夢は通い路 第二部


第四章 あちら側の僕
夢は、日ごとに濃くなっていった。濃くなる、という言い方はおかしいかもしれない。けれど、僕にはそれ以外の言い方が思いつかなかった。夢の色が濃くなり、匂いが濃くなり、時間が濃くなり、そこにいる彼女の輪郭が濃くなっていった。目覚めたあとに残るものも、日ごとに、少しずつ、多くなっていった。
そして、ある夜から――夢のなかの「僕」が、はっきりと、こちら側の僕ではなくなった。

その夜、僕は、大学の講義室にいた。十七歳ではない。二十歳くらいの、大学生の身体だった。膝の上に、微分積分学のテキストがのっていた。左手に、シャープペンシル。右手で、ときどき、頬杖をついていた。
黒板の前で、白髪の教授が、なにやら数式を書き連ねている。まわりの学生たちが、それを熱心に、あるいはうんざりと、写している。
隣の席に、結がいた。大学生の結。少し短くなった髪。夏だからだろう、白い半袖のブラウスに、紺のスカート。首もとに、細い銀のネックレスが光っていた。
「透くん、この式、写した?」
結はささやくように、僕に訊いた。透くん。僕は、その響きに、少しだけ、驚いた。高校時代、彼女は僕のことを「森野くん」と呼んでいた。「透くん」と呼ばれた覚えは、少なくとも、こちら側の僕には、なかった。
しかし、夢のなかの僕は、その呼び名にごく自然に慣れていて、当たり前のようにこう答えた。
「うん、写した。あとで見せるよ」
「ありがと」
彼女は、少し首をかしげて、笑った。その仕草は、あの日の教室の彼女と、少しも変わらなかった。

講義が終わったあと、僕らは大学の中庭を、並んで歩いた。七月の光が、けやきの葉のあいだから、まだらに落ちていた。木陰の空気は少しひんやりとして、遠くで、蝉が鳴きはじめていた。
「透くん」
「うん」
「わたしね、この夏、函館に帰ろうと思ってるの」
僕は、足を止めた。
「一スタディくらい。両親のところ」
「ああ、そういう」
僕は、ほっとしたようにうなずいた。夢のなかの僕は、ほんの一瞬、彼女が「別れよう」と言い出すのではないかと、身構えていたようだった。そのことに、僕は少し、笑った。
そうだった。結が北海道に去ったあと、この「あちら側」の僕たちは、二人とも同じ関東の大学に進み、そこで再会したのだ。彼女は東京の女子大に、僕は同じ沿線の僕立大学に。時々、二人で待ち合わせて、映画を見た。カフェで宿題をした。図書館で肩を並べて、参考書を写した。
そして、大学三年の春、僕は彼女に、告白した。
「ずっと、好きだった。高校のときから」
結は、少しだけ、目をふせた。それから、顔を上げて、こう言った。
「知ってた」
彼女はいたずらっぽく笑った。「わたしも、ずっと待ってたんだよ、森野くん」

――そこで、僕は目が覚めた。
朝の光のなかで、僕はしばらく、動けなかった。「ずっと待ってたんだよ、森野くん」その声が、耳のなかで、はっきりと残っていた。結の声だった。けれど、それは、こちら側の僕が、聞いたことのない声だった。
僕は、震える手で、ノートを開いた。七行目に、僕はこう書いた。
『あちら側で、僕は彼女に告白した。彼女は、待っていた、と言った』
そのあとに、少しだけ、間をおいて、こう書き足した。
『僕は、いま、こちら側の僕の記憶を書いているのだろうか。それとも、あちら側の僕の記憶を書いているのだろうか』

その日、僕は店を開けるのが、いつもより三十分ほど遅れた。普段なら朝八時にはシャッターを上げるのだが、その日は、朝食のあと、ずっと居間の椅子に座って、天井を眺めていた。天井の木目が、いつもより深く、こちらを見つめ返してくる気がした。
昼過ぎ、七尾さんが店にやってきた。
「森野さん、大丈夫ですか」
彼女は、僕の顔を見るなり、そう言った。
「え?」
「ずいぶん、お疲れのようですけど」
「ああ、いや」と僕は苦笑した。「夜、よく眠れているんですけどね。むしろ、眠りすぎているのかもしれません」
「夢を、たくさん見ていらっしゃる」
「ええ」
「そして、少しずつ、覚えていらっしゃる」
「ええ」
七尾さんは、いつものように、レジ台のわきの椅子に、そっと腰を下ろした。「森野さん、少し、うかがっていいですか。その夢のなかの『あなた』は、いまの森野さんですか? それとも、若い頃の森野さんですか?」
僕は少し考えて、答えた。「若い頃の僕、です。ときには十七歳、ときには二十歳くらい」
「そして、その若い森野さんは――こちら側の森野さんとは、少し違う人生を、歩んでいる?」
僕は、ゆっくりと、うなずいた。「あちら側の僕は、あの日、『元気で』と言わなかった。彼女に、行かないでほしいと言った。 そして、大学で再会した」
七尾さんは、少しのあいだ、黙っていた。彼女の眼鏡の奥の瞳は、店の奥のほうを、じっと見ていた。彼女は考えごとをするとき、いつも、そこの奥まった書棚のあたりを見る癖があった。
「森野さん」と、しばらくして、彼女は言った。「これは、あくまで、私の仮説の話です。実証のない話です。それを承知で、聞いていただけますか」
「もちろん」
「もし、いま森野さんが体験なさっていることが、私の言う『夢通い路』現象だとしたら――森野さんは、並行する別の宇宙の、もうひとりの森野透さんと、意識的に接続しはじめている、ということになります」
「あちら側の、僕と」
「はい。そしてそれは、量子力学の言い方をすれば、あなたのニューロンの微小管のなかにある量子状態が、あちら側のあなたの微小管と、もつれあった状態にある、ということです」
「もつれ」
「はい。そんなことがあるのかと問われれば、証明はされていません。でも、あってはならない理由も、いまのところ、見つかっていません」
七尾さんは、静かにお茶を飲んだ。そして、湯呑みを置いて、僕の顔をまっすぐに見た。
「もうひとつ。そうやってつながる相手は、必ずしも、その並行宇宙の『いまも生きている自分』とはかぎらないんです」
「――というのは?」
「量子的なもつれは、時間の向きにも、あまり厳密ではありません。過去の意識状態と、現在のあなたが、もつれあうこともありえます。あるいは、その並行宇宙で、すでに亡くなっている人の、生前の意識の残響と、あなたがつながっている、ということも、理論的には、ありえる」
僕は、湯呑みに手を伸ばそうとして、動きを止めた。「亡くなっている、人の、残響」
「はい」
七尾さんは、静かに、うつむいた。「森野さん、これはあくまで、可能性のひとつです。決してそうだと決めつけないでいただきたい。ただ――もし、夢のなかで会っている『誰か』が、感覚として『とても遠くから呼んでいるように感じられる』ときには、少しだけ、注意していただきたいんです」
僕は、しばらく、黙っていた。外を、自転車が一台、通り過ぎた。ペダルの軋む音が、遠くから近くへ、そしてまた遠くへと、静かに移っていった。
「注意、というのは」
「――こちら側で、しっかり、地に足をつけていてください、ということです」
七尾さんは、少し、笑った。「変な言い方ですけれど」
「いえ」と僕は言った。「よく、わかります」

