巫女路転生記 〜卑弥呼と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十四話


まえがき
 四十三度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
 紫式部との旅で、凪は「物語路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「巫女路(みこじ)」であった。
 鬼道と呼ばれる神秘の力によって、倭国を統べた女王。
 時は、弥生時代の終わり。中国の史書『魏志倭人伝』にのみその名を留める、邪馬台国の女王――卑弥呼。だが、その神秘の陰には、表舞台に立つことのなかった、一人の弟がいた。
 なお、卑弥呼については、日本側に同時代の文字記録が一切残っておらず、その実像は、中国の史書『魏志倭人伝』の断片的な記述からしか窺い知ることができない。邪馬台国の所在地についても、九州説、畿内説など、今なお論争が続いている。本作は、この乏しい史料の上に立つ、あくまで一つの思考実験として書かれたものである。




プロローグ 名もなき来訪
 東京は、ある夜、静かに更けていった。
 榊原凪は、七十四歳になっていた。紫式部との旅から、半年余りが経っている。
 彰子の御所で、紫式部が娘・賢子への想いを筆に込めた、あの夜のことを、凪は今も鮮明に思い出す。
 あの旅の記憶を託すように紡いだ小説『母の影にある娘』は、世に静かな反響を呼んだ。
 その夜、凪は書斎で、『魏志倭人伝』のごく短い記述を眺めながら、うたた寝をしていた。
 ふと、勾玉と、燻された木の実のような匂いが鼻腔をくすぐった。
 顔を上げると、部屋の隅に、一人の女性が座っていた。
 装飾を凝らした衣を纏っている。だが、その顔は、頭から被った布の陰に深く隠されていた。
 「……」
 女性は何も言わず、ただ、静かに凪を見つめた。
 「あなたは……」
 「卑弥呼、と、人は呼ぶ」
 凪は、息を呑んだ。
 卑弥呼。中国の史書にのみその名を残す、邪馬台国の女王。鬼道と呼ばれる神秘の力をもって、倭国を統べたとされる人物。
 「なぜ、ここにいるのか」
 「分からぬ」卑弥呼は、静かに言った。「気づけば、この妙な場所におった。由井、明智、石田、真田……土方、坂本、大石、楠木。伊能、北斎、芭蕉より後の世の者まで。そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとなく、伝わってくる。不思議な者じゃな、そなたは」
 彼女は、布の陰から凪を見つめた。
 「私は今、多くの者からは、その姿を見られることのない暮らしを送っている」
 「卑弥呼様……」
 「されど」神秘の女王の声に、微かな翳りが宿った。「伝えておきたいことが、ある」


一章 四十四度目のたゆたい
 その夜、凪は『魏志倭人伝』の記述に埋もれながら、考え続けていた。
 これまでの四十三人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの人生の重さがあった。
 だが卑弥呼の場合、その重さは、また違う質のものだった。
 史書によれば、彼女は呪術的な力によって倭国を統治し、多くの婢(ひ)に囲まれながら、人前にはほとんど姿を現さなかったという。 そして、その傍らには、あまり知られていない、実務を担う「弟」の存在が記されている。だが、その弟の名は、記録のどこにも残されていない。
 凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
 卑弥呼が最期に伝えておきたいものがあるとすれば――それは己の神秘の力による統治だけなのか。それとも、表舞台に立つことのなかった、弟への想いもあるのではないか。
 凪は、暗い天井を見つめた。
 「行きます」
 呟くと同時に、部屋の空気が震え、史書の匂いが、勾玉と木の実の匂いに変わった。
 玉響(たまゆら)。
 世界が、大きく揺れた。


二章 邪馬台国の宮室
 気づくと、凪は、幾重にも柵と楼観(ろうかん)に囲まれた、宮室の裏手に立っていた。
 夜の冷たい風が、高床の建物の間を、静かに吹き抜けていく。
 凪の身なりは、宮に仕える下人風の姿に変わっていた。
 「たのもう。お尋ね申す」
 柵の前にいた婢に声をかけると、彼女は驚いた顔で凪を見た。
 「卑弥呼様に、お目にかかりたい」
 「そなた、何者か」
 「卑弥呼様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
 婢は訝しみながらも、奥へと入っていった。
 しばらくして、戻ってきた。
 「サカキバラとやら言うたか。入るがよい」
 この婢こそ、卑弥呼の身の回りの世話を直接する、数少ない一人であった。


