夢は通い路 第一部
まえがき
この物語は、夢の話ではありません。
覚えていられない夢を、なぜ人は毎朝、探してしまうのかという話です。
還暦を過ぎると、忘れることの方が自然になります。名前も、匂いも、言えなかった言葉も、指のあいだからこぼれ落ちていく。けれど、こぼれたあとに残る、ほんのりとした温度だけは、確かに自分のものとして残ることがあります。
昔の人はそれを「通い路」と呼びました。会えない二人を、夜だけつなぐ細い道。
もし今の物理が、その古い言葉を別の言葉で説明できるとしたら。もし、選ばなかった側の人生が、どこかでまだ静かに続いているとしたら。
そんなことを考えながら、一人の古書店主の一年を書きました。
―― 森野透ノート ――
エピグラフ
毎日毎晩、夢を見る。多分、睡眠が足りているのだろう。
そして、思いもしなかった方々が現れて、思いもしなかった展開となる。
しかしながら、不思議かな。そんな夢も起きた直後、忘れ去られてしまう。
そう、今朝の夢は……と思うけれど、すでに消えてしまった。
昔、夢は通い路と言われ、訳あって会うことが出来ない男女の想いがつのると、夢で合わせてくれたそうだ。
はてさて、僕にはそんな場面は現れず、会いたい貴女は、今まだここへと辿り着いてくれない。
……
わずか数秒だけ、微笑んでもみる。
プロローグ
朝、目が覚めるとき、僕の指のあいだからは、いつも何かが零れ落ちていく。
砂のようでもあり、水のようでもある。あるいは、朝もやのように輪郭のないもの。掴もうとすればするほど、それは早足で遠ざかっていく。かろうじて残るのは、胸のあたりに残る、ほんのりとした温度だけだ。
「今朝の夢は――」
そう口の中で転がしてみる。舌の上に、確かに何かの味が残っている。誰かに会っていた気がする。誰かと話していた気がする。けれど、それが誰だったのか、どんな話だったのか、目を開けた瞬間には、もう思い出せない。
還暦を迎えた男が、こんなことを毎朝繰り返している。
我ながら、ずいぶんと未練がましい。けれど、この未練の正体を、僕はまだよく知らない。
昔の人は、夢のことを「通い路」と呼んだ。会うことのできぬ男と女、その想いが募りに募ると、夜のあわいに一本の細い道がひらいて、二人を引き合わせてくれる――そんな古い言い伝えがあるという。
もし、それが本当なら。
いや、そんなことは、あるはずがない。
――そう思っていた頃が、僕にもあった。
第一章 毎晩、夢を見る
古書店「森野堂」は、駅から歩いて十五分ほどの、住宅街の外れにある。
昔は市電が走っていた道で、いまは片側一車線のさびれた通りだ。両側には床屋と、閉店したままの喫茶店と、しばらく前まで洋品店だった建物が並んでいる。うちの店だけが、細々と、しかし律儀に、二十年近くこの場所で開いている。
僕、森野透は、六十歳になった。
妻の桐子を亡くしたのが、ちょうど十年前。膵臓の癌だった。宣告から半年で逝ってしまった。子はいない。二人で決めて、そうした。決めたことに後悔はない。ただ、彼女がいなくなってからの十年は、思っていたよりずっと長かった。彼女を穏やかに看取ったつもりでいながら、僕の心のどこかには、いまだにあの時の静かな喪失が、逃れようのない澱のように沈んだままだ。
朝、店を開ける前に、僕は二階の居間で、ひとりの朝食をとる。トーストを一枚と、コーヒーを一杯。それだけだ。桐子がいた頃は、味噌汁があり、卵焼きがあり、季節の野菜があった。あの頃の食卓には、湯気があった。いまの僕の食卓には、湯気はない。コーヒーの湯気だけがある。
新聞を広げ、政治面と社会面をひととおり眺めてから、書評欄に目を通す。書評欄だけは、いまでも隅々まで読む。習慣というものは、ずいぶんとしぶといものだ。
そして――このところ、僕は毎朝、同じことを考えている。
今朝の夢は、なんだったろう。
いつの頃からか、僕は毎晩、夢を見るようになった。多分、睡眠が足りているのだろう、と自分に言い聞かせている。実際、夜十一時には床に就き、朝六時までは眠る。年寄りにしては、よく眠っているほうだと思う。