七尾さんが帰ったあと、僕は、ずいぶん長いこと、レジのわきに座っていた。彼女の話を、頭のなかで、何度も反芻していた。
――過去の意識状態と、現在のあなたが、もつれあうこともありえます。あるいは、その並行宇宙で、すでに亡くなっている人の、生前の意識の残響と。
残響。その言葉は、僕の胸のなかで、静かに、しかし、じわじわと、広がっていった。
もし、夢のなかで僕が会っているのが、あちら側の「いまの結」ではなく、あちら側の「過去のどこかの結の残響」だとしたら――それは、僕にとって、なにを意味するのだろう。僕は、それを考えることが、少し、怖かった。
その夜、僕は、なかなか寝つけなかった。床のなかで、天井を眺め、寝返りを打ち、目を閉じ、また目を開けた。眠ろう、と思うと、かえって眠れない。夢のなかで、また会えるだろうか。会えなかったら、どうしよう。会えたとしても、もし、彼女が「残響」だったら、どうしよう。そんなことを、あれこれ考えているうちに、真夜中を、ずいぶん過ぎた。
けれど、ふと、気がつくと、僕は、あの糸の感覚を、また、はっきりと感じていた。胸のなかから、暗闇の奥へと、まっすぐに伸びている、細い、頼りない糸。その糸の向こうに、たしかに、誰かが、いる。
――ねえ、あなた。
聞き覚えのある、女の声が、糸を伝って、届いた。こちら側の僕は、暗闇のなかで、心のなかで、そっと返事をした。
――ここにいるよ。
しばらくの沈黙。やがて、糸の向こうから、こんな言葉が、返ってきた。
――やっと、会えた。
僕は、その言葉の意味を、すぐには、掴みきれなかった。やっと。やっと、というのは、どういう意味なのだろう。
――待って、と僕は言った。――待って。あなたは、誰?
しかし、その問いに、返事は、なかった。かわりに、糸の向こうから、静かな、静かな、泣き声のようなものが、伝ってきた。僕は、その泣き声のなかへ、ゆっくりと、眠りに落ちていった。

夢のなかで、僕は、初めて、あちら側の家に立っていた。
そこは、東京の郊外の、小さな一軒家だった。門の前に、細い、白い花をつけた木があった。玄関のドアは、少し古い、木製の観音扉だった。僕は、その家の前に、ぼんやりと立っていた。
「おかえりなさい」
家のなかから、結の声がした。僕は、答えられなかった。答えたいのに、口が、動かなかった。
朝、目が覚めたとき、僕の目じりから、涙が一筋、耳のほうへと、伝っていた。僕は、しばらく、天井を見つめていた。そして、ようやく、口を開いた。
「――ただいま」
僕は、そう、つぶやいた。

その日は、店を開けなかった。「本日休業」の札を、シャッターの内側からぶら下げて、僕は、朝からずっと、居間の窓辺に座っていた。ノートは、膝の上に開いていたが、書くことは、なかなか、まとまらなかった。
――やっと、会えた。おかえりなさい。
その二つの言葉のあいだに、なにか、大きなものが、隠れている気がした。あちら側の結は、なぜ「やっと」と言ったのか。なぜ、「おかえりなさい」と、僕を、迎えたのか。僕は、こちら側の透だ。あちら側の家に帰るべき人間ではない。そうであるはずなのに、彼女は、僕を、迎えた。
――もしかして。
僕は、そこで、はじめて、はっきりと、その考えに、たどり着いた。もしかして、彼女は――僕を、あちら側の透と、間違えているのではないか。それとも――あちら側の透は、いま、そこにいないから、僕をその代わりに、呼んでいるのではないか。
そこまで考えて、僕は、両手で、顔を覆った。一日中、店を閉めたまま、僕は、その家の玄関の前に、ぼんやりと立ち尽くしていた自分の夢を、何度も、思い返した。
夕方、僕はようやく、ノートに、一行だけ、書きつけた。八行目。
『あちら側で、僕は、もう、そこにいないのかもしれない』
書き終えて、僕は、しばらく、ペンを、握ったままだった。指先が、また、冷たくなっていた。十七歳のあの日、結の前で、そうだったように。
夜、床に就くとき、僕は、静かに、目を、閉じた。胸の糸は、今夜も、張られていた。けれど、糸の向こうから、声は、届かなかった。かわりに、遠くから、なにか、静かな、雨のような音が、聞こえた気がした。雨の音のなかに、ときどき、風鈴の音が、混じった。それは、あちら側の家の、軒先の、風鈴の音だった――と、僕は、なぜだかわからないが、そう思った。
眠りに落ちる直前、僕は、暗闇のなかで、そっと、こう言った。
――結。君は、どこにいるの。そして、あちら側の、僕は、どこに、いるの。
返事は、その夜も、なかった。けれど、遠くの雨は、しばらく、僕の耳の奥で、鳴りつづけていた。
夜が明ける少し前、僕は、いちど、目を覚ました。真っ暗な部屋のなか、目を閉じたまま、僕は、しばらく、その雨の音の余韻を、聞いていた。そして、こう思った。
――あちら側の家には、雨が、降っている。
その雨が、なぜだかわからないが、僕の胸のなかにも、静かに、降りはじめていた。
夢は、通い路。その路は、僕が思っていたよりも、ずっと、長かった。そして、その路の途中で、僕は、ようやく、気づきはじめていた。僕が、あちら側の透と、まだ、会っていないことに。あちら側の家には、僕を迎える結だけが、いて――あちら側の透は、そこには、もう、いないのだ、ということに。
その気づきを、僕は、まだ、確信としては、抱いていなかった。けれど、胸のどこかでは、静かに、しかし、確実に、僕は、それを、知りはじめていた。
もういちど、糸の向こうから、彼女の声が聞こえたら――僕は、そのとき、なにを、彼女に、伝えるべきなのだろう。僕は、その答えを、まだ、持たずにいた。
夜が完全に明けたとき、僕は、ノートを閉じ、ゆっくりと、階下へ降りた。そして、「本日休業」の札を、もう一日だけ、そのままにしておくことにした。窓の外では、雨が、静かに、降りはじめていた。こちら側にも、雨が、降っていた。その雨は、なぜだかわからないが、あちら側の雨と、同じ音を、していた。

第五章 彼女が呼んでいる
雨は、三日、降りつづいた。三日のあいだ、僕は店を閉めていた。閉めていた、というよりも、開けられなかった、というほうが正しい。身体は元気なのに、シャッターに手をかけようとすると、なぜだか、その手が動かなくなった。
七尾さんが、二度、様子を見に来てくれた。一度目は、玄関先で、少しだけ立ち話をした。二度目は、彼女はうちの二階へ上がり、居間の椅子に腰を下ろし、しばらく、僕とお茶を飲んだ。
「無理はしないでください」と、彼女は言った。「夢通い路は――もし本当にそうだとしたら、身体と精神に、静かな、しかし相当な負担をかけます」
「ええ」
「森野さんが、こちら側で消耗してしまわないように、私、少しだけ、そばで見ています」
「そばで、というのは?」
「時々、店に来ます」と、彼女は笑った。「本を買う口実がなくても、来ます」
「それは――」
僕は、少しだけ、笑った。「――ありがたい、です」

その三日のあいだ、僕は、毎晩、夢を見た。そして、毎夜、あちら側の家の、玄関の前に、立っていた。家のなかからは、必ず、結の声が聞こえた。
「おかえりなさい」「今日は、遅かったのね」「お風呂、先に入る?」「ごはんも、あるよ」
そのどれも、僕には、返事ができなかった。僕は、あちら側の家の敷居を、またぐことが、できなかった。またぎたくない、というのではなかった。むしろ、またぎたい気持ちのほうが、強かった。あの扉を開けて、あの家のなかに入り、あの声のする方へ歩いていって、そして、あの結の顔を、間近で見たい、と思った。
けれど、僕には、それが、してはいけないことのように、感じられた。なぜかというと、僕は――僕は、あちら側の透ではないからだ。僕が、あちら側の透のふりをして、あの家に入ったら――彼女は、しあわせになるだろうか。それとも、いつか、気づいて、絶望するだろうか。僕には、わからなかった。わからないから、僕は、玄関の前で、動けなかった。

