将軍路転生記 〜足利尊氏と刻をこえた男〜
玉響転生記・第三十九話
まえがき
三十八度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
一休宗純との旅で、凪は「狂雲路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「将軍路」であった。
鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇に叛き、新たな武家政権を打ち立てた男。
延文三年(一三五八年)四月。齢五十四。室町幕府を開き、征夷大将軍として、この国に君臨していた男――足利尊氏。だが、その武家政権の礎には、共に幕府を築きながら、その確執の末、非業の死を遂げた、実の弟がいた。
なお、南北朝の動乱という、評価の分かれる時代のことゆえ、尊氏の生涯については、後世、時代によって、大きく異なる評価がなされてきた。本作は、特定の立場からの断定的な評価を下すことを意図するものではない。
プロローグ 卯月の来訪
東京は、晩春の、穏やかな夜だった。
榊原凪は、七十一歳になっていた。一休宗純との旅から、半年余りが経っている。
大徳寺の庵室で、一休が森侍者への想いを、詩に込めた、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『狂雲の恋』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い軍記物語の写本を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、鎧の匂いと、乾いた墨のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の武将が座っていた。
質素な直垂。だが、その目には、武人らしい鋭さと共に、深い疲労と、複雑な陰とが、宿っていた。
「夜分に、無礼つかまつる」
武将は、静かに言った。
「あなたは……」
「足利尊氏と申す。征夷大将軍を、務めておる者じゃ」
凪は、息を呑んだ。
足利尊氏。鎌倉幕府を倒し、後に後醍醐天皇と袂を分かち、室町幕府を開いた武将。そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、ここにおるのか」
「さて、それがしにも、分からぬ」尊氏は、静かに微笑んだ。「気づけば、この妙な部屋におった。由井正雪から一休宗純まで、三十八度の邂逅の気配が、なんとのう、伝わってくる。不思議な御仁じゃな、そなたは。」
彼は、凪を静かに見つめた。
「それがしは今、京にて、幕府を、束ねておる」
「尊氏様……」
「されど」武将の目に、複雑な光が宿った。「その前に、はっきりさせておきたいことが、ある」
一章 三十九度目のたゆたい
その夜、凪は軍記物語の写本に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの三十八人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが足利尊氏の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、尊氏は延文三年四月、京にて、病により、その生涯を閉じることになる。享年五十四。
尊氏の生涯には、あまり語られない、深い確執があった。実の弟、足利直義である。幕府創設の当初、尊氏が武士の統率を、直義が政務・裁判を担うという、「二頭政治」体制が敷かれ、直義の緻密な政治手腕が、幕府の基礎を、確かに築き上げていた。だが、やがて両者の間には、深刻な対立が生じ、「観応の擾乱」と呼ばれる、骨肉の争いへと発展する。観応三年(一三五二年)、直義は、鎌倉にて、その生涯を閉じるが、この死には、尊氏による毒殺の疑いが、後世、囁かれることになった。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
尊氏が最期にはっきりさせておきたいものがあるとすれば――それは、己が開いた、幕府という功績だけなのか。それとも――共に幕府を築きながら、非業の死を遂げた、実の弟への想いも、あるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、軍記物語の匂いが、鎧と墨の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。
二章 京・室町第
気づくと、凪は、京にある、室町第の裏手に立っていた。
晩春の柔らかな日差しが、御所を、静かに照らしている。
凪の身なりは、御所に出入りする商人風の姿に変わっていた。
「もし」
御所の前にいた家臣に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「尊氏様に、お目通り願いたい」
「そなた、何者じゃ」
「尊氏様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
家臣は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
