玉響路転生記 〜榊原凪と刻をこえた男〜
玉響転生記 第五十話 

最終話


まえがき
四十九度の邂逅を経て、榊原凪は七十六歳になっていた。
由井正雪とのあの最初の夜から幾星霜。凪は、明智光秀、石田三成、真田幸村、土方歳三、坂本龍馬、大石内蔵助、楠木正成、伊能忠敬、葛飾北斎、松尾芭蕉、杉田玄白、松平定信、吉田松陰、伊藤博文、田中角栄、渋沢栄一、野口英世、三島由紀夫、芥川龍之介、力道山、平将門、菅原道真、崇徳院、植村直己、手塚治虫、宮本武蔵、鼠小僧次郎吉、空海、清少納言、鑑真、千利休、板垣退助、藤原鎌足、源義経、太田道灌、加藤清正、一休宗純、足利尊氏、徳川家康、織田信長、小野小町、紫式部、卑弥呼、聖徳太子、ジョン万次郎、後醍醐天皇、伊達政宗、そして豊臣秀吉。四十九人もの時代も立場もまるで異なる人々の最期の日々に立ち会ってきた。
その一人一人が皆それぞれの陰にあるものを抱えていた。功績の陰にある恩人。栄光の陰にある悔い。伝説の陰にある地味な真実。凪はその一つ一つを静かに掘り起こし、言葉にし、小説として世に送り出し続けてきた。
だがその夜、凪は初めて思い知ることになる。
自分自身もまた四十九人の誰とも変わらぬ一人の人間であるということを。
そして自分の傍らにも四十九年もの間語られることのなかった一人の存在がいたということを。




プロローグ 五十度目の夜
東京は晩秋の静かな夜だった。
書き上げたばかりの小説『取り返しのつかぬ悔い』の原稿を、凪は書斎の文机の上に置いた。豊臣秀吉が正室ねねへの想いと甥秀次への拭えぬ罪の意識とを共に語ったあの夜のことを思い返しながら、凪は深く息をついた。
五十作目。
この物語を書き終えたら一区切りにしよう。そう漠然と考えていた。四十九人もの歴史上の人物たちの最期に立ち会ってきた。もう十分だと思っていた。
その夜、凪はいつものように書斎の椅子に腰掛けたままうたた寝をしていた。
ふと、いつもとは違う匂いがした。
墨でも香でもない。もっとありふれた煮物の匂いと古い畳の匂いだった。
顔を上げると部屋の様子がいつもと違うことに凪は気づいた。書斎ではない。もっと狭くもっと古い見覚えのある部屋だった。昭和の終わり頃のこの家の居間だった。
そしてその部屋の隅に一人の女性が繕い物をしながら座っていた。
まだ若い。三十代の半ばだろうか。凪の胸が大きく波打った。
「……静子」
その名を凪は掠れた声で呼んだ。
妻であった。四十九年間ただの一度もこの玉響の物語の中に登場することのなかった凪の妻、榊原静子。
彼女は繕い物の手を止めこちらを見た。だがその目は凪を見ていなかった。まるでこちらの存在に気づいていないかのようだった。
「なぜ……」凪は呟いた。「なぜ静子がここに」
答える声はなかった。ただ部屋の隅から聞き覚えのある様々な声が重なり合うようにして聞こえてくるだけだった。
由井正雪のあの最初の声。北斎の豪快な笑い声。芭蕉の静かな声。松陰の澄んだ声。ねねへの想いを語った秀吉のしわがれた声。
そなたが会うてきた者たちの気配がなんとのう伝わってくる、と。
四十九人がこれまで口を揃えて言い続けてきたあの台詞が、今凪自身に向けられているのだと気づいた。
「行きます」
凪は誰に言うでもなくそう呟いていた。
玉響。
世界が揺れた。


