刻堕とし 十 〜時そば異聞 刻喰らい〜
継ぎ目守異聞
古典落語「時そば」より
まえがき
「時そば」という噺は、勘定の合間に「今何時だい」と尋ねる、その一言だけで一文をまんまとごまかしてしまう男の噺である。十六文のそばを、銭を一枚ずつ数えながら払う。
「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ」
で、ふと「今何時だい」と尋ね、蕎麦屋が「へえ、九つで」と答えると、そのまま「十、十一……」と続けて数え、勘定を一文ごまかしてのける。それを見ていた別の男が、自分も真似をしようと翌晩、別の不味い屋台で同じ手を使うが、時刻を尋ねる間合いを間違えて、かえって余分に銭を払う羽目になる、というのが落ちである。
思えばこの噺は、「刻堕とし」という本シリーズの題そのものと、奇妙に響き合っている。勘定の合間に、ほんのわずかな刻を削り落とす。その洒落た仕掛けこそが、この噺の骨法である。
ところが、とある写しにおいて、この「刻を削り落とす」仕掛けだけが幾百幾千の写しの中に積もり積もり、ついには本物の刻を喰らう怪異へと育っているという報告が届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、夜更けの屋台の湯気の向こうへと足を踏み入れることになった。
一 継ぎ目守、刻の裂け目
鏡面に映ったのは、湯気の立つ夜鳴きそばの屋台だった。ただし、その湯気の形が、時計の針のようにゆらゆらと回転している。
継ぎ目守圭馬へ。演目「時そば」における『勘定の合間に刻を尋ね、一文を削り落とす』型の残滓が、無数の継ぎ目に蓄積し、実在の人間の寿命、記憶時間を侵食する事案を確認。被害者、若くして白髪となる、あるいは数日分の記憶を欠落させるなどの報告あり。至急現地調査されたし。
「寿命を侵食、たあ穏やかじゃないね」
圭馬が鏡面を睨むと、弥七がすでに丼を片手に立っていた。
「旦那、時そばたあ、たかが一文をごまかす、罪のねえ小咄のはずなんですがね。それがどうして、そんな恐ろしい話になるんでしょう」
二 二八そばの夜
継ぎ目を抜けると、そこは江戸の夜道、屋台の行灯がぽつぽつと灯る町であった。
一軒の屋台に、如才ない男が腰を下ろした。
「おやじ、そば一杯くんな。ああ、旨え。この出汁がいいねえ、丼もきれいだ、割り箸ってのがまた気が利いてらあ」
弥七が小声でぼやいた。
「旦那、割箸たあ気が早えや。まだ江戸でさあ」
そばを平らげた男は、懐から銭を取り出し、一枚ずつ数え始めた。
「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ……時に、おやじ、今何時だい」
「へえ、九つで」
「とお、十一、十二……」
数え終えた男は、涼しい顔で立ち去った。
弥七がにやりと笑った。
「旦那、見なすったかい。今の間合い。八つ数えたところで刻を尋ねて、答えの『九つ』をそのまま数の続きに紛れ込ませちまう。ありゃ、一文ごまかしてやがるんですよ」
「洒落た手口だ。だが弥七、あの男の背中、心なしか一瞬、影が薄くなったように見えなかったか」
三 猿真似の男
一部始終を眺めていた別の男が、感心しきりに独りごちていた。
「なるほどねえ、あの手があったか。よし、明日はおれもひとつ、真似してやろう」
翌晩、この男は、行灯の心許ない、あまり流行っていなさそうな屋台を選んで座った。そばはあまり旨くない。丼も欠け、箸も割り箸ではなかった。それでも男は構わず、銭を数え始めた。
「ひい、ふう、みい、よお……時に、おやじ、今何時でえ」
「へえ、夜の四つで」
「いつ、むう、なな……」
「あれ、四つ数えたところで聞いちまったよ」
弥七が吹き出した。
「旦那、あの間抜け、間合いを間違えてやがる。九つならまだしも、夜の四つの晩に同じ手を使っちゃ、逆に余分に銭を払う羽目になるだけだ」
案の定、男は損をして首を捻りながら屋台を後にした。
圭馬は微笑みながらも、どこか気になる様子で夜道の先を見つめていた。
「弥七、あの二人の男、どちらも噺の型どおりだ。だが、この先に、まだ何かある気配がする」
四 三軒目の屋台
夜がさらに更けた頃、町の外れに、これまで見たことのない屋台が、ぽつりと灯を点していた。行灯には「刻そば」と書かれている。
「弥七、あの屋台、噺には出てこない」
近づいてみると、屋台の親父は妙に影が薄く、顔の造作もどこかはっきりしない。それでいて、注文したそばの味は、恐ろしく美味かった。
「へい、お代は十六文。ああ、勘定はお好きなように、どうぞごゆっくり」
客の一人が、先の二人の男を真似て、銭を数えながら時刻を尋ねる。
「ひい、ふう、みい……時に、今何時でえ」
「へえ、只今、」
親父が答えかけた瞬間、客の耳元の髪がふっと白く染まり、その目から生気がすうっと抜けていった。
五 刻喰らいの正体
客がふらふらと去っていくのを見送りながら、圭馬は屋台の親父に向き直った。
「あんた、客の時を喰ってるな」
親父はにやりと笑い、影が急速に輪郭を持ち始めた。人ではない、無数の刻の残骸が絡み合ってできた、時計の歯車のような姿をした怪異だった。
「よくぞ見抜いた、継ぎ目守。この身は、幾百幾千の写しで削り落とされてきた、あの一文分の刻の成れの果て。名は刻喰らい。誰かが刻を尋ねてごまかしを働くたび、その削られた刻の欠片が、この身に積もり積もってきた」
「積もり積もって、今度は本物の人間の寿命を喰らい始めたってわけか」