四日目の朝、雨が上がっていた。濡れた道路が、朝日を反射して、店の格子窓の内側にまで、細かな光の粒を、投げ入れていた。
僕は、ようやく、シャッターを上げた。古い金属の擦れる音が、通りに響いた。ずいぶん久しぶりの音のように、聞こえた。
その日は、二人、客が来た。ひとりは、いつものお婆さんで、時代小説を一冊。もうひとりは、初めての、大学生ぐらいの青年で、詩集を二冊、買っていった。
「先生」と、その青年は、なぜか僕を、そう呼んだ。「詩って、なぜ人は書くのでしょう」
僕は、少し、面食らった。「先生じゃないんですけど」と僕は苦笑した。「うーん、そうですね……なぜ書くか。書けないと、忘れてしまうから、じゃないですかね。書かないと、消えてしまうから」
「消えてしまう」
「そう。人の想いは、たいていのものは、消えていくものですから。書いておかないと、その想いが、あった、ということさえ、なかったことになってしまう。だから、書くんじゃないでしょうか」
青年は、少し、目をふせて、それから、静かに、うなずいた。「わかるような、気がします」
「ええ」
青年は、詩集の袋を大事そうに抱えて、店を出ていった。その背中を見送りながら、僕は、ふと、自分のノートのことを、思った。僕は、書いている。夢を、忘れないために。書かなければ、消えてしまう夢を、なんとか、こちら側に、繋ぎとめようとして。
夢のなかの結もまた、僕を、忘れないでいてくれるだろうか。いや、そもそも、彼女は、僕のことを、覚えているのだろうか。「あちら側の透」と、「こちら側の透」を、区別できるのだろうか。

その夜、僕は、決心して、床に就いた。夢のなかで、もし、また、あの家の玄関に立ったら、僕は、扉を開けて、なかに入る。そして、あちら側の結に、はっきりと、こう訊く。――あちら側の透は、いま、どこにいるのか、と。
夢は、来た。けれど、それは、僕が予想していたのとは、少し、違うかたちで、来た。

僕は、玄関の前に、立っていなかった。僕は、家の、リビングにいた。小さな、けれど、居心地のよい部屋だった。壁には、家族の写真が、いくつも飾られていた。あちら側の透と、あちら側の結が、若い頃、旅行先で撮った写真。海のそば。山のなか。京都のお寺の前。二人とも、笑っていた。
そのなかに――一枚、様子の違う写真があった。祭壇のような、白い布のかかった小さな棚の上に、あちら側の透の写真だけが、飾られていた。黒いリボンが、その額の上に、静かにかかっていた。
僕は、動けなかった。写真の中の、あちら側の透は、六十歳前後だった。少し痩せていた。柔らかい笑みを浮かべていた。彼は、明らかに、遺影だった。その前に、湯気のたつ、湯呑みが、ひとつ、置かれていた。
「あなた」
背後で、声がした。僕は、振り返った。そこに、あちら側の結が、立っていた。初めて、正面から、彼女を見た。
彼女は、五十代の終わりくらいだった。少しだけ、白いものの混じった髪。細い目じりに、静かな皺。あの日、跳び箱の前でためらった十七歳の少女の面影は、その顔のなかに、たしかに、まだ、残っていた。けれど、その顔は、疲れていた。長い、長いあいだ、なにかを待ちつづけた人の顔を、していた。
「――あなた」彼女は、もう一度、言った。「ずっと、呼んでいたの」
僕は、なにか、言おうとした。しかし、なにも、言えなかった。彼女は、僕のほうへ、ゆっくりと、歩いてきた。そして、僕の目の前で、立ち止まり、じっと、僕の顔を、見つめた。
しばらく、彼女は、なにも言わなかった。やがて、彼女は、こう、つぶやいた。
「……あなたじゃ、ないのね」
僕は、心臓が、止まる、と思った。止まったかもしれない、と、いまでも、時々、思う。
「――ごめん」
僕は、ようやく、そう言った。「ごめん」
「謝らないで」彼女は、静かに、首を振った。「あなたが、悪いんじゃない」

彼女は、僕を、居間のソファのそばへ、招いた。僕らは、少し離れて、腰を下ろした。彼女は、あちら側の透の写真のほうを、じっと、見ていた。
「主人が、亡くなって、五年になるの」と、彼女は、言った。
「五年前」
「ええ。膵臓を、悪くして。半年で、逝ってしまった」
僕は、思わず、息を、のんだ。こちら側で、僕の妻・桐子が、亡くなったのと、同じ病気だった。
「私、あの人がいなくなってから、毎晩、眠るたびに、あの人を、呼んでいたの」
「呼んでいた」
「そう。もう、いない、ってわかっているのに。もう会えない、ってわかっているのに。それでも、眠るたびに、私は、心のなかで、あの人を、呼んでいた」
彼女は、少し、目を、閉じた。「そうしたら、ある夜から、返事が、するようになったの」
「返事、が」
「そう。最初は、気配だけだった。夢のなかで、誰かが、耳を澄ませてくれている、っていう気配。それが、少しずつ、はっきりしてきて。ときどき、名前を呼ぶ声が、届くようになって。そして――ある夜、あなたが、玄関の前に、立っていたの。私、てっきり、主人が、帰ってきてくれたのかと、思ったの」

僕は、なにも、言えなかった。七尾さんの言葉が、耳のなかで、こだました。
――その並行宇宙で、すでに亡くなっている人の、生前の意識の残響と、あなたがつながっている、ということも、理論的には、ありえる。
けれど、それは、少し、違っていた。僕がつながっていたのは、亡くなったあちら側の透の「残響」ではなかった。僕がつながっていたのは、その、あちら側の透を、呼びつづけている、あちら側の結の、想いだった。
彼女の想いが、あまりにも強くて、宇宙の枠を、こえて――こちら側の、亡き夫と「似た」意識に、届いてしまったのだ。そして、こちら側の僕もまた、彼女を、探しつづけていた。呼びつづけていた。だから、糸は、結ばれた。
「あなた、こちら側の――透くん、なのね」彼女は、静かに、言った。
「うん」
「物理のことは分からないけれど、あなたの世界の私は――あの日、北海道に、行ったのね」
「うん」
彼女は、少し、笑った。初めて、はっきりと、笑った。その笑いは、悲しみと、あきらめと、それから、ほんの少しだけの、あたたさとで、できていた。
「そうよね」と彼女は言った。「そういう世界も、あるのよね」

僕らは、しばらく、黙って、座っていた。窓の外で、あちら側の風鈴が、小さく、ちりん、と鳴った。
「透くん」と、あちら側の結は、言った。「私、そろそろ、あなたを、離してあげないと、いけないのね」
「――どうして?」
「だって、あなたには、あなたの、こちら側の人生があるんでしょう」
「うん」
「私が、こんなふうに、あなたを、呼びつづけていたら、あなたは、こちら側で、しあわせに、なれなくなる」
僕は、返事に、詰まった。「もう少しだけ」僕は、うつむいて、そう言った。「もう少しだけ、夢で、会わせて」
彼女は、少し、驚いたように、僕を、見た。そして、静かに、微笑んだ。「うん。もう少しだけ、なら」
朝、目が覚めたとき、僕の枕は、少し、湿っていた。
僕は、ノートを開いた。九行目。
『あちら側の僕は、 五年前に、亡くなっていた』
十行目。
『あちら側の彼女は、亡き夫を、呼びつづけている』
十一行目。
『その声を、僕が、受けとっていた』
そして、十二行目に、僕は、少しのあいだ、ペンを、止めた。そして、こう、書いた。
『もう少しだけ、彼女に、会いたい』