眠りのあいだ、僕はどうやら、たくさんの場所を訪れ、たくさんの人と話し、たくさんのことを経験しているらしい。目覚めた瞬間には、その気配が確かに残っている。胸の奥に、まだ体温のようなものが灯っている。それなのに、五秒もすれば、それはもう霞のように薄れ、十秒後には、僕はただ「なにか夢を見たらしい」ということだけを思い出すのだ。
不思議なことだ、と思う。
夢は僕の中で起こったはずのことなのに、僕の中に残らない。まるで、誰かがこっそりと持ち去っていくかのように。
*
その日、店を開けて最初の客は、七尾静香さんだった。
七尾さんは、この一年ほど、うちの常連になっている女性で、年の頃は三十代の半ばだろうか。ショートカットに度の強い眼鏡をかけ、いつも大きなトートバッグを提げている。市の外れにある県立大学で、物理を教えているのだと聞いた。何を専門にしているのかは、僕にはよくわからない。ただ、彼女は古い民俗学の本と、量子力学の教科書とを、同じくらい丁寧に選んでいく。
「森野さん、おはようございます」
「いらっしゃい」
「今日は少し寒いですね」
「ええ、明日から雨だそうです」
そんな短いやりとりを交わして、彼女は棚のあいだへ入っていく。奥のほうで、背表紙をひとつずつ指でなぞっていく気配がする。僕はレジのわきに置いた椅子に腰を下ろし、昨日読みかけた本を開いた。
しばらくして、七尾さんが一冊の本を手にレジへやってきた。柳田国男の『遠野物語』の古い版だった。
「これ、いただきます」
「柳田ですか」
「ええ。……ちょっと、夢の話を調べていて」
僕は伝票を書く手を止めた。
「夢の話、ですか」
「はい。昔の人は、夢のことを『通い路』と呼んだそうです。会えない人同士の想いが、夢のなかで通じるという。柳田も、ずいぶんそういう伝承を集めているんですよ」
「……夢は、通い路」
僕は口の中でその言葉を転がした。初めて聞いた言葉のはずなのに、なぜだろう、ずっと昔からその言葉を知っていた気がした。舌の上に、その語感の余韻が、ふしぎに馴染んだ。
「面白い言葉でしょう」と七尾さんは笑った。「私、その言葉を、今の物理と重ねられないかと思っていて」
「今の物理と?」
「はい。長くなるから、また今度お話しします」
彼女は少しはにかむようにそう言い、代金を払って、店を出ていった。ドアの上のベルが、ちりん、と乾いた音を立てた。
*
その夜、僕はいつものように、十一時に床に就いた。天井の木目を眺めながら、ふと、昼間の七尾さんの言葉を思い出した。
――夢は、通い路。
そういえば、と僕は思う。このごろの僕の夢には、たしかに「誰か」が出てくる。誰、というほど輪郭ははっきりしない。ただ、確かにひとりの人の気配がある。話しかけられている気もするし、こちらから話しかけている気もする。目が覚めれば忘れてしまうけれど、あれは、いったい誰なんだろう。
うとうと、と意識が薄れていく。僕は、遠くから聞こえてくる誰かの声を聞いた気がした。
「――ねえ、あなた」
女の声だった。低くもなく、高くもない。どこかで聞いたことのある声だ、と思った。けれど、それが誰の声か、思い出す前に、僕は完全に眠りに落ちていた。
*
朝、目が覚めたとき、いつもとは違うことが起きていた。胸の温度が、いつもよりずっと、はっきりしていた。そして、口の中に、一言だけ、言葉が残っていた。
「……ゆい」
僕はしばらく、天井を見つめたまま動けなかった。ゆい。その音を、口の中でもう一度転がしてみる。ゆい――結。
僕は跳ね起きて、寝間着のまま階下の店へ降りた。レジ台の抽斗を開け、いちばん奥にしまってあった古い卒業アルバムを取り出した。埃をかぶった、擦り切れた表紙。県立倉見高校、昭和五十八年度卒業。
指がわずかに震えていた。三年二組の頁を開く。
上段、右から四人目。「逢坂結(おうさか ゆい)」。
黒目がちの、少し困ったような笑みを浮かべた、十七歳の少女。僕は、四十三年ぶりに、その名前を声に出して読んだ。
「――結」
胸の温度が、じわりと、指の先までひろがっていく気がした。朝の光が、店の格子窓からゆっくりと差し込んで、埃の粒がその光のなかで踊っていた。
