夢渡り もう一つの選択

まえがき
「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを」
これは、平安時代の歌人・小野小町が遺した有名な和歌です。
かつて日本では、夢は「通い路(かよいじ)」と呼ばれていました。どうしても会うことの叶わない大切な人がいるとき、互いを想う強い心が、夜の夢の中で二人を引き合わせてくれる――昔の人々はそう信じていたのです。
翻って現代。最先端の物理学である量子力学の世界には、「多世界解釈」という非常に興味深い理論が存在します。私たちが人生の岐路で「選択」をするたびに、世界は枝分かれし、選ばなかった方の可能性もまた、別のパラレルワールドで現実として進み続けている、という考え方です。
もし、この古の「夢の通い路」という情緒的な発想と、現代物理学の「多世界解釈」が、人間の脳という小宇宙のなかで結びついたとしたら……。
本書は、そんな一つの「もしも」から生まれた物語です。
主人公の芦原悠と共に、夢の境界線を越える旅へ出かけてみませんか。
そこに待っているのは、あなた自身の人生を、もう一度愛おしむための、小さな光かもしれません。




登場人物
芦原 悠(あしはら ゆう)、六十歳。定年退職後の元エンジニア。三年前に妻・聡子を亡くした。

早月(さつき)、悠の若き日の恋人。海辺の民宿の一人娘だった。

聡子(さとこ)、悠の妻。三年前に病で他界。

芦原 実紀(あしはら みき)、悠の娘。美咲とは大学時代からの友人。
芦原 隆之(あしはら たかゆき)、悠の息子。実紀の兄。

沢田 美咲(さわだ みさき)、量子脳科学の研究者。父の遺志を継ぎ、「夢渡り」現象を研究している。

沢田教授、美咲の亡き父。量子脳理論と多世界解釈を結びつける独自の理論を構築した物理学者。

序章 消えてゆく夢
 毎晩、夢を見る。
 芦原悠、六十歳。三月に定年退職の延長雇用も終え、今はただ、朝が来るのを見送るだけの日々を送っている。若い頃は「眠っている暇があったら働け」が口癖だった悠が、今では眠ることばかりが上手になった。おそらく睡眠が足りているのだろう、と自分でも思う。
 夢の中には、思いもしなかった人々が現れる。とうに疎遠になった学生時代の友人、顔も忘れかけていた昔の上司、そして、名前を出すことさえ、今の悠には少し勇気がいる、あの人。
 夢は毎晩律儀にやってくるくせに、目覚めた瞬間から、まるで潮が引くように消えていく。今朝もそうだった。布団の中で「たしか、誰かと海辺を歩いていた気がする」というところまでは覚えていたのに、洗面所で顔を洗う頃には、その海の色さえ思い出せなくなっていた。
 悠はうがいをしながら、鏡の中の自分を見る。白髪の増えた髪、目尻の皺、その奥にある目だけは、あの頃と変わっていない気がする、そんな気がするだけで、確かめる術はない。
 昔、夢は「通い路」と呼ばれていたという。
 訳あって会うことの叶わない男女が、互いを想う気持ちを募らせるほどに、夢の中でだけは巡り合わせてくれる、そんな言い伝えを、悠は若い頃に古い和歌の解説書で読んだ。小野小町の歌にもあったはずだ。「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを」。
 はてさて、と悠は独りごちる。自分にはそんな都合のいい夢は、ついぞ訪れたことがない。会いたいと思うあの人は、今もまだ、悠のところへ辿り着いてくれてはいない。
 もし夢の中で会えたなら、あの日言えなかった想いを、今度こそ正直に伝えたい、そう本気で悩んでいた時期は、とうに過ぎた。今ではただ、いつかまた、という淡い期待だけを胸に、夢を心待ちにする還暦の男がいる。それが自分だ、と悠は思う。
 台所で湯を沸かしながら、悠はふと、まだ手のひらに残る夢の温度のようなものを感じた。指先を開いても、そこには何もない。
 ただ、今日という一日がまた始まるだけだった。

第一章 海辺の町、十九の夏
 時計の針を四十年以上巻き戻す。
 悠が早月と出会ったのは、大学二年の夏、伯父の紹介で手伝いに入った海辺の民宿でのことだった。早月はその民宿の一人娘で、悠より二つ年下、まだ高校を出たばかりだった。
 初めて言葉を交わしたのは、厨房の裏手で悠が薪を割っていたときだ。危なっかしい手つきを見かねた早月が、「そんな持ち方じゃ、明日には手の皮がむけますよ」と、笑いながら斧の握り方を教えてくれた。潮風に晒された早月の髪は、いつも少し塩の匂いがした。
 その夏、悠は毎日のように早朝から働き、日が暮れると早月と二人で防波堤に座り、他愛もない話をした。将来の夢、好きな音楽、東京の大学の話。早月は「いつか遠くの街を見てみたい」と言い、悠は「じゃあ、いつか一緒に行こうか」と、半分冗談のように返した。あの頃はまだ、それが叶わぬ約束になるとは思ってもみなかった。
 九月になり、悠は東京に戻らねばならなかった。バスに乗り込む悠に、早月は小さな貝殻を一つ差し出した。「また来年、忘れずに来てくださいね」それだけ言うと、早月は踵を返し、振り返らずに歩いていった。
 悠はその貝殻を、長い間、机の引き出しの奥にしまっていた。
 次の年の夏も、その次の年の夏も、悠は同じ民宿を訪れた。二人の間にある感情に、名前をつけることは互いにしなかった。けれど、手紙のやり取りは学期の間じゅう絶えることなく続き、悠は早月の便箋の匂いを、いつしか覚えてしまうほどになっていた。
 早月もまた、悠が来る夏を指折り数えて待っていた、と後に悠は知ることになる。
 しかし、すべての物語がまっすぐに幸福な結末へ向かうわけではない、ということを、悠はまだ知らなかった。

