枕路転生記 〜清少納言と刻をこえた男〜
玉響転生記・第三十話
まえがき
二十九度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
空海との旅で、凪は「空路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「枕路(まくらじ)」であった。
宮中の、明るく、をかしきものたちを、言葉に写し取ろうとした女。
時は、平安の宮中。中宮定子に仕え、『枕草子』を書き遺すことになる女房――清少納言。だが、その明るい筆致の陰には、彼女が敢えて書き記さなかった、もう一つの真実があった。
なお、清少納言の没年や、その最期の様子については、確かな記録が残っておらず、後世、様々な伝説が語られてきた。本作は、そうした伝説の一つを借りて、一つの物語を紡ぐものである。
プロローグ 晩年の来訪
東京は、静かな、ある晩秋の夜だった。
榊原凪は、六十七歳になっていた。空海との旅から、半年余りが経っている。
高野山の草庵で、空海が伯父・阿刀大足への感謝を、筆に込めた、あの夜のことを、凪は今も鮮明に思い出す。書き上げた小説『学びの原点』は、読者の間で静かな反響を呼んでいた。
その夜、凪は書斎で、古い随筆文学の写本――『枕草子』の一節を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、白粉(おしろい)と、古い几帳(きちょう)のような匂いが鼻腔をくすぐった。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の女性が座っていた。
質素な衣を纏っている。だが、その目には、年を重ねてなお、鋭く、そして、どこか茶目っ気のある知的な光が宿っていた。
「あら、これは、失礼いたします」
女性は、鈴を転がすように朗らかに言った。
「あなたは……」
「清少納言と申します。かつては、中宮定子様に、お仕えしておりました」
凪は、息を呑んだ。
清少納言。中宮定子に仕えた女房であり、随筆『枕草子』の作者。「春はあけぼの」の書き出しで知られる、平安文学を代表する才女が、いま目の前にいる。
「なぜ、ここにいるのでしょう」
「さ、妾にも、分かりませぬ」
清少納言は、楽しげに微笑みながら、凪の机の上に積まれた原稿の束に目をやった。
「気づけば、この妙な部屋におりました。……ですが、この紙に宿る言葉から、なんとなく伝わってまいります。空海、坂本龍馬、手塚治虫――あなたがこれまで言葉を交わしてこられた、二十九人もの生きた気配が。不思議な御方ですのね、あなたは」
彼女は、凪を穏やか、かつ見透かすような目で見つめた。
「妾は今、いたく老いにけり。若き頃のような、華やかな暮らしとは、程遠い山里におります」
「清少納言様……」
「ですが」老いた女房の目に、澄んだ光が宿った。「まだ、書き遺しておきたき事の候」
一章 三十度目のたゆたい
その夜、姿を消した彼女の余韻のなか、凪は『枕草子』の写本に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの二十九人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの命の重さがあった。
だが清少納言の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、清少納言の没年は、はっきりとは分かっていない。晩年、彼女がどのように暮らし、どのように世を去ったかについても、確かな記録はない。
しかし、凪が最も惹かれたのは、彼女の生涯の「書かれざる側面」だった。
『枕草子』には、定子の晩年の影は、ほとんど描かれていない。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
清少納言が最期に書き遺そうとしたのは、本当にその「明るい思い出」だけだったのか。それとも――その明るさの陰に、あえて隠した、定子への、もう一つの深い想いがあるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、机の上の紙の匂いが、濃密な白粉と几帳の匂いへと変わった。
玉響(たまゆら)。
玉響――凪が刻を越える時に必ず鳴る、硝子が触れ合うような微かな音。
世界が、大きく揺れた。
二章 都のはずれの庵
気づくと、凪は、都のはずれにある、質素な庵の裏手に立っていた。
晩秋の冷たい風が、庵の古びた板壁を、静かに揺らしている。
凪の身なりは、下働きの女房風の姿に変わっていた。
「もし」
庵の前にいた若い侍女に声をかけると、彼女は驚いた顔で凪を見た。