僕は、しばらくその頁を閉じることができなかった。そういえば、と思う。昨夜の夢のなかで、僕は、彼女に会っていた気がする。会っていた気がする、が、思い出せない。けれど、たしかに、名前だけは残った。指のあいだから零れ落ちるはずのものが、ひとつだけ、僕の手のなかに残っていた。
「今朝の夢は――」
僕はつぶやいた。今朝の夢は、消えてはいなかった。少なくとも、完全には、消えてはいなかったのだ。
*
その日、僕は一日中、店の奥で古いアルバムを開いたり閉じたりしていた。客は二人しか来なかった。どちらも文庫本を一冊ずつ買っていった。僕は伝票を書きながら、頭のどこかで、ずっと「結」という音を鳴らしていた。
結。四十三年、僕はその名を封じてきた。封じてきたつもりでいた。けれど本当は、封じきれていなかったのだと、いまごろになって気づく。あの日の教室、あの日の廊下、あの日の帰り道――僕の記憶の底には、ずっとその名前が沈んでいて、ただ、僕が意識的に見ないようにしていただけだったのだ。
夕方、店じまいの支度をしていると、また七尾さんが顔を出した。
「あら、今日二度目ですね」
「ええ、ちょっと」
彼女は少し照れくさそうに笑い、レジ台に肘をついた。
「あの、朝、お話ししかけたこと、続き、いま少しだけ、いいですか?」
「ええ、どうぞ」
僕は椅子に腰を下ろし、七尾さんの顔を見た。彼女は眼鏡の奥で、瞳を静かに輝かせていた。
「夢のことです。私、いま『夢は通い路』という民間伝承と、量子力学的な意識モデルとを接続する論文を書いているんですよ。ばかげた話に聞こえるかもしれませんが」
「いいえ」
僕は首を横に振った。
「ばかげてなんか、いません」
七尾さんは少し目を見開き、それから、静かに微笑んだ。
「よかった」と彼女は言った。「森野さんなら、そう言ってくださる気がしていました」
*
その夜、僕は床に就く前に、机の抽斗から一冊の新しいノートを取り出した。表紙に何も書かれていない、ただの大学ノートだった。
僕はペン先を紙に当て、一行目に、こう書いた。
『今朝の夢――結の名を、思い出した』
それだけ書いて、ノートを閉じた。灯りを消して、床に就く。天井の木目が、今夜はいつもよりはっきり見えた。僕は、静かに目を閉じた。
――夢は、通い路。
そう心のなかで唱えると、なぜだろう、胸の奥のどこかが、ほんのわずかに、開いていく気がした。そこから、細く、たよりない一本の道が、暗闇の奥へと伸びていく。その先には、まだ僕には見えない誰かが、確かに、立っている気がした。
第二章 通い路の伝承
翌週、七尾さんは約束通り、話の続きをしにやって来た。
雨の午後だった。客は誰もいなかった。僕はレジのわきに、七尾さんのために古びた木の椅子をひとつ引き出してきて、そこにお茶を出した。彼女は大きなトートバッグから、擦り切れたノートと、何冊かの本を取り出した。
「はじめから、順を追ってお話ししていいですか?」
「ええ、どうぞ」
僕はカウンター越しに、彼女と向かい合った。店の奥では、古い柱時計がゆっくりと時を刻んでいた。窓の外を、傘をさした人が、時々ひとりずつ通っていく。
「夢という現象は」と七尾さんは切り出した。「二十世紀の脳科学では、基本的に『脳内で完結する神経活動』として説明されてきました。レム睡眠のあいだに、記憶が整理され、そのプロセスの副産物として、私たちは夢を『見せられる』のだと」
「ええ、僕もそう習った気がします」
「その説明は、いまでも七割方は正しいと思います。ただ――残りの三割が、どうも説明しきれない」
「三割、というと」
「たとえば、まだ会ったことのない人が夢に出てきて、あとで実際に出会うことがある。あるいは、遠くにいる家族が事故にあった夜に、その夢を見る。ごくまれに、ですが、そういう報告は、統計的に無視できない数、集められています」
七尾さんは、ノートの一頁を開いて、僕のほうに向けた。細かい図と、数式らしきものが書き連ねてあった。僕には読めないけれど、彼女の字は几帳面で、まっすぐだった。
「一九六〇年代に、ある量子物理学者が言い出した仮説があるんです。意識というものは、脳の細胞レベルではなく、その細胞のさらに奥、微小管というごく細い構造の中で、量子的なプロセスによって生まれているのではないか、と」