第二章 募る想い
 大学三年の夏、悠は早月に告白しようと決めていた。貝殻を手のひらに握りしめ、民宿へ向かうバスの中で何度も練習した台詞は、結局、早月の顔を見た途端に霧散してしまったけれど。
 その代わり、二人は言葉を交わさずとも、互いの想いが同じ強さであることを、なんとなく確かめ合っていた。防波堤に並んで座り、肩と肩が触れる距離。会話が途切れても気まずくならない沈黙。悠が東京へ帰る日、早月は初めて「寂しい」と口にした。
 「来年もまた来る」
 悠がそう約束すると、早月はようやく笑って、「ええ、待っています」とうなずいた。
 だが、その年の冬、早月から届いた手紙の様子が、少しずつ変わっていった。文面はいつも通り穏やかだったが、行間に何か言い淀んでいるような気配があった。悠が「どうかしたのか」と尋ねても、早月は「なんでもありません」とだけ返してきた。
 春になり、悠は早月の家業、先代から続く民宿の経営が、思いのほか厳しい状況にあることを、風の便りに聞いた。早月の父親は体を壊し、民宿を畳むか、誰かに継がせるかの岐路に立たされているという。
 そしてもう一つ、悠がその夏まで知らずにいた事実があった。
 早月には、家同士の古い付き合いから決められた、許婚がいたのだ。

第三章 あちら側とこちら側
 その夏、悠が民宿を訪れると、早月はいつもより痩せて見えた。
 二人は最後の夜、防波堤に座った。早月は膝を抱え、海を見つめたまま、ぽつりぽつりと事情を話した。父の体のこと、民宿の借金のこと、そして、隣町の網元の息子との縁談が、もう半ば決まっていること。
 「断ることも、できたはずなんです」早月は言った。「でも、断ったら、父の代からのお店も、ここで働いてくれている人たちの生活も、立ち行かなくなる」
 悠は何も言えなかった。自分にできることなど、何もなかった。学生の身では、早月を、この土地の暮らしを、支えることなどできない。
 「私、あちら側に行きます」
 早月はそう言った。網元の家に嫁ぐことを、早月は「あちら側」という言葉で表した。まるで、自分がこれから、別の世界に渡ってしまうかのように。
 「もし」早月は続けた。「もし私が、こちら側に残ることを選べていたら」
 その先の言葉を、早月は口にしなかった。悠もまた、続きを促すことができなかった。二十歳の悠には、早月の選択を覆すだけの力も、覚悟も、なかったのだ。
 その年の秋、早月は隣町へ嫁いだ。手紙は、ぱたりと途絶えた。
 悠は貝殻を、机の引き出しの、もっと奥にしまい直した。そして、それから四十年近い歳月の間、一度も取り出すことはなかった。
幕間一 届かなくなった手紙
 早月が嫁いでからも、悠はしばらくの間、月に一度は手紙を書き続けた。返事が来ないことは分かっていながら、それでも書かずにはいられなかった。就職活動のこと、卒業論文のこと、他愛もない近況。宛先の住所を、悠は暗記してしまうほど何度も便箋に書いた。
 半年ほど経った頃、悠が書いた手紙の一通が、開封されないまま「あて所に尋ねあたりません」の付箋とともに戻ってきた。何かの間違いだろうと思い、悠は次の夏、思い切って民宿を訪ねてみることにした。
 バスを降り、懐かしい坂道を上っていくと、かつての民宿は、看板だけを残して固く戸を閉ざしていた。近所の老人に尋ねると、早月の父親はあの冬に亡くなり、母親も体を悪くして施設に入ったこと、早月自身は嫁ぎ先の家業を手伝うため、この土地からは離れて暮らしているらしいということを、悠は知った。
 「隣町の網元さんとこに嫁いだ娘さんね。もうずいぶん遠くに行っちまったって話だよ。詳しいことは、私らも聞いちゃいないけどねぇ」
 悠は結局、隣町まで足を運ぶことはしなかった。もし早月に会えたとして、今さら何を伝えられるというのか。既婚の身になった早月の生活を、かき乱すだけの結果になるのは目に見えていた。
 悠は防波堤に一人で座り、夕暮れの海を眺めながら、貝殻を握りしめた。もう二度と、この場所に来ることはないだろう、と悠は思った。実際、その予感は当たった。悠がこの町を再び訪れることは、その後の人生で一度もなかった。
 東京に戻ったバスの中で、悠は静かに、けれど確かに、一つの区切りをつけた。もう振り返らない。前を向いて生きていく。二十一歳の悠は、そう心に決めた。