一章 五十度目のたゆたい
揺れが収まった後、凪はその居間の中に確かに立っていた。
これまでの四十九人には皆、死をどう引き受けるかというそれぞれの重さがあった。
だがこの五十度目はこれまでとはまるで違う質のものだった。
凪はこれまで常に訪れる者であった。歴史上の人物の最期に外から立ち会い、その陰にある存在に光を当てる役目を担ってきた。
だが今、凪は初めて気づいた。自分自身もまた四十九年間ある一つの役割を無意識のうちに演じ続けてきたのだということに。
取材と称して夜な夜な書斎に籠もり、時に何日も家を空けるように、心ここにあらずの状態で原稿に向かい続けてきた。
凪の胸に一つの問いが浮かんだ。
自分がこれまでの人生で本当に見つめ記憶しておくべきだったものは何だったのか。
歴史の闇に埋もれた人々の影だけだったのか。それとも。
凪は暗い天井を見つめた。いや、天井などなかった。そこには若き日の自分たちの質素な居間の天井があるだけだった。
「行きます」
もう一度凪は呟いた。
世界はもう一度揺れた。


二章 昭和の終わりのこの家
気づくと凪はこの家、今書斎として使っている部屋のあるこの同じ家の廊下に立っていた。
だが時代は明らかに違った。昭和の終わり頃、まだ子供たちが小さかった頃のこの家であった。
凪の身なりは当時着ていたくたびれたセーター姿に変わっていた。
「朋子」
台所にいた幼い娘に声をかけようとして、凪ははっと気づいた。
この子は娘の朋子だ。まだ五歳か六歳の頃だろうか。
朋子は凪に気づかず隣の部屋に向かって大声を上げていた。
「おかあさん、お父さんがまた書斎に籠もってる」
「お仕事なのよ」静子の声が台所の奥から聞こえてきた。「静かにしていてあげましょうね」
凪はその光景をただ立ち尽くして見つめていた。
これは覚えのあるいつかの夜だった。だがその時、凪自身は書斎の中から家族の声をただの雑音として聞き流していたはずだった。
今、初めてその声の外側に立ってそれを聞いている。


三章 若き日の書斎
凪はそっと書斎の障子を開けた。
そこには若き日の自分自身の姿があった。
四十代の榊原凪。まだ鋭いしかしどこか焦りを滲ませた目で原稿用紙に向かい、万年筆を忙しく走らせていた。
周囲には参考文献の山、書きかけの原稿。そして飲みかけのまま冷え切った茶碗がいくつも置かれていた。
若き凪はこちらに気づかない。ただひたすらに書き続けている。
「なぜそこまで書くことにのめり込んでいるんだ」
凪は若き日の自分に問いかけた。答えは返ってこない。ただ万年筆の走る音だけが部屋に響いていた。
やがて障子の向こうから静子の声がした。
「あなた。お夕食、召し上がりますか」
「……後で」
若き凪は顔も上げずにそう答えた。
静子の気配が静かに遠ざかっていった。
凪は今初めて気づいた。あの頃、静子がどれほどの回数あの障子の外に立ち、そして静かに諦めたように去っていったのかを。


四章 名の記されなかった妻
その夜、凪はこの家の縁側に一人座っていた。
「お仕事なのよ。静かにしていてあげましょうね」
娘に語りかけていた静子の言葉が頭から離れなかった。
凪は自身の記憶を静かにつむぐ。夜な夜な正体不明の取材に出かける自分を、静子はただの一度も咎めなかった。二人の子供をほとんど女手一つで育て上げ、冷え切った茶碗を黙って片付け続けてくれた。
他人の陰にばかり光を当てて、私はこの人の人生の時間をどれほど暗がりに置き去りにしてきたのだろう。
この玉響転生記という四十九の物語の中で、私は静子のことをただの一度も書いてこなかった。彼女の存在は私の物語の最も深い陰に埋もれていた。
庭の外、昭和の終わりの静かな夜風が遠く微かに感じられた。


五章 娘 朋子との対話
翌日、と凪には感じられる時間の中で、凪は庭で洗濯物を取り込んでいた娘朋子の姿を見つけた。時がまた少し進んでいるようだった。朋子はもう二十代の半ばになっていた。
「お母さんはお父さんのことをよく話していたかい」
凪が問いかけると、朋子は少し驚いた顔で振り返った。まるで凪の声が聞こえているかのように。
「お父さんの原稿が初めて雑誌に載った時のこと覚えてる」朋子は静かに言った。「お母さんその雑誌を何度も何度も読み返してた。誰よりも嬉しそうだったよ」
「静子はそれを誰かに話していたのだろうか」
朋子は首を振った。
「ううん。お母さんはいつも控えめな人だったから。お父さんの活躍を誰かに自慢するようなことは一度もしなかった」
凪はその言葉の重さを静かに受け止めた。
「静子自身はそれをどう思っていたのだろう」
朋子はしばらく考えていた。
「寂しかったと思う。お父さんが原稿に向かっている間、お母さんはいつも一人で私たちを育てていたんだから。でもお母さんはそれをはっきりとお父さんに伝えたことはなかったと思う」


