焦らず、しかし決して歩みを緩めず。腹を据えて、まっすぐに進むこと。
修一は再び車に乗り込み、丘を登り切った。
教会の前には、夕陽を浴びた人々が数人集まっていた。何かの記念行事――保護区と姉妹提携している自然保護団体の、十五周年を祝う小さな集いだと、後で聞いた。
その人だかりの中に、修一は一人の女性の後ろ姿を見つけた。
柔らかく波打つ髪、少し猫背気味の立ち姿、遠くの景色を眺めるときに小首を傾げる癖――十五年経っても変わらない、由紀のシルエットだった。
七
修一の足が、地面に縫い付けられたように動かなくなった。
ここまで来て、まだ迷っているのか、と自分自身に呆れる。だが、これは迷いではなく、覚悟を固めるための、最後の一呼吸だった。
クロの瞳を思い出す。嘘のない、まっすぐな生。マユの震える後ろ脚を思い出す。老いてなお、柵の向こうまで歩いてくる意志を。
修一は、一歩を踏み出した。
「由紀」
名を呼ぶと、その女性はゆっくりと振り返った。
夕陽を背にしたその顔は、記憶の中の由紀よりも、少しだけ大人びていた。目尻には、優しい皺が刻まれていた。だがその瞳は、あの日と変わらず、嘘のない光を湛えていた。
「……修一くん?」
驚きに見開かれたその瞳の奥に、修一は懐かしさと、戸惑いと、そしてほんの一瞬、昔と同じ光が揺れるのを見た気がした。
「話したいことがあって、来た」と修一は言った。声が震えていた。「十五年前、言えなかったことを、今からでも、言わせてほしい」
由紀は、何も答えなかった。ただ、じっと修一を見つめていた。その沈黙の中に、喜びがあるのか、戸惑いがあるのか、あるいは静かな拒絶があるのか、修一には読み取ることができなかった。
「……どうして、今になって」と、しばらくして由紀は、掠れた声で言った。「十五年も経ってから」
「言い訳にしかならないと分かってる」と修一は答えた。「臆病だった。将来が定まっていない自分には、君を追いかける資格がないと思い込んで、自分で自分を遠い軌道へと押しやってしまった。でも、それは嘘だった。ただ、君を失う答えを聞くのが、怖かっただけだ」
由紀の視線が、一瞬、地面に落ちた。それから、また修一を見上げた。
「わたしも、待っていたわけじゃないの」と彼女は言った。「この十五年、ちゃんと自分の人生を生きてきた。だから、今さらあなたが現れたところで、何かが単純に元通りになるわけじゃない」
「分かってる」と修一は頷いた。「それでも、言わずにはいられなかった。もしこれが、もう二度と巡ってこない軌道なら――迷って、また見過ごすことだけは、したくなかった」
風が、丘を吹き抜けた。教会の鐘が、遠くでかすかに鳴った。夕陽の最後の光が、二人の影を長く長く、地面に伸ばしていた。
由紀の唇が、わずかに動いた。
だが、その言葉が音になる前に――
八
修一は、獣舎の柵の前に立っていた。
朝の光が、保護区に降り注いでいる。マユが、いつものように柵際まで歩いてくる。その白濁した瞳と震える後ろ脚を見つめながら、修一はふと、あの丘の上での出来事が、本当に起きたことだったのか、それとも刻の番人が見せた、ひとときの幻だったのか、自分でも分からなくなることがある。
あの日以来、白い獣の姿を、修一は二度と見ていない。
だが、たしかなことが一つだけある。修一は、あの丘を登った。迷いながらも、足を止めなかった。嘘のない自分の心を、十五年越しに、ようやく言葉にした。
その先に、何が待っていたのか。
由紀と再び言葉を交わす日々が続いているのか、それとも、あの夕暮れの一瞬だけが、二人に許された、最初で最後の邂逅だったのか――それを語ることは、まだ修一自身にもできない。
ただ、マユの瞳を覗き込むたび、修一は思う。
軌道を描いて遠ざかっていくものも、たしかにある。だが、一度でも手を伸ばし、掴もうとしたことは、決して消えない。たとえ結末がどうであれ、その一歩を踏み出した自分自身は、もう二度と、あの十五年前の、迷ってばかりいた自分には戻れないのだと。
保護区の朝は、今日もまた、獣たちの息づかいから始まる。
温度も、湿度も、匂いも、すべてを纏って、嘘なく生きる獣たちの傍らで、修一は今日も長靴を履き、餌の入ったバケツを両手に提げて、獣舎を回る。
その足取りは、慌てることなく、けれど確かに、前へと進んでいた。
悠々として、急ぐように。
(了)
あとがき
動物たちは、老いることを隠しません。
傷も、衰えも、別れも、そのすべてを受け入れながら、今日という一日を懸命に生きています。
一方、人は未来を恐れ、過去を悔やみ、まだ来ぬ明日に心を奪われます。
だからこそ、「今」を見失うことがあります。
本作を書き終えた今、私自身もまた、人生とは「結果」ではなく、「踏み出した一歩」にこそ意味があるのではないかと思うようになりました。
たとえ結末が望んだものでなかったとしても、勇気を出して心を言葉にした事実は、決して消えることはありません。
物語の最後に掲げた「悠々として、急げ」という言葉は、この作品の主人公だけではなく、私自身への戒めでもあります。
人生には、代わりのきかない約束があります。
どうか皆さまが、その軌道を見失うことなく、大切な人へ手を伸ばせますように。

