貴腐 三部作
物は腐る。すべてのものは、いつか腐る。
放っておくだけで、腐り出す。
けれど、時折、その腐敗が、逆に働くことがある。
酒に。チーズに。ヨーグルトに。
それは、人が足すものではない。
その土地にだけ棲みつく、名もない小さな働き手たちが、
誰も見ていない夜のあいだに、そっと仕上げていくものだ。
そして、ごくまれに——
人間にも、同じことが起こるのだという。
第一部 蔵にて
一 蔵
その町に着いたのは、長い雨がようやく上がった午後だった。
改札を出ると、空気の匂いがどこか違う、と最初に思った。地方都市の駅前によくある、埃と排気ガスの匂いの奥に、もっと湿った、もっと生きた匂いが沈んでいる。麹の匂いだ、と後になって知った。この町では、風そのものが発酵しているのだと。
僕は雑誌の仕事で来ていた。『百年蔵をたずねて』という、地方創生特集の枠で組まれた、よくある企画だった。全国に散らばる古い酒蔵をめぐり、蔵元に話を聞き、写真を撮り、四百字詰め原稿用紙にして十枚ほどにまとめる。それだけの、はずだった。
当時の僕は、三十四歳になったばかりで、離婚届を出してからちょうど半年が経っていた。妻だった人とは、憎み合って別れたわけではない。ただ、二人の間の何かが、ある日を境に、静かに、決定的に乾いてしまったのだ。理由を聞かれるたびに、僕はうまく答えられなかった。喧嘩をしたわけでもない。裏切りがあったわけでもない。ただ、互いの言葉が、互いの肌に染み込まなくなっていくのを、二人とも黙って見ていただけだった。
仕事は淡々とこなせていたし、誰に何を聞かれても、笑って「元気にやってます」と答えられるくらいには回復していた。ただ、自分の内側のどこかが、ずっと乾いたままだという感覚があった。何も腐らず、何も発酵せず、ただ乾燥した紙のように、静かに古びていくだけの毎日。感情の波は凪いでいたが、それは穏やかさというより、ただの無風に近かった。
蔵の名は「時雨屋」といった。創業二百三十年。案内してくれたのは、蔵の四代目を継いだという初老の男で、名を宗一と言った。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれていたが、目だけは驚くほど若く、澄んでいた。
「うちの蔵付き酵母は、よそには絶対に渡さないんです」
宗一はそう言って、暗い蔵の奥、ひんやりとした空気が溜まる一角を指さした。木の柱も、土の壁も、二百年を超える歳月の中で黒く艶を帯び、まるで生き物の皮膚のように見えた。天井近くには、長年の湯気で育ったという白と灰色のまだら模様が、地図のように広がっていた。
「渡さないんじゃなくて、渡せないんですよ。ここの菌は、ここにしか棲みつかない。同じ米、同じ水、同じ道具、同じ杜氏を持って行っても、よそでは絶対に同じ酒はできません。試した蔵はいくつもあるが、成功した例は一つもない」
「それは……菌が、場所を選ぶということですか」
「選ぶ、というより」宗一は少し笑った。「棲み着く、という感じに近いですね。誰かが連れてきたわけでもないのに、いつのまにかそこにいて、いつのまにか働いている。人間が仕込むのは米と水と麹だけで、あとは——彼らの仕事なんです」
彼、という言い方が、奇妙に耳に残った。目に見えぬ菌類のことを、まるで蔵に古くから住む住人のように語る。取材ノートにその言葉を書き留めながら、僕は少しだけ、この仕事に興味を持ち始めていた。
二 夜の小人
取材の合間、僕は蔵の隅に置かれた古い木の椅子に腰かけ、仕込みの様子を眺めていた。大きな木桶の中で、蒸した米と麹と水が混ざり合い、静かに発酵を始めている。真夜中、蔵人たちが眠りについたあとも、桶の中では誰にも見られることなく、何かが進行し続ける。糖が酒精に変わり、複雑な香りが生まれ、味というものが少しずつ形作られていく。
「まるで童話みたいですね」と僕が言うと、宗一は頷いた。
「小人が夜中にこっそり靴を作る話、知ってますか。うちの蔵人は昔からそう言うんです。夜、誰もいなくなった蔵の中で、小人たちがせっせと働いているんだと。もちろん比喩ですが——長くこの仕事をしていると、比喩でもないような気が、してくるんですよ」
人為的に何かを足しているわけではない。ただ、温度と湿度という条件を整え、あとはひたすら待つ。腐るに任せる。発酵するに任せる。良い方向に転ぶか、悪い方向に転ぶか、それすらも人間には完全には制御できない。
「物はすべて、いつか腐ります」宗一は静かな声で言った。「放っておけば、必ず腐り出す。それは避けられない、絶対の法則です。けれど、ごくまれに、その腐敗が逆に働くことがある。酒に、チーズに、ヨーグルトに、くさやに。そして——」
彼は言葉を切り、僕の顔をまっすぐに見た。囲炉裏の灯りが、その目の奥で小さく揺れていた。
「人間にも、それがあるんですよ」
その日の取材はそこで終わったが、宗一の最後の一言だけが、いつまでも耳の底に残り続けた。
三 見習いの少女
蔵にはもう一人、印象に残る人物がいた。名を、ゆかりといい、その春から蔵人見習いとして働き始めたばかりだという、二十歳そこそこの娘だった。都会の大学を出て、わざわざこの町に来て住み込みで働いているのだと聞き、僕は少し意外に思った。
「なんでまた、こんな田舎の蔵に」
「発酵に興味があったんです」ゆかりは屈託なく笑った。「腐るのと発酵するのって、紙一重じゃないですか。同じことが起きてるのに、片方は捨てられて、片方は喜ばれる。その違いがどこにあるのか、知りたくて」
彼女の手はまだ荒れておらず、指先には絆創膏が何枚も貼られていた。重い米俵を運び、熱い蒸気にまかれ、慣れない力仕事に、まだ体がついていっていないのだと、宗一が笑いながら教えてくれた。
「あの子はまだ、仕込んだばかりの醪みたいなものです」宗一は言った。「これからどんな味になるか、まだ誰にも分からない。荒々しくて、青くて、けれどそれだけの勢いがある」
ゆかりの姿は、まだ何一つ発酵していない僕自身の姿と、どこか重なって見えた。ただ違うのは、彼女には隠すべき傷がまだ少なく、それゆえに、恐れも迷いも、真っ直ぐに顔に出ていたことだった。僕の乾いた無風とは、まるで違う種類の若さだった。
四 貴腐という言葉
その晩、宗一は僕を蔵の裏手にある小さな座敷に招いてくれた。囲炉裏には火が入り、彼は棚の奥から、ラベルのない一升瓶を取り出した。市場には出さない、蔵の人間だけで飲む酒だという。
「フランスでは、白ワインに数年に一度、特殊な菌がついて、驚くほど良い味を生み出す年があるそうです。ボトリティス・シネレアという菌が葡萄の皮に取りつき、水分だけを抜いて、糖と旨みを凝縮させる。それを、貴腐と呼ぶ」
「聞いたことはあります。ソーテルヌ、でしたか」
