刻堕とし 肆 〜偽りの十枚目〜
継ぎ目守異聞
古典落語「お菊の皿」より
まえがき
落語には、人間の業や弱さを笑い飛ばす大らかさがある。恐ろしい怪談として知られる番町皿屋敷を、江戸の人々はあろうことか幽霊のアイドル化という凄まじいパロディ精神で「お菊の皿」という爆笑落語に仕立て直してしまった。
では、もしその興行が過熱しすぎ、しかもそこに悪意ある何者かが紛れ込んでいたとしたら。文句を言えない幽霊を利用する者と、その利用者すら利用する、もう一枚裏の顔を持つ者。そんな二重の歪みに、異界の調停者である継ぎ目守の圭馬が挑む。
単なる勧善懲悪では割り切れない、現代の表現者が抱える切実な承認欲求と、それを利用する構造の危うさ、そしてその隙間に忍び込む本物の悪意を、江戸の粋な空気の中にそっと滑り込ませてみた。少し不思議で、少しほろ苦く、少しだけ怖い、九枚目のあとの物語である。
一 井戸から着信
鏡面が揺れ、水滴のような澄んだ音を立てた。
継ぎ目守圭馬へ。番町皿屋敷由来の演目、お菊の皿において興行の異常過熱を確認。加えて、見物客に原因不明の昏倒が相次いでいる模様。至急現地調査されたし。
「井戸から着信とは、洒落てるね」
圭馬が薄く息を漏らして身を起こすと、軒先にはすでに相棒の弥七が懐手をして立っていた。いつもよりその顔つきが硬い。
「旦那、今度はちょいと剣呑な噺でさ。皿屋敷のお菊さん、ご存じで? ……ただ今度のは、幽霊が悪さをしてるって話じゃねえ。見物に来た客が、バタバタ倒れてるってんです」
「幽霊が人を呪い殺してる、ってことかい」
「さあ、それが。倒れた客に聞いても、皿を九枚数える前に気を失っちまって、何も覚えちゃいねえと言うんでさ」
二 番町皿屋敷
継ぎ目を抜けると、そこは薄暗く古びた屋敷跡だった。夏草が生い茂る隅に、涸れかけた古井戸がひとつ、ぽつりと口を開けている。井戸端には、筵を敷いて横たわる町人の姿が二つ、三つ。介抱する女房たちの顔は青ざめていた。
「元はといやあ、大事な皿を一枚割った咎で手打ちにされた腰元の恨みっつう幽霊噺でさ。もっとも、こっちのお菊の皿は、それを落語にしちまった洒落たパロディで」
弥七の解説によれば、お菊の幽霊が評判になりすぎたせいで、近所の野次馬が毎晩のように見物に押しかけ、いつしか立派な興行のようになってしまったのがこの噺の眼目だという。
「それだけならまだ、これまでの噺と同じでさ。だが半月ほど前から、見物人が突然倒れる騒ぎが続いてる。医者に診せても、これといって病名がつかねえ。そのくせ、目を覚ました者は決まって同じことを言うんでさ」
「同じこと、とは」
「――九枚目より先が、恐ろしくて仕方がなかった、と」
三 木戸銭次郎という男
井戸の裏手に回り込むと、羽織姿の恰幅の良い男が、算盤を弾く手を止めもせず「へい毎度!」と愛想だけは一丁前に投げてきた。木戸銭次郎、お菊の幽霊見物を私腹を肥やす種にしていた興行師である。
「……旦那方、今日は勘弁してくださいよ。あっしだって客が倒れて嬉しかありませんや。木戸銭が減っちまう」
「あんた、客が倒れてることを知ってて、興行を続けてるのか」
「そりゃあ、続けなきゃ食っていけませんや。それに――」
次郎は声を落とし、あたりを窺うようにしてから続けた。
「実を言うと、あっしにも合点がいかねえことがあるんで。倒れる客がある一方で、近頃、夜中にこっそり井戸を覗きに来る妙な客がいましてね。木戸銭も払わず、案内も断って、勝手に忍び込んでくる」
「その客の顔は」
「そいつが、どうにも顔がよく見えねえ。編笠を目深に被って、まるで自分がお菊の一の贔屓だとでもいうような、粘っこい目つきだけが覚えてるんでさ」
四 九枚目の声
夜気が満ちると、井戸の縁から青白い影がゆらりと立ち上がった。お菊の幽霊である。
「一枚、二枚、三枚」
物悲しい声で皿を数え始める。声には、以前会った時よりも明らかな疲れがにじんでいた。
「六枚、七枚、八枚、九枚――」
そこで、お菊の影がびくりと震えた。声にならない呻きが漏れる。
「旦那、見てくだせえ。九枚目のあとが、様子がおかしい」