この家臣こそ、尊氏の身の回りの世話をしていた、若き従者であった。
三章 尊氏の居室
居室には、幕府の政務に関わる書状が、静かに積まれていた。
尊氏は、文机の前から、静かな目で凪を見た。
「よう参られた」
「参りました」
「座られよ」尊氏は、静かに言った。「それがしは、この国に、新しき武家の世を、築いてまいった」
「弟君・直義様のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
尊氏は、しばらく黙っていた。
「あの者のことは、忘れようにも、忘れられぬ」彼は言った。「幕府の礎は、あの者の政務あってこそ、築かれたものであった」
「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
尊氏は、少し目を伏せた。
「直義のことを、近頃、よく思い出す」
四章 名の記されなかった弟
その夜、凪は室町第の一室で、眠れぬまま過ごした。
尊氏の言葉が、頭から離れなかった。
――直義のことを、近頃、よく思い出す。
これまでの三十八人は、皆、有限の“道”の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが尊氏の場合、彼が向き合っていたのは、「己が開いた幕府をどう遺すか」だけでなく、「己と袂を分かち、非業の死を遂げた弟を、どう記憶するか」という問いであるように思えた。
足利直義は、幕府創設期の政務・裁判制度の整備に、大きな功績を残した人物であった。だが、兄との対立の末、鎌倉にてその生涯を閉じる。足利尊氏という名が、室町幕府の創始者としてあまりに大きく語り継がれる一方で、直義の功績は、その確執の陰で、広くは知られてこなかった。
凪は、ふと思った。
尊氏が、これほどまでに幕府創設の功績を語られる一方で、共に幕府を築き、非業の死を遂げた弟への想いは、これまで、どれほど、はっきりと語られてきたのか。
窓の外、京の夜風が、静かに吹いていた。
五章 従者との対話
翌日、凪は、居室で書状を整理していた従者と、言葉を交わす機会を得た。
「上様は、直義様のことを、よく話されますか」
「はい」従者は、頷いた。「幕府の政務の礎を築かれた御方だと、伺っております」
「直義様のお名前は、世に、広く知られておりますか」
従者は、首を振った。
「いいえ。上様のお名前は、天下に知られておりますが、直義様のことまでは、あまり、知られていないように思います」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「上様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
従者は、しばらく考えていた。
「上様は、時折、遠い目をされて、直義様のお名前を、口にされます。ですが……それを、はっきりと、言葉にされたことは、まだ、あまりないように思います」
六章 執事・高師直の後継者との対話
その日の夕刻、幕府の重臣の一人が、居室を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。上様より、伺っております」
「あなたは、直義様のことを、どう見ておられますか」
重臣は、少し目を伏せた。
「あの方なくば、幕府の政務は、これほど、整ったものには、ならなかったでしょう。我が一族にとっては仇とも言える御方ですが、その才だけは認めざるを得ませぬ。上様の武と、直義様の文――その両方があって、初めて、幕府は、その形を成したのです」
「それは、尊氏様ご自身も、認めておられることですか」
「上様は……」重臣は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、直義様への想いを、抱いておられるはずです。ただ、あの確執の記憶は、上様ご自身にとっても、あまりに、重いものなのでしょう」
凪は、頷いた。
「もし、上様が、はっきりと、直義様への想いを、言葉に遺されたら――何か、変わると思われますか」
重臣は、しばらく考えた。
「変わりましょう。……上様のお言葉には、それだけの重みがございます」
七章 夜半の対話
その夜、凪は尊氏に呼ばれ、二人だけで居室に残った。
「従者や、重臣から、聞き申した」と尊氏は言った。「そなたが、直義のことを、あれこれ問うておるそうじゃな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」尊氏は、静かに凪を見た。「それがし自身、向き合わねばならぬ角度でござった」
「尊氏様は、ご自身が開かれた幕府の功績について、多くを語られてこられました。ですが、直義様への想いについては、あまり、はっきりと言葉にされる場が、なかったように見受けました」
尊氏は、しばらく、黙っていた。
「それがしは……」やがて彼は、絞り出すように言った。「直義の政務の才なくば、幕府は、これほど早くは、その形を成さなんだであろう。……いや、偽りじゃな。それがしは、あの者が恐ろしかったのだ。されど、いなくなってみれば、己の半身を削ぎ落としたような痛みが、今も止まぬ」
尊氏の手が、微かに震えていた。
