刻堕とし (ときおとし)
〜お見立てのつづき〜
まえがき
落語には「間(ま)」というものがございます。
客席がしんと静まり返り、演者の次の一言を固唾を呑んで待つ、ほんの一拍の空白。
私たちが何気なく楽しんでいるあの静寂のなかに、もしも「隙間」が開いていたとしたら――。
何百年もの間、何千、何万という人々の口によって語り継がれ、磨かれてきた古典落語の世界。それはただの絵空事ではなく、人々の想像力という熱量によって、独自の時空を持って息づいているのかもしれません。あまりに深く語り込まれたその世界は、時に現実の天秤を狂わせ、語り手そのものを引きずり込んでしまう。
本作『刻堕とし』は、名作滑稽噺『お見立て』の舞台裏に潜む、そんな「芸の妖しさ」を描いた物語です。
どうぞ、寄席の客席に腰掛けたような心持ちで、幕が上がるのをお待ちください。ただし、耳をすますタイミングには、くれぐれもご注意を。
序 高座、開口一番
浅草演芸ホールは二階まで埋まっていた。高座を照らす照明、客の膝で光る演目表。それでも寄席の熱だけは昔のままだ。
圭馬は楽屋のテレビの話をマクラに振った。若い役者が捕物帖で風車を投げていたという、他愛ない話だ。
そこから今夜は廓噺、お見立てに入る。田舎から出てきた杢兵衛大尽が、馴染みの喜瀬川花魁に会いたいとごねる噺だ。何百回と演ってきたので口は勝手に動く。
「へい、旦那、こちらへどうぞ」
そう言った瞬間、舌の上で言葉が引っかかった。
一 言葉が扉になる
噺には間がある。客が固唾を呑む一拍。その一拍に、耳の奥が軋んだ。客席の景色が障子の桟のようにひび割れ、隙間から夜の冷気が吹き込んでくる。
まずい、と思ったときには遅かった。言葉そのものに足を取られるように、体が闇へ滑り落ちる。
気がつくと泥の匂いがした。木と油の匂い。着物の裾に本物の泥がつく、逃げ場のない吉原の夜だった。
二 墓を拵える
「喜助、聞いてるのかい」
艶のある声に振り向けば、煙管を手にした喜瀬川が立っていた。圭馬は自分が喜助になっていると悟る。外にいたはずが、内の役として扱われている。
「旦那に、あたしの墓でも見せて諦めさせておくれ」
言われるまま裏手の寺へ行く。適当な塚を選び、花を積み、線香を山ほど焚く。墓石の文字が隠れるほどに。
体は圭馬の意思より先に喜助として動く。台本という抗えない川に、ただ流される。
三 見抜かれる
「おい喜助、この墓、新しすぎやしねえか」
恰幅のいい男、杢兵衛が眉を寄せた。線香の煙を手で払い、石を覗き込む。
「よく見りゃ、嘘実一蓮妙法比丘尼と彫ってあるぞ。嘘をついてやがらねえか」
台本にはない詰問だった。背中に本物の汗が流れる。痛みも匂いも寒さも、すべて現実の手触りを持っていた。
これは芝居ではない、と悟る。
四 落ちない噺
本来ならここで落ちる。喜助が「よろしいのをお見立て下さい」と言えば笑いが起きて幕だ。
だが綻びを見抜いた大尽は得心しない。
「会わせろ。生きてる花魁に会うまで、俺は動かねえ」
現実は台本のように畳めない。そこへ若い衆が血相を変えて駆け込んでくる。
「大変だ。喜瀬川花魁が、客と揉めて刺された」
五 本当の死
駆けつけた座敷で、圭馬は花魁を見た。畳に広がる血の赤。冷えていく肌。取り返しのつかない死だった。
近くではまだ杢兵衛が会わせろと繰り返している。
どうする。サゲのない噺などあってたまるか。追い詰められた末に、圭馬はあり得ないことを思いつく。