「よくご存じで」宗一は嬉しそうに目を細めた。「面白いのは、それがいつ起こるか、誰にも正確には予測できないということです。今年か、去年か、来年か。人間の側から呼び込めるものではない。ただ、いくつもの条件がそろった、ある特定の年に、静かに、勝手に、訪れる」
宗一は杯に酒を注ぎながら、僕の目をまた見た。
「人間もそうなんじゃないかと、僕はずっと思っているんです。ただ年齢を重ねるだけでは、貴腐にはならない。多くの経験を積み、修羅場をくぐり抜け、時には多くの異性とも出会い、傷つき、傷つけ、苦味の中で怪我を負い、それでもなお、逃げずにもがき続けた人間だけが——」
彼はそこで言葉を止めた。何か、遠い記憶を辿っているようだった。
「近づくんですよ。高貴で、味わい深く、気品の漂うような——そういう人間に」
杯の酒は、確かに旨かった。だが、それ以上に、彼の言葉の方が、僕の中の何かを揺らした。僕はその夜、うまく眠れなかった。宿の布団の中で、天井の木目を見つめながら、自分の人生の、まだ何一つ発酵していないような薄っぺらさを思った。離婚のときも、僕は泣かなかった。怒りもしなかった。ただ、静かに書類に判を押しただけだった。あれは果たして、成熟だったのか、それとも、ただ乾いていただけだったのか。
五 研究者たちの記録
翌日、僕は蔵の資料室に案内された。そこには、江戸期からの帳簿と並んで、比較的新しい、無機質な書類の束が置かれていた。表紙には「時雨屋蔵内微生物相・長期観測記録」と印字されている。
「これは?」
「もう二十年以上、うちの蔵に通ってくれている研究者がいましてね」宗一は言った。「もともとは食品微生物学の先生でしたが、今は少し違うことをやっている。この蔵にしかいない菌の遺伝子配列を調べているんですが——どうにも、既知のどの系統にも綺麗には収まらないらしいんです」
「収まらない、というのは」
「近縁種はいる。けれど、完全に一致するものがどこにもない。まるで、この蔵の中だけで、独自に何百年もかけて進化してきたような、そんな配列だと言っていました」
宗一は資料の一枚を僕に見せた。専門的なグラフと、見慣れない略号の並ぶ表。だがその余白に、几帳面な字でこう書き添えられていた。
——本菌株、宿主(人体)常在化の可能性について、継続調査を要す。発酵人類学連携プロジェクトへ報告済み。
「発酵人類学、というのは」
「聞いたことがないのも無理はありません。国内にも数えるほどしかいない、小さな学際グループだそうです」宗一は言った。「微生物学者と、文化人類学者と、老年医学の研究者が、なぜか手を組んで、世界中の『長く発酵に関わってきた土地』を調べて回っている。目立った予算もない、地味な研究らしいですが」
「宿主、人体……?」僕は思わず声に出した。
「その先生はね」宗一は少し声を落とした。「うちの蔵で長年働いてきた人間の何人かから、同じ菌の痕跡を見つけているんです。蔵の中の空気や道具だけじゃなく、皮膚や、腸の中からも。断定はしていません。でも、可能性としては——この菌は、酒だけじゃなく、人間の中にも棲み着くことがあるんじゃないか、と」
僕はその晩、資料室の隅で、その研究者の連絡先を書き写した。取材の名目は、とうに口実になりかけていた。
六 蔵の奥の女性
数日後、僕は蔵のさらに奥、普段は公開されていない一角に案内された。そこには小さな畑のように甕が並び、その世話をする一人の老女がいた。
名を、みね、といった。歳は九十を超えているという。だが、その所作には少しの淀みもなく、目の光には、驚くほどの静けさと、同時に驚くほどの鋭さが同居していた。
「この人はね」宗一が僕にそっと耳打ちした。「この蔵で、貴腐化した、と言われている人です」
「貴腐化、ですか」
「僕らの間だけの言葉です。学術的な話じゃない。ただ、この人と話していると分かるんです。何かが、違う。焦っていない。恐れていない。それでいて、何も諦めていない」
みねは僕らに気づくと、甕から目を離し、静かに笑った。日に焼けた顔に刻まれた無数の皺が、笑うたびにゆっくりと形を変えた。
「若い人が来たね」
その声には、不思議な重みがあった。責めるでも、媚びるでもない。ただ、そこにあるものをそのまま受け止めるような、静かな声だった。
「あなたも、いずれ腐りますよ」みねは僕に言った。「それは怖いことじゃない。腐らなかったものは、ただ乾いて、固くなって、そのまま終わるだけです。腐るというのは、まだ動いている、まだ変わっているという証拠なんです」
その言葉は、乾いた僕の胸の奥に、静かに染み込んでいった。
七 僕自身の発酵
取材の名目はとうに形だけになっていた。僕は三日、四日と町に留まり、みねの話を聞き続けた。
みねは、多くを語らなかった。ただ、聞かれたことにだけ、ぽつり、ぽつりと答えた。若い頃に何度も恋をし、何度も裏切られ、あるいは自分が誰かを裏切ったこと。戦後の混乱の中で、幾度も死にかけたこと。若くして息子を一人、先に見送ったこと。そのたびに、何かが自分の中で壊れ、そして、壊れたところから、別の何かがゆっくりと染み出してきたのだと、彼女は言った。
「痛かったですか」と僕は聞いた。
「痛かったですよ、ずっと」みねは笑った。「でもね、痛みというのは、腐敗と同じで、放っておいても消えないんです。ただ、時間と一緒に、少しずつ形を変えていく。膿んで、腐って、そのまま終わるか。それとも——」
「貴腐に、なるか」
「そう」みねは頷いた。「それはね、自分で選べるものじゃないんです。ただ、逃げずに、そこにい続けた人間にだけ、たまに、起こる。焦って自分を痛めつけても、貴腐にはなりません。ただ傷が増えるだけです。大事なのは、逃げないこと。それだけ」
僕は自分の人生を思い返した。離婚のことも、辞めていった友人のことも、ずっと蓋をして、見ないふりをしてきたことに、今さらのように気づいた。まだ何も壊れていないふりをして、まだ何も熟していないふりをして、ただ平坦に日々をやり過ごしてきただけだったのかもしれない。それなりに満たされているはずだったその日々が、急に、ひどく薄っぺらいものに思えてきた。
八 酒祭りの夜
滞在の最後に、ちょうど町の小さな祭りと重なった。年に一度、その年の新酒を、蔵人も町の人々も一緒になって振る舞う祭りだという。神社の境内には提灯が並び、宗一もゆかりも、普段の作務衣ではなく、揃いの法被を着て、忙しく立ち働いていた。
みねもまた、境内の隅に置かれた縁台に座り、町の人々に囲まれていた。彼女の周りにだけ、不思議と人が絶えなかった。誰かが酌をし、誰かが愚痴をこぼし、誰かがただ黙って隣に座っているだけだった。みねは、それら一つひとつに、急かすことなく、ゆっくりと相槌を打っていた。