「あの者の死に、それがしが、どこまで関わってしまったのか――それは、それがし自身にも、はっきりとは、申せぬ。悔いと、申し訳なさの狭間で、いつも、心が引き裂かれそうになるのだ」
凪は、深く息を吸った。
「尊氏様。あなたは今、幕府を束ねる立場にあられます。ですが――もし、直義様への想いを、はっきりと言葉にしないまま終われば、あの方の功績と、あなたの悔いは、共に、幕府の歴史の陰に、埋もれたままになってしまうかもしれません」
尊氏の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、ご自身が開いた幕府の功績だけでしょうか。それとも――直義様という、共に幕府を築き、そして、失った弟の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
尊氏は、長い間、目を閉じていた。
尊氏の肩が、わずかに下りた。鎧を脱いだ後の武人にある、あの脱力だった。
八章 語られた言葉
その夜遅く、尊氏は、重臣と従者を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「直義は……」尊氏は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「それがしの、実の弟であり、幕府の政務を、誰よりも、支えてくれた者であった。あの確執は、それがしにとって、生涯、消えぬ、深い悔いじゃ」
重臣と従者は、深く頭を下げた。
「これより後、それがしのことを語り継ぐ者は、皆に、直義のことも、伝えてほしい」尊氏は、静かに続けた。「この幕府は、それがし一人のものではなく、あの者と、共に築いたものなのだと」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
凪には、それが六百年の重さを一つ降ろす音に聞こえた。
やがて尊氏は、深く息をついた。
「これで……少しは、心が、安まった」
九章 遺されたもの
この夜からおよそひと月後、延文三年四月、足利尊氏は、京にて、その生涯を閉じることになる。享年五十四。
史実において、足利直義が、幕府創設期の政務整備に果たした役割は、今日、多くの歴史研究において、高く評価されている。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
新しい武家政権の礎の陰にも、確かに、その礎を築き、そして、兄弟の確執の中で失われた、一人の弟の存在が、息づいていたのかもしれない、と。
終章 もう一つの将軍路
六百年余りの後。
室町幕府の歴史を伝える史料の中に、足利直義の名が、今も、静かに記されていた。
「室町幕府を開いた将軍」としてだけではなく、「実の弟との確執を、生涯、悔い続けた、一人の人間」としての尊氏の記憶と共に。
共に幕府を築きながら、兄弟の確執の末に、非業の死を遂げた一人の弟。その存在と功績は、時を超えた今も、歴史の編目の隙間で静かに呼吸を続けている。兄の遺した言葉の傍らで。
エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、晩春の風が、心地よく吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、ご自身の功績だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『延文三年四月、京の空は、静かに暮れようとしていた。新たな武家政権を打ち立てた男は、その最期の日々に、己の功績を語りながらも、もう一つの光を、確かに、失われた弟へと、語り遺したのである。』
風が吹いた。鎧と、墨の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。
――了――
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あとがき
本作は足利尊氏の最晩年を題材としたフィクションです。足利尊氏、足利直義などは実在の人物ですが、物語における従者や重臣との対話の内容は、著者の創作です。
実際に尊氏は延文三年(一三五八年)四月、京にて、五十四歳でその生涯を閉じたと伝えられています。弟の直義は、幕府創設期において、尊氏が軍事を、直義が政務・裁判を担う「二頭政治」体制のもと、幕府の行政基盤の整備に大きく貢献しましたが、観応の擾乱と呼ばれる兄弟間の争いを経て、観応三年(一三五二年)、鎌倉にて死去しました。この死については、尊氏による毒殺を疑う説が後世唱えられていますが、確証はなく、今日でも研究者の間で見解が分かれています。
南北朝の動乱、および尊氏の歴史的評価については、時代や立場によって大きく異なる評価がなされてきました。本作は、特定の立場からの断定的な評価を下すことを意図するものではなく、尊氏と直義の兄弟関係という、一つの側面に焦点を当てています。なお作中の「尊氏が直義への想いを語る場」は記録に残る史実ではなく、著者の物語的解釈です。
本作は、前三十八作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。