自分が、花魁になればいい。
六 白塗りの覚悟
行灯の下で白粉を溶く。手が震える。重い打掛を借り、簪を挿す。鏡の中には女が立っていた。見覚えはあるが、自分の顔ではなかった。
「これなら」
呟いて大尽を探しに出ると、そこに大尽はいなかった。代わりに豪奢な身なりの男が一人、こちらを見ていた。供の数からして只者ではない。大名だ。目つきに粘りがある。
七 帯ほどきの大名
「その方が、噂の喜瀬川か」
大名がにじり寄り、帯に手をかける。扇で顔を隠し、声を作る。
「ああん、お戯れを」
大名は怪力で帯を引く。解ければ現れるのは、白粉だけの男の身体だ。
「騙したな」
興が覚めた大名の刀が、月明かりに光った。
八 風車の弥七、参上
刃が振り下ろされる。目を閉じる。硬い音が響く。
キン、と。
「旦那さん、ここはあっしに任せてもらおうじゃねえですか」
目を開けると、着流しに縞の合羽の男が、小さな道具で刀をいなしていた。手にあるのは赤と黄色の風車。回るたびに空気がわずかに巻き戻るような感覚がする。
「あんた、いったい」
「野暮なことは聞きっこなしだ。楽屋のテレビから、ちょいと出張ってきただけでさ」
九 刻の継ぎ目
弥七は夜の吉原に不釣り合いなほど朗らかに笑った。
「噺ってのはね、旦那。みんなどこかで繋がってるのさ。うんと語り込まれると、継ぎ目に隙間ができる。あっしみたいな虚構の住人が、たまに迷い込むのはそのせいでね」
風車がもう一度回る。大名も、遠くの杢兵衛の声も、糸が切れたように薄くなり消えた。
畳には喜瀬川の亡骸だけが、最初からそこに描かれていた絵のように残っていた。
「旦那も、そろそろ帰る頃合いだ。噺は、あんたが語り終えなきゃ、終わらねえもんでね」
十 目覚め、あるいは高座への帰還
気がつくと高座の上だった。白粉も打掛もない。いつもの着物で、扇子を膝に置いている。客席は満員のまま。出囃子の余韻がまだ残る。時計を見れば二十分しか経っていない。
乾いた喉から、言葉が勝手に出た。
「どうぞ、よろしいのを、お見立て下さい」
一拍置いて、万雷の拍手。深く頭を下げる。
袖口に目をやると、焦げた線香の匂いと、小さな灰の跡が一つだけ残っていた。その灰を指で払うと、耳の奥でテレビの砂嵐のような音が、ほんの一瞬だけ鳴った気がした。
その夜以来、圭馬は高座で間を取るたび、継ぎ目の向こうを恐れるようになった。次はどの噺の誰に重なってしまうのだろうか。
了
あとがき
今回の物語のモチーフとした『お見立て』は、本来は田舎の大尽をあの手この手で騙す、実にあっけらかんとした、笑える滑稽噺です。しかし、嘘を重ねて「偽の墓」まで拵えるあの緊迫感の裏側には、一枚めくればいつでも怪談に化けうる妖艶さが潜んでいるように思えてなりませんでした。
幼い頃からテレビの向こうで観ていた時代劇のヒーローたち、あるいは昭和の Harajuku や LA の路地裏で感じたような、どこか「ここではないどこか」へと繋がっているようなあの独特の空気感。そうした私自身のノスタルジーを、落語という古典の器に注ぎ込んでみたのが本作です。
作中、窮地の圭馬を救い出す「風車の弥七」ですが、かつて私たちがブラウン管の砂嵐の向こうに観ていた虚構の住人たちは、今も世界のどこかで、語り継がれるのを待っているのかもしれません。
あなたのすぐ後ろでも、風車が、カラカラと回ってはいませんか?
また次の噺でお会いできますことを。