僕は少し離れた場所から、その光景を眺めていた。杯を交わす人々の笑い声、太鼓の音、屋台の煙の匂い。宗一が言っていた言葉を思い出す。
——僕にとって美味い酒というのは、良い仲間がいて、良い笑顔があって、良い会話がある中で飲む酒のことです。
ソムリエたちが語るような、薔薇の香りだとか、孔雀の羽根のような複雑さだとか、そういう洗練された言葉は、この境内のどこにもなかった。あったのは、ただ、湯気の立つ煮物と、安い紙コップに注がれた新酒と、笑い合う人々の顔だけだった。それでも、その光景全体が、まるで一つの巨大な発酵のように、僕の目には映った。
ゆかりが僕のところに紙コップを二つ持ってやってきて、片方を差し出した。
「今年の新酒です。まだ若いですけど」
「まだ若い、か」
「はい。荒っぽくて、角があって。でも、これはこれで美味しいと思うんです。貴腐だけが正解じゃない。若い酒には、若い酒の良さがある」
僕はその言葉に、少し救われた気がした。何もかもをすぐに熟成させる必要はない。今はまだ、荒く、角のある自分のままでいい。ただ、逃げずに、ここにい続けること。
九 電話の声
町を去る前夜、僕は資料室で控えた研究者の番号に、思い切って電話をかけてみた。名を、栗田といった。定年退職後もこの町に住み続け、私費で調査を続けているのだという。
「時雨屋さんの菌のことですね」栗田の声は穏やかだった。「よく知られていないんですが、似たような報告は、実は世界中に、ぽつぽつとあるんですよ。フランスのある村、コーカサスの山あいの発酵茶の産地、それから、九州のある離島のくさや工場。どれも、何百年も同じ場所で発酵を続けてきた土地です」
「そこにも、同じような菌が?」
「完全に同じではないでしょう。ただ、共通しているのは——長くその土地に留まり、その発酵に深く関わり続けた人間の中に、よく似た微生物相の変化が見つかるということです。加えて」栗田は少し声を潜めた。「その人たちには、共通する特徴があるらしいんです。老年になっても、認知機能の衰えが驚くほど緩やかである。感覚——特に嗅覚と味覚が、生涯にわたって衰えにくい。そして」
「そして?」
「感情の起伏が、非常に穏やかである、と。恐怖や焦燥に、ほとんど支配されない。まるで、長い時間をかけて、心そのものが、ゆっくりと発酵しているかのように」
「原因は、その菌なんですか」
「分かりません」栗田は正直にそう言った。「菌が原因なのか、結果なのか、それとも、ただの相関に過ぎないのか。土地に長く根を張り、痛みから逃げずに生き続けた人間の身体に、たまたまその菌が棲みやすい環境ができるだけなのかもしれない。因果はまだ、誰にも証明できていません。それでも——」
栗田は少し笑ったようだった。
「証明できないからといって、美しくないわけじゃない。私はそう思って、この歳になっても、こんな地味な調査を続けているんです」
電話を切ったあと、僕はしばらく、宿の窓から蔵の方角を眺めていた。科学が、あの詩的な言葉に、静かに追いついてこようとしている。だとしても、その答えは、まだどこにも出ていない。ただの偶然か、それとも、人間という生き物に元から備わった、ごくまれにしか発現しない性質なのか。
十 夜の蔵にて
最後の晩、宗一に頼み込んで、僕は一人で仕込みの蔵に入ることを許してもらった。深夜、桶の中では醪が静かに動いていた。ぷつ、ぷつ、という小さな泡の音。甘く、酸っぱく、複雑な匂いが、暗闇の中に立ちのぼる。
僕はしゃがみこみ、その音に長く耳を澄ませた。誰も見ていない場所で、誰の指示も受けずに、ただそこにあるものたちが、勝手に、静かに、変化を続けている。
ふと、みねの言葉を思い出した。
——腐るというのは、まだ動いているという証拠なんです。
僕は自分の中の、まだ壊れていない部分、まだ動いていない部分のことを思った。恐らく僕は、発酵の入り口にすら、まだ立っていない。乾いたまま、傷つくことを避け続け、痛みに蓋をしたまま、ここまで来てしまった。だが、それでいいのかもしれない、とも思った。焦って自分を腐らせようとしても、それは貴腐にはならない。ただ、逃げずに、そこにい続けること。痛みが来たら、痛みのままに、それを受け止めること。
蔵の暗闇の中で、複雑な発酵臭に包まれながら、僕は不思議な安堵を覚えていた。それは諦めに似ていて、けれど、諦めとは少し違う何かだった。
十一 高級ソムリエの言葉
町を発つ朝、宗一が駅まで送ってくれた。別れ際、彼はふと笑って言った。
「高級なワインのソムリエに言わせると、貴腐ワインの味というのは、薔薇の花びらの密やかな香りがするだとか、孔雀の羽根が口の中で広がるようだとか、まるでオーケストラのように幾つもの楽器が重なり合って、長く余韻が残るだとか——そういう表現になるそうです」
「難しいですね、それは」
「僕にも、正直よく分かりません」宗一は笑った。「僕にとって美味い酒というのは、良い仲間がいて、良い笑顔があって、良い会話がある中で飲む酒のことです。決して、酒そのものが持つ旨みだけの話じゃない」
僕は頷いた。
「みねさんも、似たようなことを言っていました」
「そうでしょうね」宗一は目を細めた。「あの人は、酒の味よりも、酒を酌み交わす人間のことを、ずっと見てきた人だから」
電車が来るまでの間、僕らは黙って、蔵の方角に立ちのぼる、薄い朝靄を眺めていた。それは、確かに酒の匂いを含んだ、この町だけの空気だった。
十二 東京の乾いた部屋
東京に戻った僕を待っていたのは、相変わらず乾いた部屋だった。離婚してから住み始めたワンルームは、必要最低限の物しか置かれておらず、生活の匂いというものがほとんどしなかった。洗濯物の匂いも、料理の匂いも、誰かの体温の匂いも。
かつての妻から、久しぶりに短いメッセージが届いていた。共通の知人の近況を伝える、それだけの、事務的な文面だった。返信を書きかけて、僕は手を止めた。以前なら、そこで何かを取り繕おうとしただろう。優しい言葉を並べ、何事もなかったかのように振る舞おうとしただろう。
だが、その晩の僕は、ただ正直に、短くこう返した。
「元気にしてる。まだ、うまく言葉にできないことも多いけど、少しずつ、自分の中の何かと向き合ってる気がする」
送信したあと、妙な緊張が走った。誰かに、繕っていない自分をさらけ出すのは、久しぶりのことだった。返信は来なかったが、それでよかった。逃げずに、ここにいたということが、大事なのだと、みねの声が耳の奥で繰り返していた。
十三 発酵中
東京に戻ってから、僕は原稿を書いた。だが、雑誌に載せたのは、当たり障りのない、蔵の歴史と酒造りの工程についての十枚だけだった。みねのことも、栗田の研究のことも、一行も書かなかった。それは記事にするようなことではなく、ただ、僕自身の中で、静かに育て続けるべきことのように思えたからだ。