六章 旧友 かつての編集者との対話
その日の夕刻、と感じられる頃、凪の若き日からの担当編集者であった人物の姿が見えた。
「サカキバラさんと、いつも呼んでいましたね」
凪は思わず声に出していた。あの四十九の物語の中でいつも名乗ってきたあの名、サカキバラ。それは他ならぬ自分自身の本当の姓であった。
「奥様のことをどう見ておられましたか」凪はその編集者の姿に問いかけた。
編集者はこちらに気づかぬまま独り言のように呟いた。
「榊原さんの原稿が締め切りに間に合ったのは、いつも奥様がそっとお茶を差し入れてくださったり、静かに環境を整えてくださっていたからだと思います。あの方なくば榊原さんのあの旺盛な執筆活動は成り立たなかったでしょう」
「それは私自身はっきりと認めてきたことだろうか」
凪は自問した。
「榊原さんは」編集者の呟きは続いた。「内心では誰よりも奥様への感謝を抱いておられるはずです。ただ次の締め切りのことばかりいつも考えておられましたから」
凪は深く頷いた。
もし私がはっきりと静子への想いを書き記していたら、何か変わっただろうか。


七章 夜半の対話 もう一人の自分
その夜、凪は若き日の自分自身に再び対峙していた。
今度はなぜか若き凪もこちらに気づいているようだった。
「あんたは……俺か」
若き凪は鋭い目で老いた凪を見つめた。
「差し出がましいことを申し上げます」老いた凪は静かに言った。「静子のことを、あなたはあまりにも当然の存在として扱ってこられたのではないでしょうか」
若き凪はしばらく黙っていた。
「俺は」やがて彼は絞り出すように言った。「静子がいなければこの執筆生活は成り立たなかった。それは分かっている。だが俺はいつも次の物語のことばかり考えて生きてきた」
「なぜですか」
「物語の中でしか表せない想いが俺にはあったんだ。だがそれゆえに静子への日々の言葉を疎かにしてしまったのかもしれない」
老いた凪は深く息を吸った。
「あなたは今この執筆生活のただ中におられます。ですが、もし静子への想いをはっきりと言葉にしないままこの生涯を走り続ければ、その支えはあなたの物語の陰に埋もれたままになってしまうかもしれません」
若き凪の目が微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは四十九いや五十の物語だけでしょうか。それとも静子というあなたを支え続けた一人の人間の存在をはっきりと言葉にして遺すことも含まれているのではないでしょうか」
若き凪は長い間黙っていた。
そして静かに頷いた。
「そうだな……俺はあまりに長い間それを後回しにしてきた」


八章 筆を執る夜
その夜遅く老いた凪はこの昭和の終わりの家の書斎、今は誰もいないあの文机の前にそっと座った。
そして静かに筆を執った。
「静子は」凪は震える手で言葉を綴り始めた。「四十九年間ただの一言も不満を口にすることなく私を支え続けてくれた。私が幾人もの歴史上の人物たちの陰にある存在に光を当て続けてきたその間、私自身の最も近くにいた陰にある存在、それが静子であった」
筆先から生まれる文字が静かに白紙の余白を埋めていった。
「これを書き記しておかねばならぬ。この五十番目の物語こそが私自身の最も伝えたかったことなのだと」
凪はその筆の動きをただ見つめ続けていた。
やがて書き終えると深く息をついた。
「これでようやく心残りが一つなくなった」