「量子的、というと、電子だとか、そういう」
「そうです。ミクロの世界の話です。そして、量子の世界には、『もつれ』という奇妙な現象があります。二つの粒子が、いったんペアになると、どんなに離れていても、片方の状態が決まったとたん、もう片方の状態も瞬時に決まる。距離は関係ない」
「距離が、関係ない」
「ええ。アインシュタインは『気味の悪い遠隔作用』と呼んで、認めたくなかったそうです。でも、実験的には何度も確かめられている、まぎれもない事実です」
七尾さんはお茶をひとくちすすり、少し身を乗り出した。
「もし、意識が量子的なものであるとするなら――そして、私たちが眠っているあいだ、その意識の量子状態が、通常の覚醒時よりも『開かれた』状態になるとするなら――」
彼女は言葉を切って、僕を見た。僕はゆっくりとうなずいた。
「――夢のなかで、誰かの意識と、もつれる、ということも、あり得る」
「そう。それが、私の仮説です。夢通い路仮説(ドリーム・エンタングルメント・ハイポセシス)」
「大きな名前ですね」
「ええ、まだ論文にしただけで、査読も通っていない、駆け出しの理論ですけれど」
彼女は少し笑った。それから、真面目な顔に戻って、こう続けた。
「検算すると、本当に不思議な話なんです。量子的なもつれは、同じ宇宙のなかの二点間だけで起こるとは限らない。理論的には、並行するもうひとつの宇宙、いわゆるパラレルワールドの『自分』とのあいだにも、成立し得るんです」
「並行するもうひとつの、宇宙」
「そう。私たちが人生のなかで『あの時こうしていれば』と思うような、無数の分岐。物理の言葉では、それらは実際にどこかに存在している可能性があるんです。多世界解釈という考え方が、量子力学の主要な解釈のひとつになっています」
「では――」
僕はゆっくりと、口を開いた。
「僕が夢のなかで見ている『誰か』は、この世界の誰かとは限らない、ということですか」
「理論的には、そうです」と七尾さんは静かに答えた。「もちろん、まだ何ひとつ実証されていません。ただ、昔の人が『夢は通い路』と呼び、会えぬ想い人と夢で会えると信じたのは――もしかしたら、私たちの遠い祖先が、この現象を、経験的に感じ取っていたのかもしれない、と私は思うんです」
雨が、少し強くなっていた。僕はしばらく黙って、七尾さんのノートの、細かい数式を眺めていた。
「森野さん」
「はい」
「立ち入ったことをうかがっていいですか」
「なんでしょう」
「森野さん、最近、夢のなかで、どなたかに会っていらっしゃいますか」
僕はゆっくりと顔を上げた。七尾さんの眼鏡の奥の瞳は、まっすぐに僕を見ていた。責めるでも、覗き込むでもなく、ただ、静かに、僕の答えを待っていた。
「……会っている、と、思います」
「どなたか、はっきりしていますか」
「先週までは、していませんでした。でも、あの日――柳田の本をあなたが買っていかれた翌朝から、名前がひとつ、朝まで残るようになったんです」
「名前」
「ええ。……結、という」
七尾さんは、少しだけ、目を見開いた。それから、視線を落として、ゆっくりとお茶に口をつけた。
「よかった」と彼女は呟いた。「森野さんが、覚えていてくださって」
「よかった、というのは?」
「夢は、覚えていなければ、なかったことと同じですから。夢通い路は、覚えていて、はじめて路になる」
*
その日、七尾さんはあれから小一時間ほど、いろいろな話をして帰っていった。多世界解釈の話、量子デコヒーレンスの話、記憶の海馬への転写の話。半分も理解できなかったけれど、僕は不思議と退屈しなかった。
なによりも、僕にとって大事だったのは、彼女がそれを「ばかげたこと」として扱っていないという、その一点だった。夢のなかで会う人は、いる。その可能性を、まじめに考えている人が、この世に一人はいる。それだけで、僕はずいぶん、救われた気がした。
七尾さんが帰ったあと、僕はレジ台に肘をつき、しばらく雨の音を聞いていた。
――結。