「清少納言様に、お目通り願いたい」
「そなた、何者じゃ」
「清少納言様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
侍女は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
この若い侍女こそ、晩年の清少納言の身の回りの世話をしながら、彼女の孤高な生活を支え続けている身内であった。
三章 清少納言の庵
庵の中は、質素ながらも埃一つなく、文机の上には、書きかけの草稿が、几帳面に整えられて置かれている。
清少納言は、文机の前から、あの東京の書斎で見せた、鋭くも穏やかな目で凪を迎えた。
「よう参られました」
「参りました」
「お座りなさい」清少納言は、朗らかに言った。「妾は今、若き日の思い出を、もう一度、書き足そうとしております」
「『枕草子』には、明るい思い出ばかりが、美しく綴られているように拝見しました」
凪の言葉に、清少納言は、しばらく沈黙した。
「ええ、その通りです」彼女は静かに、しかし毅然と言った。「あれは、妾が、意図して、そう書いたのです」
「なぜ、そのように、お書きになったのですか」
清少納言は、少し目を伏せた。
「定子様の宮は、晩年、随分と、お辛い日々を、お過ごしになりました。……ですが、妾は、それを、どうしても書きたくはなかった」
四章 書かれなかった悲しみ
その夜、凪は庵の片隅で、眠れぬまま過ごした。
清少納言の言葉が、頭から離れなかった。
――ですが、妾は、それを、書きたくはなかった。
これまでの二十九人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが清少納言の場合、彼女が向き合っていたのは、「何を書くか」だけでなく、「何を、あえて書かずに、遺すか」という、表現者としての究極の問いであるように思えた。
凪は、夜の静寂の中で思った。
清少納言が、これほどまでに明るい思い出を書き綴る一方で、その陰に隠された、定子の真の苦しみと、それに寄り添った彼女自身の血を吐くような想いは、これまで、どれほど正しく汲み取られてきたのだろうか。
窓の外、晩秋の虫の声が、哀しげに遠く微かに聞こえていた。
五章 女房たちの証言
翌日、凪は、庵の掃除をしていた若い侍女、そして夕刻に庵を訪れた、かつて共に定子に仕えた同僚の老女房と言葉を交わす機会を得た。
「清少納言様は、いつも、明るく、楽しかった思い出ばかりをお話しになります」
若い侍女は、愛おしそうに、しかし少し寂しげに語った。
「定子様の、辛かった時期のことは、決して口にされません。ですが……時折、お一人で文机に向かわれているとき、本当に遠い、悲しげな目をされることがございますの」
その後、訪ねてきた同僚の老女房は、さらに深い胸の内を凪に明かした。
「定子様の晩年は、随分と、お辛い日々でございました。清少納言様は、定子様の宮の、あの輝かしい思い出だけを、濁りのないまま後の世に遺したいと、お考えだったのだと思います。ただ、その想いの裏には、語られなかった悲しみと、張り裂けんばかりの御心が、確かにあったはずです」
凪は、二人の言葉の重さを静かに受け止め、尋ねた。
「もし、清少納言様が、その悲しみも含めて、はっきりと書き記されたら――何か、変わると思われますか」
老女房は、しばらく考えた後、静かに首を振った。
「変わるかもしれません。……ですが、それは、清少納言様ご自身が、命をかけてお決めになることでございましょう」
六章 夜半の対話
その夜、凪は清少納言に呼ばれ、灯火を挟んで二人だけで向かい合った。
「女房たちから、聞きました」と清少納言は言った。「あなたが、定子様の晩年のことを、あれこれ聞いておられるそうですね」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いいえ」清少納言は、静かに凪を見つめた。「妾自身、向き合わねばならぬ角度でした」
凪は、意を決して言葉を紡いだ。
「あなたは、『枕草子』に、眩いほどの明るい思い出ばかりを書き記されました。なぜ、それほどまでに、陰の部分を恐れられたのですか」
清少納言は、長い間、黙っていた。
「妾は……」やがて彼女は、震える声で、しかしはっきりと語り始めた。「定子様が、どれほど、苦しい思いを、なさっていたか、誰よりも、この目で見て、知っておりました。ですが、それを書けば、定子様の宮の、あの輝かしい思い出まで、悲しみに塗り替えられてしまう気がしたのです」
「清少納言様」
「定子様の悲しみを、書かなかったのは、忘れたかったからではありません。……忘れさせたく、なかったからです。あの気高く、をかしき明るさこそが、定子様の、本当のお姿だったと、信じたかったのです」
