刻堕とし 弐
〜死神の蝋燭〜
【まえがき】
落語には、演じ手を失い、時代の波間に消えていった「埋もれた噺(はなし)」が無数に存在します。もしもその忘れ去られた登場人物たちに、私たちと同じような「生きたい」という意志があったなら――。
本作は、古典落語の名作『死神』をモチーフに、時空の歪みを修正する旅人「継ぎ目守(つぎめもり)」の活躍を描くSFファンタジーです。伝統芸能が持つ独自の生々しい身体感覚と、パラレルワールドを監視するSF的なガジェット感を融合させた、少し奇妙で、どこか温かい物語をお楽しみください。
継ぎ目守異聞
一 継ぎ目守、辞令
高座を降りた圭馬が楽屋の鏡を覗き込むと、案の定、奥の曇りが遅れて引いた。
いつもより焦点が合うのが零コンマ三秒遅い。前の演者の顔の残像が、自分の顔に重なってからすっと消える。バグの予兆だった。
やがて白い文字が滲む。
――継ぎ目守圭馬へ。次回任務を通達す。演目『死神』にて蝋燭の不整合を確認。至急、現地調査されたし。
「次回任務って、軽々しく言われても困るんだよな」
羽織を脱ぎながら呟いた途端、鏡の縁がちりと鳴った。備え付けの風車が、逆回転しながらころと転がり出る。お馴染みの合図だった。
「旦那、お呼びと聞いて」
鏡の内側から、弥七がひょいと顔だけ出す。
「鏡から出てくるのやめろっていつも言ってるだろ。幽霊みたいで客が逃げる」
二 蝋燭の間
継ぎ目を潜ると、肺の空気が入れ替わった。
ひやりとした洞窟だ。湿度は高いのに、空気は乾いている。音がない。あるのは、無数の芯が蝋を舐める、ちりちりという微かな音だけだった。
天井まで届く巨大な木棚が、整然と並んでいる。一本一本に蝋燭。長さも炎の揺れ方も違う。この世の誰か一人の残り時間そのものだという。
「ここが死神の噺の心臓部でさ。人間一人につき、一本」
弥七が小声で言う。声が蝋燭の熱に溶ける。
圭馬は息を呑んだ。数多の命の灯りが、暗闇に光の海を作っている。美しいのに、底冷えがする。
影から、帳面を抱えた男が出てきた。黒い羽織、げっそりと痩けた頬。目の下に隈。どう見ても過労の役人だった。
「お前たちが継ぎ目守か。ちょうどいい。人手が欲しかった」
紛れもない、死神だった。
三 死神、多忙につき
「帳面と蝋燭の数が合わねえんだ。多い日もあれば、極端に少ない日もある。おかげで毎晩残業だ」
死神は深い溜息と共に、掌の脂で黒光りした帳面を投げてよこした。
圭馬が受け止める。紙は湿気で波打ち、指先が少しベタつく。
「本来、寿命が尽きた者の蝋燭は、音もなく消える。ところが最近は違う。消えるはずのないやつが、ふっと消える。逆に、とっくに消えるはずのやつが、図太く残ってやがる」
圭馬は棚の並びを見渡して尋ねた。
「それって、この噺の主人公、徳兵衛の周辺ですか」
死神が忌々しげに眉を寄せる。
「よく知ってるな。まさにそいつだ。あいつの周りで、命の計算が完全に狂ってる」
四 消えぬはずの灯
案内されたのは、古い木札に徳兵衛とだけ書かれた棚だった。
本来なら今夜にも尽きるはずの蝋燭が一本、そこだけ異様だった。炎が太い。蝋は溶けず、むしろ上へ、上へと不自然に伸びている。芯も一本ではない。よく見ると二本がねじれ、互いを食い合うように燃えている。
「これは、誰かが強引に手を加えた炎だ」死神が唸る。
弥七がそっと鼻を近づけた。犬のようにひくつかせるのではない。空気を薄く吸い、舌の奥で味わうような嗅ぎ方だ。
「旦那、こいつは櫨の匂いじゃねえや」
弥浅が目を細める。
「鉄錆と、安い石鹸。それに、消毒用の石炭酸だ。どこかの病室の匂いだぜ。明治か大正の。よその噺の寿命の匂いだ。誰かが別の蝋燭から灯を掬って、こっそり継ぎ足してやがる」
匂いで時代が特定できる。継ぎ目を跨いだ証拠だった。
五 偽医者、徳兵衛
真相を確かめるため、二人は噺の中の現実へ降りた。
かつて首を括ろうとしたところを死神に拾われ、死神が病人の足元に座れば助かる、枕元に座れば助からないという秘術を教わり、藪医者から一転して名医と持て囃されるようになった男、徳兵衛。
上等の絹を着込み、顔つきまでふてぶてしくなった徳兵衛は、突然現れた圭馬たちを胡散臭そうに見た。
「見ねえ顔だね。何の用だい」
「あんたの寿命の蝋燭が、おかしなことになってる。よその命を継ぎ足されてる。心当たりはないか」
圭馬が真っ直ぐ見据えると、徳兵衛の視線が泳いだ。畳の目へ、障子の桟へ、自分の爪先へ。
六 呪文アジャラカモクレン
さらに問い詰めると、徳兵衛はついに声を震わせて白状した。
「いやね、大金に目が眩んでよ、死神様との約束を破って病人の布団をひっくり返しちまったんだ。そしたら俺の蝋燭が急に短くなっちまって。もう今にも消えそうでよ。途方に暮れてたら、夜中に裏口を叩く奴がいたんだ」
冷や汗を拭う手が止まらない。
「そいつが言うにはね、先生、あんたの蝋燭はもう長くはない。だが金さえ積めば、余所の寿命を融通してやれるって」
「その男、名は何と言った」
「た、確か、蝋九郎とか言ったよ」