いつもならばそこで悲鳴を上げて消えるはずが、今夜のお菊は、まるで見えない何かに引きずられるように、体を大きく引き攣らせた。井戸端で見物していた客の一人が、白目を剥いてどうと倒れた。
五 声が枯れるまで
騒ぎが収まったあと、圭馬は井戸の傍らに膝をつき、疲れ果てた影にそっと語りかけた。
「お菊さん。何があった」
「圭馬様……。あたし、九枚目を数え終わると、決まって、誰かに首根っこを掴まれるような心地がするんです。『もっと泣け』じゃなく『もっと怖がらせろ』って、声の奥から誰かが糸を引いて、お客様の心の臓に直に爪を立てているような……そんな薄気味悪さだけが」
弥七が舌打ちをした。
「旦那、こいつぁ、次郎の強欲だけの話じゃねえ。お菊さんの声にただ乗りして、客を直に脅かしてやがる奴が、他にいるんだ」
六 編笠の男
翌晩、圭馬と弥七は井戸端の物陰に潜み、木戸が閉まったあとを見張った。
丑三つ時、案の定、編笠を目深に被った男がひとり、忍び込んできた。男は懐から小さな面――能面を崩したような、白く笑う女の面を取り出すと、それを己の顔に当て、井戸に向かって拝むように囁いた。
「もっと、もっと恐ろしゅう。もっと皆が震え上がるように」
その途端、井戸の底から、お菊のものではない、獣じみた唸り声のようなものが微かに応えた気がした。
「野郎、いつからそこにいやがった」
弥七が飛び出すと、男は慌てて身を翻し、闇の中へ逃げ込んだ。追いすがった圭馬の手に残ったのは、男が落としていった面――そして、その裏に貼られた一枚の紙片だった。
弥七が面を一瞥し、顔をしかめる。
「……旦那、あの面、見覚えがありやす。ろくなもんじゃねえ」
七 貼り紙の正体
紙片には、達筆でこう記されていた。
「恐怖に人は銭を払う。悲しみより恐怖の方が、よほど高く売れる」
「こいつは……」
弥七が唸る。
「旦那、こりゃあ次郎の仕業じゃねえ。次郎は欲深えが、根っから客を殺す気はねえ男だ。こいつは、もっと質の悪い……お菊さんの悲しみを、恐怖に作り替えて、それを金に換えようとしてる奴の仕業だ」
「次郎の上前をはねようって寸法か」
「いや、それだけじゃねえ。あの面……あれは、たしか昔、見世物小屋を荒らして回った、皿嘗女郎の面だ。人の心の臓を弱らせて喰らう、はぐれ物の怪の面でさ。悲しみに寄り添う振りをして、悲しみをどんどん恐怖に育てちまう。奴にとっちゃ、お菊さんの本物の涙も、次郎の欲も、ぜんぶ都合のいい養分でしかねえ」
「つまり、次郎の強欲に取り入って、それをさらに乗っ取って、お菊さんそのものを喰い物にしようとしてるってわけか」
「そういうこって。旦那、こいつぁ、これまでの継ぎ目の歪みとは筋が違いやす。人の弱さに付け込む輩は今までも見てきたが、今度のは、その弱さすら喰らって太る奴だ」
圭馬は面を懐にしまい、井戸を見上げた。
「だったら、話は簡単だ。お菊さんの本物の涙と、次郎の偽物の欲を、はっきり分けてやりゃあいい」
八 次郎の告白
圭馬は面を手に、再び木戸銭次郎のもとへ向かった。
「あんた、この面に見覚えがあるだろう」
次郎の顔から、初めて商売人の余裕が消えた。
「……実あ、半月前、羽振りのいい旦那が現れましてね。お菊さんの興行をもっと派手にしねえかと持ちかけられたんでさ。悲鳴をもっと長く、もっと恐ろしくすりゃ、客はいくらでも銭を落とすと。あっしも、儲け話に目が眩んじまって、つい話に乗っちまった」
「それで、その旦那とやらが、お菊さんに何かしたのか」
「あっしも詳しくは知らねえ。ただ、その旦那が来てからというもの、客が倒れる騒ぎが増えたのは確かでさ。……それにな、旦那。倒れた客の中に、うちの娘がいたんでさ。あっしは強欲でも、人を殺す気はねえ。どうか、お菊さんを助けてやってくだせえ」
初めて、次郎の声に本物の狼狽と、父親の顔が滲んでいた。
九 皿嘗女郎
「皿嘗女郎ってのは何だい」
「悲しみに寄り添う振りをして、悲しみをどんどん恐怖に育てちまう、はぐれ物の怪でさ。恨みや悲しみの噺には、必ず湧いて出る。奴にとっちゃ、お菊さんの本物の涙も、次郎の欲も、ぜんぶ都合のいい養分でしかねえ」
「つまり、次郎の強欲に取り入って、それをさらに乗っ取って、お菊さんそのものを喰い物にしようとしてるってわけか」