半年後、栗田から一通の封書が届いた。中には短い手紙と、一枚の検査報告書のコピーが入っていた。あの晩、蔵で一人、桶のそばにしゃがみ込んでいたときのことを話したところ、栗田が興味を持ち、僕にも簡単な検査を勧めてくれていたのだった。
手紙には、こう書かれていた。
「断定的なことは何も言えません。ただ、あなたの検体からも、時雨屋の蔵付き菌と極めて近縁の系統が、ごく微量ながら検出されました。これが何を意味するのか、私にもまだ分かりません。ただ、もしよろしければ、また町に来てください。あなたの中で、これから何が起こるのか、あるいは何も起こらないのか、それを見届けたいと思っています」
僕はその手紙を、しばらく机の上に置いたままにしていた。怖くはなかった。むしろ、乾いていた自分の内側に、初めてわずかな湿り気が差し込んだような、そんな感覚があった。
翌年の同じ祭りの晩、僕は再びあの町を訪れた。ゆかりの手はすっかり荒れて、蔵人らしい皮の厚さを帯びていた。宗一は変わらず、忙しく法被の袖をまくっていた。そして、みねは相変わらず、境内の隅の縁台に座り、通りかかる人々の話に、急かすことなく耳を傾けていた。
僕は紙コップに注がれた新酒を一口飲み、それから、みねの隣に、断りを入れて腰を下ろした。
「また来たのかい」
「はい。まだ、何も変わっていないかもしれませんけど」
「変わっていなくていいんですよ」みねは笑った。「大事なのは、変わろうとしていることじゃなくて、逃げずに、そこにい続けていることだから」
僕は頷き、杯を傾けた。まだ荒く、まだ角のある、若い酒の味がした。だが、それでよかった。腐るということ。それは終わりではなく、まだ動いているということ。
そしていつか——高貴で、味わい深く、気品漂うような人間に、僕もなれるのだろうか。
答えは、まだ、僕の中で、静かに発酵中だった。
そのときの僕は、まだ知らなかった。この「発酵中」という状態が、思っていたよりもずっと長く、ずっと複雑な道のりになることを。
十四 訪問者
東京に戻って三か月ほど経った、ある冬の夕方のことだった。栗田から、珍しく緊迫した声で電話がかかってきた。
「妙な連中が、蔵に出入りするようになったんです」
聞けば、大手の製薬会社と、その関連のシンクタンクを名乗る二人組が、時雨屋を訪ねてきたのだという。彼らは「発酵人類学連携プロジェクト」の非公開の報告書を、どこかから入手していた。蔵付き菌が人体に常在化する可能性、老化速度や情動の安定性との相関——その一つひとつを、まるで商品カタログの項目のように読み上げ、共同研究という名目での「サンプル提供」を持ちかけてきたのだそうだ。
「彼らの言い方だと、これは『長寿と精神的安定をもたらす微生物資源』だそうです」栗田の声には、隠しきれない苦さがあった。「みねさんの腸内フローラを、特許化したいと言ってきた」
「みねさんは、何と?」
「一言だけ答えたそうです。『わたしはワインじゃない』と」
電話を切ったあと、僕はしばらく、暗くなった窓の外を眺めていた。あの静かな蔵、あの誰も急かさない時間の流れの中に、外側から、まったく異質な速度を持った何かが入り込もうとしている。それは、酒を早く熟成させようとする強引な加温のようなものだった。無理に温度を上げれば、確かに早く「それらしい」変化は起きるかもしれない。だが、それは貴腐ではなく、ただの腐敗になる。
十五 旅立ちの前夜
年が明けてすぐ、僕は編集部に長期休職を申し出た。理由をうまく説明できなかったが、上司は存外あっさりと受け入れてくれた。「ちょうど良い区切りだと思ってたよ、お前」と、笑いながら言われた。
栗田から、改めて長い手紙が届いていた。彼が二十年かけて集めてきた、世界各地の「よく似た事例」のリストだった。フランス・ソーテルヌ地方の小さな家族経営のシャトー。コーカサス山中で、何百年も同じ壺で茶を発酵させ続けてきた村。そして、九州のある離島で、くさや液に生涯関わってきた老人たちの集落。
「もし本当に興味があるなら」手紙の最後に、彼はこう書いていた。「あなた自身の足で、それぞれの土地を訪ねてみてはどうでしょう。データとして見るより、その土地の空気の中に、実際に身を置いてみる方が、きっと多くのことが分かるはずです。それに——正直に言うと、私一人では、もう手が回らなくなってきました」
出発の前夜、僕はゆかりに電話をかけた。彼女は今では、蔵の若手の中心的な存在になりつつあるという。
「行くんですね」ゆかりは言った。「うちの蔵の菌のことも、忘れないでくださいね。世界を回ったら、また戻ってきて、ここの新酒を飲んでください。きっと、その頃には、私ももう少し、いい具合に熟れていると思うので」
電話越しに、彼女の笑い声が聞こえた。まだ若く、まだ荒々しい、けれど確かな勢いのある声だった。
僕は鞄に、着替えと、ノートと、栗田から預かった資料の束を詰めた。乾いていたはずの自分の内側に、今、初めて何かが動き始めている気配があった。恐れがないと言えば、嘘になる。だが、それ以上に、逃げずにこの流れの中に身を置いてみたいという気持ちの方が、強かった。
翌朝、僕は成田行きの電車に乗った。
(第一部・了)
第二部 世界を巡る旅
十六 ソーテルヌへ
パリから南へ、列車を乗り継いで数時間。ボルドーの田舎町に降り立った僕を迎えてくれたのは、栗田の古い知人だという、フランス人の女性研究者だった。名を、クレールといった。長年、地元の小さなシャトーの土壌菌を調べているのだという。
「ムッシュー・クリタから聞いています。あなたも、時雨屋の蔵で、何かを持ち帰ってきたのでしょう」
彼女の言葉には、驚きも懐疑もなかった。まるで、そういう人間が世界のあちこちにいることを、当然のように知っているかのような、落ち着いた口調だった。
車中、クレールは自分自身のことも少し話してくれた。もともとは製薬系の研究室にいたが、ある年、指導教官がこの土地の菌を「有用資源」として特許化しようとする計画に加わったことに嫌気が差し、大学を辞めて、この田舎に移り住んだのだという。
「数値化できるものと、数値化してはいけないものが、世の中にはあるんです」クレールはハンドルを握りながら言った。「この土地の菌がもたらすものは、たぶん後者です。誰かがそれを『資源』と呼んだ瞬間に、何か大事なものが、静かに損なわれる気がして」
僕は、東京で会った、あの慇懃なスーツの男のことを思い出さずにはいられなかった。
案内されたシャトーは、時雨屋よりもずっと小さく、観光客向けの華やかさは何もなかった。葡萄畑の一角には、朝靄の中で、確かに灰色がかった綿毛のようなものが、房の表面を覆っている一角があった。
「あれが、ボトリティス・シネレアです」クレールが指さした。「貴腐菌。見た目は、正直、かなり醜いでしょう」