「洒落た小咄の一文なんぞ、いつまでも小さいままではおれぬ。積もれば山となる。この身は今や、刻そのものを喰らえるほどに育った」
六 消えた刻限
町では、若くして白髪になった者、数日分の記憶をすっぽり失った者の噂が広がり始めていた。
「弥七、刻喰らいの屋台に立ち寄った客は、皆同じ症状だ。刻を尋ねられ、素直に答えてしまった、ただそれだけで、寿命や記憶をごっそり持っていかれてる」
「旦那、こいつぁ捨て置けねえ。だが、どうやって喰い止めます。刻を尋ねること自体が仕掛けなら、屋台に近づかねえのが一番でしょうが」
「いや、それじゃ噺そのものが壊れちまう。時そばって噺は、刻を尋ねる、その洒落っ気があってこそのもんだ。刻喰らいだけを、うまく引き剥がさなきゃならない」
七 弥七、罠にかかる
聞き込みのさなか、弥七がふと、鼻をひくつかせた。
「しかし旦那、あそこまで美味えそばと言われちゃ、あっしもなんだか一杯手繰りたくなってきやしたね。どれ、懐の具合は……」
そう言って、癖で懐の銭を取り出し、数え始めてしまった。
「ひい、ふう、みい……あ、いけね」
「弥七」
刻喰らいの気配が、弥七の背後にすっと伸びた。とっさに圭馬が割って入り、弥七の手から銭をはたき落とす。
「危なかったな……」
「旦那、済まねえ、つい癖で」
「気をつけろ。刻喰らいにとっちゃ、律儀に時刻を尋ねちまう心根そのものが、格好の餌なんだ」
弥七は青ざめながらも、悔しそうに拳を握った。
「旦那、あっしにも、こいつを喰い止める片棒を担がせちゃもらえやせんか」
八 圭馬の勘定
圭馬は「刻そば」の屋台に、再び腰を下ろした。
「刻喰らい、もう一杯くれ」
「へえ、毎度」
そばを平らげた圭馬は、懐から銭を取り出し、数え始めた。
「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな……時に、おやじ、今何時でえ」
「へえ、只今、」
刻喰らいが答えようとした、その刹那、圭馬はわざと、あの猿真似の男とまったく同じ、間の抜けた勘定の仕方をしてみせた。
「やあ、と、九つと十で、ええと、十一、十二……あれ、待てよ、これじゃ勘定が合わねえな」
「な、何を、しておる」
「なあに。あんたが喰ってきたのは、うまくごまかされた一文分の刻だけだろう。だったら、うまくごまかせなかった分の刻、余分に払っちまう、間抜けな勘定を、たっぷり味わってもらおうと思ってね。巧い誤魔化しで太った腹なら、間抜けな誤魔化しの余りで下させてやるさ」
九 刻を取り戻す
圭馬は懐の銭をすべて、屋台の勘定台にじゃらじゃらと積み上げた。数えるほどに、時刻を尋ねる間合いはことごとくずれ、刻喰らいは受け取るはずのない「削り損ねた刻」を、否応なく数倍にして飲み込まされていく。
「ぐ、過分な刻など、要らぬ……腹が……」
「そら、遠慮なくお代わりだ。あんたが今まで幾百幾千と溜め込んできた分、しっかり吐き出してもらうぜ」
刻喰らいの輪郭が、歯車の軋むような悲鳴とともに膨れ上がり、やがて限界を超えて弾けた。溜め込まれていた無数の刻の欠片が、夜空に光の粒となって舞い上がり、町のあちこちへと降り注いでいく。
白髪になっていた者の髪が黒々ともとに戻り、記憶を失っていた者の顔に、ふっと安堵の色が戻った。
十 型を取り戻す、そばの湯気
夜が明ける頃には、「刻そば」の屋台は跡形もなく消えていた。残っていたのは、いつもの二八そばの屋台と、寝ぼけ眼の親父だけである。
「弥七、大丈夫かい」
「へい、なんとか。旦那、正直、肝が冷えやした。ただ律儀に刻を尋ねるだけのことが、あんな怪異の餌になるたあ」
「洒落た手口も、間抜けな失敗も、どっちもこの噺には要るんだ。うまくごまかす男がいて、それを間違えて真似する男がいる。その両方があってこそ、噺は綺麗に転がる。刻喰らいは、その片方だけを積もらせて太っちまったのさ」
十一 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、一文をうまくごまかした男もいれば、間合いを間違えて損をした間抜けな男もいる。この二人がいてこそ、時そばという噺は面白いんでございます。どっちか片方だけを積もらせちゃあ、しまいにゃ本物の刻を喰らう化け物にもなりかねません。ええ、『今何時だい』なんて軽口を叩いていると、お帰りの頃にはすっかり夜が更けて、四つになってるやもしれません。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。
(了)
あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十作目、今回は「時そば」という、シリーズ名そのものと不思議に響き合う噺を題材にしました。
この噺の面白さは、洒落た成功例と間抜けな失敗例が、対になって初めて成立するところにあると思います。今回はその「刻を削り落とす」仕掛けの、削られた分だけが積もり積もって怪異になるという仕掛けにしてみました。
圭馬が最後に見せた「わざと間抜けに勘定する」という解決策は、噺の両輪、巧みさと不細工さ、のどちらもが噺には必要なのだという、シリーズを通じてのテーマにも通じるものになったのではないかと思います。
節目の十作目、湯気の向こうに揺れる不思議な刻の噺を、楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。