「そういうこって。旦那、こいつぁ、これまでの継ぎ目の歪みとは筋が違いやす。人の弱さに付け込む輩は今までも見てきたが、今度のは、その弱さすら喰らって太る奴だ」
圭馬は面を懐にしまい、井戸を見上げた。
「だったら、話は簡単だ。お菊さんの本物の涙と、次郎の偽物の欲を、はっきり分けてやりゃあいい」
十 十枚目の対決
その夜、圭馬は井戸端に立ち、編笠の男――否、皿嘗女郎が現れるのを待った。
「一枚、二枚……」
お菊の声が響く中、井戸の底から、あの粘っこい気配がゆらりと立ち上る。
「よう、皿嘗の。ずいぶんとお菊さんの声にただ乗りしてるそうじゃねえか」
「継ぎ目守風情が、何を偉そうに。悲しみも恐怖も、所詮は客が金を払うための飾りよ。誰が数えようと、皿は皿だ」
「その言い草が、お前の底の浅さだ。悲しみは銭になる。恐怖はもっと銭になる。だがな、皿嘗。てめえが売ってるのはお菊さんの涙じゃねえ。てめえが客の心臓に塗りつけた、てめえ自身の垢だ。お菊さんの涙は、飾りじゃねえ。あの人の、たった一つの、本物の声だ」
圭馬は懐から面を取り出し、地に叩きつけた。
「面を被って人の心の臓を弄ぶくれえしかできねえ奴が、本物の悲しみを語れると思うなよ」
十一 十枚目のあと
面が砕けると同時に、井戸の底から獣じみた悲鳴が上がり、粘つく影が霧のように薄れていった。
「一枚、二枚……九枚」
お菊の声が、久方ぶりに澄んだ響きを取り戻す。
「十枚目が、ない……」
いつもの嘆きのあと、お菊はふっと肩の力を抜いた。
「あら……。今夜は、なんだか、体が軽い。でも……もう一回、数えたいような気も、して」
弥七がほっと息をつく。
「旦那、片付いたようですぜ」
「いや、まだだ。次郎の性根を叩き直すのが残ってる」
十二 二の替わり、それから
圭馬は冷ややかな目で木戸銭次郎に条件を突きつけた。
「二回公演でも三回公演でも勝手にしろ。ただし、木戸銭の上がりの一部は必ずお菊さんのために使え。香華も供物も絶やすな。娘さんのためにも、だ。それと、二度と『もっと恐ろしく』なんて話に乗るんじゃねえ。次にお菊さんを喰い物にしようとする輩が現れたら、真っ先にあんたのところへ知らせが行くと思え」
「へ、へい……。肝に銘じておきやす」
「それと、お菊さんが望む分だけにしろ。恨みは恨みのまま、悲しみは悲しみのまま、それでいいんだ。無理に恐怖に育てる必要はねえ」
十三 九枚のち、十八枚
その夜、お菊はいつもより少しだけ伸びやかな声で数え始めた。
「一枚、二枚」
九枚まで数え、いつもの嘆きを見せる。そのあと、ふっと一息ついて、嬉しそうにまた数え始めた。
「一枚、二枚」
「あれ、また数えてるぞ」
井戸端の見物人がざわめく。
「いやあ皆様、今日は日曜でございますので、二回公演とさせていただいております」
木戸銭次郎が澄まし顔で言うと、客席からどっと笑いが起きた。もう誰も、倒れる者はいない。
その笑い声が、そのまま寄席の賑わいへと溶けていく。気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、お菊さんは九枚どころか十八枚まで数えるようになったとか。裏で悪さをしてた皿嘗の面も、ちゃあんと砕けてめでたしめでたし。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。
了
あとがき
刻堕としシリーズも四作目として、単なる興行の過熱だけでなく「悲しみを恐怖に育てて喰らう」という、もう一枚裏の悪意を事件として組み込んでみました。
木戸銭次郎という俗物的な強欲さと、皿嘗女郎という悪意ある搾取者を分けて描くことで、「弱さにつけこむ者」にも段階があるということ、そして見られたいというお菊自身の本音を守り抜くには、まず本物と偽物をきちんと見分けることが必要なのだという圭馬の視点を、より濃く出せたのではないかと思います。
怪談でありながら、どこか温かい寄席の余韻を感じていただければ、とても嬉しく思います。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。