凪は、深く息を吸い、彼女の目を見据えた。
「清少納言様。定子様が、あの苦しみの中でも気高くあろうとされた。その『強さ』こそ、あなたが本当に遺したかった真実では?」
「もし、その陰にあった想いを、どこにも書き記されないままでいれば、後世の人々は、ただ『華やかな宮中を好んだ才女』としてしか、定子様を、そしてあなたを見ないかもしれません。苦しみの中でも、失われなかった輝き。その両方の真実を、はっきりと伝えることも、表現者としてのあなたの『枕路』なのではありませんか」
清少納言は、長い間、目を閉じ、己の心の深淵と対話していた。
七章 筆を執る夜
その夜遅く、清少納言は、再び文机に向かい、筆を執った。
凪は、その傍らに、静かに息を潜めて控えていた。
「定子様は……」清少納言は、筆を運びながら、静かに、しかし確かな足取りで言った。「本当は、随分と、お辛い日々を、お過ごしになりました。それでも、私たち女房の前では、いつも、気高く、明るくあろうとなさっていました」
墨を含んだ筆先が、料紙を滑る。さり、さり、と蚕が桑を食むような微かな音だけが、夜気を震わせた。
彼女が実際にどのような言葉を綴ったのか、凪はあえて覗き込まなかった。それは、千年の時を超えてなお、読む者の想像の余白に委ねられるべき、最も神聖な言葉に思えたからだ。
「これを、書き添えておきたかったのです。あの明るさは、苦しみを知らなかったからではなく、苦しみの中でも、決して失われなかった、定子様の、本当のお強さだったのだと。言葉の裏に、その祈りを込めて……」
やがて清少納言は、筆を置き、深く、満ち足りた息をついた。
「これで……少しは、心が、軽くなりました」
その顔には、かつて宮中で見せたであろう、最も美しく、凛とした微笑みが浮かんでいた。
八章 遺されたもの
史実において、『枕草子』は、その明るく、知的な筆致によって、後世、長く長く読み継がれることになる。清少納言のその後の生涯、あるいは、その最期については、確かな記録が残っていない。
後世、様々な伝説が語り継がれることになるが、そのいずれが真実であるかは、今日に至るまで、定かではない。
だが、その事実を知る凪は、静かに思う。
あえて暗い現実を書かず、明るい記憶だけを選んで遺すという行為もまた、一つの、命をかけた深い愛情の形だったのだ、と。
終章 もう一つの枕路
千年余りの後。
『枕草子』は、今も、多くの人々に読み継がれていた。
「春はあけぼの」の一節を、学び舎で暗誦する子供たちは、その明るい言葉の奥に、一人の女房が、大切な人のために、そっと選び取った、あまりにも深く、強い愛情があったことを、多くは知らない。
「をかしの文学を極めた才女」としてだけではなく、「悲しみをも包み込む、明るさを選んだ、一人の女性」として、彼女の言葉は今も生きている。
エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、晩秋の風が、静かに木の葉を揺らしている。
「あなたが遺したかったのは、ただの明るい思い出だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『平安の都に、静かな夜が、暮れようとしていた。宮中の、をかしきものたちを、言葉に写し取り続けた女は、その筆の中で、明るさを選びながらも、もう一つの光――苦難に負けぬ気高き強さを、確かに、大切な人へと、書き遺したのである。』
風過ぎぬ。白粉と、几帳の香の、ほのかにしたる。
玉響の揺らぎは、今日もまた、凪の心の中で、静かに続いている。
――了――
Amazon Kindle
あとがき
本作は清少納言を題材としたフィクションです。清少納言、中宮定子などは実在の人物ですが、物語における晩年の対話の内容は、著者の創作です。
清少納言の没年や、最期の様子については、確かな記録が残っておらず、後世、様々な伝説(晩年、困窮した生活を送ったとする、後代の作り話めいた逸話も含む)が語られてきました。本作は、そうした伝説の一つを借りて、架空の物語を紡いだものであり、史実として確定した最期を描いたものではありません。
中宮定子が、父・藤原道隆の死後、一族の政治的没落と共に、晩年、様々な困難に直面したことは、『栄花物語』などの同時代の記録から窺えます。一方、『枕草子』が、そうした暗い現実をほとんど描かず、定子の宮の明るい日々を選んで描いていることは、多くの研究者によって指摘されています。清少納言が、どのような想いで、この選択をしたかについては、本作における描写は、著者の創作です。
本作は、前二十九作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。