第四章 こちら側で生きて
 早月が去った後、悠は勉学に打ち込んだ。卒業後は電機メーカーに就職し、仕事に明け暮れた。二十八の時、見合いで知り合った聡子と結婚し、一男一女を授かった。
 聡子との暮らしは、決して悪いものではなかった。むしろ悠は、聡子と過ごした三十年余りを、心から幸福だったと言い切ることができる。子供たちは独立し、それぞれの家庭を築いた。孫も二人生まれた。悠にとって「こちら側」の人生は、平凡だけれど、確かな手応えのある人生だった。
 聡子が病で亡くなったのは、三年前のことだ。長い闘病の末、静かに息を引き取った聡子の手を握りながら、悠は最後まで「ありがとう」しか言えなかった。
 妻を看取ってから、悠は急に、時間の流れ方が変わったように感じている。子供たちは気遣ってくれるが、それぞれの生活があり、頻繁には会えない。一人娘の実紀だけは、月に一度ほど、様子を見に来てくれる。
 「お父さん、最近よく眠れてる?」
 ある日、実紀がそう尋ねてきたので、悠は「毎晩たくさん夢を見るよ」と答えた。「けれど、朝になるとすっかり忘れてしまうんだ」
 実紀は少し考えてから、「大学時代の友達で、脳科学の研究をしている人がいるの。今度、夢の研究をしている先生を紹介しようか」と言った。
 悠は最初、社交辞令のようなものだと思い、軽く笑って受け流した。まさかその一言が、自分の人生の最後の大きな転機になるとは、この時の悠には知る由もなかった。
幕間二 聡子という人
 聡子と出会ったのは、悠が二十八になった年の、親戚を通じた見合いの席だった。飾らない性格で、よく笑う人だった。悠が「実は昔、忘れられない人がいる」と正直に打ち明けたのは、交際を始めて半年ほど経った頃だ。
 聡子はその話を静かに聞き、こう言った。
 「誰にだって、そういう人の一人や二人、いるものでしょう。大事なのは、今、目の前にいる人を大切にできるかどうかだと思うわ」
 その懐の深さに、悠は心から救われる思いがした。聡子と結婚してからの日々は、劇的な出来事など何もない、ごく普通の家庭生活だった。だがその「普通」こそが、悠にとってはかけがえのないものだった。
 長男の隆之が生まれた夜、悠は病院の廊下で、生まれて初めて声を上げて泣いた。その五年後に実紀が生まれた時も、悠は同じように泣いた。子供たちの運動会、入学式、反抗期、受験、ありふれた家族の記録を、悠と聡子は一つずつ積み重ねていった。
 仕事では、四十代で一度、大きな左遷を経験した。悔しさで眠れない夜が続いた時期、隣で黙って背中をさすってくれたのは聡子だった。「あなたが腐らずにやってきたこと、私はちゃんと見てきたから」その一言に、悠はどれほど支えられたか分からない。
 聡子が病を得たのは、悠が五十七の時だった。三年に及ぶ闘病生活の中で、聡子は最後まで気丈だった。「悠さん、私が死んでも、湿っぽい顔で過ごすのはやめてね。ちゃんとご飯を食べて、たまには友達とお酒でも飲んでちょうだい」
 悠は、聡子との人生に、一片の後悔もない。ただ、あの夏に置いてきた小さな棘のようなものだけが、聡子には決して見せることのなかった、悠の心の奥底に、ずっと沈んでいた。

第五章 沢田准教授
 実紀に連れられて悠が訪れたのは、都内の大学に併設された、こじんまりとした研究室だった。
 「沢田美咲です。実紀とは学生時代からの友人で」
 名刺を差し出しながらそう名乗った女性は、三十代半ばだろうか、白衣の下にラフなセーターを着た、飾り気のない研究者だった。専門は「量子脳科学」だという。
 「率直に伺いますが」美咲は悠の顔をまっすぐに見て言った。「芦原さんは、毎晩夢を見て、目覚めるとすぐに忘れてしまう。そうですね?」
 「ええ、その通りです」
 「それは、多くの人に共通する現象です。レム睡眠中の脳は、覚醒時とは異なる神経伝達物質の状態にあって、記憶の定着がされにくい。でも」美咲は一呼吸置いた。「私が研究しているのは、その『先』の話なんです」
 美咲は続けた。人間の脳が眠っている間、特にレム睡眠の深い段階では、脳内の微小管というごく小さな構造の中で、量子力学的な重ね合わせ状態に近い現象が起きている可能性がある、これは、かつてペンローズとハメロフという二人の科学者が提唱した仮説で、長らく異端視されてきたが、近年の実験技術の進歩によって、再評価が進んでいる分野なのだという。
 「まだ何の証明もされていません。学会でも賛否両論です」美咲は前置きしてから、少し声を落とした。「でも私は、父の遺した研究ノートを引き継いで、この五年、ある可能性を追いかけています。多世界解釈、量子力学で、観測のたびに世界が分岐していくという、あの解釈をご存じですか」
 悠は工学部出身だったから、多世界解釈という言葉自体は知っていた。しかし、それが自分の見る夢と、どう繋がるというのか。
 「もし」美咲は言った。「深い眠りの中で、脳が一時的に、通常より多くの分岐世界と『重なり』を保つことができるとしたら。そしてその重なりの隙間から、ごく稀に、別の分岐で生きているはずの自分自身や、その世界にいる誰かの意識の断片が、夢という形で漏れ込んでくるのだとしたら」
 悠は言葉を失った。