九章 現在への帰還
筆を置いた瞬間、部屋の空気が再び震えた。
気づくと凪は現在の書斎、七十六歳の自分の書斎に戻っていた。
文机の上には書き上げたばかりの原稿が確かに置かれていた。
だが今度の原稿の題名はこれまでの歴史上の人物たちの名前ではなかった。
『静子へ』
ただそれだけが記されていた。
凪は震える手でその原稿を手に取るとそっと書斎の外へと歩き出した。
居間では今も七十を超えた静子が静かに繕い物をしていた。
「静子」
凪はそっと声をかけた。
「あら、あなた。まだ起きていたの」
静子はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた。
凪はその隣に静かに腰を下ろした。
「読んでほしいものがある」
凪はその原稿を静子に差し出した。
静子は少し驚いた顔をしてそれを受け取った。
「これは……」
「五十番目の物語だ」凪は言った。「これまで四十九人の歴史上の人物たちの陰にある存在について書き続けてきた。だが今更ながら気づいたのだ。私自身の最も近くにいた陰にある存在が誰であったのかということに」
静子はその原稿にそっと目を落とした。
凪はその傍らでただ黙って待ち続けた。


十章 語られた言葉
読み終えた静子の目には静かな涙が浮かんでいた。
「あなたがこんなことを考えていたなんて」静子は小さく呟いた。
「今まではっきりと言葉にしてこなかった」凪は言った。「すまなかった」
静子は首を振った。
「謝る必要はないのよ」彼女は穏やかに微笑んだ。「私はあなたの物語が好きだった。あなたが夜な夜な何かに導かれるようにして原稿に向かうあの姿を見ているのが好きだったの」
「寂しくはなかったのか」
「寂しくないと言えば嘘になるわ」静子は言った。「でもあなたがこうしていつか私のことも書いてくれるだろうと、心のどこかでずっと信じていたのかもしれない」
凪は深く息をついた。
窓の向こうの夜空を見つめながらその温もりを心に刻んだ。


終章 もう一つの玉響路
数日後
凪の書斎には四十九人の歴史上の人物たちの物語、そして五十番目の『静子へ』と題された原稿とが並べて置かれていた。
凪はこの五十番目の物語をもってこの玉響転生記というシリーズを静かに締めくくることにした。
由井正雪から豊臣秀吉まで。時代も立場もまるで異なる四十九人の人々の陰にある存在を掘り起こし続けてきたこの長い旅は、最後に凪自身の最も身近な場所へと辿り着いた。
歴史上の人物たちの陰にある存在を掘り起こし続けた作家としてだけではなく、自分自身の最も近くにいた存在に気づくのに五十話を要した一人の不器用な人間として。


エピローグ 最後の光
東京の書斎で凪は書き上げたばかりのこの最後の原稿、『静子へ』の写しを静かに読み返していた。
窓の外では晩秋の風が静かに吹いていた。
「あなたが本当に伝えたかったのは四十九人の物語だけではなかったはずです」
凪は自分自身にそう呟いた。
パソコンの画面には彼が書き上げたこの最後の物語の最後の一文が残されていた。
『四十九の邂逅を経てある秋の夜、一人の老いた作家はようやく気づいた。自分がこれまで光を当て続けてきた陰にある存在は、いつもすぐ傍らに確かに在り続けていたのだと。彼はその最期の物語を静かに最も大切な人へと書き遺したのである。』
風が吹いた。墨と長年連れ添ったこの家の懐かしい匂いが微かにした。
玉響の揺らぎは、今ようやく静かに凪自身の許に辿り着いたのかもしれない。




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作者あとがき
玉響転生記は本作をもって五十話を数えここに一区切りとさせていただきます。
由井正雪から始まったこの物語は実在した様々な時代の人々の功績の陰にある忘れられがちな存在に光を当てることを一貫したテーマとしてまいりました。恩師、家族、無名の協力者、そして時に伝説そのものとそれが覆い隠してきたより地味な真実。形は様々でしたが根底にあったのは常に歴史の中で正当に光を当てられてこなかった誰かへの想像力でした。
最終話にあたりこれまで一貫して訪れる者であった主人公榊原凪自身にその視点を反転させることにいたしました。四十九人の陰にある存在に光を当て続けてきた彼もまた自分自身の最も身近な陰にある存在、家族に正面から向き合ってこなかったのではないかという着想からです。
凪の妻静子、娘朋子はいずれも本作のための創作上の人物ですが彼らの姿を通して私たち自身のすぐ傍らにある陰、すなわち当たり前すぎて見落としがちなしかし何よりも大切な存在に思いを馳せていただければ幸いです。
これまでお付き合いいただいた読者の皆様に心より御礼を申し上げます。
そして玉響の揺らぎはいつの時代にも誰の傍らにも静かに揺らぎ続けているのかもしれません。