狂雲路転生記 〜一休宗純と刻をこえた男〜
玉響転生記・第三十八話


まえがき
三十七度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
加藤清正との旅で、凪は「城路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「狂雲路」であった。
破戒の禅僧。
文明十三年一四八一年十月。齢八十七。大徳寺の住持となって十年。なお酒を愛し、女を愛し、詩を詠み続けた男、一休宗純。だが、その奔放な生涯の最晩年には、盲目の女性、森侍者との、深く、確かな情があった。
なお、後世「とんちの一休さん」として親しまれる童話的な人物像は、江戸時代以降に広まった創作であり、史実の一休とは大きく異なる。本作は、史実に基づく、晩年の一休の姿を描くものである。




プロローグ 神無月の来訪
東京は、秋の深まる、静かな夜だった。
榊原凪は、七十一歳になっていた。加藤清正との旅から、半年余りが経っている。
熊本城で、清正が飯田覚兵衛への想いを、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『石垣を支えた男』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い詩集の写本『狂雲集』を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、酒と、墨のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の老僧が座っていた。
質素な、しかしどこかだらしなく着崩した法衣。だが、その目には、驚くほど鋭く、それでいて、人懐こい光が宿っていた。
「よう、邪魔するぞ」
老僧は、ぶっきらぼうに、しかし気さくに言った。
「あなたは……」
「一休宗純と申す。大徳寺の住持じゃ」
凪は、息を呑んだ。
一休宗純。形骸化した禅の権威を、痛烈な言葉で批判し続けた男。後世、「とんちの一休さん」として、まったく異なる人物像で親しまれることになる人物。そして、このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、儂は、ここにおるのかのう」
「さて、それがしにも、分からぬ」一休は、豪快に笑った。「気づけば、この妙な部屋におった。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正。そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう、伝わってくる。不思議な御仁じゃな、そなたは」
彼は、凪をじろりと見た。
「儂は今な、大徳寺の再建で手一杯じゃ。応仁の乱で、寺が焼けてのう」
「一休様……」
「されど」老僧の目に、懐かしむような光が宿った。「その前に、伝えておきたいことが、ある」


一章 三十八度目のたゆたい
その夜、凪は『狂雲集』の写本に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの三十七人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが一休宗純の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、一休は文明十三年十一月、京にて、瘧と思われる病により、その生涯を閉じる。享年八十七。晩年、応仁の乱で焼失した大徳寺の再建のため、乞われて住持となり、その名声を頼りに勧進に奔走していた。
しかし、一休の生涯には、あまり語られない、深い情があった。齢七十七で住持となってほどなく、一休は、盲目の女性、森侍者と出会う。年齢差を超えた二人の情愛は、一休自身の詩集『狂雲集』に、驚くほど率直な、時に官能的な言葉で、繰り返し詠まれている。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
一休が最期に伝えておきたいものがあるとすれば、それは、己の禅の教えや、大徳寺の再建だけなのか。それとも、晩年を共に過ごした、森侍者への想いも、あるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、詩集の匂いが、酒と墨の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。


二章 京、大徳寺の裏手
気づくと、凪は、京、大徳寺の裏手に立っていた。
晩秋の冷たい風が、再建途上の伽藍を、吹き抜けていく。
凪の身なりは、寺に仕える下働き風の姿に変わっていた。
「もし」
境内にいた小僧に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「和尚様に、お目通り願いたい」
「あんた、何者だい」
「和尚様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
小僧は、訝しみながらも、奥へと入っていった。しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラとやら言うたな。入りな」
この小僧こそ、一休の身の回りの世話をしていた、若き僧であった。


三章 一休の庵室
庵室には、書きかけの詩と、酒器が、無造作に置かれていた。
どこからか微かに、しかし澄んだ琵琶の音が聞こえてくる。奥の部屋で、誰かが静かに爪弾いているのだろう。
一休は、文机の前から、鋭い目で凪を見た。
「よう来たな」
「参りました」
「まあ、座れよ」一休は、ぶっきらぼうに言った。「儂は、この歳になっても、まだ、俗世の欲を、捨てきれておらんわ」
「なぜ、そこまで、正直に、生きてこられたのですか」
一休は、しばらく黙って、奥の部屋から響く琵琶に耳を傾けていた。
「坊主どもが、口では悟りを説きながら、裏では金と権威にしがみつく。そんな偽善が、儂には我慢ならなんだのじゃ。儂は、酒も飲む、女も愛する。それを隠す方が、よほど偽りというものじゃ。なぁ、サカキバラとやら」
「奥にいらっしゃるのは、森侍者様のことでしょうか」
一休は、少し目を細めた。
「あれのことを、近頃、よく思い出す。あれがおらねば、儂の晩年は、随分と寂しいものであったろう」