第六章 夢渡り仮説
 美咲の父、沢田教授はもともと素粒子物理学者だったが、晩年は「意識のハードプロブレム」に取り憑かれ、量子脳理論と多世界解釈を結びつける独自の理論を組み立てていたという。同僚たちからは「オカルトに走った」と陰口を叩かれ、失意のうちに亡くなった。美咲はその遺志を、こっそりと継いでいた。
 「父はこの現象を、昔の言葉を借りて『夢渡り』と呼んでいました」
 美咲はノートパソコンの画面に、複雑な波動関数の図を映し出しながら説明を続けた。
 量子力学の多世界解釈によれば、私たちが「選択」をするたびに、実際には選ばなかった方の結果も、別の宇宙、いわゆる分岐世界で実現しているという。悠が二十歳のあの夏、早月と共に生きる道を選ばなかったとしても、量子論的には、選んだ悠がどこかの分岐に存在していることになる。
 通常、いったん分岐した世界同士は、互いに干渉することも、観測することも、二度とできない。デコヒーレンスと呼ばれる過程によって、分岐は不可逆的に切り離されてしまうからだ。
 「けれど父の理論では、極めて稀に、脳が深い眠りに入った瞬間、デコヒーレンスが完了しきる直前のごく短い時間に、隣接する分岐との間に、一時的な『窓』が開くことがあるというんです。夢というのは、その窓を通して漏れてくる、別の世界線のノイズなのではないか、と」
 悠は乾いた喉で問うた。
 「それが本当なら、私の見ている夢の中には、もし私が、あの時、別の選択をしていたら生きていたはずの、もう一つの人生が映っている、ということですか」
 美咲はうなずいた。
 「可能性としては。ただし証明はされていません。それに、多くの夢はただの脳内ノイズです。本物の『夢渡り』が起きているのか、単なる願望が生んだ幻なのか、区別する方法を、私はまだ確立できていません」
 悠は、消えてしまった今朝の夢のことを思った。海辺を歩いていた、あの断片のことを。

第七章 実験
 美咲の研究には、被験者が必要だった。特に、人生の中で「選ばなかった道」を強く意識し、なおかつその分岐点をはっきりと記憶している被験者。悠はその条件に、あまりにも当てはまっていた。
 「もちろん、無理にとは言いません。これは治療でも治験でもない、あくまで基礎研究です。リスクも、正直なところ、まだよく分かっていません」
 美咲は慎重にそう前置きしたが、悠の心はすでに決まっていた。
 実験は、簡素な脳波計測器を頭部に装着し、決められた時間に眠りにつくという、拍子抜けするほど地味なものだった。眠る前には、悠自身に「思い出したい分岐点」を強く意識するよう指示された。悠は迷わず、あの夏の防波堤を思い浮かべた。
 最初の数回は、何も起こらなかった。目覚めても、いつも通り、夢の記憶はさらさらと指の間からこぼれ落ちていった。
 美咲は焦らず、機材を微調整し続けた。「デコヒーレンスの窓は、本人が思っているより短いのかもしれません。目覚めの瞬間の脳波を、もっと精密に捉える必要がある」
 四回目の実験の夜、悠は久しぶりに、朝までしっかりと覚えている夢を見た。
 夢の中で悠は、防波堤に座っていた。潮の匂いがした。隣には、誰かが座っている気配があった。振り向こうとした瞬間、目が覚めた。
 「隣に、誰かがいた気がするんです」
 悠がそう報告すると、美咲の目が、はっきりと輝いた。

第八章 断片
 それから数週間、悠の夢は少しずつ、輪郭を持ち始めた。
 ある夜は、古い民宿の厨房。薪の匂い。ある夜は、雨に濡れた商店街のアーケード。傘を分け合う誰かの肩。ある夜は、見知らぬ子供たちの声が遠くから聞こえてくる、静かな縁側。
 どの夢にも、はっきりとは見えないけれど、確かにそこにいる「誰か」の気配があった。悠は次第に確信していった。あれは早月だ、と。
 美咲は脳波データを解析しながら、興奮を隠さずに言った。
 「芦原さんの脳波、目覚める直前の数秒間に、通常では説明のつかないパターンが記録されています。デルタ波とガンマ波が同時に高振幅で現れる、非常に稀な状態です。これは……父の理論が予測していた波形に、近いかもしれません」
 しかし美咲は同時に、慎重な表情も崩さなかった。
 「言っておかなければならないことがあります。もしこれが本当に『夢渡り』だとしたら、窓が開くたびに、芦原さんの脳は、隣接する分岐世界と、ごくわずかながら情報のやり取りをしていることになります。それがどんな影響を及ぼすか、まだ誰にも分かりません。記憶の混線が起きる可能性も、否定できないんです」
 悠は少し考えてから、静かに答えた。
 「美咲さん。私はもう六十です。この歳になって初めて、もう一度、あの人に会えるかもしれない機会を貰った。多少のリスクくらい、引き受けますよ」
 美咲は何か言いかけて、結局、小さくうなずくだけにとどめた。
幕間三 娘の懸念
 実紀は、父の様子が少しずつ変わっていくのに気づいていた。
 美咲の研究室に通い始めてから、悠の表情は明らかに柔らかくなった。それ自体は喜ばしいことのはずだった。だが同時に、悠が時折、ぼんやりと宙を見つめ、話しかけても気づかないことが増えていた。
 「お父さん、最近ちょっと変よ。大丈夫?」
 ある夜、実家に立ち寄った実紀がそう尋ねると、悠は「ああ、大丈夫だ。よく眠れているだけだよ」と、いつも通りの調子で答えた。だが実紀は、父の目の奥に、何か自分には踏み込めない領域があることを感じ取っていた。
 実紀は美咲に連絡を取り、それとなく実験の内容を尋ねた。美咲は言葉を選びながらも、実験の概要と、想定されるリスクについて、正直に話してくれた。
 「実紀、正直に言うわね。私も、これが本当に安全なのか、確信を持てているわけじゃない。でも、お父様がこれほど生き生きとしているのは、正直、意外だった」
 電話を切った後、実紀は複雑な思いを抱えた。母を亡くしてから、どこか抜け殻のようになっていた父が、初めて自分の意志で何かに情熱を注いでいる。それを止める権利が、自分にあるのだろうか。
 実紀は結局、兄の隆之にも相談した。隆之は「親父の人生だ、好きにさせてやればいい」と、いつもの淡白な調子で答えたが、電話の向こうの声には、隠しきれない心配の色が滲んでいた。
 「ただ、危なそうだったら、俺たちにすぐ言ってくれよな」
 その言葉を、実紀は静かに胸に留めた。

