山吹路転生記 〜太田道灌と刻をこえた男〜
玉響転生記・第三十六話



まえがき
三十五度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
源義経との旅で、凪は「弓路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「山吹路」であった。
江戸の地に、城を築いた男でありながら、一輪の花に、生涯の学びを得た男。
文明十八年(一四八六年)六月。齢五十五。江戸城を築いた、稀代の軍略家でありながら、自らの主君の疑心により、命を狙われていた男――太田道灌。だが、その学識と教養の礎には、名も知らぬ、一人の少女との、忘れがたい出会いがあった。




プロローグ 水無月の来訪
東京は、梅雨の合間の、蒸し暑い夜だった。
榊原凪は、七十歳になっていた。源義経との旅から、半年余りが経っている。
衣川の館で、義経が佐藤兄弟への想いを、弁慶に託した、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『身代わりの兄弟』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い和歌集の写本を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、鎧の匂いと、雨に濡れた山吹の花の匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の武将が座っていた。
質素な直垂。だが、その目には、武人らしい鋭さと、どこか文人めいた静けさとが、共に宿っていた。
「夜分に、失礼つかまつる」
武将は、静かに言った。
「あなたは……」
「太田道灌と申す。扇谷上杉家に、仕えておる者じゃ」
凪は、息を呑んだ。
太田道灌。江戸城を築き、幾多の戦で、比類なき軍略を発揮した武将。後の世、その和歌の才でも、知られることになる人物。そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、ここにおるのか」
「さて、それがしにも、分からぬ」道灌は、静かに微笑んだ。「気づけば、この妙な部屋におった。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経――そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう、伝わってくる。不思議な御仁じゃな、そなたは」
彼は、凪を静かに見つめた。
「それがしは今、主君・上杉定正様の館に、招かれておる。近頃、いささか、主君の心が、それがしから、離れつつあるように感じておる。……それがしがいた、あの水無月の刻で、待っておるぞ」
「道灌様……」
「その前に、どうしても伝えておきたいことが、あるのだ」


一章 三十六度目のたゆたい
道灌の姿がかき消えた後も、凪は和歌集の写本に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの三十五人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが太田道灌の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、道灌は文明十八年七月、主君・上杉定正の館にて、暗殺されることになる。享年五十五。臨終の際、「当方滅亡」――己が死ねば、上杉家は滅びるであろう――と言い遺したと伝えられている。
だが、道灌の生涯には、あまり語られない、一つの出会いがあった。若き日、鷹狩りの折、にわか雨に遭った道灌は、みすぼらしい家に立ち寄り、蓑を借りようとした。応対に出た少女は、無言のまま、山吹の花を一枝、差し出した。道灌は、その意味が分からず、立ち去った。後に、これが「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という古歌にかけた、少女の「蓑(実の)一つだにない」という、精一杯の返答であったと知り、己の無学を、深く恥じたという。この出来事を契機に、道灌は、和歌の道を、真剣に学ぶようになった。だが、この少女の名は、記録のどこにも、残されていない。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
道灌が最期に伝えておきたいものがあるとすれば――それは、己の武功や、軍略だけなのか。それとも――名も知らぬ、一人の少女との出会いへの、感謝も、あるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、和歌集の匂いが、鎧と山吹の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。


二章 相模・上杉定正の館
気づくと、凪は、相模国にある、上杉定正の館の裏手に立っていた。
梅雨の湿った空気が、館の庭を、しっとりと濡らしている。
凪の身なりは、館に仕える下人風の姿に変わっていた。
「もし」
館の前にいた家臣に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「道灌様に、お目通り願いたい」
「そなた、何者じゃ」
「道灌様のお導きで参った者です。サカキバラが到着したと告げていただければ、通じるはずです」
家臣は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「お入りくだされ。道灌様がお待ちだ」
この家臣こそ、道灌の身の回りの世話をしていた、若き従者であった。