四章 名の記されなかった女性
その夜、凪は大徳寺の一室で、眠れぬまま過ごした。
一休の言葉が、頭から離れなかった。
これまでの三十七人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが一休の場合、彼が向き合っていたのは、「己の禅をどう語るか」だけでなく、「己を支えた女性を、どう記憶するか」という問いであるように思えた。
史実において、森侍者は盲目の女性でありながら、優れた歌や琵琶の才を持ち、晩年の一休の傍らで深い情愛を交わした。一休自身は『狂雲集』で彼女への想いを率直に詠んでいる。だが、後世にお伽話としての「一休さん」のイメージが広まれば広まるほど、この生身の一休を支えた彼女の存在は、その陰に隠れてしまうのではないか。
凪は、ふと思った。
一休がこれほどまでに熱烈な詩を彼女に捧げていた一方で、その情愛は、これから先の世に、どれほど正しく伝わっていくのだろうか、と。
窓の外、大徳寺の木々のざわめきが、遠く微かに聞こえていた。


五章 小僧との対話
翌日、凪は、庵室の掃除をしていた小僧と、言葉を交わす機会を得た。
「和尚様は、森侍者様のことを、よく話されますか」
「はい」小僧は、頷いた。「盲目でいらっしゃいますが、琵琶が、大変お上手だと、聞いております」
「街の者は、森侍者様のことを、知っておりますか」
小僧は、首を振った。
「いいえ。和尚様のお名前は、都の者なら誰でも知っております。ですが、森侍者様のことまでは……」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「和尚様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょう」
小僧は、しばらく考えていた。
「和尚様は、詩の中で、森侍者様への想いを、はっきりと詠まれます。ですが、それを街の者が読むことは、まあ、ございませんので」


六章 弟子との対話
その日の夕刻、一休の弟子の一人が、庵室を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。和尚様より、伺っております」
「あなたは、森侍者様のことを、どう見ておられますか」
弟子は、少し驚いた顔をした。
「あの方なくば、和尚様の晩年は、これほど、豊かなものには、ならなかったでしょう。盲目でありながら、和尚様の心を、誰よりも深く、理解しておられた」
「後世の禅僧は、『狂雲集』を、どう扱うと思われますか」
弟子は、言葉を選びながら言った。
「和尚様の詩は、あまりに、赤裸々でございます。後の世の坊主どもは、読んで顔を赤くするか、あるいは、なかったことにしてしまうやもしれません。ただ、それでも、写本は、残ります。残しとうございます」
凪は、頷いた。
「もし、和尚様が、はっきりと、森侍者様への想いを、弟子たちに、語り遺されたら。何か、変わると思われますか」
弟子は、しばらく考えた。
「変わりましょう。和尚様のお言葉には、それだけの重みがございます。語られた言葉は、詩よりも、強くございます」