第九章 あちら側の早月
 十回目の実験の夜、悠はついに、はっきりとした夢を見た。
 防波堤に座る自分の隣に、白髪交じりの髪をした女性がいた。潮風になびくその髪は、記憶の中の早月と同じように、少し塩の匂いがした。
 「悠さん」
 その声を聞いた瞬間、悠は夢の中だというのに、涙がこぼれるのを感じた。四十年ぶりに聞く、早月の声だった。老いてなお、あの夏と変わらない響きを持った声。
 「早月さん、本当に、早月さんなんですか」
 早月は不思議そうに首をかしげた。
 「何を今さら。私たち、結婚してもう三十年以上経つのに」
 その一言で、悠は理解した。これは、悠が知る現実とは違う、もう一つの世界線なのだと。あの夏、悠が民宿に残る決断をし、早月と共に「こちら側」ではなく「あちら側」、家業を継ぎ、二人で生きる道を選んだ、もう一つの人生。
 夢の中の悠、いや、この分岐世界の悠は、民宿を継ぎ、早月と結婚し、この防波堤のある町で、ずっと暮らしてきたのだという。子供は一人。もう独立して、東京で働いているらしい。
 悠は、自分がこの世界の「悠」ではなく、別の分岐から迷い込んだ意識の断片であることを、早月に伝えるべきかどうか迷った。だが、伝えたところで、証明する術もない。
 ただ、目の前にいる早月の横顔を、悠は食い入るように見つめた。若い頃のままの早月しか知らなかった悠にとって、歳を重ねた早月の姿は、それだけでひとつの奇跡のように思えた。
 「どうしたんです、そんな顔をして」早月が笑った。「今日は柄にもなく、ロマンチックですね」
 悠は、あの日、伝えられなかった言葉を、今なら言えるだろうかと思った。

第十章 もう一つの人生
 目覚めた悠は、しばらくの間、天井を見つめたまま動けなかった。
 美咲に報告すると、彼女は食い入るようにデータを確認した。「間違いありません。今回の脳波パターンは、これまでで最も強く、父の理論が予測していたものと一致しています」
 その夜以来、悠は毎晩のように、あちら側の世界を訪れるようになった。窓が開く時間は短く、断片的だったが、回を重ねるごとに、その世界の輪郭がはっきりとしてきた。
 あちら側の悠と早月は、民宿を小さな旅館へと発展させ、地元では名の知れた宿として、堅実に商いを続けていた。決して裕福ではなかったが、二人で築いた店には、確かな温もりがあった。
 悠は、あちら側の暮らしの細部を、少しずつ知っていった。早月が毎朝、誰よりも早く起きて出汁を取ること。悠、あちら側の悠が、腰を痛めながらも、頑固に厨房に立ち続けていること。二人でよく、閉店後の防波堤に座り、他愛もない話をすること。
 それは、悠がずっと思い描いていた「もし、あの時こちら側ではなくあちら側を選んでいたら」という夢想の、ある意味での答え合わせだった。
 そこには確かに、悠が失ったと思っていた早月との時間があった。だが同時に、悠は気づき始めていた。あちら側の人生もまた、輝かしいだけの理想郷ではないということに。
幕間四 夏祭りの夜
 ある夜の夢で、悠はあちら側の世界の、夏祭りの日に迷い込んだ。
 旅館の軒先には提灯が並び、早月は浴衣姿で、忙しく立ち働いていた。あちら側の悠、旅館の主人としての悠もまた、法被を羽織り、来客の応対に追われていた。
 「精が出ますね」
 悠がそう声をかけると、あちら側の早月は、額の汗を拭いながら微笑んだ。
 「今日は町内会の夏祭りと重なって、お客様が多いんです。悠さんも、後で一緒に花火、見ましょうね」
 厨房を手伝う若い従業員、常連客との軽口、地元の子供たちが旅館の前で花火に興じる声。それは悠が知らない、けれど確かにあり得たかもしれない、賑やかな日常の一コマだった。
 夜が更け、旅館の裏手にある小さな庭から、二人は打ち上げ花火を見上げた。あちら側の早月は、隣に立つ悠の手を、ごく自然に取った。皺の増えたその手は、悠の記憶にある若い早月の手とは違ったが、その温もりは、あの夏の防波堤で感じた温もりと、どこか同じだった。
 「毎年、この花火を見るたびに思うんです」早月は言った。「大変なことも多かったけれど、悠さんと一緒にこの町で生きてきて、良かったって」
 その言葉を聞きながら、悠は複雑な感情に包まれた。羨望と、安堵と、そして、ほんの少しの寂しさ。この温かな光景の中に、自分の居場所はない。悠はただの、通りすがりの観測者に過ぎないのだ。
 花火が最後の一発を打ち上げた瞬間、悠は目を覚ました。