彼女は、いま、どこにいるのだろう。北海道に去った四十三年前から、僕は一度も、彼女の消息を追わなかった。追う勇気がなかった、というのが正しい。同窓会の名簿からも、いつのまにか彼女の名前は消えていた。連絡が取れない人、というふうに、ただ登録されていた。
彼女は、生きているのだろうか。生きているとして、どこで、どんなふうに、暮らしているのだろう。僕には想像もつかなかった。いや――ほんとうは、想像することを、僕はずっと、避けてきたのだ。彼女がどこかで別の男と結ばれ、子を産み、孫を持ち、しあわせに暮らしている姿を思い浮かべるのは、六十になったいまでも、少しだけ、つらかった。
――と、そこまで考えて、僕は自分に苦笑した。還暦の男が、女子高生のような未練を抱えている。我ながら、みっともない。けれど、みっともなくても、それが本当なのだから、しかたがなかった。
その夜、僕は例のノートを開き、二行目を書き加えた。
『結は、いまどこに』
そして、少しためらってから、こう書き足した。
『もし夢が本当に通い路なら、僕は、彼女に会いに行けるだろうか』
眠りに落ちる直前、僕はふしぎな感覚に襲われた。胸のあたりに、細い糸のようなものが張られている感じがした。糸の一方は、僕の胸のなかに結ばれている。もう一方は、ずっと遠く、暗闇の奥へ続いていて、その先が誰の胸に結ばれているのかは、まだ見えなかった。
けれど、たしかに、糸の向こうにも、誰かがいる。それが感じられた。
――ねえ、あなた。
低い、聞き覚えのある女の声が、その糸を伝って、届いた気がした。僕は暗闇のなかで、初めて、返事をしてみた。
――僕はここにいる。
そして、眠りに落ちた。
朝、目覚めたとき、僕の頬は少し濡れていた。なぜだかわからないが、僕は眠りのあいだ、少しだけ、泣いていたようだった。胸のなかには、いつもより多くのものが残っていた。砂よりは重く、水よりは軽い、なにか。
僕はノートを開き、三行目に、こう書いた。
『昨夜、僕は返事をした』
ペンを置いて、僕はしばらく、朝の光のなかで、目を閉じていた。雨は上がっていた。窓の外には、ぬれた路面が朝日を反射して、きらきらと光っていた。まるで、細い一本の路が、そこから、どこか遠くまで続いているように、見えた。
――夢は、通い路。
僕はもう一度、その言葉を、口の中で転がした。今度は、ほんの少しだけ、その言葉が、僕自身の言葉になった気がした。
第三章 あの頃の貴女
夢に、はっきりと彼女の姿が現れるようになったのは、七尾さんとあの話をした夜からだった。けれど、夢の中の僕は、六十歳の僕ではなかった。僕は、十七歳だった。
*
制服のズボンの丈が、少しだけ長い。踝の少し上まである。学ランの襟のフックが、いつもうまく留まらなくて、ひとつだけ外している。教科書と弁当箱の入った学生鞄が、右手に重い。左手には、朝もいだばかりの、まだ濡れているクラス日誌。
僕はその重さと、鞄の革の匂いと、廊下のワックスの匂いを、四十三年ぶりに思い出した。思い出した、というのは正しくない。僕は、そこにいた。
夢のなかの世界は、記憶よりもずっと鮮明で、色は過剰なほど濃く、音は妙に立体的だった。窓の外の桜が、風もないのに、時折ふわりと揺れる。廊下を走る誰かの靴音が、遠くから近づいてきて、僕の背後を通り過ぎ、遠ざかっていく。すべてがくっきりしていて、それなのに、どこか焦点が合っていない。まるで、色鉛筆で丁寧に塗られた絵の上に、透明な水彩が一枚、そっと重ねられているような、そんな感じだった。
その廊下の向こうから、彼女が来た。
逢坂結。三年二組。僕の隣の席。
「森野くん、おはよう」
結は、少し首をかしげるようにして、そう言った。彼女はいつもそうだった。人に挨拶するとき、必ずほんの少しだけ首を右に傾ける。
「おはよう」
僕は目を合わせず、そう返した。
夢のなかの僕は、六十歳の僕の意志で動いているのではなかった。十七歳の透の身体は、十七歳の透のやり方で、うつむき、そっけない返事をし、しかし内心では、彼女の髪から漂う石鹸の匂いに、ひどく動揺していた。
そうだった、と六十歳の僕は思う。僕はあの頃、結の前でだけ、うまく話せなかった。