確かに、それは決して美しいものには見えなかった。萎びて、皮膚がただれたようになった葡萄の房。だが、クレールはその房の一粒を摘み、僕に手渡した。恐る恐る口に含むと、驚くほど濃密な甘さと、それに負けない酸味、そして、蜂蜜と乾いた花のような、複雑な香りが広がった。
「醜さの中にしか、この甘さは生まれないんです」クレールは言った。「これは、腐敗と洗練が同じ現象の裏表だという、一番分かりやすい証拠だと、私は思っています」
十七 老いた醸造家
シャトーの主は、九十四歳になるという老人で、名をアンリといった。手はひどく節くれ立ち、目はほとんど白く濁っていたが、僕らが挨拶をすると、まるで姿が見えているかのように、正確にこちらへ顔を向けた。
「日本から来た若者か」アンリの声は、乾いた木の板がこすれるような、しわがれた声だった。「クリタの友人だな。あの男は、二十年前にもここに来た。あの頃はまだ、髪が黒かった」
僕はみねのことを話した。蔵の奥で甕の世話をする老女のこと。その声の重み、その静けさのこと。アンリは、黙って最後まで聞いていた。
「わしも、若い頃はひどいものだった」アンリはやがて、ぽつりと言った。「戦争で兄弟を二人失い、最初の妻には出て行かれた。この土地を継いだときは、ただの怒りしかなかった。土に当たり、葡萄に当たり、酒に当たった」
「それが、変わったのは」
「変わろうとして変わったわけじゃない」アンリは首を振った。「ただ、逃げるところがなかった。この土地から離れられなかった。だから、怒りごと、ここに居座り続けるしかなかったんだ。何年も、何十年も。気づいたら、怒りの角が、少しずつ丸くなっていた。まるで、この葡萄と同じようにな」
彼は、見えない目を、僕の方へ向けたまま、静かに笑った。
「坊主、貴腐というのは、幸福な話じゃないぞ。誰も、好んで腐りたい者などいない。ただ、腐らずに済むほど、人生は甘くない。せめて、腐るなら、良い腐り方をしたい——それだけのことだ」
僕らは、しばらく黙って、テーブルの上のワインを見つめていた。琥珀色の液体は、窓から差し込む夕方の光を受けて、蜂蜜のように濃く輝いていた。
「わしのこの目もな」アンリは、自分の白く濁った目を指さした。「腐ったんだ、ある意味では。もう何も見えん。だが、その代わり、鼻と舌だけは、若い頃よりもずっと鋭くなった。何かを失うということは、いつも、何かが埋め合わされるということでもあるらしい」
「クレールさんは、あなたのことを、この土地の生き字引だと言っていました」
「生き字引、か」アンリは笑った。「そう呼ばれるのは悪くない。だが、坊主、忘れるな。字引というのは、それだけでは何の役にも立たん。読む人間がいて、初めて意味を持つ。わしの話も、お前がそれをどう使うか次第で、ただの老人の繰り言にも、何かの助けにもなる」
十八 追跡者
シャトーを辞し、次の目的地であるコーカサスへ向かう前日、僕はボルドー市内の安宿で、奇妙な訪問を受けた。
ドアをノックしたのは、仕立ての良いスーツを着た、日本人の男だった。名刺には、聞いたこともない財団法人の名前と、その下に小さく、時雨屋にも接触したという製薬会社の関連組織の名が記されていた。
「速水さんですね。少しだけ、お時間をいただけますか」
男は慇懃な態度を崩さなかった。彼らが提示してきたのは、単純な取引だった。栗田の研究データへのアクセス、時雨屋の協力、そして——できれば、僕自身の検体の提供。相応の謝礼と、これから訪れる各地への「研究支援」という名目の資金援助と引き換えに。
「私たちは、この現象を否定しているわけではありません」男は言った。「むしろ、高く評価しています。だからこそ、これを一部の年老いた人々だけのものにしておくのは、もったいないと思うんです。もっと多くの人が、穏やかな老いを迎えられる可能性がある。それを、なぜ、拒む必要があるんでしょうか」
理屈としては、分からなくもなかった。だが、彼の言葉の温度は、アンリの、あるいはみねの言葉の温度とは、決定的に違っていた。急かすような、値踏みするような、乾いた響きがあった。
「アンリさんは、こう言っていました」僕は答えた。「腐るというのは、幸福な話じゃない。誰も好んで腐りたい者はいない、と。それを、外側から急がせることは、たぶん、できないんだと思います」
男は、少し眉を上げた。それまでの慇懃さの下に、初めて、微かな苛立ちのようなものが見えた気がした。
「速水さん。あなたは、感傷的になりすぎている。私たちがやろうとしているのは、この現象を独占することではありません。むしろ逆です。今、世界には、乾いたまま、腐ることすらできずに、ただ摩耗していく人間が溢れている。もし、この現象の仕組みを解明できれば、そういう人たちを、一人でも多く救えるかもしれない。それを、一部の年老いた人々の『味わい』のために、閉ざしておくことが、本当に正しいことでしょうか」
その言葉には、確かに、無視できない重みがあった。僕は、すぐには答えられなかった。乾いたまま老いていく人間を、一人でも減らせるのなら——その理屈自体は、決して間違ってはいない気がした。
だが、しばらくして、僕はようやく、自分の中にある違和感の正体に気づいた。
「たぶん」僕は言った。「あなたがたは、急かすことと、寄り添うことの違いを、分けて考えていないんだと思います。みねさんも、アンリさんも、コーカサスの人たちも、誰かに急かされて熟したわけじゃない。逃げなかった、それだけです。もし本当に人を救いたいなら、その『逃げない時間』に、どう寄り添うかを考えるべきで、菌そのものを取り出して増やすこととは、たぶん、根本的に別の話なんじゃないでしょうか」
男は微笑んだまま、名刺だけを置いて去っていった。僕はその夜、ひどく落ち着かない気分で、栗田に長い国際電話をかけた。
十九 山あいの発酵茶
コーカサスの山あいの村に着いたのは、それから五日後のことだった。舗装されていない道を、古いジープで何時間も揺られ続けた先に、その村はあった。
村では、何世代にもわたって、特殊な壺の中で茶葉を発酵させる技術が受け継がれていた。壺は地面に半分埋められ、村の広場の隅に、まるで小さな墓標のように並んでいた。
案内してくれたのは、村の長老の孫だという青年で、片言の英語を話した。彼の祖母が、この村で最も長くその壺の世話をしてきた人物だという。
祖母は、言葉をほとんど話さなかった。だが、僕らが訪ねると、深い皺の中の小さな目で、じっとこちらを見つめ、それから、壺の中の発酵茶を、無言で椀に注いでくれた。渋みの奥に、みねの蔵で飲んだ酒とも、アンリのワインとも違う、しかしどこか共通する、複雑な奥行きのある味がした。