第十一章 完璧ではない場所
 ある夜の夢で、悠はあちら側の早月が、一人で仏壇の前に座っている姿を見た。位牌には、見知らぬ名前が刻まれていた。
 「お義父さんね」早月はぽつりと言った。「旅館を継いだ年に、無理をさせてしまって。もっと早く楽をさせてあげられていたら」
 あちら側の悠、旅館の主人としての悠は、経営難の時期に体を壊し、長く入院していたこともあったという。早月は女手一つで旅館を切り盛りしながら、悠を看病し、子供を育てた。決して楽な人生ではなかったのだ。
 別の夜には、あちら側の早月が、ふと漏らした言葉があった。
 「時々、考えるんです。もし私が、あの人の家に嫁いでいたら、大学に進んで、東京で暮らしていたら、どんな人生だったんだろうって」
 悠は胸を突かれた。あちら側の早月もまた、自分と同じように、選ばなかった道を、時折思い出しているのだ。「こちら側」を選んだ悠の人生を、早月は知る由もないというのに。
 美咲にこのことを話すと、彼女はゆっくりとうなずいた。
 「どちらの分岐にも、幸福と苦労が、それぞれの形で存在している。それが多世界解釈の、ある意味で残酷なところです。『もし別の道を選んでいたら、すべてがうまくいっていた』というのは、幻想に過ぎない」
 悠はその言葉を、静かに受け止めた。あちら側の人生への憧れが、少しずつ、違う色合いを帯び始めていた。

第十二章 伝えられなかった言葉
 窓が開く時間は、実験を重ねるごとに、ほんの数秒ずつだが延びていった。美咲はそれを「脳が窓の存在に適応しているのかもしれません」と分析したが、同時に「これ以上の延長は、想定していたリスクの領域に入ります」とも警告した。
 悠は、残された機会がそう多くはないことを悟った。
 ある夜、悠はついに、あの夏、防波堤で言えなかった言葉を、あちら側の早月に伝える機会を得た。もちろん、あちら側の早月にとって、それはとうの昔に交わされた言葉のはずだった。だが悠は、自分自身のために、それを口にしたかった。
 「早月さん。あの夏、僕は本当は、あなたと一緒に生きていきたいと思っていました」
 早月は少し驚いたように悠を見て、それから、いつものように穏やかに微笑んだ。
 「知っていますよ。だって、あなたは今も、私の隣にいるじゃないですか」
 その答えは、あちら側の早月にとっては当たり前の、日常の一コマに過ぎなかった。けれど悠にとっては、四十年越しに、ようやく届いた返事のように感じられた。
 悠は、こちら側の人生で、聡子と築いてきた日々のことを思った。悔いのない、確かな人生だった。それでも、あの夏に置いてきた想いに、今こうしてひとつの区切りをつけられることに、深い安堵を覚えた。
 「ありがとう、早月さん」
 悠がそう呟いた時、夢の中の風景が、まるで水面に石を投げ込んだ時のように、揺らぎ始めた。