七章 夜半の対話
その夜、凪は一休に呼ばれ、二人だけで庵室に残った。
奥からの琵琶は止み、代わりに静かな寝息のような気配だけが、薄い障子越しに伝わってくる。
「小僧や、弟子から、聞いたぞ」と一休は言った。「そなたが、森侍者のことを、あれこれ聞いておるそうじゃな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」一休は、鋭い目で凪を見た。「儂自身、向き合わねばならん角度じゃったよ」
「一休様」凪は、少しだけ身を乗り出した。「あんた、詩に書いて満足してるけどよ。それで森殿は浮かばれるのか。あんたが死んだらな、世間は勝手に“とんちの一休さん”を作って、森殿のことなんざ、綺麗さっぱり忘れちまうぞ。あんたが死んだあと、何が残る。瓦の寺か、それとも森殿と分かち合った確かな日々か」
一休は、しばらく、黙っていた。
「あれの見えぬ眼にゃな」やがて彼は、静かに言った。「儂の醜きところも、愛おしきところも、丸見えだったのかもしれんのう。だが、後の世に、儂がどう語り継がれるかまでは、儂には、どうしようもないことじゃ」
「それで、いいんですか」
「儂は、儂の詩に、すべてを、正直に書き記してきた。それが、どう伝わるかは、後の世の者たちに、委ねるしかあるまい」
凪は、深く息を吸った。
「一休様。あなたは今、大徳寺の再建に、心を砕いておられる。だが、森殿への想いが、お伽話の陰に埋もれたままなら、あんたの本当の姿は、誰にも伝わらない。あんたが遺したいものは、瓦と柱だけか。違うだろう」
一休の目が、微かに揺れた。
「あんたが本当に遺したいものは、大徳寺だけじゃねえはずだ。森殿という、晩年を支えた女の存在を、その詩と共に、次の時代へ、はっきり伝えることじゃねえのか」
一休は、長い間、黙っていた。


八章 語られた言葉
その夜遅く、一休は、弟子を呼び、静かに語り始めた。凪は、その傍らに、静かに控えていた。
障子の向こうで、衣擦れの音がした。
「……森か」一休が小さく呼んだ。
返事はない。ただ、布越しに、深い呼吸の音だけが返ってきた。一休はその確かな気配に向けて、語り始めた。
「森侍者への詩はな」一休は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「儂の、偽らざる心じゃ。これを、決して隠すでない。恥じることも、ない。綺麗事ばかりを並べる腐った禅僧どもに、これこそが儂の、最後の『悟り』の姿じゃと、見せつけてやるがよい」
弟子は、深く頭を下げた。
「儂の詩集は、そのまま、後の世に、伝えてほしい」一休は、静かに続けた。「儂が、どのように語り継がれようとも、この詩に込めた、森侍者への想いだけは、消してくれるな。よいな」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて一休は、深く息をついた。
「これで……少しは、心が、軽うなったわ」


九章 遺されたもの
この夜からおよそひと月後、文明十三年十一月、一休宗純は、京にて、その生涯を閉じる。享年八十七。
史実において、一休の詩集『狂雲集』は、その率直な言葉と共に、後世に伝えられる。森侍者への想いを詠んだ数々の詩も、その中に、確かに残された。お伽話の影に隠れて、一般には広く知られることはなくとも、その生々しい情愛の記録は、時を越えて保存されることとなった。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
親しみやすい伝説の陰にも、確かに、一人の人間の、率直で、豊かな情愛の記録が、息づいていたのだ、と。


終章 もう一つの狂雲路
五百年余りの後。
『狂雲集』は、今も、わずかな者たちに、大切に読み継がれていた。
「破戒の禅僧」としてだけではなく、「盲目の女性を、生涯、深く愛し続けた、一人の人間」として。
エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、晩秋の風が、静かに吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、大徳寺の再建だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『文明十三年十一月、京の空は、静かに暮れようとしていた。形骸化した禅を批判し続けた男は、その最期の日々に、己の詩を語りながらも、もう一つの光を、確かに、愛した女性へと、書き遺したのである。』
風が吹いた。酒と、墨の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

――了――


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あとがき
本作は一休宗純の最晩年を題材としたフィクションです。一休宗純、森侍者などは実在の人物ですが、物語における小僧や弟子との対話の内容は、著者の創作です。
実際に一休は文明十三年一四八一年十一月、京にて、八十七歳、数え八十八でその生涯を閉じたと伝えられています。晩年、応仁の乱で焼失した大徳寺の再建のため、乞われて住持を務めました。死因は瘧とされます。
森侍者は、一休が晩年に深い情愛を交わした盲目の女性であり、一休の詩集『狂雲集』には、彼女への率直な想いを詠んだ詩が、多数収められています。この関係の詳細や、一休が最晩年、森侍者への想いをどのように語っていたかについて、具体的な記録は限られており、本作における描写は、著者の創作です。なお、二人の出会いの年齢には諸説あります。
また、江戸時代以降に広まった「とんちの一休さん」という童話的な人物像は、史実の一休とは大きく異なる、後世の創作であることを、付記しておきます。
本作は、前三十七作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。