七 闇の蝋燭商人
蝋九郎。
圭馬が脳裏で検索窓を叩く。継ぎ目守にだけ許された、記憶のキャッシュを漁る感覚。指先で弾くように思考を走らせる。
一瞬、欠けたログが弾けた。かつて別の古典で、灯を分け合う心優しい行商人という美談の脇役として生まれながら、噺そのものが上演されなくなり、演じ手を完全に失った存在。記録はそこで途切れている。削除ではなく、忘却による自然消滅。
「己の噺が消えちまった代わりに、他人の蝋燭を右から左へ動かして、自分の炎を保ってるってわけか」弥七が舌打ちする。
「生き残りたい動機はわかる。だが寿命の帳尻をいじれば、あちこちの噺の死に際が狂う。物語の世界が崩れるんだ」
八 灯を分ける者
蝋燭の間の最奥。棚の影になった薄暗い一角に、男は潜んでいた。売り物の蝋燭を胸いっぱいに抱え、寂しげな作り笑いを浮かべている。
「継ぎ目守さんかい。私は悪いようにはしてないよ。金のある奴から金を貰い、命の足りない奴へ寿命を分けてやってろだけさ。お互い得をしてる」
「それで帳尻が合わなくなって、死ぬはずのない人が死んで、死ぬべき人が生き延びてる。あんたの都合で、いくつもの伝統ある噺が壊れかけてるんだぞ」
圭馬の厳しい言葉に、蝋九郎は初めて張り付いた笑みを崩した。
「仕方ないだろう。俺の噺は、もう誰も語っちゃくれないんだ。このままじゃ消えるしかない。だったら、せめて誰かの役に立って、この炎を保つしかないじゃないか」
声は恨みではなかった。ただ、消えるのが怖いという、素朴な恐怖だった。
九 己の蝋燭
哀しい理屈だった。しかし見過ごせば、歴史のバグは広がる。
圭馬はふうと息を吐いた。
「蝋九郎さん、あんた自身の蝋燭はどれだい」
震える指が示したのは、最下段の隅。埃を被った親指ほどの一本は、今にも消えそうなほど、炎が米粒のように縮こまっていた。
「なら、あんたの噺、あっしがここで語り納めてやるよ」
「俺の噺なんぞ、もう覚えてる演者はいねえよ」
「覚えてなくたって構やしない。今からここで、あっしが新しく作ればいいんだ」
継ぎ目を守るとは、古い噺を守ることだけではないのだと、その時初めて腑に落ちた。誰にも語られず消えかけた噺を、この手で新しく始めることも、守ることなのだ。
十 消えて、また灯る
圭馬は暗闇の蝋燭の間で、一席ぶった。
目の前の蝋九郎自身をモデルに、灯を分け合う心優しい行商人の噺をその場で紡ぐ。声は洞窟の冷気に吸われず、蝋燭の炎を少しだけ揺らした。弥七が膝を叩いて合いの手を入れる。死神が腕を組み、帳面を閉じて聞いている。
オチはこうだった。
行商人が最後に自分のなけなしの蝋燭を、病の少女に分けてやる。自身の灯は消える。けれど、その優しさは町の噂として長く長く語り継がれましたとさ。ほろ苦く、温かい結びだった。
語り終えた瞬間、隅の小さな蝋燭が、ふわりと太陽のように明るく膨らんだ。洞窟全体が昼のように照らされるほどの光。そして満足げに、音もなく消えた。
蝋九郎の姿も、未練を残さぬ霧のように解けていく。最後に、ありがとうと口の形だけが残った。
死神が、ぱたんと帳面を閉じた。
「これでようやく残業とはおざばらか。お前ら、なかなか使える継ぎ目守だな」
徳兵衛の蝋燭も、混ざりものの生臭い灯が抜け、細く、けれど真っ直ぐな、本来の炎に戻っていた。溶けずに伸びていた蝋が、じわりと溶け始める。
空間が歪む。現実の噺へ引き戻される感覚。圭馬が念を押した。
「先生、これからは真面目に医者をやるんだぞ」
戻りかけた徳兵衛は、苦笑いした。
「へえ。もう危ねえ橋は渡らねえよ。……たぶんね」
その落語の登場人物らしい、とぼけたたぶんに、弥七がにやりと笑った。
「旦那、噺ってのは、こうしてちゃんと落ちがついても、また誰かが揺らすもんでさ。だからこそ、あっしらの仕事は無くならねえ」
ぱぱん、と乾いた音がした。自分の音だった。
気づけば、眩しい。膝の下に座布団の感触。背筋が伸びている。自分の扇子がやけに重く感じられる。肺の中の冷気が、寄席の温い埃っぽい空気と入れ替わっていく。汗が背中を一筋伝う。
目の前には、息を詰めてこちらを見つめる無数の顔があった。今まさに、自分が現実の高座で『死神』のクライマックスを演じている真っ最中だったのだ。
圭馬は、魂の底から絞り出すように言った。
「アジャラカモクレン、テケレッツのパー!」
一拍、客席が静まり返る。そこから遅れて、堰を切ったようにドッと沸いた。
(了)
【あとがき】
今回の第二話では、古典落語の定番『死神』を舞台に、「演じ手を失った噺の寿命」というテーマを描きました。落語の世界では、時代に合わなくなって消えていく演目がある一方で、現代の演者によって新しく蘇る演目もあります。作中の圭馬が語ったように、「新しく始めることも物語を守ること」という思いを込めて執筆いたしました。
今後も圭馬と弥七が様々な演目の「継ぎ目」を旅する、少し不思議な落語SFシリーズを紡いでいく予定です。また次の高座(お話)でお会いできることを楽しみに。