第十三章 警告
 目覚めた悠を、美咲は青ざめた顔で迎えた。
 「芦原さん、脳波が昨夜、一時的に危険域に近い数値を記録しました。窓が開いている時間が長くなるにつれて、こちら側の分岐と、あちら側の分岐の情報が、混線し始めている可能性があります」
 美咲は、父のノートの最後のページを、悠に見せた。そこには乱れた筆跡で、こう記されていた。
 「窓は、開き続けてはならない。デコヒーレンスは、脳を、そして意識を、ひとつの世界に繋ぎ止めるための、必要な防壁でもあるのだ」
 沢田教授自身も、晩年、この「夢渡り」の実験を、自らの体で試みていたのだという。そして、ある時期から、教授の様子がおかしくなった。今どちらの世界にいるのか分からなくなる瞬間が増え、家族の顔さえ、時折混同するようになったと、美咲は苦しそうに語った。
 「父は最後、こちら側の世界に、うまく戻ってこられなくなってしまったんだと思います」
 悠は言葉を失った。あちら側の早月に会えることの喜びの裏に、こんな代償が潜んでいたとは。
 「もう、これ以上は続けられません」美咲は悠の目を見て、はっきりと言った。「これは、お願いです。実験は、今夜を最後にしましょう」
 悠は、深く息を吸い込んだ。今夜が、最後の夜になる。
幕間五 沢田教授のノート
 美咲は、父の研究ノートの一部を、悠に見せてくれた。
 最後の一年分のノートは、次第に文字が乱れ、日付の記載も抜け落ちがちになっていた。ある頁には、こう記されていた。
 「今夜も、あちらの世界の方が、鮮明だった。娘の名前を、一瞬、思い出せなかった。これは危険な兆候だ。だが、あちらの世界にいる妻に、もう一度会えるなら」
 美咲の父は、若くして妻を病で亡くしていた。「夢渡り」の研究は、元々は純粋な物理学の探求だったが、いつしか、亡き妻ともう一度会うための、個人的な執着へと変わっていったのだという。
 「父は最後の数ヶ月、ほとんど、あちら側の世界で暮らしているような状態でした。こちら側の私たちのことを、時々、あちら側の家族と混同するようになって……。ある朝、父は目を覚まさなくなりました。医師の見立てでは、脳への過度な負荷が原因だろうと」
 美咲の声は震えていた。
 「私が、この研究をここまで慎重に進めているのは、父と同じ過ちを、他の誰かに繰り返させたくないからです。芦原さんには特に、そう伝えておきたかった」
 悠は、美咲の父の最期に、自分の未来を重ねずにはいられなかった。もし窓を開け続けていたら、いつか自分も、こちら側に戻れなくなるのかもしれない。
幕間六 窓の乱れ
 実験を終えるべき日の、その前の晩のことだった。
 悠は予定にはなかった、自然な眠りの中で、突然、あちら側の世界に迷い込んだ。美咲の管理下にない、無防備な状態での「夢渡り」だった。
 夢の中の悠は、あちら側の早月と、旅館の帳場に並んで座っていた。だが、いつもと様子が違った。夢の輪郭がやけに鮮明で、目覚めへと向かう感覚が、なかなか訪れない。まるで、窓が閉じ方を忘れてしまったかのようだった。
 「悠さん? どうしたの、顔色が悪いわ」
 あちら側の早月の声が、やけに遠く聞こえた。悠は焦った。戻らなければ。こちら側に、実紀や隆之が待つ、自分の本来の人生に。
 悠は必死に、聡子の顔を、子供たちの顔を、家の玄関の匂いを思い浮かべた。それが、こちら側へ戻るための、唯一の手がかりのように思えた。
 やがて、悠は自宅のベッドの上で、汗だくになって目を覚ました。時計を見ると、いつもの実験時間よりも、ずっと長く眠っていた。
 その日のうちに、悠は美咲に連絡を入れた。
 「昨夜、管理下ではない夢渡りが、自然に起きたようです。戻ってくるのに、いつもより時間がかかりました」
 美咲の声が、電話越しに緊張するのが分かった。
 「やはり、脳が窓の開放に慣れ始めているのかもしれません。芦原さん、これは、想定していたより早いペースです。予定を早めましょう。今夜を、本当に最後の夜にしませんか」
 悠は静かに、けれど迷いなく、うなずいた。

第十四章 最後の夜
 最後の実験の夜、悠はいつもより長く、目を閉じたまま横になっていた。
 夢の中の防波堤に、悠は再び座っていた。隣には早月がいた。悠は今夜が最後であることを、なぜか、はっきりと理解していた。夢の中の悠に、それを説明する言葉はなかったけれど。
 「早月さん」
 「なんですか、改まって」
 悠は、あちら側の世界の細部を、もう一度、目に焼き付けるように見渡した。潮の匂い、遠くの灯台の光、寄せては返す波の音。そして、隣にいる、歳を重ねた早月の穏やかな横顔。
 「もし僕が、こちら側の、いや」悠は言い直した。「もし、あなたと違う人生を生きている僕がいたとしたら、その僕に、何か伝えたいことはありますか」
 早月は不思議そうな顔をしたが、少し考えてから、静かに答えた。
 「そうですね……。どんな道を選んでいたとしても、精一杯生きてくれていたら、それでいいと思います。私がここで、こうして幸せに、大変なことも多いけれど、幸せに生きてきたように」
 その言葉を聞いた瞬間、悠の中で、何かが静かに定まった。
 悠は、自分が本当に選ぶべき人生を、すでに選び終えていたのだと気づいた。聡子との三十年、子供たちとの日々、そのすべてが、悠にとっての「精一杯生きた」証だったのだ。
 「ありがとう、早月さん。あなたに会えて、本当に良かった」
 早月は微笑んだ。夢の輪郭が、ゆっくりと光の中に溶けていく。
 「さようなら、悠さん。またいつか、どこかの夜に」

第十五章 こちら側で
 目覚めた悠は、しばらくの間、涙が止まらなかった。悲しみではなく、何か大きな重荷を、ようやく下ろせたような涙だった。
 美咲は脳波のデータを確認し、静かに言った。「窓は、完全に閉じました。もう二度と、同じようには開かないと思います」
 「それでいいんです」悠は言った。「僕はもう、あちら側に未練はありません」
 実験室を後にする悠に、美咲は深く頭を下げた。「危険な実験に付き合っていただいて、ありがとうございました。父の理論を、少しだけでも証明できたのは、芦原さんのおかげです」
 「いや」悠は首を振った。「僕の方こそ、ありがとうと言わなければいけません。四十年間、心のどこかで引っかかっていた棘のようなものが、今夜、すっかり抜けた気がします」
 帰り道、悠は久しぶりに、空を見上げて歩いた。夕暮れの空は、あの夏の海の色によく似ていた。
 家に着くと、悠は机の引き出しの一番奥から、あの貝殻を取り出した。四十年の歳月を経て、貝殻は白く乾き、いくつかの傷を纏っていたが、それでも確かに、あの夏の記憶を宿していた。
 悠はその貝殻を、居間の窓辺に飾ることにした。隠すものではなく、大切な思い出として。

