歌路転生記 〜小野小町と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十二話
まえがき
四十一度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
織田信長との旅で、凪は「布武路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「歌路」であった。
絶世の美女と謳われながら、歌の道に、生涯を捧げた女。
時は、平安の世。六歌仙の一人に数えられる歌人――小野小町。晩年、老い衰えた姿で、路傍に座す、一人の女がいた。だが、その傍らには、かつて、百夜通いの果てに、命を落とした、一人の男への、深い悔いがあった。
なお、小野小町については、確かな伝記的史料がほとんど残っておらず、その生涯の大半は、後世の説話や能楽によって形作られた、伝説である。本作は、特に、世阿弥の能『卒塔婆小町』などに描かれる、老いた小町の伝説を基に、一つの物語を紡ぐものである。
プロローグ 晩年の来訪
東京は、ある秋の、静かな夜だった。
榊原凪は、七十三歳になっていた。織田信長との旅から、半年余りが経っている。
安土城で、信長が弥助への想いを、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『才ある者の名』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い歌集の写本を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、白粉と、朽ちかけた卒塔婆のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の老いた女性が座っていた。
粗末な衣。だが、その目には、かつての輝きの名残と、深い哀愁とが、共に宿っていた。
「これは……失礼いたしますわ」
女性は、静かに言った。
「あなたは……」
「小野小町と申します」
凪は、息を呑んだ。
小野小町。六歌仙の一人に数えられる、絶世の美女と謳われた歌人。
空間の揺らぎが正しければ――伝説によれば、このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている女性。
「なぜ、ここにいるのでしょう」
「さあ、私にも、分かりませんわ」小町は、静かに、寂しげに微笑んだ。「気づいたら、この妙な部屋におりました。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、一休、尊氏、家康、信長――あなたが会ってこられた方々の気配が、なんとなく、伝わってまいります。不思議な御方ですのね、あなたは」
彼女は、凪を穏やかに見つめた。
「私は今、随分と、歳を取りました。かつての輝きは、もう、どこにもございません」
「小町様……」
「ですが」老いた歌人の目に、複雑な光が宿った。「まだ、伝えておきたいことが、ございます」
一章 四十二度目のたゆたい
その夜、凪は歌集の写本に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの四十一人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが小野小町の場合、その重さは、また違う質のものだった。
小町の生涯については、確かな記録がほとんど残っていない。だが、後世、能楽『卒塔婆小町』などに描かれる伝説によれば、絶世の美女と謳われた小町も、晩年には、老い衰え、貧しい姿で、路傍をさすらうことになったとされている。
小町の生涯には、もう一つ、よく知られた伝説があった。深草少将という貴公子が、小町に恋い焦がれ、彼女の課した「百夜通い」――百夜にわたり、通い続ければ、想いに応えるという約束――に挑む。だが、少将は、九十九夜目の夜、悪天候の中、力尽きて、命を落としてしまう。この伝説において、小町は、しばしば、冷たく、高慢な美女として、描かれがちである。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
小町が最期に伝えておきたいものがあるとすれば――それは、己の歌の道だけなのか。それとも――己のために命を落とした、一人の男への、深い悔いも、あるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、歌集の匂いが、白粉と卒塔婆の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。
二章 都のはずれの路傍
気づくと、凪は、都のはずれにある、朽ちた卒塔婆の傍らに立っていた。
晩秋の冷たい風が、寂れた路傍を、吹き抜けていく。
凪の身なりは、旅の僧風の姿に変わっていた。
「もし」
卒塔婆の傍らに座る、老いた女性に声をかけると、彼女は驚いた顔で凪を見た。
「小町様に、お目にかかりたい」
「あなたは、どなたですか」
「小町様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
しばらくの沈黙の後、彼女は、静かに頷いた。