ほかの女子とは、ふつうに冗談も言ったし、掃除当番の話もした。それなのに、結を前にすると、僕は必ず、五音節以上の言葉を失った。「おはよう」「うん」「そう」「ありがとう」。それ以上は、口から出てこなかった。
「今日、放課後、日直だっけ」
「うん」
「じゃあ、一緒だね」
「うん」
彼女は少しだけ笑い、自分の席についた。
僕は、教科書を取り出すふりをして、机の下で、右手をゆっくりと握ったり開いたりしていた。指先が冷たかった。ひどく緊張していた。
――ああ、そうだった。僕はあの頃、この人といるだけで、いつもこんなふうに、指先が冷たかったのだ。
*
夢は、その日一日を、丁寧に再生していった。
一時間目の英語、二時間目の数学、三時間目の現代国語。四時間目は体育で、女子は隣のグラウンドで走っていた。窓越しに、結が、跳び箱の助走を始めるのが見えた。彼女は運動が得意ではなかった。跳び箱の前で、少しためらい、それから思い切って踏み切って、綺麗に跳び越せずに、箱の上に座り込んでしまった。周りの女子たちが笑い、彼女も笑った。
僕は男子更衣室の窓際で、その一部始終を見ていた。
そうだった、と六十歳の僕は思う。僕は、あの日、あの窓から、彼女が跳び箱に座り込むのを見て、笑うでもなく、切ないでもなく、ただ、なんというか、彼女のことがすごく好きなんだ、と思ったのだ。
上手にできないところが、好きだ。助走を止めてためらうところが、好きだ。跳べなかったあとで、恥ずかしそうに笑うところが、好きだ。そういう、うまく言葉にならない気持ちのことを、その頃の僕は「好き」と呼んでいた。
*
放課後、日直の仕事は簡単だった。黒板を消し、日誌を書き、教室の窓を閉め、鍵を職員室に返しに行く。それだけ。
僕と結は、二人で黒板を消した。彼女は右側から、僕は左側から。真ん中でチョークの粉を払い合うとき、少しだけ、彼女の指と僕の指が触れた。
「ごめん」
「ううん」
たったそれだけのやり取りで、僕の心臓は、教室じゅうに響きそうなほど、大きな音を立てた。
日誌を書いたあと、僕らは並んで職員室に行き、鍵を返し、そして校門まで、一緒に歩いた。
夏の初めだった。西日が、白い校舎の壁に、長い影を落としていた。校庭の桜は葉桜になり、その葉が、夕方の風にさらさらと鳴っていた。運動部の掛け声が、遠くから聞こえていた。ブラスバンド部が、体育館裏で、同じフレーズを何度も繰り返し練習していた。
――ああ、この匂い。
僕は夢のなかで、深く息を吸った。夕方の校庭の、乾いた土の匂い。少し湿った芝生の匂い。彼女の髪の、石鹸の匂い。学ランの内側にこもった、自分自身の少しむずがゆい匂い。それらが、混じり合って、僕の鼻の奥に届いた。
四十三年間、僕はこの匂いを忘れていた。忘れていた、と思っていた。けれど、忘れていたのではなかった。ただ、しまってあっただけだ。ふたを閉めて、鍵をかけて、抽斗のいちばん奥に押し込んでいただけだった。いま、夢のなかで、そのふたが開いた。
「森野くん」
「うん」
「わたしね」
「うん」
「夏休みが終わったら、たぶん、この学校、いない」
僕は、足を止めた。結も、二歩ほど先に進んでから、足を止めた。振り向いて、少しだけ困ったように、笑った。
「お父さんの転勤なんだ。北海道。函館の近く」
「そうか」
「そうか、って」
結は、少しだけ、唇をとがらせた。
「ほかに、なんかないの」
僕は、なにか言おうとした。なにか、と思った。けれど、僕の喉は、うまく動かなかった。
夢のなかで、六十歳の僕は、十七歳の僕に、必死で呼びかけた。
――言え。いま、言え。行かないでくれ、と言え。好きだった、と言え。住所を教えてくれ、と言え。手紙を書く、と言え。なんでもいいから、言え。
けれど、十七歳の透は、ただ、こう言っただけだった。
「……元気で」
結は、少しだけ、目を伏せた。それから、顔を上げて、いつもの、少し首をかしげた笑顔で、こう言った。
「うん。ありがとう」
*
その日の夢は、そこで終わった。
朝、目覚めたとき、僕の頬は、また濡れていた。けれど、今度は、はっきりとその理由がわかっていた。僕は、四十三年ぶりに、あの日の別れをやり直していたのだった。そして、四十三年ぶりに、同じ言葉しか言えなかった。