終章 すれ違う一瞬
 それから半年が過ぎた、ある秋の午後。悠は買い物帰り、商店街のアーケードを歩いていた。
 ふと、前方から歩いてくる、白髪交じりの女性に目を留めた。年の頃は、悠と同じくらいだろうか。すれ違いざま、その人がまとう空気に、悠は思わず足を止め、振り返った。
 まさか、と思う自分がいる。けれど振り返った先には、ただ見知らぬ女性の後ろ姿があるだけだった。違うとわかっている。当たり前だ。あの人はもう、遠い海辺の町で、別の人生を生きているのだから。
 それでも、その一瞬だけ見えた横顔と、すれ違う際にふわりと香った、どこか懐かしい匂いが、あの夏の記憶を、鮮やかに呼び覚ました。
 悠は、わずか数秒だけ、微笑んでみる。
 悲しみのための微笑みではなかった。もう手繰り寄せることのできない、けれど確かに自分の人生の一部であった、あの夏への感謝の微笑みだった。
 夢は、もう昔のようには通ってこないかもしれない。それでも構わない、と悠は思う。あちら側の人生を覗き見たことで、悠は初めて、自分が生きてきた「こちら側」の人生こそが、紛れもなく自分自身の選び取った、かけがえのない道であったことに気づけたのだから。
 商店街を吹き抜ける秋の風に、悠はコートの襟を立てた。
 家に帰れば、窓辺には、あの貝殻が飾られている。そして今夜もまた、悠は眠りにつくだろう。どんな夢を見るのかは、目覚めた時にはもう分からなくなっているかもしれない。それでも、悠はもう、夢を追いかけることはしない。
 ただ、穏やかに、今日という一日を終えるだけだ。
 夢は、通い路。
 けれど今の悠にとって、その道は、もう誰かに会うためではなく、自分自身の歩んできた道のりを、静かに振り返るための道になっていた。
(了)


外伝 隆之の見た父
 最後の実験から一週間後、隆之は久しぶりに実家に立ち寄った。
 父の悠は、居間の窓辺に飾られた古い貝殻を、何か大切なものでも扱うように眺めていた。隆之がそれについて尋ねると、悠は少し照れくさそうに、「若い頃の、大事な思い出の品だよ」とだけ答えた。
 母が亡くなってからの三年間、父はどこか心ここにあらずといった様子で日々を過ごしていた。隆之はそれを、当然の悲しみの表れだと理解していたし、無理に踏み込むべきではないとも思っていた。
 だが今、目の前にいる父は、明らかに何かが違っていた。以前よりも表情が柔らかく、言葉に張りがある。妹の実紀から、美咲という研究者の実験のことは聞いていた。正直、隆之は半信半疑だった。量子力学だの多世界解釈だの、俄かには信じがたい話だ。
 しかし、父の変化そのものは、紛れもない事実として、隆之の目の前にあった。
 「親父、その実験、結局どうだったんだ?」
 隆之がそう尋ねると、悠はしばらく黙って庭を眺めた後、静かに答えた。
 「うまく言葉にはできないが……。長い間、心のどこかに刺さっていた棘のようなものが、抜けた気がするんだ。お前たちには、心配をかけて悪かったな」
 隆之は、それ以上、深く追及することはしなかった。父が本当に別の世界を覗いたのか、それとも老いた心が見せた美しい幻だったのか、その真偽を確かめる術は、自分にはない。ただ、目の前の父が、以前よりも穏やかな顔をしていることだけは、確かだった。
 「今度、みんなでメシでも食おうぜ。親父の好きな店、まだあるんだろ」
 悠はうなずき、少しだけ、涙ぐんだように見えた。


Amazon Kindle





あとがき
 「夢は通い路」という古い言い伝えを軸に、還暦を迎えた男が、若き日の淡い恋と、現在の穏やかな諦観との間を行き来する、そんな詩に触れた時、私はふと思ったのです。もしこの「夢で通う」という古の発想を、現代の量子力学、とりわけ多世界解釈という科学理論と結びつけたら、どんな物語が生まれるだろうか、と。
 多世界解釈は、私たちが選択をするたびに、選ばなかった方の可能性もまた、どこかの宇宙で実現しているという、壮大で、少し切ない理論です。誰しも、人生のどこかで「もしあの時、違う道を選んでいたら」と、一度は考えたことがあるのではないでしょうか。
 けれど本作を通して私が描きたかったのは、「あちら側」への憧れそのものよりも、むしろ「こちら側」の人生を、あらためて肯定するための物語です。悠が最終的に辿り着いた答えは、過去への未練を捨てることでも、後悔を否定することでもありません。選ばなかった道にもまた、それぞれの喜びと苦労があったことを知った上で、自分が実際に歩んできた道を、静かに、誇りを持って抱きしめること。それこそが、本作の願いです。