布武路転生記 〜織田信長と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十一話



まえがき
四十度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
徳川家康との旅で、凪は「天下路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「布武路」であった。
「天下布武」の印を掲げ、旧き秩序を、次々と打ち破っていった男。
天正十年(一五八二年)五月。齢四十九。天下統一を、目前にしていた男――織田信長。だが、その傍らには、遠い異国から来た、一人の従者がいた。
なお、本作で描かれる、信長暗殺(本能寺の変)の経緯そのものについては、深く立ち入ることを意図しない。本作は、その、およそひと月前の日々に、光を当てるものである。




プロローグ 皐月の来訪
東京は、初夏に向かう、爽やかな夜だった。
榊原凪は、七十二歳になっていた。徳川家康との旅から、半年余りが経っている。
駿府城で、家康が信康、築山殿への想いを、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『政治の犠牲となった家族』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い南蛮渡来の品々を描いた絵図を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、硝煙と、異国の香辛料のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の武将が座っていた。
鋭い眼光。当世風の南蛮胴。だが、その目には、限りない好奇心と、確かな自信とが、宿っていた。
「なんじゃ、そなたは」
武将は、静かに、しかし鋭く言った。
「あなたは……」
「織田信長じゃ」
凪は、息を呑んだ。
織田信長。旧き秩序を次々と打ち破り、天下統一を目前にしていた、稀代の革命児。そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、儂は、ここにおるのか」
「さて、それがしにも、分からぬ」信長は、鋭い目のまま、微かに笑った。「気づけば、この妙な部屋におった。家康――そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう、伝わってくる。随分と面妖な男じゃな、そなたは」
彼は、凪を鋭く見つめた。
「儂は今、安土におる。間もなく、上洛する予定じゃ」
「信長様……」
「されど」革命児の目に、懐かしむような光が宿った。「その前に、伝えておきたいことが、ある」


一章 四十一度目のたゆたい
その夜、凪は南蛮渡来の絵図に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの四十人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが織田信長の場合、その重さは、また違う質のものだった。
これまでの人物たちの多くは、自らの死期を、ある程度、悟っていた。だが信長は違う。史実において、彼は天正十年六月、京の本能寺にて、家臣・明智光秀の謀反により、その生涯を閉じることになる。本人は、まだ、その日が来ることを、知らない。
信長の傍らには、あまり知られていない従者がいた。弥助である。イエズス会の宣教師・ヴァリニャーノに連れられ、アフリカから、遠く日本へと辿り着いたこの男を、信長は、その黒い肌と、強靭な体軀に強い関心を示し、家臣として召し抱えた。日本で初めて、武士としての身分を与えられた、外国出身の人物であった。
だが、後世、織田信長という名が、天下統一を目前にした革命児としてあまりに大きく語り継がれる一方で、弥助の存在は、広くは知られていない。
凪の胸に、一つの痛みが走った。天下統一の物語で、必ず“消される名”がある。
信長が、あとひと月後に迎える運命を前に、伝えておきたいものがあるとすれば――それは、己の天下統一の構想だけなのか。それとも、遠い異国から来た、一人の従者への想いも、あるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、絵図の匂いが、あの匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。


二章 近江・安土城
気づくと、凪は、近江国にある、安土城の裏手に立っていた。
初夏の緑が、壮麗な天主を、鮮やかに彩っている。
凪の身なりは、城に仕える下人風の姿に変わっていた。
「もし」
城の前にいた小姓に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「上様に、お目通り願いたい」
「そなた、何者じゃ」
「南蛮寺の伴天連様より、珍しき品を届けに参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
小姓は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
この小姓こそ、信長の身の回りの世話をしていた、若き近習であった。


三章 信長の居室
障子の向こうでは、甲冑を磨く音と、京への道程を論じる重臣たちの声が絶え間なく響いていた。上洛の準備が、城全体をざわめかせている。
居室からは、琵琶湖を望む、壮大な景色が、一望できた。
信長は、窓辺から、鋭い目で凪を見た。その部屋には、硝煙と、香辛料の匂いが混ざった、異国の香りが満ちていた。
「よう来たな」
「参りました」
「伴天連からの珍しき品とは何じゃ。見当たらぬが」
信長が目を細める。凪は静かに頭を下げた。
「品ではございませぬ。信長様、あなたへの、一つの『問い』にございます」
「ほう……面白い」信長は、簡潔に言った。「座れ。儂は、この国の、古き秩序を、すべて、作り変えるつもりじゃ」
「弥助という従者について、伺ってもよろしいでしょうか」
信長は、しばらく黙っていた。
「面白い男よ」彼は言った。「肌の色も、体格も、儂が知る誰とも違う。それだけで、召し抱える理由には、十分じゃ」
「今、弥助殿のことを、どう思っておられますか」
信長は、少し目を細めた。
「あの男のことを、近頃、よく思い出す」