村の広場には、他にも何十という壺が埋められていて、それぞれの世話をする人間が、朝夕、決まった時間に様子を見にくるのだという。青年が言うには、壺には一つひとつ、世話をしてきた人間の名が、口伝えで受け継がれているそうだ。ある壺は、彼の祖母の、そのまた祖母の代から続いている。
「この壺は、人よりも長生きするんです」青年は言った。「僕の家族の誰かが死んでも、壺は残る。次の誰かが、その世話を引き継ぐ。だから村の人たちは、自分一人の命の長さで、物事を考えていないところがあります」
孫が、祖母の言葉を通訳してくれた。
「彼女は、こう言っています。——若い頃、この村は飢饉と戦争で、何度も人が死んだ。彼女も、夫と、子供を二人、亡くした。それでも、この壺の世話だけは、誰にも譲らずに続けてきた。悲しみを、外に出す代わりに、この壺の中に、少しずつ、時間をかけて溶かし込んできたのだと」
祖母は最後に、孫を通して、こう付け加えた。
「悲しみは、消えるものじゃない。ただ、長い時間をかけて、味に変わることがある。それを待てる場所を、一つだけ持っていることが、大事なんだ」
二十 栗田からの知らせ
コーカサスから次の目的地である九州の離島へ向かう途中、乗り継ぎ空港で、僕は栗田からの緊急の連絡を受け取った。
「みねさんが、体調を崩されました」
心臓に持病があったことは、僕も聞いていた。だが、幸い、命に別状はないという。ただ、栗田の声には、それとは別の緊張があった。
「例の会社が、動きを速めています。みねさんが入院している隙に、蔵の関係者に、かなり強引な接触を図っているようです。宗一さんが、一人で対応にあたっていますが……正直、限界に近いと思います」
僕は、離島行きの計画を、一度保留にすることも考えた。だが、栗田は、電話越しに、静かにこう言った。
「気持ちは分かります。ですが、今すぐそちらへ行っても、あなたにできることは、あまり多くない。むしろ、離島での取材を終えてから、しっかりとした材料を持って帰ってきてほしい。あの会社の理屈に対抗できるのは、感情論ではなく、この現象が、いかに『急かせないものか』を、きちんと言葉にした記録だと思うんです」
僕は、揺れる気持ちのまま、九州行きの便に乗った。窓の外に広がる雲を眺めながら、みねの、あの静かな声を思い出していた。
——大事なのは、変わろうとしていることじゃなくて、逃げずに、そこにい続けていることだから。
今の自分にできることは、目の前から逃げ出さずに、この旅を最後まで、きちんと歩き通すことだけなのかもしれない、と思った。だが同時に、みねの入院という知らせは、これまでどこか遠い、興味深い研究対象のように感じていたこの現象を、初めて、切実な、個人的な問題として僕に突きつけていた。
もし、みねが目を覚まさなかったら。もし、あの静けさを湛えた声を、二度と聞けなくなったら。そう考えると、胸の奥に、乾いていたはずの場所から、初めて鈍い痛みが広がるのを感じた。それは、恐れという言葉だけでは片づけられない、もっと複雑な感情だった。誰かを失うかもしれないという痛みを、僕は久しく、こんなにまっすぐに感じたことがなかった。
二十一 離島にて
離島には、くさや液を代々受け継いできた、小さな加工場があった。案内してくれたのは、加工場を営む一家の三代目、七十代の女性だった。名を、トキといった。
「くさやの匂いは、みんな嫌がるけどね」トキは笑いながら言った。「この匂いの中に、何百年分の、いろんな人間の苦労が溶け込んでるんだよ」
トキの母、つまり先代は、百二歳まで生きたのだという。晩年まで、驚くほど穏やかで、明晰だったと、トキは語った。
「おっかさんはね、戦争中、この島で、ひどい飢えを経験してるんだよ。それでもこの加工場だけは、絶対に手放さなかった。空襲の合間を縫って、液の面倒を見に来てたっていうんだから、正気の沙汰じゃない」
「なぜ、そこまでして」
「さあねえ」トキは首をかしげた。「ただ、おっかさんは、よくこう言ってたよ。この液は、うちの家族よりも長生きしてる。何十年も、何百年も、絶やさずに継ぎ足され続けてきた液なんだ。自分一人の悲しみなんて、この液の年月に比べたら、ちっぽけなもんだって、そう思うと、少しは楽になれたんだって」
トキは、加工場の壁に貼られた、古い白黒写真を指さした。痩せた女性が、樽の前に立っている写真だった。
「これが、若い頃のおっかさんだよ。この写真の三日後に、旦那——あたしのおとっつぁんが、船で沖に出たまま、帰ってこなかった。それでも、おっかさんは、樽の前に立ち続けた。泣きながら、液をかき混ぜてたって、近所のばあさんたちが言ってたよ」
「それで、百二歳まで」
「ああ。最期まで、頭ははっきりしてたし、味の違いにも、誰よりも敏感だった。あたしが少しでも配合を変えると、味見もせずに、匂いだけで気づくんだよ。恐ろしい人だったし、同時に、ものすごく、優しい人でもあった」
僕は、その液の入った古い樽を、そっと覗き込んだ。黒く濁った液面に、自分の顔が、ぼんやりと映っていた。
「あんたも、何かを抱えて、ここまで来たんだろう」トキが、不意に言った。「そういう目をしてるよ」
僕は、否定できなかった。離婚のこと、乾いた部屋のこと、栗田の電話のこと。トキは、それ以上は何も聞かず、ただ、樽の液を、静かにかき混ぜ続けていた。
二十二 帰路
離島を発つ日、トキは僕に、小さな瓶に詰めたくさや液を土産に持たせてくれた。
「腐ってるように見えて、腐ってないんだよ、これは」トキは言った。「あんたも、東京に戻ったら、たまには、この匂いを嗅いでみるといい。今のあんたに何が足りないのか、案外、鼻の方が先に教えてくれるかもしれないから」
飛行機の中で、僕は栗田に、これまでの旅の記録をまとめたノートを読み返していた。アンリの言葉、コーカサスの祖母の言葉、トキの言葉。それぞれ、育った土地も、言語も、経験してきた苦しみの形も違う。だが、どの言葉の奥にも、同じ一つの姿勢があるように思えた。
逃げないこと。急がないこと。悲しみや怒りを、無理に消そうとせず、ただ、時間と共に、その場所に居続けること。
東京に近づくにつれて、窓の外の景色は、少しずつ、見慣れた灰色の街並みへと変わっていった。乾いた部屋、乾いた仕事、乾いた自分。だが、鞄の中には、旅の間に集めた、いくつもの湿った記憶が詰まっていた。
アンリの、腐るなら良い腐り方をしたいという言葉。コーカサスの祖母の、悲しみは味に変わることがあるという言葉。トキの、鼻の方が先に教えてくれるという言葉。それぞれはばらばらの、遠く離れた土地の記憶だったが、東京の乾いた空気の中に戻ってくると、不思議と、一つの束になって、僕の中に沈み始めているのが分かった。
栗田から、最後にもう一つ、短いメッセージが届いていた。