その日の午後、七尾さんが、店に来た。僕は、彼女に、すべてを、話した。彼女は、静かに、聞いていた。ときどき、小さくうなずいた。彼女の眼鏡が、窓の光を、反射して、光った。話し終わったあと、彼女は、しばらく、なにも、言わなかった。
「森野さん」と、やがて、彼女は、言った。「これは、辛いことかもしれませんが――あちら側の結さんは、正しいことを、おっしゃったと、私は思います」
「正しい?」
「はい。夢通い路は、いつまでも、開いておくべきものでは、ないんです。長く開けておくと、こちら側の、あなた自身が、少しずつ、こちら側に、いられなくなる」
「いられなく、なる」
「はい。意識の重心が、あちら側へ、傾いていく。最初は、疲れとして。次に、不眠として。そして、最後には、こちら側で、目を覚まさなく、なるかもしれません」
僕は、湯呑みを、握った。指先が、また、冷たかった。
「森野さん。これは、私の推測に、すぎませんが、もし、あちら側で亡くなったご主人が、意識を、あちら側の結さんの夢に、完全に呼び戻すことを、避けていらしたのだとしたら――それは、あちら側の結さんに、こちら側で、生きていってほしいから、だったのだと思います」
「――」
「そして、あちら側の結さんが、いま、あなたに『もう離してあげないと』と、おっしゃった。それも、同じ、理由だと、思います」
僕は、静かに、うなずいた。「わかっています」
「――そうですか」
「ええ。わかっています。わかっているんだけれど――もう少しだけ、なんです」
七尾さんは、しばらく、僕の顔を、見ていた。そして、静かに、うなずいた。「わかりました。けれど、森野さん。『もう少し』の、期限は、ご自分で、決めてください」
「――決める」
「そう。夢は、放っておくと、無限に、続きます。あちらとこちらの、糸は、一度結ばれると、なかなか、自分では、切れなくなります。だから、あなたが、自分で、期限を、決めてください」
僕は、その言葉を、しばらく、噛みしめた。そして、うなずいた。「わかりました」

その夜、僕は、ノートに、十三行目を、書いた。
『もう少し、を、いつまでにするか、決めなくてはいけない』
書いたあと、僕は、ペンを、置き、静かに、目を、閉じた。
暗闇のなかで、僕は、あちら側の家の、リビングを、思い浮かべた。あちら側の結が、そこに、いる。写真のなかの、あちら側の透が、静かに、笑っている。窓のそとで、風鈴が、小さく、鳴っている。
――僕は、いつまで、あの家に、通うことに、するのだろう。
それを、決めるのは、僕、自身だ、と、七尾さんは、言った。そのとおりだった。
夢は、通い路。けれど、路には、いつか、終わりを、決めなくては、いけない。そうしなければ、僕は、こちら側の、僕自身の日々を、失ってしまう。そして、あちら側の結もまた、僕という「代わりの誰か」に、寄りかかったまま、自分の日々を、生きられなくなってしまう。
僕は、暗闇のなかで、静かに、決めた。七日、と。あと七日だけ、僕は、夢の通い路を、開いておく。 そして、七日目の夜、僕は、彼女に、別れを告げる。――もう、来ない、と。彼女に、そう、伝える。
決めたとたん、胸のなかの、糸の張り具合が、ほんの少しだけ、変わった気がした。糸は、まだ、切れていない。けれど、その糸には、いま、はっきりと、終わりの、印が、ついた。その印は、僕にも、そして、たぶん、あちら側の結にも、伝ったはずだった。
僕は、そのまま、静かに、眠りに、落ちた。
その夜の夢は、穏やかだった。あちら側の結と、僕は、居間の窓辺に、並んで、座っていた。なにを話したのかは、目覚めたあとには、あまり、覚えていなかった。けれど、彼女が、時々、笑っていたことだけは、はっきりと、覚えていた。その笑い声のなかに、あの日の、跳び箱の前で恥ずかしそうに笑った、十七歳の彼女の声が、確かに、混じっていた。
朝、目が覚めたとき、外はよく晴れていた。
僕は、ノートに、十四行目を、書いた。
『あと、七日』
書き終わって、僕は、しばらく、その文字を、見つめていた。七日は、長いようで、短い。短いようで、長い。けれど、その七日を、僕は、大切に、使いたい、と、思った。
窓の外で、雀が、また、屋根の樋のあたりで、なにかを、つついていた。いつもと同じ朝だった。けれど、僕のなかでは、静かに、大きな決心が、根を、下ろしはじめていた。
夢は、通い路。その路の、終着駅を、いま、僕は、自分の手で、決めた。そして、その終着駅から、僕が、どちら側へ、降りるのか――それを、僕は、これからの、七日のあいだに、決めなくては、ならなかった。

第六章 選ばなかった側
七日、というのは、思っていたよりも、ずっと、いろいろなことを、考えさせる長さだった。
一日目、二日目、三日目――夢のなかで、僕は、あちら側の家に、通いつづけた。けれど、僕らはもう、以前のように、玄関で立ち尽くしたり、写真の前で立ち尽くしたりは、しなかった。
僕らは、庭に出て、白い花のつく木のそばで、話をした。彼女は、その木が「ちしゃの木」だと言った。あちら側の透が、生前、この木を、とても大事にしていた、と。剪定の仕方を教えてくれた、と。
彼女は、時々、僕を、あちら側の透と、混同したような話し方をした。
「あの時、あなたが、庭にね」
「あなた、あの海のこと、覚えている?」
そのたびに、僕は、そっと、こう、言った。「――ごめん。それは、僕じゃない」
彼女は、そのたびに、少しだけ、目を、伏せた。そして、ゆっくりと、微笑んで、こう、答えた。「――そうね。ごめんね、透くん」
彼女は、僕を「透くん」と呼ぶことを、少しずつ、増やしていた。「あなた」は、あちら側の透のこと。「透くん」は、こちら側の透のこと。その、二つの、呼び方を、彼女は、丁寧に、使い分けようとしてくれていた。

四日目の朝、僕は、ふと、恐ろしいことに、気がついた。このまま、この夢が、続けば――僕は、いつか、あちら側の結の呼びかけに、完全に、応えたく、なるのではないか。こちら側の身体を、置き去りにして、あちら側の家の、あの居間に、留まりたく、なるのではないか。
七尾さんの言った、「意識の重心が、あちら側へ、傾いていく」というのは、こういうことだったのか。
僕は、その日、店を早くしまい、駅前の喫茶店に入って、七尾さんに、電話をかけた。彼女は、大学の実験室にいて、少し声を潜めて、答えてくれた。
「森野さん、大丈夫ですか」
「――少し、怖くなりました」
「怖い、というのは」
「向こう側に、行きたく、なりはじめている、気がします」
七尾さんは、少しの沈黙のあと、静かに、こう言った。「それは、たぶん、正常な反応です」
「正常?」
「はい。夢通い路の相手に、想いが、あればあるほど、意識は、その相手のいる場所に、寄っていきます。物理的に、というよりも、量子力学的に。あなたの意識の波動関数は、あちら側の、彼女のいる時空に、少しずつ、確率的に、偏っていく」
「――止められますか」
「止められます」彼女は、はっきりと、言った。「森野さんが、こちら側に、戻る、と、はっきり決めれば、止まります。ただ、決断が、はっきりしていないと、意識は、いちばん引力の強いほうに、流されます」
「引力の、強いほう」
「はい。愛は、大きな引力です。悲しみもまた、大きな引力です。この二つが、あちら側に、あります。こちら側には――」七尾さんは、少し、言葉を、止めた。「――こちら側には、なにが、ありますか。森野さんに」
僕は、電話を握ったまま、しばらく、答えられなかった。