「サカキバラさんとやら。よくぞ、ここまで、参られました」
この卒塔婆の傍らに座る老女こそ、晩年の小町、その人であった。
三章 小町の路傍
路傍には、粗末な藁筵と、古い歌の草稿が、置かれていた。
小町は、筵の上から、寂しげな目で凪を見た。
「よく参られました」
「参りました」
「お座りなさい」小町は、静かに言った。「私は、この歌の道に、生涯を捧げてまいりました」
「深草少将様のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
小町は、しばらく黙っていた。
「あの方のことは、忘れようにも、忘れられません」彼女は言った。「九十九夜、通い続けてくださった末に、あの方は、命を落とされました」
「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
小町は、少し目を伏せた。
「深草少将様のことを、近頃、よく思い出します」
四章 語られなかった悔い
その夜、凪は路傍の片隅で、眠れぬまま過ごした。
小町の言葉が、頭から離れなかった。
――深草少将様のことを、近頃、よく思い出します。
これまでの四十一人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。
だが小町の場合、彼女が向き合っていたのは、「己の歌の道をどう遺すか」だけでなく、「己のために命を落とした男を、どう記憶するか」という問いであるように思えた。
伝説において、深草少将は、小町への恋慕から、百夜通いの試練に挑み、九十九夜目にして、力尽きて世を去った人物であった。この伝説は、しばしば、小町を、冷たい美女として描く、教訓譚として、後世に伝えられてきた。だが、小町自身が、この出来事に、どのような想いを抱いていたのかは、あまり、深く語られてこなかった。
凪は、ふと思った。
小町が、これほどまでに歌の道を追求する一方で、少将への、深い悔いは、これまで、どれほど、はっきりと語られてきたのか。
路傍の外、晩秋の虫の声が、遠く微かに聞こえていた。
五章 里人の噂
翌日、凪は、路傍を通りかかった、里の女性と、言葉を交わす機会を得た。
「小町様は、深草少将様のことを、よく話されますか」
「はい」里人は、頷いた。「百夜通いの果てに、亡くなられた御方だと、伺っております」
「その話は、世間で、どのように、語られておりますか」
里人は、少し言いにくそうに、声を潜めた。
「小町様が、あまりに情けなく、高慢であられたから……少将様は無理を重ねて、命を落とされたのだと。世間では皆、あの方を『冷酷な美女』と、後ろ指を指すように語っております」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「小町様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
「さあ……いつも遠い目をされて、少将様のお名前を呟かれますが、私どもの前では、それ以上は何も。ただ、世間の噂を、寂しそうに受け入れておいでるように見えます」
六章 旧知の女房の吐露
その日の夕刻、かつて宮中で小町と共に仕えた、女房の一人が、路傍を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。小町様より、伺っております」
「あなたは、深草少将様のことを、どう見ておられますか」
女房は、少し目を伏せ、ため息をついた。
「あれほどまでに、一途に、想いを貫かれた御方はおりません。ですが、まわりの目はあまりに勝手なものでございます。人前では、どこまでも気高く、凛として振る舞っておられた小町様ですが……あの方が誰もいない夜、どれほど深く、心を痛めて涙しておられたか。私は知っております」
「それは、小町様ご自身にとって、どれほどの重みを持つ出来事だったのでしょうか」
「生涯の棘でございます。ですが小町様は、己の非を世間に言い訳することを、良しとされぬお方。だからこそ、本当の想いは、誰の耳にも届かぬままなのです」
凪は、深く頷いた。
「もし、小町様が、世間の噂ではなく、ご自身の本当の想いを、はっきりと言葉にされたら――何か、変わると思われますか」
「変わるかもしれません。……ですが、それを、はっきりと語ることは、ご自身の罪と向き合うこと。小町様にとっても、身を削るほど辛いことでございましょう」
七章 夜半の対話
その夜、凪は小町に呼ばれ、二人だけで路傍に残った。
「里人や、女房から、聞きました」と小町は言った。「あなたが、深草少将様のことを、あれこれ聞いておられるそうですね」
「出過ぎた真似を、仕りました」
「いいえ」小町は、静かに凪を見た。「私自身、見つめ直さねばならぬ道でした。避けては通れぬお裁きのようなもの、とでも申しましょうか」
「世間は、あなたのことを、冷たい美女として、語り継ごうとしております。ですが、あなたご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
小町は、しばらく、黙っていた。