三章 道灌の部屋
部屋の中は、質素ながらも、文机の上に、和歌の書と、書きかけの一首が、静かに置かれていた。
「身のうさを――」
その先は、墨が乾いていた。
道灌は、文机越しに、静かな目で凪を見た。
「よう参られた」
「参りました」
「座られよ」道灌は、静かに言った。「それがしは、江戸に城を築き、幾多の戦を、生き延びてまいった」
「和歌にも、深く通じておられると、伺いました」
道灌は、しばらく黙っていた。
「若き日、それがしは、無学を、恥じたことがある」彼は言った。「あの経験がなければ、それがしは、ただの、武辺一辺倒の男で終わっておったであろう」
「山吹の花のことでしょうか」
道灌は、少し目を細めた。
「あの少女のことを、近頃、よく思い出すのだ」


四章 名の残らなかった少女
その夜、凪は上杉館の一室で、眠れぬまま過ごした。
道灌の言葉が、頭から離れなかった。
――あの少女のことを、近頃、よく思い出す。
これまでの三十五人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが道灌の場合、彼が向き合っていたのは、「己の武功をどう語るか」だけでなく、「己を変えた、名もなき者を、どう記憶するか」という問いであるように思えた。
伝説において、道灌に山吹の花を差し出した少女は、貧しい家の娘であったとされている。だが、その名は、どこにも、記録されていない。この少女との出会いがなければ、道灌は、和歌の道を、真剣に学ぶことは、なかったかもしれない。
凪は、ふと思った。
道灌が、これほどまでに己の武功や、学識を語られる一方で、その学びの原点にいた、名もなき少女への感謝は、これまで、どれほど、はっきりと語られてきたのか。
窓の外、梅雨の雨音が、遠く微かに聞こえていた。


五章 従者との対話
翌日、凪は部屋の外で控えていた従者と、言葉を交わす機会を得た。
「殿は、山吹の少女のことを、よく話されますか」
「はい」従者は、真剣な面持ちで頷いた。「若き日、無学を恥じ、和歌を学び始めた、すべてのきっかけになった方だと、伺っております」
「その少女のお名前は、伝わっておりますか」
従者は、寂しげに首を振った。
「いいえ。殿のお名前は、天下に知られておりますが、あの少女のことは、名すら、伝わっておりません」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「殿ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
従者は、しばらく考えていた。
「殿は、時折、懐かしそうに、あの日のことを、口にされる。ですが……それを、はっきりと、書き記されたことは、まだ、あまりないように思います。実は、そのことを、殿と共に和歌を学ばれた旧友の方も、深く案じておられるのです。ちょうど今、そのお方が館の離れに来ておられます。サカキバラ殿、よければ、お引き合わせいたしましょう」


六章 旧友との対話
従者の手引きにより、凪は館の離れで、道灌の旧友であり、共に和歌を学んだ人物と、密かに対面することができた。
「サカキバラ殿と申されるか。道灌殿より、妙な客人が来るとは伺っております」
「あなたは、山吹の少女のことを、どう見ておられますか」
下人の姿をした凪の、真っ直ぐな問いに、旧友は少し驚いた顔をしたが、やがて静かに語り出した。
「あの出会いなくば、道灌殿は、和歌の道を、志されなかったでしょう。名も知らぬ少女の、あの静かな返答が、道灌殿の、その後の学びの、すべての始まりでございました」
「それは、道灌様ご自身も、深く感謝しておられることですか」
「道灌殿は……」旧友は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、あの少女への感謝を、抱いておられるはずです。ただ、武将としての、日々のあまりに重き務めに、常に、心を占められておられたゆえ、それを、はっきりと書き記す間が、なかったのでしょう」
「もし、道灌様が、はっきりと、あの少女への感謝を、書き記されたら――何か、変わると思われますか」
旧友は、しばらく考えた。
「変わりましょう。……道灌殿の言葉には、それだけの重みがございます。後世の者たちも、殿の武功だけでなく、その『心』を正しく受け継ぐことができるはずじゃ」