「時雨屋で、話し合いの場を設けることになりました。あの会社の代表も来ます。みねさんも、退院して、その場に立ち会うそうです。あなたにも、ぜひ、同席してほしい」
僕は、機内の窓に映る自分の顔を見つめた。旅立つ前の、あの乾いた無表情はもうそこになかった。まだ何も、決定的には変わっていないかもしれない。だが、少なくとも、逃げ出さずに、この先へ進もうとしている自分がいた。
(第二部・了)
第三部 結実
二十三 帰還
半年ぶりに見る時雨屋の蔵は、記憶の中のものより、少しだけ小さく見えた。だが、木の柱の黒々とした艶も、蔵の奥から漂ってくる、あの湿った麹の匂いも、何一つ変わっていなかった。
宗一が、駅まで迎えに来てくれていた。心なしか、以前より頬がこけたように見えたが、目の輝きは変わらなかった。
「無事に戻ってきたか」宗一は、僕の荷物を見て笑った。「ずいぶん、いろんな匂いを連れて帰ってきたようだな」
ゆかりは、蔵の入り口で、大きく手を振って迎えてくれた。半年前よりも、明らかに所作に迷いがなくなっていた。重い米俵を、危なげなく肩に担ぐ姿は、もう見習いのそれではなかった。
「お帰りなさい」ゆかりは言った。「新酒、まだ残してありますよ。今年のは、去年よりずっと、丸くなったと思います」
蔵の奥、いつもの場所に、みねはいた。退院したばかりだというのに、その姿には、思っていたよりずっと生気があった。僕の顔を見ると、みねは、いつもと変わらない、静かな笑みを浮かべた。
「また来たのかい」
「はい」僕は言った。「今度は、少し長く、お邪魔することになりそうです」
「それは、いいことだね」みねは言った。「腐るのには、時間がかかるものだから」
二十四 みねの半生
その晩、囲炉裏を囲んで、みねは初めて、自分の若い頃のことを、まとまった形で語ってくれた。
みねが生まれたのは、この町からさらに山奥に入った、貧しい農村だった。十六の歳に、縁あって、当時、時雨屋で働いていた蔵人の一人に嫁いだ。戦争が始まったのは、その三年後のことだった。
「夫は、戦地に取られてね」みねは言った。「帰ってきたときには、もう、別人のようになっていた。誰にも心を開かなくなって、酒ばかり飲むようになって。荒れて、荒れて、手も上げられたよ」
「それでも、一緒にいたんですか」
「他に、行くところがなかったからね」みねは、乾いた声で笑った。「でも、それだけじゃない。あの人も、逃げ場がなかったんだと、今なら分かる。戦地で見たものを、誰にも話せないまま、抱え込んでいた。あの人にとって、わたしを傷つけることだけが、唯一、その重さを外に出す方法だったんだと思う」
みねは、当時、幼い息子を一人育てていた。だが、その息子は、十二の歳、蔵の裏の川で溺れて死んだ。
「あの日のことは、今でも、はっきり覚えている」みねの声は、少しも震えていなかった。だが、その静けさの奥に、僕は、途方もなく深い場所を見た気がした。「わたしは、しばらく、何も感じなくなった。夫が荒れても、蔵の仕事がきつくても、何も感じない。ただ、生きているだけの、抜け殻のようだった」
「そこから、どうやって」
「蔵の仕事だけは、続けていたんだよ。他に、することがなかったから」みねは言った。「甕の世話をして、麹の様子を見て、それだけを、毎日、毎日、繰り返していた。そのうち、少しずつ、匂いの違いが分かるようになった。今日の醪は、昨日より、少し元気がある。今日のは、少し疲れている。そんなことが、分かるようになっていった」
「それが、悲しみと、どう関係していたんですか」
「分からない」みねは、正直にそう言った。「ただ、蔵の中の菌たちは、わたしが何を抱えていようと、急かさずに、自分たちの時間で、発酵を続けていた。誰も、わたしに、早く元気になれとは言わなかった。ただ、そこにいて、待っていてくれた。気がついたら、わたし自身も、その待つという時間に、少しずつ、馴染んでいったんだと思う」
夫は、それから十年ほどして、静かに病で亡くなった。みねはそれ以来、蔵に住み込み、誰よりも長く、甕の世話を続けてきたのだという。
「痛みは、消えなかったよ」みねは言った。「今でも、あの子の顔を、忘れた日は一日もない。でも、痛みのまま、七十年近く、この蔵で過ごしてきた。いつのまにか、痛みと、わたし自身の境目が、分からなくなっていた。それが、貴腐と呼ばれているものの、正体なんじゃないかと、わたしは思っている」
二十五 対決の前夜
話し合いの前日、栗田が、久しぶりに蔵を訪れた。以前会ったときよりも、白髪が増えたように見えた。
「向こうは、かなりの人数で来るそうです」栗田は言った。「顧問弁護士まで連れてくるとか。正直、こちらに、対抗できるだけの法的な材料は、あまりありません」
「勝ち目は、あるんですか」
「分かりません」栗田は、正直にそう答えた。「ただ、少なくとも、みねさんの意思を、はっきりと示すことはできます。彼女の身体は、彼女のものです。どれだけ立派な肩書きの人間が来ようと、その一点だけは、揺るがせにできない」
宗一が、静かに口を開いた。
「僕は、こう思うんです」宗一は言った。「向こうの理屈も、分からなくはない。多くの人を救いたいという気持ちも、たぶん、嘘ではないんでしょう。ただ、彼らは、一つ、大事なことを忘れている。この蔵の酒も、みねさんの穏やかさも、誰かが急いで作り出したものじゃない。二百三十年という時間と、みねさんが生きてきた九十数年という時間、そのものが、答えなんです。時間を飛ばして、結果だけを取り出そうとする限り、彼らは、本当に欲しいものには、絶対に辿り着けない」
その夜、僕は一人、仕込みの蔵に入った。桶の中では、相変わらず、醪が静かに動いていた。ぷつ、ぷつ、という音。誰にも急かされず、誰の指示も受けずに、ただそこにあるものたちが、変化を続けている。
僕は、自分の腕を見つめた。栗田の検査で、僕の中にも、微量の菌が見つかったという。それが、これから先、僕の中で、どうなっていくのか。まだ、誰にも分からない。だが、少なくとも、それを急いで確かめようとは、もう思わなかった。
二十六 話し合いの場
翌日、時雨屋の広間には、蔵側の人間——宗一、栗田、ゆかり、そして僕と、対する製薬会社側の五人が向き合って座った。あの、ボルドーで会った慇懃な男の姿も、その中にあった。
会社側の代表は、丁重な言葉で、これまでの経緯と、今後の「共同研究」の提案を、改めて説明した。時雨屋の蔵付き菌、そしてみねをはじめとする、この現象を持つ人々の身体データを、正式な形で研究対象として提供してほしい、という内容だった。
「わたしたちは、決して、悪意でこの提案をしているわけではありません」代表は言った。「むしろ、この貴重な現象を、正しい形で、後世に、そして世界中の人々に役立てたいと考えています」