こちら側に、なにが、あるだろう。
僕は、家に帰る道すがら、そのことを、ずっと、考えた。
古い、うちの店。亡くなった桐子との、十年余りの、静かな日々。その桐子が、いま、仏壇の、遺影の中で、僕を、見ている。七尾さんの、静かな心遣い。さっきの、詩集を買った青年の、まぶしいような、若い目。いつものお婆さんの、来週の時代小説の予約。
それから――ときどき、街ですれ違う、名も知らぬ人々の、あの日常の匂い。そういう、無数の、小さなものたち。
これらは、あちら側の家の、あの、温かいリビングと、天秤にかけるべきものなのだろうか。かけるべきなのだ、と、僕は、思った。―― そして、天秤は、簡単には、傾かない。
家に着いて、僕は、二階の居間で、桐子の遺影の前に、少し、座った。
「桐子」
僕は、久しぶりに、声に出して、彼女の名を、呼んだ。「僕は、いま、少し、迷っている」
桐子は、遺影のなかで、いつもと同じ、少しはにかんだような笑みを、浮かべていた。
僕は、そのまえに、しばらく、正座して、目を閉じた。彼女は、生前、僕が悩んでいるとき、決して、「こうしなさい」とは、言わなかった。ただ、そばにいて、お茶を、静かに、注いでくれた。そして、しばらくして、こう、言った。
――透さんが、決めれば、それが、正解ですよ。
今夜も、彼女は、僕に、そう言うだろうか。僕は、しばらく、目を、閉じていた。

五日目の夜、僕は、夢のなかで、あちら側の結に、こう、切り出した。
「結」
「うん」
「もう、あと、二日だ」
彼女は、少し、目を、閉じた。そして、うなずいた。「うん」
「――君は、大丈夫か」
「大丈夫」と、彼女は、言った。「透くんの、おかげで、私、少しだけ、あの人を、送り出せた、気がする」
「送り出せた?」
「うん。ずっと、送り出せなかったの。もう、いないってわかっているのに、送り出せなかった。夜ごとに呼びつづけて、そして、朝になると、いないことを、思い出して、また、泣いていた」
「――」
「でもね、透くん、あなたと、こうしているうちに、少しずつ、思うようになったの」
「なにを」
「あの人は、もう、いないの。ほんとうに、いないの。呼んでも、来ないの」
彼女は、静かに、目を、あけた。「 そして、それは、あなたのせいでも、私のせいでも、ないの」
「――」
「ただ、そういう時が、来てしまった、というだけのことだったの」
僕は、なにも、言えなかった。彼女の、その、静かな受け入れの、深さの、前で、僕は、ただ、うつむいていた。
「透くん」
「うん」
「あなたも、ね」
「なに」
「あなたのほうにも、大切な人が、いたのでしょう」
僕は、驚いて、顔を、上げた。「――どうして、わかった」
「わかるわ」と、彼女は、笑った。「あなたが、まだ、こちら側に、完全には、来られない理由。あなたのほうにも、送り出しきれない、誰かが、いるのでしょう」
僕は、うなずいた。「妻が、いた。桐子、という。十年前に、癌で亡くなった」
「――そう」彼女は、少し、目を、細めた。「不思議ね」
「なにが」
「あなたのほうの、桐子さん。私のほうの、あなた。私たち、みんな、同じ病気で、逝ったのね」
僕は、はっとした。そう、だった。そういえば、この、僕と、あちら側の透と、桐子と、あちら側の結の、四人は、宇宙のどこかで、静かに、同じ悲しみを、抱えているのだった。
その悲しみが、二本の細い糸となって、あちらとこちらを、結んでいた。僕らは、それぞれ、大切な人を、亡くしていた。そして、それぞれ、その人を、まだ、送り出しきれずに、いた。だから、糸は、結ばれた。 そして、いま――僕らは、その糸を、静かに、ほどきはじめようとしていた。
「透くん」
「うん」
「あなたの、桐子さんも、きっと、意地を張らずに、あなたに、こちら側で、生きていってほしい、と、思っているんじゃないかしら」
「――たぶん、そう、思う」
「 そして、私も、そう、思う」
「――」
「あなたに、こちら側で、生きていてほしい。あなたのお店を、開けていて、ほしい。あの、詩集を買いに来た若い人に、また、なにかを、教えて、あげてほしい」彼女は、少し、笑った。「あの話、聞かせてくれて、うれしかった」
「――そう、か」
「うん」

六日目、七日目は、あっという間に、来た。
僕は、あちら側の家の、庭の、ちしゃの木の、白い花を、じっと、見ていた。夢のなかの、その花の白は、こちら側の、どんな白よりも、白かった。
「そろそろ、行くよ」七日目の、夢の終わりに、僕は、そう、言った。
「うん」彼女は、うなずいた。
「透くん」
「うん」
「わたしね、こちら側で、これから、少しずつ、あの人を、送っていくの」
「うん」
「花を、供えて、写真に、話しかけて、毎日を、静かに、生きていくの。ときどき、泣くと、思うけれど。 そして、それでも、いいの」
「うん」
「あなたも、そっちで、そうしてね」
「――うん」
僕は、彼女の顔を、じっと、見た。五十代の、少しやつれた、けれど、静かな笑みの、その顔。そのなかに、十七歳の、跳び箱の前でためらった彼女の面影が、確かに、残っていた。
僕は、その顔を、忘れないように、じっと、目に、焼き付けた。 そして、静かに、こう、言った。
「――結」
「うん」
「あの日、僕は、『元気で』としか、言えなかった」
「知ってる」
「だから、いま、四十三年遅れて、言うよ」僕は、深く、息を、吸った。「――好きだった」
彼女は、少しだけ、目を、開いた。 そして、ゆっくりと、微笑んだ。
「知ってた」
彼女は、あの日と、同じ、少しいたずらっぽい笑みで、そう、言った。「わたしも、好きだったよ、森野くん」
その瞬間、僕の胸のなかで、あの糸が、ふつり、と、切れる音が、した。
痛みは、なかった。むしろ、静かな、安堵に近い、感覚だった。夢の景色が、少しずつ、色を、薄めていった。彼女の姿も、少しずつ、うすい光に、包まれていった。
「――さようなら」と、僕は、言った。
「――さようなら」彼女も、そう、言った。 そして、彼女は、最後に、こう、付け加えた。「透くん、こちら側で、あの日の、あなたに、なりきる必要は、もう、ないの」
「なりきる、必要は、ない」
「うん。あの日の私は、もういない。あの日のあなたも、もういない。私たちは、みんな、あれから、たくさん、遠くへ、来ちゃった」
「――」
「だから、いまのあなたで、こちら側の、いまの日々を、生きて」
「――うん」
「いつか、もし、あなたが、こちら側で、ふと、誰かとすれ違って、あの日の匂いを、思い出したら」彼女は、静かに、微笑んだ。「それだけで、いいの。振り返って、微笑んでくれれば、それで、いい」
「――わかった」
「うん」「うん」