七章 夜半の対話
その夜、凪は道灌に呼ばれ、二人だけで部屋に残った。
「従者や、旧友から、聞き申した」と道灌は言った。「そなたが、あの少女のことを、あれこれ問うておるそうじゃな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」道灌は、静かに凪を見た。「それがし自身、向き合わねばならぬ角度でござった」
「道灌様は、ご自身の武功について、あれほど多くを、語られてこられました。ですが、あの少女への感謝については、あまり、はっきりと言葉にされる場が、なかったように見受けました」
道灌は、しばらく、黙っていた。
「それがしは……」やがて彼は、静かに言った。「あの日、蓑を借りようとした、それがしに、山吹の花を差し出した少女の、あの静かな振る舞いがなければ、それがしは、生涯、無学の武辺者で、終わっておったであろう。……だが、それがしは、あの少女の名を、ついに、知ることが、できなんだ」
「それを、どのように、感じておられますか」
「感謝と、申し訳なさと……その両方が、いつも、それがしの中にござる」道灌は、切なげに言った。「名も知らぬ者から受けた学びを、それがし一人の功績のように、語ってはならぬと、常々、思うておる」
凪は、深く息を吸った。そして、道灌のすぐ近くにある「未来」を想い、静かに、しかし強く言葉を紡いだ。
「道灌様。人の世は……時に、望まぬ形で、あまりに呆気なく幕を引くことがございます。この先のことは、誰にもわかりませぬ。ですが――もし、あの少女への感謝を、はっきりと言葉にしないまま終われば、その少女への恩は、江戸城の石垣の陰に、埋もれたままになってしまうやもしれませぬ」
道灌の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当にこの世に遺したいものは、ご自身の武功だけでしょうか。それとも――名も知らぬ少女という、あなたを変えた恩人の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
道灌は、長い間、目を閉じていた。窓を叩く雨音が、二人の間の沈黙を優しく包み込んでいた。


八章 語られた言葉
その夜遅く、道灌は、従者と旧友を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「あの少女は……」道灌は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「それがしに、名も告げず、ただ、山吹の花を、差し出しただけであった。だが、あの一枝が、それがしの、生涯の学びを、開いてくれたのだ」
従者と旧友は、深く頭を下げた。
「これより後、それがしのことを語り継ぐ者は、皆に、あの少女のことも、伝えてほしい」道灌は、二人の目を真っ直ぐに見据えて続けた。「それがしの学びは、それがし一人のものではなく、名も知らぬ、あの少女から、授かったものなのだと」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて道灌は、ふっと肩の力を抜いた。鎧を脱いだときのような、久方の安堵がその顔にあった。
「これで……少しは、心が、軽うなった」


九章 遺されたもの
この夜からおよそひと月後、文明十八年七月、太田道灌は、主君・上杉定正の館にて、暗殺されることになる。享年五十五。臨終の際、「当方滅亡」と言い遺したと伝えられている。
史実(と伝説)において、山吹の少女との出会いは、後世、道灌の人柄を伝える、有名な逸話として語り継がれることになる。だが、その少女自身の名は、今日に至るまで、記録に残されていない。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
偉大な武将の学びの陰にも、確かに、名も知らぬ者の、静かな知恵が、息づいていたのかもしれない、と。


終章 もう一つの山吹路
五百年余りの後。
東京・江戸城跡(皇居)の近くには、道灌ゆかりの地として、山吹の花にちなんだ史跡が、今も、静かに伝えられていた。
「江戸城を築いた武将」としてだけではなく、「名も知らぬ少女の知恵を、生涯、忘れなかった、一人の学び人」として。


エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、梅雨の雨が、静かに降っていた。庭の隅、誰が植えたとも知れぬ山吹が、今年も静かに実をならせずにいる。
「あなたが遺したかったのは、ご自身の武功だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『文明十八年七月、相模の空は、静かに暮れようとしていた。江戸の地に城を築いた男は、その最期の日々に、己の武功を語りながらも、もう一つの光を、確かに、名も知らぬ恩人へと、語り遺したのである。』
風が吹いた。鎧と、山吹の花の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

——了——


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あとがき
本作は太田道灌の最晩年を題材としたフィクションです。『常山紀談』等に遺る「山吹の少女」の伝説をベースに、その出会いが道灌の最期に与えたかもしれない影響を膨らませた、前三十五作と同様の「もし介入できたなら」という思考実験(創作)となります。道灌の暗殺や「当方滅亡」の逸話についての詳細な経緯の描写は意図せず、簡潔な記載にとどめています。そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。