四章 名の記されなかった従者
その夜、凪は安土城の一室で、眠れぬまま過ごした。
信長の言葉が、頭から離れなかった。
――あの男のことを、近頃、よく思い出す。
これまでの四十人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが信長自身は、自らの運命が、ひと月後に迫っていることを、まだ知らない。それにもかかわらず、天下統一の壮大な構想を語る一方で、なぜ弥助への関心を、繰り返し口にするのか。
旧来の身分や出自にこだわらず、才ある者を、迷わず登用する――信長の、そうした気性を、最もよく体現する人物こそが弥助であった。しかし信長自身は、それを「特別なこと」として、これまで、はっきりと語ってこなかったのではないか。
信長にとっては、あまりにも「当たり前」の流儀だったからこそ、あえて言葉にされる機会がなかった。だが、それゆえに、後世の巨大な「天下統一」という記録の陰に、その想いが埋もれてしまうのではないか。
窓の外、琵琶湖の夜風が、遠く微かに感じられた。


五章 南の空を見上げる男
翌日の昼、凪は天主の庭で、一人の男が空を見上げているのを見つけた。
弥助であった。
他の者が上洛の準備に慌ただしく駆ける中、彼は一人、じっと南の空を仰いでいる。
「弥助殿」
凪が声をかけると、彼は振り返った。その黒い瞳は、静かで、澄んでいた。
「故郷、恋しいか」
凪が指で南を指し、問いかける。弥助はゆっくりと首を振った。
そして、己の分厚い胸に手を当て、ただ一言、言った。
「ノブナガ」
言葉は、通じていたのか。いや、通じなくても良かった。分厚い胸に当てた手と、「ノブナガ」の一語だけで――
風が、二人の間を吹き抜けた。
凪には、分かった。弥助は、故郷ではなく、ここにいることを選んでいるのだ、と。


六章 近習との対話
その日の午後、凪は、居室の外で控えていた近習と、言葉を交わす機会を得た。
「上様は、弥助殿のことを、よく話されますか」
「はい」近習は、頷いた。「あの強靭な体軀と、その気性を、大変、気に入っておられます」
「弥助殿のことは、家中で、広く知られておりますか」
近習は、少し考えた。
「城中の者は、皆、存じております。ですが、後の世まで、どう伝わるかは、また、別の話でございましょう」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「上様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
近習は、しばらく考えていた。
「上様は、弥助殿を、単なる珍しい存在としてではなく、一人の家臣として、扱っておられます。ですが……それを、はっきりと、言葉にされたことは、まだ、あまりないように思います」


七章 小姓・森蘭丸との対話
その日の夕刻、信長の側近くに仕える、森蘭丸が、居室を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。上様より、伺っております」
「蘭丸殿は、弥助殿のことを、どう見ておられますか」
蘭丸は、少し考えた。
「正直、嫉妬したこともございます」蘭丸は、自嘲するように笑った。「あの方は肌の色一つで、上様の目を引いた。されど、上様がご覧になっていたのは、肌ではなく……」彼はそこで口をつぐんだ。「私には、まだ見えぬものなのでしょう。才ある者は、才ある者として、扱われる――それが、上様の、変わらぬ流儀でございます」
「それは、信長様ご自身の、はっきりとしたお考えによるものですか」
「上様は……」蘭丸は、言葉を選びながら言った。「古き慣習に、まったく囚われぬ御方です。ただ、それを、後の世に向けて、特別なこととして、語られたことは、まだ、ないように思います」
蘭丸は、己の帯刀に視線を落とした。「……もし上様が、あの方を“刀”として見ておられたなら、私はとうに学ばねばならぬ」
凪は、頷いた。
「もし、上様が、はっきりと、弥助殿への想いを、書き記されたら――何か、変わると思われますか」
蘭丸は、しばらく考えた。
「変わりましょう。……上様のお言葉には、それだけの重みがございます」