一同がしばらく沈黙した後、口を開いたのは、みねだった。
「あんたたちの言うことは、分かるよ」みねは、静かな声で言った。「でもね、わたしの身体は、わたしのものだ。この菌がわたしの中で何をしているのか、わたし自身にも、正直、よく分かっていない。分からないものを、分かった顔をして、他人に渡すことはできない」
「しかし、みねさん」代表が、なおも食い下がろうとした。
「それに」みねは、代表の言葉を遮った。「あんたたちは、この現象を、急いで取り出そうとしている。だが、これは、急いで取り出した瞬間に、たぶん、もう別のものになってしまうんだよ。花を摘んで、瓶に生けても、それはもう、土に根を張っていたときの花とは、違うものだろう。あんたたちが欲しいのは、たぶん、その根っこの部分なんだと思うけど、根っこだけを引っこ抜いたら、花はもう、咲かない」
広間には、しばらく、重い沈黙が流れた。
代表は、何かを言いかけて、やめた。そして、静かに頭を下げた。
「……分かりました。今日のところは、これで、失礼します」
彼らが去ったあと、栗田が、大きく息を吐いた。
「終わった、わけでは、ないでしょうね」栗田は言った。「ただ、少なくとも、今日は、時間を稼げた」
宗一が、少し笑いながら言った。
「十分ですよ。この蔵の菌みたいに、僕らも、急がずに、しぶとく、やっていけばいい」
二十七 新酒の夜
その晩、蔵では、ささやかな祝いの席が設けられた。派手なものではなく、いつもの一升瓶が、いつもの顔ぶれの前に並べられただけの、静かな席だった。
ゆかりが、僕の杯に酒を注ぎながら、笑って言った。
「言ったでしょう。私も、少しは、いい具合に熟れてきたって」
「本当だ」僕は答えた。「一年前より、ずっと、落ち着いて見える」
「まだまだですよ」ゆかりは笑った。「でも、この蔵にいると、焦らなくていいんだと、少しずつ分かってきました」
みねは、いつもの縁側で、杯を傾けていた。僕はその隣に、断りを入れて腰を下ろした。
「今日のことを、ありがとうございました」
「礼を言われることじゃないよ」みねは言った。「わたしはただ、自分の身体のことを、自分で決めただけだから」
「これから、また、来ますか、あの人たち」
「来るだろうね」みねは、あっさりと言った。「ああいう手合いは、簡単には諦めない。でも、それでいいんだよ。来るたびに、同じことを、同じだけ、言い続ければいい。急かない、諦めない。それだけのことさ」
僕は、杯の中の酒を見つめた。今年の新酒は、去年のものより、確かに少し、丸みを帯びた味がした。まだ荒く、まだ角があったが、その角の立ち方が、以前より、幾分か穏やかだった。
二十八 一年後
それから一年が経った。僕は、東京の編集部に復帰し、以前とは少し違う部署で、地方の一次産業や伝統技術を取材する仕事を続けていた。かつての妻とは、時折、事務的な連絡を取り合う程度の関係が続いていたが、それはそれで、悪くない距離だと思えるようになっていた。
栗田のもとには、あれから何度か、製薬会社側からの接触があったという。だが、みねをはじめとする蔵の人々の意思は変わらず、また、栗田自身が、学会や国際的な研究倫理の場で、この現象の性質について、粘り強く発言を続けたことで、少なくとも、強引な形での「資源化」は、今のところ、押しとどめられているということだった。
「これで終わった、とは、まだ言えません」栗田は、電話越しに言った。「ただ、少なくとも、この現象を、正しい速さで扱おうとする人間が、あなたも含めて、少しずつ増えている。それだけで、十分な前進だと、私は思っています」
僕は、自分の身体について、栗田に、簡単な検査を受け続けていた。菌の量は、あの晩からわずかに増えているという。だが、それが、今後、どうなっていくのか、栗田にもまだ、確かなことは分からないという。
「焦らないことです」栗田は、電話の最後に、そう付け加えた。「もし、あなたの中で、何かが起こるとしても、それは、たぶん、ゆっくりとしか起こらない。わたしたちにできるのは、ただ、その速度を尊重することだけです」
二十九 終章
その年の酒祭りの晩、僕は再び、あの町を訪れた。境内には提灯が並び、太鼓の音が響き、湯気の立つ煮物の匂いが漂っていた。
宗一は、相変わらず忙しく法被の袖をまくり、ゆかりは、若い蔵人たちに、堂々と指示を出していた。そして、みねは、いつもの縁側に座り、通りかかる人々の話に、急かすことなく、耳を傾けていた。
僕は、紙コップに注がれた新酒を受け取り、みねの隣に腰を下ろした。
「また来たのかい」
「はい」僕は言った。「たぶん、これからも、何度も」
「それは、いいことだね」みねは笑った。
僕らはしばらく、黙って、境内の賑わいを眺めていた。ソムリエたちが語るような、薔薇の香りだとか、孔雀の羽根のような複雑さだとか、そういう洗練された言葉は、ここにはやはり、どこにもなかった。あったのは、湯気の立つ煮物と、安い紙コップに注がれた新酒と、笑い合う人々の顔だけだった。
「みねさん」僕は言った。「僕は、貴腐になれるでしょうか」
みねは、僕の顔を、しばらく見つめていた。それから、静かに笑った。
「なれるかどうかは、わたしにも分からないよ」みねは言った。「でも、それを気にしている間は、たぶん、まだなれない。ただ、逃げずに、ここにい続けること。それだけを、続けていけばいい。答えは、急がなくていいんだ」
僕は頷き、杯を傾けた。まだ若く、まだ荒さの残る、けれど確かに、以前より丸みを帯びた酒の味がした。
腐るということ。それは終わりではなく、まだ動いているということ。
そしていつか——高貴で、味わい深く、気品漂うような人間に、僕もなれるのだろうか。
答えは、まだ、僕の中で、そして、この町全体の中で、静かに、気長に、発酵を続けていた。
(了)
あとがき
この物語に出てくる時雨屋という蔵は、特定のモデルがあるわけではありません。取材で訪ねた幾つかの蔵の、柱の色や、湯気の跡や、縁側の光を、記憶の中で混ぜ合わせて作りました。
書き終えて気づいたのは、自分が発酵という言葉に甘えていたことです。美しい比喩にすれば、痛みが少しだけ飼いならせる気がしたのです。けれど、みねやアンリやトキの言葉を書き写すうちに、比喩では済まない手触りが、少しずつ戻ってきました。腐るということは、実際に痛むということです。待つということは、実際に何もできない時間を生きるということです。
もしこの本が、誰かの乾いた時間に、わずかな湿り気を与えることができたなら、それは私の手柄ではなく、この本を読んでくださったあなたが、逃げずにそこにいてくれたからだと思います。
最後に、蔵の暗闇で、ぷつ、という泡の音を聞かせてくれた、すべての名もなき働き手たちに、感謝を。
二〇二六年七月