そこで、夢は、終わった。
朝、目が覚めたとき、僕の頬は、また、少し、濡れていた。けれど、そこには、悲しみだけではない、なにか、静かで、温かいものが、混じっていた。
十五行目に、僕は、こう、書いた。
『糸が、切れた』
十六行目。
『彼女は、静かに、笑ってくれた』
十七行目。
『僕は、こちら側で、生きていく』
書き終えたあと、僕は、ノートを、閉じた。 そして、久しぶりに、深く、深く、息を、吐いた。窓の外は、よく晴れていた。朝日が、店の格子窓から、まっすぐに、差し込んでいた。そういえば、その朝の光を、こんなふうに、まっすぐに、感じたのは、ずいぶん、久しぶりだった。
僕は、居間の、桐子の遺影の前に、しばらく、座った。「桐子」と、僕は、声に出して、呼んだ。「僕は、こちら側で、生きるよ」
桐子は、遺影のなかで、いつもと同じ、少しはにかんだような笑みを、浮かべていた。僕には、その笑みが、今日は、ほんの少しだけ、深くなったように、見えた。
その日、僕は、店を、いつもより、早く、開けた。シャッターを、勢いよく、上げた。古い金属の擦れる音が、朝の通りに、気持ちよく、響いた。
昼過ぎ、七尾さんが、店に来た。彼女は、僕の顔を見て、ほんの少し、目を、細めた。
「――終わりましたね」
「ええ」
「よかった」と、彼女は、静かに、言った。
「よかった」と、僕も、うなずいた。
「森野さん、こちら側で、これから、なにを、なさいますか」
僕は、少し、考えて、答えた。「――店を、続けます」
「はい」
「 そして、時々、街を、歩きます」
「はい」
「 そして、時々、すれ違う人の、匂いに、振り返ったりも、するでしょう」
七尾さんは、少しだけ、笑った。「それは、健康的な、六十歳の男性の、日常です」
「そう、ですかね」
「ええ。そう、ですよ」

その日の夕方、僕は、いつもより、ずいぶん、長く、店にいた。閉店の時間になっても、しばらく、レジのわきに、座っていた。
外は、もう、暗くなっていた。通りの向こうの街灯が、ひとつ、ふたつと、灯りはじめていた。僕は、灯りのひとつを、じっと、見つめていた。その灯りは、ちょうど、夢のなかの、あちら側の家の、玄関の灯りに、似ていた。
――あの家の灯りは、いまも、あちら側で、灯っているのだろうか。 そして、あの家のなかで、あちら側の結は、いまも、静かに、生きているのだろうか。
僕には、もう、それを、知る術はなかった。糸は、切れた。けれど、切れたからといって、あちらが、なくなったわけではない。あちらは、いま、あちらの時間のなかで、静かに、動いている。こちらは、いま、こちらの時間のなかで、静かに、動いている。その二つは、もう、直接には、触れ合わない。けれど、それでいい、と、僕は、思った。
夢は、通い路。けれど、通い路は、閉じるべき時に、閉じるべきものだ。閉じたあとには、また、それぞれの、こちら側の、しずかな日々が、残る。それが、通い路の、ほんとうの、贈り物なのかもしれない、と、僕は、思った。
その夜、僕は、ノートに、十八行目を、書いた。
『なんとか無事に、生きたこちら側が、正解、だったのだ』
そのすぐ下に、僕は、こう、書き足した。
『今頃、気付いて、うなづいてもみる』
書き終えて、僕は、少しだけ、笑った。還暦の男が、還暦の男の、当たり前のことに、いまごろ、気づいて、うなずいている。我ながら、ずいぶんと、時間の、かかった、話だ、と、思った。けれど、時間が、かかった、ぶんだけ、それは、僕にとって、確かなものに、なった。
眠りに落ちる直前、僕は、静かに、目を、閉じた。胸の、糸は、もう、なかった。かわりに、胸のなかで、なにかが、静かに、しずまり返っていた。その、しずまり返った、暗闇のなかを、僕は、ゆっくりと、眠りのほうへ、歩いていった。その夜、僕は、なにも、夢を、見なかった。
いや――もしかしたら、見たのかもしれない。けれど、朝、目が覚めたとき、いつものように、指のあいだからは、なにかが、静かに、零れ落ちていった。
「今朝の夢は――」
そう、口のなかで、転がしてみた。しかし、もう、その中身は、消えていた。 そして、僕は、それで、いい、と、思った。
覚えていることは、覚えていればいい。忘れることは、忘れればいい。 そして、時々、街で、なにかの拍子に、そっくりの姿を、そっくりの香りを、感じたら――わずか数秒だけ、微笑んで、みればいい。
それが、僕の、通い路の、こちら側の、暮らし方だった。
夢で、会えたなら、と、たまに、思う。夢で、会えなくても、いい、とも、たまに、思う。その、両方の気持ちを、抱えたまま、僕は、こちら側で、あと、どのくらいか、生きていく。 そして、そのあとの、僕のことは――そのあとの、僕に、任せる。 そして、そのあとの、僕もまた、たぶん、どこかで、静かに、微笑んでいるのだろう。
わずか数秒、だけ。
雪は、朝までに、街を、うっすらと、白く、染めた。その、白さのなかに、僕は、あの、ちしゃの花の、白さを、少しだけ、思い出した。 そして、少しだけ、微笑んだ。
朝の、コーヒーは、今日も、少しだけ、あたたかかった。
――生きている。こちら側で、生きている。
そして、それで、いい。そう、僕は、思う。そう、僕は、心のなかで、うなずいてみる。還暦の男の、ひとりの、ささやかな、朝の、うなずき、として。
第七章 夢で会えたなら
季節が、ひとつ、めぐった。夏の名残の、まだ暑い日々があった。秋が、ゆっくりと、深まっていった。 そして、冬が、来た。

冬の朝は、店のシャッターを上げるのが、少しだけ、億劫だった。寒さのせいだけではなかった。年をとると、朝の身体の、いろいろな軋みが、少しずつ、増えていく。膝、腰、右肩。ひとつずつ、確かめるように、動かしてから、僕は、階下へ降りる。
店を開けると、冷えた空気が、まっすぐに、頬を、突く。その、冷えた空気を、僕は、深く、吸い込む。――生きている、と、思う。
夢通い路が閉じてから、僕の眠りは、ふしぎと、静かになった。夢は、見ている、はずだった。夜ごと、なにかを、体験している、はずだった。けれど、目覚めたときには、それらは、あの日のように、指のあいだから、静かに、零れ落ちていって、朝の光のなかで、うっすらと、消えていった。
そして、僕は、もう、それを、追いかけなかった。「今朝の夢は――」そう、口にすることは、あっても、そのあとを、無理に、思い出そうとは、しなくなった。思い出さなくても、いい。思い出せない、それこそが、当たり前で、健康的な、朝の姿なのだ、と、僕は、そう、思うように、なっていた。
ときどき、あちら側の結のことを、考えた。彼女は、あちら側で、どうしているだろう。もう、あの家の、玄関の前で、亡き夫を、呼びつづけては、いないだろうか。庭の、ちしゃの木の、剪定は、誰が、しているだろう。
――もちろん、僕には、それを、知る術はない。糸は、切れた。けれど、切れたあとの、あちら側のことは、こちらから、想像するしかない。 そして、想像するとき、僕は、いつも、こう、思うことに、していた。「彼女は、大丈夫だ。彼女は、あちら側で、静かに、生きている。時々、泣いているかもしれない。けれど、時々、笑ってもいる」そう思うと、胸のなかが、少しだけ、あたたかくなった。

十二月の、ある日、七尾さんが、店に来た。
「森野さん」
「はい」
「あの、論文が、通りました」
「――え?」
「夢通い路仮説の論文、査読を、通ったんです。来年、公刊されます」
僕は、しばらく、彼女の顔を、見つめた。 そして、静かに、笑った。「――おめでとうございます」
「ありがとうございます」
七尾さんは、少しだけ、頬を、赤らめた。「森野さんの、おかげでも、あります」
「僕の?」
「はい。あの理論を、机上のもので終わらせずに、ひとつの、生きた事例として、考察できたのは、森野さんが、正直に、話してくださったから、です」
「――事例、として、僕は、書かれたんですか」
「匿名で、少しだけ」彼女は、少し、いたずらっぽく、笑った。「日本のある地方都市の、六十歳の、古書店主・M氏」
僕は、笑った。「まあ、それなら、いいですかね」
「はい」