三章 卑弥呼の御座所
 御座所は、幾重もの帳(とばり)に囲まれ、外の光がほとんど届かない、薄暗い場所であった。
 卑弥呼は、帳の奥から、静かな声で凪を迎えた。
 「よう参った」
 「参りました」
 「そこへ、座るがよい」卑弥呼は、静かに言った。「私は、鬼道によって、この国を、治めてきた」
 「弟君のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
 卑弥呼は、しばらく黙していた。
 「あの者は、民の暮らしを、日々、支えてくれている」彼女は言った。「私は、ただ、祈るばかりじゃ」
 「今、ご自身の統治を、どう振り返っておられますか」
 卑弥呼は、少し声を落とした。
 「弟のことを、近頃、よく思う」


四章 名を残さなかった弟
 その夜、凪は宮室の一室で、眠れぬまま過ごした。
 卑弥呼の言葉が、頭から離れなかった。
 ――弟のことを、近頃、よく思う。
 昼間、遠巻きに見た御座所の様子が脳裏をよぎる。行き交う人々は皆、帳の奥にいる女王の権威を恐れ、崇めていた。だが、その巨大な国を動かし、人々の不満を宥め、日々の糧を差配しているのは、あの名もなき弟なのだ。
 後世、卑弥呼の名は神秘の女王として刻まれるだろう。だが、彼が流した汗や、姉を支えた手の温もりは、誰の記憶にも残らないのかもしれない。
 「それで、本当に良いのだろうか……」
 帳の外、夜の静けさが、冷える夜気とともに凪の胸に染み込んでいった。


五章 婢との対話
 翌日、凪は、御座所の外で控えていた婢と、言葉を交わす機会を得た。
 「卑弥呼様は、弟君のことを、よく話されますか」
 「はい」婢は、深く頷いた。「日々の政務は、すべてあの御方がお裁きになっておられます。卑弥呼様にとっては、なくてはならぬ御方でございます」
 「弟君のお名前は、広く知られておりますか」
 婢は、寂しげに首を振った。
 「いいえ。卑弥呼様のお名前は、遠く海の向こうの国にまで知られておりますが、あの方のことまでは、国の者もあまり口にいたしません」
 凪は、その言葉の重さを静かに受け止めた。
 「卑弥呼様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
 婢は、しばらく考え込んでいた。
 「卑弥呼様は、弟君のことを、深く、頼りにしておられます。ですが……それを、はっきりと、外に向けて語られたことは、まだ、お見かけしたことがございません」


六章 弟との対話
 その日の夕刻、卑弥呼の弟が、御座所を訪れた。
 「サカキバラ殿と申されるか。姉上より、伺っております」
 「あなたご自身は、姉君との関わりを、どう見ておられますか」
 弟は、少し考えた。
 「姉上の鬼道なくば、この国は、まとまらなんだであろう。私は、ただ、その神秘を、日々の実務へと、繋ぐ役目を担っておるに過ぎぬ」
 「それは、卑弥呼様ご自身も、認めておられることですか」
 「姉上は……」弟は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、私の役割を、認めてくれておるはずじゃ。ただ、姉上御自身が、人前に姿を見せぬ暮らしゆえ、それを、はっきりと語る場が、なかったのやもしれぬ」
 凪は、頷いた。
 「もし、卑弥呼様が、はっきりと、あなたへの想いを、伝えられたら――何か、変わると思われますか」
 弟は、しばらく考えた。
 「変わるやもしれぬ。……姉上の言葉には、それだけの重みがある」


七章 夜半の対話
 その夜、凪は卑弥呼に呼ばれ、二人だけで御座所に残った。
 「婢や、弟から、聞いた」と卑弥呼は言った。「そなたが、弟のことを、あれこれ問うておるそうじゃな」
 「差し出がましいことを、申し上げました」
 「いや」卑弥呼は、静かに凪を見つめた。「私自身、向き合わねばならぬ角度であった」
 「卑弥呼様は、ご自身の鬼道による統治について、多くを民に示してこられました。ですが、弟君への想いは、あまり、はっきりと語られる場がなかったように見受けました」
 卑弥呼は、長い間、黙っていた。
 やがて帳の奥で、ゆっくりと息を整え、こう言った。
 「私は……弟の支えなくば、この国は、とうに乱れておったであろう。私はただ、鬼道によって、人々の心を一つにまとめる役目を担うのみ。日々の実務は、すべて、あの者が担ってくれておる」
 「なぜ、それを、はっきりと語ってこられなかったのですか」
 「私が人前に姿を見せぬことこそが、鬼道の力を保つ所以であった」卑弥呼の声に、確かな重みが宿る。「それゆえ、あの者の功績を語る機会を、私は自ら閉ざしてしまっていたのかもしれぬな」
 凪は、深く息を吸った。
 「卑弥呼様。あなたは今、この国を鬼道によって治めておられます。ですが――もし、弟君への想いをはっきりと言葉にしないまま終われば、その支えは、あなたの神秘の陰に、完全に埋もれたままになってしまうかもしれません」
 卑弥呼の目が、布の陰で、微かに揺れた。
 「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の鬼道による統治だけでしょうか。それとも――弟君という、あなたを支え続けた者の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
 卑弥呼は、再び長い沈黙に沈んだ。