「元気で」
たった三文字を口にするので精いっぱいだった十七歳の自分を、六十歳の自分は、なぜだかとても、いとおしく思った。あの日、あそこで、あんな中途半端な言葉しか吐けなかった自分を、恥ずかしいとも、みじめだとも、いま思わない。
ただ、いとおしい。そういう年齢に、僕はなっていた。
僕はノートに、その日の夢を、覚えているかぎり、細かく書きつけた。黒板のチョークの粉。指と指が触れたときの、乾いた紙のような手触り。石鹸の匂い。夕方の校庭の影。ブラスバンドの繰り返し。そして「元気で」の三文字。
書きながら、僕は不思議な感覚にとらわれた。夢のなかの出来事は、ほんとうに、あの日そのものだったのだろうか。たしかに、あの日の別れは、あんなふうに、校門の手前で交わされた気がする。「元気で」と言った気もする。けれど――ほんとうに、あの日の帰り道の、あの正確な場所で、あの正確な光の角度で、あの正確な言葉を、僕は口にしただろうか。
記憶というものは、こんなに鮮明なものだっただろうか。それとも――夢のなかの僕は、ほんとうに「あの日の自分」だったのではなく、「あの日をやり直している別の誰か」だったのだろうか。僕は、ペンを置いた。
――夢は、通い路。
七尾さんの言葉が、頭のなかで、ゆっくりと、ひとつずつ音を立てて響いた。
*
昼過ぎ、店に一組の老夫婦がやってきて、詩集を三冊買っていった。旦那さんが定年退職の記念に、奥さんの好きだった詩人の全集をそろえるのだ、と言った。奥さんはとなりで、少し照れくさそうに笑っていた。
「森野さん、こういうことは、生きているうちに、しないとね」と旦那さんが言った。
「ええ」と僕は答えた。「本当に、そうですね」
老夫婦を送り出したあと、僕はしばらく、レジ台のわきに立ち尽くしていた。生きているうちに、しないと。そのとおりだ。しかし、僕には、もう、生きているうちに、できないことがある。結に、あの日、言えなかった言葉を伝えることは、もうこの世界では、できない。
――と、そこまで考えて、僕は、はたと思った。この世界では、できない。では――ほかの世界では、どうだろう。
その夜、床に就く前、僕はノートに、四行目を書きつけた。
『あの日、僕が「行かないでくれ」と言った世界は、どこかにあるだろうか』
眠りに落ちる直前、また、あの細い糸の感覚が来た。胸のなかから、暗闇の奥へと、まっすぐに伸びている、一本の糸。その糸の向こうに、確かに、誰かがいる。
――ねえ、あなた。
その声が、ふたたび、届いた。僕は、暗闇のなかで、目を閉じたまま、心のなかで返事をした。
――結、なのか。
返事はなかった。けれど、糸の張りが、ほんのわずかに、こちら側へと、引かれた気がした。僕はそのまま、夢の路のなかへと、落ちていった。
*
その夢のなかで、僕は、また、十七歳になっていた。けれど、今度は、少しだけ、違っていた。
夏休みが終わった、九月の初め。教室の窓の外に、まだ夏の名残の入道雲が浮かんでいた。僕は自分の席についていた。隣の席に、結が座っていた。
――結が、いた。
北海道に行かないはずの結が、僕のとなりに、いた。彼女は、僕のほうを向いて、少し首をかしげて、こう言った。
「森野くん、あの時、引き止めてくれてありがとう」
僕は、動けなかった。夢のなかの僕は、六十歳の僕でも、十七歳の僕でもなく、その中間の、どこかの誰か、だった。ただ、身体は十七歳だった。心も、たぶん、半分ぐらいは、十七歳だった。
「……そう、だっけ」
僕は、そう答えた。自分でも、なにを言っているのかわからなかった。結は笑った。
「そうだよ」と彼女は言った。「あの日、森野くんが『行かないで』って言ってくれたから、わたし、お父さんに、ここに残るって言ったの」
――そのあと、なにが起こったのか、僕は覚えていない。覚えていないのに、確信だけがあった。僕は、あちら側の僕の一日を、垣間見ていたのだ。あの日、「元気で」ではなく、「行かないで」と言った僕の、その後の人生の、ほんの一場面を。
朝、目覚めたとき、胸のなかに残っていたのは、雲の白さと、彼女の「ありがとう」という声だった。