七尾さんは、その日、いつもより長く、店に、いてくれた。僕らは、店の奥の、小さなストーブの前で、少し、話をした。
「森野さん、あれから、夢のなかで、彼女とは、会いましたか」
「――会っていない、と、思います」
「思います、というのは?」
「覚えていないので、正確なことは、わからないんです。ただ、目覚めたあとの、胸の感じが、あの頃とは、違います。あの頃は、いつも、なにか、遠くから引かれるような、感じがしました。いまは、それが、ありません」
「そうですか」
「ええ。ただ、時々」
「はい」
「――街ですれ違う人の、匂いに、驚くことは、あります」
「それは、いいですね」
「――そうですかね」
「ええ。それは、糸が切れたあとにも、残る、健康的な、記憶の在り方です。過剰な引力ではなく、ただの、しるしとして、あの人のことが、あなたの日常に、ときどき、顔を出す。それは、いい、通い路の、閉じ方だと思います」
「――ありがとうございます」
僕は、素直に、礼を、言った。

七尾さんが帰ったあと、僕は、ストーブの前で、しばらく、目を、閉じていた。胸のなかは、しずかだった。そのしずけさのなかで、僕は、ふと、あちら側の結の顔を、思い出した。
五十代の、少しやつれた、けれど、静かな笑みの、その顔。そのなかに、十七歳の、跳び箱の前でためらった、彼女の面影。その二つが、いま、僕のなかで、ひとつの、絵に、なった。
「結」僕は、心のなかで、そっと、呼んだ。「元気で」四十三年前と、同じ、その、三文字を。
けれど、今度は、その言葉のなかに、ずいぶん、たくさんの、想いが、こめられていた。あの日、言えなかった、いろいろな言葉。あちら側で、言ってみた、いろいろな言葉。 そして、こちら側で、これから、二度と言わないだろう、いろいろな言葉。そのすべてが、その、三文字のなかに、静かに、しまわれていた。
――夢で、会えたなら。
僕は、そのフレーズを、口の中で、そっと、転がしてみた。もし、あの頃、夢で会えていたら、僕は、どんな言葉を、言おうか、と、必死で、考えていた。けれど、いまは、もう、それは、考えなかった。なぜなら、僕は、夢のなかで、四十三年遅れの、告白を、してしまったからだ。「――好きだった」「知ってた」そのやりとりを、僕は、一生、忘れないだろう。夢のなかの、あの、白い花のつく木の、そばで。僕らは、ようやく、その言葉を、交わした。
もう、それで、いい、と、僕は、思った。夢で会えるかどうかは、もう、僕にとって、たいした問題では、なくなっていた。大事なのは、あの一夜、僕らが、たしかに、言葉を、交わした、という、その、事実のほうだった。
夢の路の、向こう側に、たしかに、彼女が、いた。 そして、彼女は、笑ってくれた。それだけで、僕の、残りの人生は、ずいぶん、豊かに、なった気がした。

十二月の、いちばん寒い日、僕は、桐子の墓参りに、行った。市の外れの、丘のうえの、小さな霊園だった。冬の光は、意外なほど、明るくて、墓石の表面が、白く、光っていた。
僕は、墓石の前に、しゃがみこみ、花を、そなえ、線香を、あげた。
「桐子」
「今年も、なんとか、無事だったよ」
僕は、しばらく、墓石の前で、風の音を、聞いていた。冬の風のなかに、ときどき、遠くの、鴉の声が、混じった。
「桐子」僕は、風のなかで、続けた。「今年、ちょっと、変な体験をしたよ。若いころ、好きだった女の子と、夢のなかで、会ったんだ。といっても、こちら側の、彼女じゃない。並行世界の、彼女だ。向こうでは、僕は、あの日、彼女を引き止めていた。二人は、結婚していた。でも、そっちの僕は、五年前に、逝ってしまってね。それで、向こうの彼女が、僕を、呼んでいた。夢のなかで、僕は、彼女に、会ったんだ。――君は、驚くかな。驚かないかな」
僕は、少し、笑った。桐子なら、驚かないだろう、と、思った。彼女は、生前、そういう話が、好きだった。星、夢、伝承、幽霊、量子の話。あらゆる「あわい」の話を、彼女は、こわがらずに、聞いてくれた。 そして、いつも、こう、言った。
――透さん、そういうことも、あるのよ、きっと。
そう、桐子は、いつも、そう、言った。
「桐子」僕は、風のなかで、続けた。「 そして、僕は、こちら側に、残った。君と、店と、この、寒い風の吹く街に、残った。向こうへ、行きたい気持ちも、あったよ。正直に、言えば。 そして、それは、しなかった。なぜかというとね――あの日の彼女は、もう、いないから。あの日の僕も、もう、いないから。 そして、いまの僕と、いちばん、長く、いっしょにいてくれたのは、君だから」
風が、少し、強くなった。墓石のあいだを、冷たい風が、吹き抜けていった。僕は、墓石に、そっと、手を、置いた。「――ありがとう」
桐子は、返事を、しなかった。けれど、なぜだろう、風の音のなかに、彼女の、あの、少しはにかんだような笑い声が、混じっていた気が、した。
――透さんが、決めれば、それが、正解ですよ。
そう、彼女は、いつものように、そう、言った気がした。僕は、しばらく、しゃがんだまま、風の音を、聞いていた。やがて、ゆっくりと、立ち上がり、墓石に、一礼して、丘を、下りた。

丘を下りきったところで、僕は、いちど、振り返った。冬の光のなかで、墓石が、白く、光っていた。そのなかに、桐子の名の、刻まれた墓石があった。その隣に、いつか、僕の名も、刻まれるだろう。
――そのときには、僕もまた、どこかの、誰かの、夢の路の、向こう側に、立つのだろうか。
そう、思うと、少しだけ、笑えた。そうなるとしたら、僕は、迷わず、そちらへ、行こう、と、思った。 そして、そのとき、僕は、夢の路の、向こう側で、桐子と、 そして、あちら側の結と、 そして、ひょっとしたら、こちら側の結とも、会えるかもしれない。――そんな、風の噂のような、想像を、しながら、僕は、丘を、下った。

家に帰ると、店の格子窓の内側に、夕方の光が、ゆっくりと、差し込んでいた。僕は、店を、いつものように、開けた。その日は、客は、ひとりも、来なかった。けれど、僕は、退屈しなかった。古い本の背表紙を、ゆっくりと、指で、なぞりながら、僕は、ひとりで、静かに、時を、過ごした。
夢は、通い路。そのことを、僕は、いまでも、時々、思い出す。けれど、その言葉は、以前のように、僕を、揺さぶらなくなった。いまの僕にとって、その言葉は、ただの、静かな、事実だった。「そういうことも、あるのだろう」「そういう夜も、あったのだ」そのくらいの、距離感で、僕は、その言葉と、いっしょに、暮らすように、なった。
ノートは、いまも、机の抽斗に、しまわれている。たまに、開いてみることは、ある。十八行目の、「なんとか無事に、生きたこちら側が、正解、だったのだ」の、あとに、僕は、その後、なにも、書き足していない。書き足す必要は、なかった。そこで、あの物語は、静かに、終わっていた。
けれど、時々、僕は、あの、白い、ちしゃの花の色を、思い出す。夢のなかの、あの花の白さは、この世界の、どんな白よりも、白かった。その白さを、思い出すとき、僕の胸のなかで、なにかが、静かに、あたたかくなる。 そして、僕は、静かに、微笑む。わずか数秒、だけ。
夢で、会えるかどうかは、もう、僕には、たいした問題では、ない。けれど、いつかまた、と、心の隅で、思っている、還暦男が、ここに、ひとり、いる。我ながら、ずいぶんと、往生際が、悪い。しかし、往生際が悪くても、それが、本当なのだから、しかたが、なかった。
冬は、深まり、やがて、明ける。春が来て、また、桜が咲き、 そして、散る。夏が来て、蝉が鳴き、 そして、消える。秋が来て、葉が落ちる。 そして、また、冬が、来る。
――僕の、こちら側の、日々。あちら側でも、たぶん、同じような、日々。
僕は、その、それぞれの、日々を、それぞれの、僕らが、静かに、生きていくのだと、信じている。夢の通い路は、閉じたけれど、通じ合わないわけでは、ない。こちらの日々を、精いっぱい、生きること。あちらの日々を、あちらのだれかに、精いっぱい、生きてもらうこと。その二つが、じつは、遠く、ふしぎな仕方で、糸を、通じ合っているのだ。――たぶん。
たぶん、と、僕は、つぶやいた。その、たぶん、のなかに、僕は、たくさんの、想いを、しまった。 そして、そのしまい方は、六十歳の僕には、ちょうど、いい重さだった。
その日の、夕方、僕は、いつもより、少しだけ、早く、店を、閉めた。外は、もう、暗くなりかけていた。冬の街灯が、ぽつり、ぽつりと、灯りはじめていた。僕は、コートを羽織り、マフラーを巻き、 そして、静かに、外に、出た。