八章 夜半の対話
その夜、凪は信長に呼ばれ、二人だけで居室に残った。
「近習や、蘭丸から、聞いたぞ」と信長は言った。「そなたが、弥助のことを、あれこれ聞いておるそうじゃな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」信長は、鋭い目で凪を見た。「儂自身、向き合わねばならぬ角度じゃった」
「信長様は、天下統一の構想について、あれほど雄弁に語られてこられました。ですが、弥助殿への想いについては、あまり、はっきりと言葉にされる場が、なかったように見受けました」
信長は、しばらく、黙っていた。
「儂は……」やがて彼は、静かに言った。「才ある者は、その出自を問わず、用いる。それが、儂の、変わらぬ考えじゃ。弥助は、その考えを、最も分かりやすく、体現しておる。……だが、それを、特別なこととして、後の世に、語り遺そうとは、考えておらんだ」
「なぜですか」
「珍しき物を集めるは、天下人の余興よ。余興を、わざわざ記録に残す者がおるか」信長は、吐き捨てるように言った。
鉄と異国の匂いが、ふと濃くなった。
(珍しき物――そう言えば、茶器も、南蛮の甲冑も、皆そうよな。飽きれば蔵に入れる。だが弥助は、蔵に入らぬ。なぜじゃ)
信長の目に、一瞬、迷いのようなものが過ぎる。
凪は、一歩も引かず、信長を見据えた。
「ではなぜ、近習に『後の世に伝えよ』と命じなかったのですか。余興なら、語る必要はない。されど、あなたは近頃、弥助殿のことを『よく思い出す』と仰った。余興の相手を、思い出すものですか」
信長の目が、鋭く凪を射抜いた。天下人としてのプライドが、かすかに空気を震わせる。
「……儂に意見するか、不届き者が」
低く、しかし冷徹な声。居室の空気が、凍りついた。
だが、信長はすぐに、ふっと自嘲するように笑った。
「いや……妙に腹に落ちる言葉よ。確かに、そなたの言う通りかもしれぬな。余興と言い訳をしておったのは、儂の方よ」
凪は一礼し、さらに言葉を続けた。
「あなたが本当に遺したいものは、天下統一という構想だけでしょうか。それとも――弥助殿という、あなたの流儀を体現する者の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
信長は、長い間、黙っていた。


九章 語られた言葉
その夜遅く、信長は、蘭丸と近習を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「弥助は……」信長は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「出自など、儂には、関わりのないことよ。才ある者を、才ある者として、扱う。それだけのことじゃ。珍しき余興ではない。儂の布武路そのものよ」
蘭丸と近習は、深く頭を下げた。蘭丸の目に、安堵のような光が宿った。刀に落とした視線の意味を、彼はもう理解していた。
「これより後、儂のことを語り継ぐ者は、皆に、弥助のことも、伝えてほしい」信長は、静かに続けた。「儂の流儀は、あの男の存在に、最もよく表れておるのだと」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて信長は、深く息をついた。
「これで……よかろう」


十章 残されたもの
この夜からおよそひと月後、天正十年六月、信長は、京の本能寺にて、家臣・明智光秀の謀反に遭い、脱出は不可能と悟った信長は、「是非に及ばず」と言い残し、自ら寺に火を放ち、その生涯を閉じたと伝えられている。享年四十九。
弥助も、その場にいた。信長の死後も奮戦したが、明智軍に捕らえられ、宣教師のもとへ引き渡されたという。その後の消息は、史料から辿ることができない。
史実において、弥助という人物の存在は、近年、多くの研究者によって、改めて注目されることになった。信長が、旧来の身分や出自にとらわれず、才ある者を登用したという、その気性を、最もよく物語る存在として。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
天下統一を目前にした革命児の陰にも、確かに、遠い異国から来た、一人の従者の存在が、息づいていたのかもしれない、と。


終章 もう一つの布武路
四百年余りの後。
世界各地の研究者や、物語の作り手たちが、弥助という人物の生涯に、改めて光を当て始めていた。
「天下統一を目前にした革命児」としてだけではなく、「旧き秩序にとらわれず、才ある者を、才ある者として遇した、一人の為政者」として。


エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、初夏の風が、心地よく吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、天下統一の構想だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『天正十年五月、安土の空は、静かに暮れようとしていた。旧き秩序を次々と打ち破った男は、その最期の日々に、己の構想を語りながらも、もう一つの光を、確かに、遠い異国から来た従者へと、語り遺したのである。』
風が吹いた。硝煙と、香辛料の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

——了——


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あとがき
本作は織田信長の最晩年を題材としたフィクションです。織田信長、弥助、森蘭丸などは実在の人物ですが、物語における対話の内容は、著者の創作です。
実際に信長は天正十年(一五八二年)六月、京の本能寺にて、家臣・明智光秀の謀反に遭う。本能寺の変が起こった経緯や、光秀の動機については、今日に至るまで様々な説があり、本作ではその点に深く立ち入ることを意図していません。
弥助は、イエズス会宣教師ヴァリニャーノに伴われて日本へ渡り、信長に召し抱えられた人物です。その出身地や経緯については、断片的な史料からの推測にとどまり、確定的なことは分かっていません。本能寺の変の際、信忠の元へ向かい交戦した後、明智軍に捕らえられ、宣教師のもとに引き渡されたと伝えられていますが、その後の消息は不明です。信長が弥助への想いを最晩年、具体的にどのように語っていたかについて、本作における描写は、著者の創作です。
本作は、前四十作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。