僕はノートを開き、震える手で、こう書いた。
『あちら側の僕は、あの日、言えたのだ』
書き終わって、僕はしばらく、ペンを握ったまま、動けなかった。窓の外では、雀が二羽、屋根の樋のところで、何かをつついていた。朝の光は、いつもと同じ角度で、店の格子窓から差し込んできて、埃の粒を照らしていた。
いつもと同じ朝だった。けれど、僕のなかでは、何かが、確実に、変わりはじめていた。
――夢は、通い路。
その言葉が、いまや、僕のなかで、比喩ではなくなっていた。
*
その日の夕方、僕は、久しぶりに、店を早く閉めた。一人で外を歩きたかった。
夕暮れの街を、当てもなく歩いた。駅前のロータリーを二周し、川沿いの遊歩道を少し歩き、閉まりかけの商店街を抜け、そしてまた家のほうへ戻ってきた。
その途中、駅の南口の交差点で、信号待ちをしているとき――ふと、隣に立った女性の髪から、あの、石鹸の匂いがした。
僕は、はっとして、その人の顔を見た。四十代くらいの、知らない女性だった。マスクをして、スマホを見ていた。当然、結ではなかった。僕はすぐに視線を外し、信号が青になるのを待って、まっすぐ横断歩道を渡った。
渡り終わって、少しだけ、振り返った。その女性は、もう歩き去っていて、その背中は、雑踏のなかに、静かに紛れていくところだった。
――違うと、わかっている。
わかっているのに、僕は、ほんの数秒、そこに立ち尽くした。そして、口もとを、ゆるめて、微笑んだ。なぜだかわからない。ただ、その一瞬の香りだけで、僕はふしぎと、あたたかい気持ちになった。
「わずか数秒だけ」と、僕は口の中でつぶやいた。「わずか数秒だけ、微笑んでもみる」
その言葉は、僕の口から出たものだった。けれど、僕は、その言葉を、いつか、どこかで、誰かに教わったような気が、ふしぎと、していた。
*
家に戻り、店の灯りをつけずに、二階の居間の窓辺に、しばらく座っていた。暮れかけた空が、少しずつ紺色に沈んでいくのを、僕はゆっくりと眺めた。
夢のなかで、結は、僕のとなりにいた。こちら側の結は、いま、どこにいるのだろう。そして、あちら側の結は、いま、どうしているのだろう。
――僕は、その両方に、想いを馳せた。そしてなぜだろう、あちら側の結のほうが、こちら側の結よりも、いま、ずっと、僕に近いところにいる気がした。
僕は、その感覚に、少しだけ、たじろいだ。けれど、拒みはしなかった。
夢は、通い路。もし、それが本当なら――僕は、いま、その路の、入り口に立っているのかもしれなかった。
その夜、床に就く前、僕はノートを開いた。一頁目から順に読み返してみた。
一行目:「今朝の夢――結の名を、思い出した」
二行目:「結は、いまどこに」
三行目:「昨夜、僕は返事をした」
四行目:「あの日、僕が『行かないでくれ』と言った世界は、どこかにあるだろうか」
五行目:「あちら側の僕は、あの日、言えたのだ」
僕はペンを取り、六行目に、こう書いた。
『僕は、あちら側の僕に、会いに行けるのだろうか』
書き終えて、ノートを閉じた。灯りを消した。暗闇のなかで、目を閉じると、また、あの糸が張られる感覚がした。糸の向こうから、彼女の気配が、静かに、こちらに向かって、歩いてくるのが感じられた。
――待って。
僕は、暗闇のなかで、そう言った。
――僕も、そちらへ、行くから。
そう言って、僕は、目を閉じ、眠りへと、身を委ねた。その夜の夢を、僕はまだ、あとで書きとめるべきかどうか、決めかねていた。けれど、そのことについては、朝になってから、考えることにした。
やはり、夢で会うしかないのだろう。僕は、いつのまにか、そう思うようになっていた。けれど、その「しかない」という言葉のなかには、あきらめよりも、少しだけ、期待のほうが、多く混じっている気がした。
還暦の男が、夢を心待ちにしている。我ながら、おかしなことだ。しかし、おかしなことでも、それが本当なのだから、いまさら、しかたがなかった。
その夜、僕はふしぎと、ぐっすりと、眠った。そして、また、若かった。そして、また、若い彼女に、会っていた。
ーー第二部へ続くーー