夜の街を、少しだけ、歩いた。行き先は、決めていなかった。ただ、歩きたかった。
駅前の交差点で、信号待ちをしていると、隣に、若い女性が、立った。コートの襟に、うっすらと、なにかの、香水の匂い。――ふと、その匂いに、僕は、はっとした。石鹸の匂いだった。それは、あの日、廊下ですれ違った、結の髪から、漂った、あの匂いに、ふしぎと、似ていた。
信号が、青になった。女性は、すたすたと、横断歩道を、渡っていった。僕は、少し、遅れて、渡った。渡り終えたところで、僕は、いちど、振り返った。女性の後ろ姿は、もう、街灯のむこうに、静かに、遠ざかっていた。
――違うと、わかっている。あの人じゃ、ない、と、わかっている。そもそも、あの人は、いま、どこにいるか、僕には、わからない。そもそも、あの日の、あの人と、いまの、あの人が、同じ人であるかどうかも、僕には、わからない。わからないことだらけ、だ。けれど――
その一瞬の、姿だけ。その一瞬の、香りだけ。そっくりに、見えることが、あって。
わずか数秒だけ、僕は、微笑んでもみる。
その微笑みは、もう、悲しみを、含んでは、いなかった。その微笑みは、もう、後悔を、含んでは、いなかった。その微笑みは、ただ――その、一瞬の香りが、僕に、思い出させてくれるものへの、感謝を、含んでいた。
「ありがとう」
僕は、街灯の下で、そっと、つぶやいた。だれに、言ったのか、僕自身にも、よく、わからなかった。あの日の、結、かもしれない。あちら側の、結、かもしれない。すれ違った、名前も知らない若い女性、かもしれない。亡くなった、桐子、かもしれない。あるいは、その、すべて、かもしれない。
僕は、そのまま、しばらく、街を、歩いた。もう、探すもの、追いかけるものは、なかった。けれど、僕の歩みは、あの頃よりも、ずっと、軽かった。
――夢は、通い路。
その路を、僕は、いま、こちら側の街を、歩きながら、思い出している。 そして、たぶん、あちら側でも、だれかが、同じ夜を、思い出しているのだろう。その、二つの、思い出が、遠く、ふしぎな仕方で、通じ合っているとしたら――それだけで、この世界は、まだ、僕にとって、じゅうぶんに、あたたかい、場所だった。
夜が、更けていった。僕は、家路を、たどった。家に着くころには、ちょうど、少し、雪が、降りはじめていた。
その日の夜、僕は、久しぶりに、ぐっすりと、眠った。 そして、また、たぶん、夢を、見た。けれど、朝、目が覚めたとき、いつものように、指のあいだから、なにかが、静かに、零れ落ちていきました。
「今朝の夢は――」そう、口のなかで、転がしてみた。しかし、もう、その中身は、消えていた。 そして、僕は、それで、いい、と、思った。
覚えていることは、覚えていればいい。忘れることは、忘れればいい。 そして、時々、街で、なにかの拍子に、そっくりの姿を、そっくりの香りを、感じたら――わずか数秒だけ、微笑んで、みればいい。
それが、僕の、通い路の、こちら側の、暮らし方だった。
夢で、会えたなら、と、たまに、思う。夢で、会えなくても、いい、とも、たまに、思う。その、両方の気持ちを、抱えたまま、僕は、こちら側で、あと、どのくらいか、生きていく。 そして、そのあとの、僕のことは――そのあとの、僕に、任せる。 そして、そのあとの、僕もまた、たぶん、どこかで、静かに、微笑んでいるのだろう。
わずか数秒、だけ。

エピローグ
数年が、過ぎた。
僕の店は、いまも、あの通りに、ある。
七尾さんは、隣県の大学に、移った。夢通い路仮説は、少しずつ、学界で、真面目に、議論されるように、なった。あるいは、ならなかったかもしれない。学界のことは、僕には、よく、わからない。ただ、七尾さんは、時々、僕に、手紙を、くれる。「先日、また、あなたのような、事例に、出会いました」と、書いてある。名前は、書かれていない。国も、書かれていない。ただ、「その人も、いまは、こちら側で、静かに、暮らしています」と、書いてある。
僕は、そのたびに、少しだけ、微笑む。――ああ、また、ひとり、通い路の、こちら側で、静かに、暮らしはじめた人が、いるのだ、と、思う。
僕自身のノートは、いまも、机の抽斗のなかに、しまわれている。十八行までしか、書かれていない、あの、擦り切れかけた、大学ノート。そのノートを、いつか、僕が、いなくなったあと、だれかが、開くだろうか。開かないだろう、と、思う。けれど、それでも、いい、と、思う。
書いたことだけで、じゅうぶんに、意味があった。書かなければ、消えてしまう夢を、僕は、いくつか、こちら側に、繋ぎとめた。それだけで、あの秋の一年は、僕にとって、忘れがたい季節になった。
そして、いまも、時々、街で、僕は、振り返る。
夕方の、駅前の交差点。昼下がりの、商店街の入り口。夜の、コンビニの前。すれ違いざま、ふと、あの、石鹸のような、香りに、はっとする。もちろん、違うと、わかっている。けれど――
その一瞬の、姿だけ。その一瞬の、香りだけ。そっくりに、見えることが、あって。
わずか数秒だけ。僕は、微笑んでもみる。 そして、また、歩きだす。
こちら側の、街を。こちら側の、日々を。こちら側の、僕として。
――夢は、通い路。
その言葉を、僕は、いまも、時々、口の中で、そっと、転がす。 そして、静かに、うなずく。うなずいて、また、歩きだす。
わずか数秒だけ、微笑んで―― そして、また、歩きだす。
それで、いい。それで、じゅうぶんに、いい。
――了――


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あとがき
書き終えて気づいたのですが、この物語には、ほとんど事件が起きていません。誰も走らないし、誰も大声を出しません。ただ、夢を見て、目が覚めて、コーヒーを淹れて、店を開ける。それだけの一日が、何度も繰り返されます。
それでも書いている間、私は一度も退屈しませんでした。なぜなら、森野透が毎朝探している「指のあいだから零れ落ちるもの」が、私にもある気がしていたからです。思い出せそうで思い出せない名前、嗅いだはずのないのに懐かしい石鹸の匂い、もう一度だけ言い直したい三文字。
七尾さんの言う「夢通い路仮説」は、もちろん私の創作です。実証もされていません。ただ、そう考えた方が、世界が少しだけ優しく見える仮説は、あってもいいのではないかと思っています。
最後まで読んでくださったあなたが、今夜もし夢を見て、朝、少しだけ胸が温かかったら。それがこの本にとって、いちばんの幸せです。
そして、校了の直前まで原稿を読んでくれた家族と、古書店のモデルになってくれた街の小さな店に、感謝を。
2026年 夏