八章 語られた言葉
 その夜遅く、卑弥呼は、弟と婢を呼び、静かに語り始めた。
 凪は、その傍らに、静かに控えていた。
 「弟は……」卑弥呼は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「この国の、日々の実務のすべてを、担ってくれておる。鬼道による私の力は、あの者の支えなくば、何も、なし得なかったであろう」
 弟と婢は、深く頭を下げた。
 「これより後、私を語る者は、必ず、弟のことも語れ」卑弥呼は、静かに続けた。「この国は、私一人の力ではなく、あの者と、共に治めてきたものなのだと」
 凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
 やがて卑弥呼は、深く息をついた。
 「これで……よかろう」


九章 残されたもの
 弟の手をとり、静かに感謝を告げた卑弥呼の横顔を、凪は忘れない。
 やがて、勾玉の匂いが薄れ、宮室の景色がゆっくりと遠ざかっていく。
 史実では、彼女の死後に大きな塚が築かれ、国は一時乱れたと伝えられる。やがて一族の少女・台与(とよ)が新たな女王として立てられることで、ようやく再び治まったという。
 けれど、あの夜、二人の間に通い合った確かな光を、凪は胸の奥に深く刻み込んでいた。神秘に包まれた女王の陰にも、確かに、名も残さぬまま、国を支え続けた一人の弟の存在が、息づいていたのだ。


終章 もう一つの巫女路
 千七百年余りの後。
 考古学者たちは、今も邪馬台国の所在地を巡り、熱い議論を続けていた。
 「神秘の女王」として、世界中にその名を知られる卑弥呼。その陰で、名も残さず、国の実務を支え続けた、一人の弟の存在を、深く知る人は多くはない。
 しかし、あの「刻」をこえた旅の果てに、卑弥呼は「鬼道を操る女王」としてだけではなく、「名もなき支えを深く愛おしんでいた、一人の姉」としての言葉を、確かに遺した。


エピローグ もう一つの光
 東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
 窓の外では、夜風が、静かに吹いていた。
 「あなたが遺したかったのは、ご自身の神秘の力だけではなかったはずです」
 凪は、静かに呟いた。
 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『倭国のある地に、静かな夜が暮れようとしていた。鬼道をもって国を統べた女は、その統治の物語の最後に、もう一つの光を、確かに名もなき弟へと遺したのである。』
 風が吹いた。書斎に、勾玉と、木の実の匂いが、微かにした。
 玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

——了——


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【作者注】
 本作は卑弥呼を題材としたフィクションです。卑弥呼については、日本側に同時代の文字記録が一切残っておらず、その実像は、中国の史書『魏志倭人伝』の、断片的な記述からしか窺い知ることができません。「卑弥呼」という名も、当時の実際の名か、称号のようなものであったのかも、判然としていません。邪馬台国の所在地についても、九州説、畿内説をはじめ、今なお、大きな論争が続いています。
 『魏志倭人伝』には、卑弥呼が鬼道と呼ばれる呪術的な力で国を治めたこと、弟がいて、政務を補佐していたこと、二三八年に魏へ使者を送り「親魏倭王」の称号を得たこと、そして、彼女の死後、大きな塚が築かれ、一時混乱の後、台与という少女が新たな女王として立てられたことなどが、簡潔に記されています。だが、それ以上の具体的な生涯や人物像、弟との関係については、史料上、ほとんど何も分かっていません。
 本作は、こうした乏しい史料の上に立つ、あくまで一つの思考実験として書かれたものであり、卑弥呼、その弟、婢などの人物像や対話の内容は、すべて著者の創作です。
 本作は、前四十三作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 空間と時間を超える玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。