物語路転生記 〜紫式部と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十三話
まえがき
四十二の刻を越えて――榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれた。
小野小町との旅で、凪が得た言葉は「歌路」だった。今回、彼が得た言葉は「物語路」である。
この世に、初めての長編物語を生み出した女。
時は平安。中宮彰子に仕え、『源氏物語』を書き上げた女房――紫式部。だが、その名声の陰には、彼女自身の才を受け継ぎながら、母の大きな影に隠れがちな、一人の娘がいた。
プロローグ 晩年の来訪
東京は、ある冬の、静かな夜だった。
榊原凪は、七十三歳になっていた。小野小町との旅から、半年余りが経っている。
都のはずれの路傍で、小町が深草少将への悔いを、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『百夜の悔い』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い物語の写本――『源氏物語』を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、墨と、几帳に焚き染めた香のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の女性が座っていた。
質素な袿。だが、その目には、深い知性と、どこか物静かな翳りとが宿っていた。
「あら、これは……」
女性は、静かに言った。
「あなたは……」
「紫式部と申します」
凪は、息を呑んだ。
中宮彰子に仕えながら、世界最古の長編物語とも言われる『源氏物語』を書き上げた女房。
「なぜ、ここにいるのでしょう」
「さあ、私にも、分かりませんわ」紫式部は、静かに微笑んだ。「気づいたら、この妙な部屋におりました。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、
大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、
定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、
三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、
植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、
鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、
一休、尊氏、家康、信長、小町――
あなたが会ってこられた方々の気配が、なんとなく、伝わってまいります。不思議な御方ですね、あなたは」
彼女は、凪を穏やかに見つめた。
「私は今、随分と歳を重ねました。宮仕えも、もう長いことになります」
「紫式部様……」
「ですが」物語作家の目に、複雑な光が宿った。「まだ、伝えておきたいことがございます」
一章 四十三度目のたゆたい
その夜、凪は『源氏物語』の写本に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの四十二人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが紫式部の場合、その重さは、また違う質のものだった。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
紫式部が最期に伝えておきたいものがあるとすれば――それは、己が書き上げた、あの壮大な物語だけなのか。それとも――女手一つで育てた、娘への想いも、あるのではないか。
娘の名は、賢子。後の世に大弐三位と呼ばれる歌人である。夫・藤原宣孝を早くに亡くした紫式部が、女手一つで育て上げたこの娘もまた、母譲りの歌才を受け継いでいた。だが後世、紫式部という名が『源氏物語』の作者としてあまりに大きく語り継がれる一方で、賢子の存在は、その母の影に隠れがちであった。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、物語の匂いが、墨と香の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。
二章 都・彰子の御所
気づくと、凪は、都にある中宮彰子の御所の裏手に立っていた。
冬の冷たい風が、御所の庭を静かに吹き抜けていく。
凪の身なりは、身分の低い女房の姿に変わっていた。
「もし」
庭先にいた侍女に声をかけると、彼女は驚いた顔で凪を見た。
「紫式部様に、お目通り願いたい」
「そなた、何者じゃ」
「紫式部様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
侍女は、訝しみながらも奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
この侍女こそ、紫式部の身の回りの世話をしていた、若い女房であった。
三章 紫式部の局
局の中は、質素ながらも、書きかけの物語の草稿と書物とが整然と積み上げられていた。
紫式部は、文机の前から、穏やかな目で凪を見た。
「よく参られました」
「参りました」
「お座りなさい」紫式部は、静かに言った。「私は、この物語を書き続けてまいりました」
「賢子様のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
紫式部は、しばらく黙っていた。
「あの子のことは、いつも気にかかっております」彼女は言った。「夫を亡くしてから、女手一つで育ててまいりました」
「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
紫式部は、少し目を伏せた。
「賢子のことを、近頃よく思い出します」
四章 母の影にある娘
その夜、凪は彰子の御所の一室で、眠れぬまま過ごした。
紫式部の言葉が、頭から離れなかった。
――賢子のことを、近頃よく思い出します。
これまでの四十二人は、皆、有限の生の中で何を選ぶかという問いを抱えていた。だが紫式部の場合、彼女が向き合っていたのは、「己の物語をどう完成させるか」だけでなく、「己の才を受け継いだ娘を、どう見つめるか」という問いであるように思えた。
凪は、ふと思った。
紫式部が、これほどまでに己の物語を語られる一方で、娘への想いは、これまでどれほどはっきりと語られてきたのか。
窓の外、冬の夜風が静かに吹いていた。
五章 女房との対話
翌日、凪は、局で書物を整理していた女房と、言葉を交わす機会を得た。
「紫式部様は、賢子様のことをよく話されますか」
「はい」女房は、頷いた。「母君譲りの歌才をお持ちだと伺っております」
「賢子様のお名前は、世に広く知られておりますか」
女房は、少し考えた。
「宮中では、存じている者もございましょう。ですが、紫式部様の物語ほどに、後の世まで広く伝わるかどうか……」