「私は……」やがて彼女は、静かに言った。「あの試練を、少将様に課したのは、私自身。まさか、それが、あの方の命を奪うことになろうとは、思いもしませんでした。……ですが、結果として、私は、あの方を、死なせてしまいました。後悔と、哀しみと……その両方が、いつも、私の中にございます。世間が私をどれほど冷たい女と蔑もうと、甘んじて受け入れるつもりでした。ですが、あの方の一途さまでもが、私の傲慢さの引き立て役にされるのは……あまりに、忍びないのです」
凪は、深く息を吸い、静かに語りかけた。
「小町様。あなたは今、老い衰え、路傍に座しておられます。ですが――もし、深草少将様への、本当の想いを、はっきりと言葉にしないまま終われば、あの方の一途さも、あなたの悔いも、共に、『冷たい美女』という伝説の陰に、永遠に埋もれたままになってしまうでしょう」
小町の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、冷たい美女という、都合の良い世間の伝説だけではございますまい。……深草少将という、一途な想いを貫いた男がいたこと、そして、それに対するあなたの、本当の悔い。それを次の時代へと、はっきりと伝えることもまた、あなたの歩むべき『歌路』なのではないですか」
小町は、長い間、目を閉じていた。
八章 語られた言葉
その夜遅く、小町は、女房を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「深草少将様は……」小町は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「一途に、私を想い続けてくださいました。あの方の想いを、試すような不遜をしてしまったこと、そして、それが、あの方の命を奪う結果になってしまったことを、私は、生涯、悔いております」
女房は、深く頭を下げた。
「これより後、私のことを語り継ぐ人は、少将様のことも、どうか伝えておくれ」小町は、静かに続けた。「冷たい女としてではなく、一途な想いを受け止めきれなかった、一人の、あまりに弱い女の物語として」
女房の目から、涙がこぼれ落ちた。
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて小町は、深く息をついた。
「これで……少しは、心が、軽くなりました。私の歌の道に、ようやく、ひとつの誠が灯った気がいたします」
九章 遺されたもの
伝説によれば、この夜からおよそひと月後、小野小町は、老い衰え、路傍にて、その生涯を閉じたとされている。だが、その正確な最期については、史料上、確かなことは、何も分かっていない。
後世、能楽『卒塔婆小町』をはじめとする、様々な物語の中で、小町の晩年の姿と、深草少将との悲恋は、繰り返し描かれることになる。だが、多くの物語において、小町は、冷たい、あるいは、高慢な女性として、描かれがちであった。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
伝説として語り継がれる、冷たい美女の物語の陰にも、確かに、一人の人間の、深い悔いと哀しみが、息づいていたのかもしれない、と。
終章 もう一つの歌路
千年余りの後。
小野小町の歌は、今も、多くの人々に、読み継がれていた。
「絶世の美女」「冷たい美女」としての伝説の陰で、深草少将への、深い悔いを抱き続けた、一人の女性の心情を、深く知る人は、多くはない。
「六歌仙の一人」としてだけではなく、「一途な想いを受け止めきれなかったことを、生涯、悔い続けた、一人の女性」として。
エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、晩秋の風が、静かに吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、冷たい美女という伝説だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『平安の都のはずれに、静かな夕暮れが、訪れようとしていた。絶世の美女と謳われながら歌の道に生きた女は、その最期の日々に、己の伝説を見つめ直しながらも、もう一つの光を、確かに、一途な想いを貫いた男へと、語り遺したのである。』
画面の右下で、縦線のカーソルが、規則正しく、静かに点滅を繰り返している。
風が吹いた。白粉と、卒塔婆の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。
——了——
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あとがき
本作は小野小町を題材としたフィクションです。小野小町については、確かな伝記的史料がほとんど残っておらず、深草少将との「百夜通い」の伝説、晩年に老い衰えたとする伝説(『卒塔婆小町』などの能楽作品に代表される)は、いずれも、後世に形成された説話・伝承であり、史実として確認されたものではありません。本作は、これらの伝説を基にした、完全な創作です。
深草少将という人物、そして百夜通いの伝説そのものの史実性についても、研究者の間で様々な見解があります。小町が実際にこの伝説にどのような想いを抱いていたか、という点も、当然ながら、著者の創作です。
本作は、前四十一作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。