凪は、その言葉の重さを静かに受け止めた。
「紫式部様ご自身は、それをどう思っておられるのでしょうか」
女房は、しばらく考えていた。
「紫式部様は、賢子様のことを誇らしげにお話しになります。ですが……それをはっきりと書き記されたことは、まだあまりないように思います」
六章 同僚女房との対話
その日の夕刻、紫式部と共に彰子に仕える、女房の一人が局を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。紫式部様より伺っております」
「あなたは、賢子様のことをどう見ておられますか」
同僚女房は、少し考えた。
「母君に決して劣らぬ、歌の才をお持ちの方です。ただ、どうしても紫式部様の、あの壮大な物語と比べられてしまい、その才が正当に評価されにくいのかもしれません」
「それは、紫式部様ご自身も感じておられることですか」
「紫式部様は……」同僚女房は、言葉を選びながら言った。「内心では誰よりも娘の才を誇りに思っておられるはずです。ただ、ご自身の物語を書き上げることに常に心を注いでこられたゆえ、それをはっきりと語る間がなかったのでしょう」
凪は、頷いた。
「もし紫式部様が、はっきりと賢子様への想いを書き記されたら――何か変わると思われますか」
同僚女房は、しばらく考えた。
「変わりましょうとも。……紫式部様のお言葉には、それだけの重みがございますもの」
七章 夜半の対話
その夜、凪は紫式部に呼ばれ、二人だけで局に残った。
「女房たちから聞きました」と紫式部は言った。「あなたが、賢子のことをあれこれ聞いておられるそうですね」
「差し出がましいことを申し上げました」
「いいえ」紫式部は、静かに凪を見た。「私自身、いずれ向き合わねばならぬ問いでございました」
「あなたは、ご自身の物語について、あれほど多くを書き記されてこられました。ですが、娘さんへの想いについては、あまりはっきりと言葉にされる場がなかったように見受けました」
紫式部は、しばらく黙っていた。
「私……」やがて彼女は、静かに言った。「あの子の歌の才を、誰よりも誇りに思っております。夫を亡くし、女手一つで育てる中で、あの子だけが私の確かな支えでございました。……ですが、私は、いつしか物語を書くことにあまりに多くの時を費やしてまいりました」
「なぜですか」
「物語の中でしか表せぬ想いが、私にはあったのです」紫式部は、静かに言った。「……そして、賢子を文の中に閉じ込めてしまうのが、恐ろしかった。あの子は、私の物語の続きではないのですから」
凪は、深く息を吸った。
「紫式部様。あなたは今、この物語を書き続けておられます。ですが――もし娘さんへの想いをはっきりと言葉にしないまま終われば、あの方の才は、あなたの物語の陰に埋もれたままになってしまうかもしれません」
紫式部の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の物語だけでしょうか。それとも――才を受け継いだ娘の存在を、次の時代へとはっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
紫式部は、長い間、目を閉じていた。
八章 筆を執る夜
その夜遅く、紫式部は、文机に向かい筆を執った。
凪は、その傍らに静かに控えていた。
「賢子は……」紫式部は、筆を運びながら静かに言った。「私の確かな誇りです。あの子の歌には、私にはない、しなやかな強さがございます」
筆先から生まれる文字が、書きかけの草稿の余白に静かに書き足されていった。
賢子は、幼きより歌を好みぬ。その詠みぶり、たをやかにして、しかも折れず。母なる我が及ばぬところなり。これを書き添えておきたし。この物語のみが、我がすべてにあらざることを。
凪は、静かにその筆の動きを見つめていた。
やがて紫式部は、筆を置き、深く息をついた。
「これで……少しは、心が軽くなりました」
「それが、あなたの物語路でございますね」
紫式部は、初めて柔らかく笑った。
九章 遺されたもの
史実において、娘の賢子は、後に大弐三位と呼ばれる歌人としてその名を歴史に残すことになる。後年、後冷泉天皇の乳母を務め、『百人一首』にも、その歌が選ばれている。
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母譲りの才は、確かに次の世へと渡ったのだ。
だが後世、紫式部という名が『源氏物語』の作者としてあまりに大きく語り継がれる一方で、賢子の存在は、その母のあまりに大きな影に隠れがちであった。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
偉大な物語の陰にも、確かに、その才を受け継いだ一人の娘の存在が息づいていたのかもしれない、と。
終章 もう一つの物語路
千年余りの後。
『源氏物語』は、今も世界中で読み継がれていた。
その作者・紫式部の名の陰で、母譲りの歌才を持ち、優れた歌人として生きた娘・賢子の存在を、深く知る人は多くはない。
「世界最古の長編物語の作者」としてだけではなく、「娘の才を、誰よりも誇りに思っていた、一人の母」として。
エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は書き上げたばかりの原稿を静かに読み返していた。
窓の外では、冬の風が静かに吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、ご自身の物語だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の最後の一文が残されていた。
『平安の都に、静かな冬の夜が訪れようとしていた。この世に初めての長編物語を生み出した女は、その物語を語りながらも、才を受け継いだ娘という、もう一つの物語を確かに書き遺したのである。』
風が吹いた。墨と、香の匂いが微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた静かに続いている。
―― 了 ――
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あらすじ
本作は紫式部を題材としたフィクションです。紫式部、賢子(大弐三位)などは実在の人物ですが、物語における女房たちとの対話の内容は、著者の創作です。
紫式部の没年については確かな記録が残っておらず、諸説あります。本作は、その最晩年にあたると考えられる時期を舞台にした一つの思考実験であり、特定の没年や最期の様子を史実として描くものではありません。
娘の賢子(大弐三位)は、母譲りの歌才を持ち、後に後冷泉天皇の乳母を務め、『百人一首』にもその歌が選ばれるなど、優れた歌人として知られています。紫式部が娘への想いをどのように抱いていたかについて、具体的な記録は限られており、本作における描写は、著者の創作です。
本作は、前四十二作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。

